阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年03月

本の最後は、いわゆる「万引きGメン」である伊東ゆうとの対談になっている。万引き犯は店舗に入って同じような動きをするという。

だいたい同じルートを通って、だいたい同じ場所で盗る。情報を共有しているわけでもないのに不思議なことです。(248ページ)

人間の本能の共通性なのだろうか。このような場合、万引き犯のルートや窃盗場所はAIを使って割り出せる可能性が高い。行動科学の対象としての興味を感じる。

万引き犯を捕まえた場合、店舗側の負担は大きい。警察との対応で、短くても数時間をとられるからだ。そこで伊東は「切符制度」を提案している。

伊東 道路交通法違反でいう「切符を切られる」ってやつですよ。万引きで捕捉されるたびに盗んだものの額面や品物、犯行時の場所などを記載し、「万引きしました」という明確な自供があれば切符を切って帰らせ、その記録は警察に送ります。一定の額を超えた、買い取りできない、ガラウケ[身柄を引き受ける人]がいない、捕捉のときに暴れた、外国人であるという場合は、通報して、これまで通り司法に預ける。(257ページ)

これはGメンの発想だが、ある程度有効だろう。だが、本来は裁判で治療を言い渡すことができるようにすべきだ。外国では、性犯罪や依存症などは一般の犯罪と別に裁かれる制度を採用している場合がある。その制度がかならずしもうまくいっているとはかぎらないのだが、日本の制度はあまりに硬直している。性犯罪も一種の依存症とみなすことができる。依存症に必要なのは治療である。斉藤が繰り返し述べているように、犯人を刑務所に入れても依存症は治癒しない。

依存症者の中には、「何かに依存しなければ自死するよりほかなかったかもしれない(107ページ)」症例があるという。

依存症は人生にピリオドを打つものではなく、その逆。その人にとって過酷な状況を生きのびるための巧妙な戦略なのです(107ページ)

もちろん、だからといって犯罪が許されるわけではないのだから、「問題は何に依存するか(150ページ)」ということだろう。

医師の尾藤誠司は「日経メディカル」の連載「ヒポクラテスによろしく」として2019年2月22日に配信された「何かに依存していることは悪いことか?」(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/bito/201902/559893.html)で、依存症の救急患者を前にしたときに陰性感情が沸き上がることを認めた上で、「しかし、何かに依存して生きるということはそれほどいけないことなのでしょうか?」と問いかけている。彼は自分がロックミュージック、ワイン、コーヒー、家族、同僚などに依存しているという。そのような意味では、何にも依存していない人というのは考えにくいかもしれない。

いろいろなものに依存すると、ひとつひとつの依存は薄まっていく。「自立とは、依存先を増やすこと」とは熊谷晋一郎の言葉だが、尾藤も斉藤も引用している(150ページ)。依存を疾患とみなす基準を尾藤は次のように提案している。

  1. 個人が感じている「○○○がなくちゃ生きていけない」という状況が、ある特定のものごとに集中している
  2. 何かへ依存していることによって、その当事者自身の生活、あるいは当事者を取り巻く社会に何らかの不具合が生じている
  3. その生活上の不具合に対して当事者が多少なりとも困っている
  4. 医療やその他の支援が当事者に介入することで、その依存状況に変化を与えることができそうである
[引用者注:語尾を修正した]
私は第4項は不十分だと感じる。依存症に必要なのは医療「と」支援である。自分の人生を深く見つめなおすための働きかけも必要だ。

斉藤は依存症を「生きのびるための巧妙な戦略」と呼んだが、もちろん薬物依存を放置すれば生命に関わることになる。また万引き依存を放置すれば人生が台無しになる可能性が高い。その意味でも何に依存するかは重要だろう。ただし、ゲーム依存など、社会との関わり合いが少ない依存の場合は、命に関わる可能性は低いだろうが、かえって治療につながりにくくなるかもしれない。

斉藤は、一般に「依存症の問題をたどっていくと必ず人間関係に行き当たる(100ページから101ページ)」という。表面的な原因は貧困であったり、育児ノイローゼであったりしても、周囲から与えられるプレーッシャーや周囲の無理解など、周囲の人びと、特に家族との人間関係の問題が背後にある。これは万引き依存症にかぎらない。

たとえば万引きをはじめたきっかけが「節約」にあると知らされれば、「自分がもっと稼いで家計が安定していれば、万引きに走らなかったのでは」と思います。特に男性は経済的な問題で捉えがちですが、本当は夫である自分自身との関係こそ見直すべきなのです。
しかしそれは家族にとっても目をそらしたい現実であり、同時に、考える気力もないほど疲れきっています。(242ページ)

なぜ家族は「目をそらしたい」のか。それは、その問題に向き合おうとすれば、家族間の人間関係を再構築しなければならないからだろう。家族は長年の間に、徐々に形を変えながらメンバー相互の関係を深めていく。家族のあるメンバーが他のメンバーに対して持つ感情、評価、態度などいっさいのものが、長年を過ごす間に相手との関わりや世間との関わりの中で再構成されていく。たとえば妻を見下す夫がいれば、その見下す態度は、妻に対する評価や感情と密接に結びついているだけでなく、自分自身に対する評価や感情、コンプレックスなどと密接に結びついている。妻を見下す夫の態度だけを改めることは不可能で、家族全員の価値観、お互いに対する感情や評価などを総合的に調整しなければ態度は変えられない。つまり自分自身の問題に向き合い、生き方を変えようという真剣な気持ちがなければ、家族内の問題の根本的解決はむずかしい。

斉藤は、真面目な人や社会的に弱い立場にある人ほどストレスを溜め込みやすいので依存症になりやすいとしている(女性に万引き依存症が多いのもそのためだと考えている)。日常生活では真面目・従順で通さざるをえない。その「生き方の偏り」を万引きによって解消しているのだ。斉藤の言葉では次のように表現される。

自分のなかにある二面性を、特に「悪い自分」を、万引きによって表現しているのです。(128ページ)

つまり、悪いことをすることで、日頃の「良い自分」とのバランスをとっていることになる。

依存症のメンバーを抱えて疲弊する家族を支え、依存者とともに家族が変わっていけるように、彼のクリニックでは家族支援もおこなっている(163ページ、241ページ)。

人間関係のなかで進行していく病です。だからこそ、人間関係のなかで回復していく病でもあります。(149ページ)

「万引き問題をきっかけに家族が一致団結してこの大きな課題に向き合っていく(243ページ)」ことも多いという。必要なことは、罰することではなく治療につなげることに尽きる。

斉藤章佳『万引き依存症』(イーストプレス)を読了した。著者の斉藤は、万引き常習者の外来通院治療をおこなう日本でも数少ないクリニックである大森榎本クリニックのソーシャルワーカー(精神保健福祉士、社会福祉士)である。

この本は、前3分の2ほどが万引きおよび万引き犯の現状分析に費やされる。万引き依存症のケーススタディや治療法の説明を期待していた私は、読みながら実は少し退屈した。だが読み進むうちに気づいたことがある。それはこの本が一般書であると言うこと、そして万引き犯が読む可能性が高いと言うことだ。この本の中盤で著者は次のように述べている。

ここで気をつけなければいけないのは、単純な病理化は危険だということです。依存症の診断がついてことで本人が「そういう病気なんだから、私が万引きするのは仕方のないこと」という世界観につながってしまうと、いつまでも回復はできないでしょう。行為に対する責任も一切取れません。(162ページ)

最初から万引き依存症が病気であることを前提とした話を進めると、読者である依存症患者に逃げ道を与えてしまうことになる。このクリニックでの治療過程と同様に、万引きが犯罪であり、それが他人と社会にどのような悪影響を与えているかを、まずじゅうぶんに説明する必要があったのだ。

私たちは、クリニックに通う万引き依存症者をはっきりと「加害者」として認識し、そのように接します。彼らは依存症という病を患っていますが、同時に、自分がしてきた加害行為に責任を取らなければいけないからです。そのことなくしては、依存症からの回復はありえません。(73ページ)

万引き依存症の患者には認知の歪みがあり、正常な理解が妨げられているという。「たくさんあるのだから少しぐらい取ってもかまわない」など、自分の都合のいいように考えるようになってしまっている。また、警察に捕まっても「たいして悪いことをしていないのに」と被害者意識を持ったりする。万引きが犯罪であり、被害者に多大な損害を与え、迷惑をかけているという自覚はなくなってしまうようだ。だからこの本は、万引きについての詳しい説明から始めているのだとわかった。

赤林朗:編『〔改訂版〕入門・医療倫理 I』(勁草書房)を読了した。初版は2005年に発行され、日本での医療倫理の教科書の草分けであったが、2017年に改定されて改訂版となった。赤林は東京大学医学部教授で医療倫理を専門としている。また分担執筆者はみな赤林の教室あるいはCBEL(生命・医療倫理人材養成ユニット)に在籍した医療倫理の専門家である。

広範なテーマについて、コンパクトに、しかし不足なくまとめてあり、さすがにその道の専門家たちによる分担執筆だと感じられる。各章の長さ、レベルなどが非常に均質であり、きちんとした編集作業を経ていることが強く感じられた。次の赤林のコメントを読み、なるほどと納得した。

本書の作成過程では、週2回、数時間のミーティングにおける密な議論が数ヶ月に亘って行われた。原稿の改訂は10回以上に及び、本書を少しでも良いものにするべく、スタッフ間での厳しい批判を徹底して行った。ある者は、途中で予定されていた一章の執筆を断念した。執筆するよう説得を試みたが、「レベルに達していない」、「人前に出すにはあと一年はかかる」。それが彼の言葉であった。(393ページ「おわりに」)

医療倫理ではビーチャムとチルドレスの医療倫理の四原則(自律尊重原則、善行原則、無危害原則、正義原則あるいは公正原則)が基礎的概念として論じられるが、この本ではそれと並んで「尊厳」についてかなり詳しく論じている。日頃当然の概念として使っている言葉なのだが、いざきちんと説明しようとすると難しい。また、尊厳という、ある意味であいまいな概念を持ち出さずに、四原則だけで立論しようとする立場もあるようだ。

次に引用する、尊厳概念の使用にあたって注意すべき点が重要だと感じた。

  1. 自らの立場を支持するもっともな理由を提示できない論者が、議論を封殺するために(いわゆるknock-down argumentとして)、尊厳概念を用いてはならない。
  2. 尊厳の異なった用法を区別しなければならない。たとえば、体外受精等の生殖補助技術が、人間の尊厳を損なうという言い方は曖昧である。それらの技術は、自然な生殖とは異なるので種としての人間の尊厳を損なうとはいえるかもしれないが、それらは新しい生命を生み出す技術なので、人の命の尊厳を損なうとはいえない。
  3. 尊厳概念を広すぎる意味で用いたり、自分勝手に解釈したりしてはならない。というのは、そのような用い方をすると、その概念の規範的な効力が失われるからである。(71ページから72ページ)

第3項は、前段を読むだけで良くないことだと同意できるが、きちんとその理由まで説明しているところがさすが学者の書き物だと感心した。

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