阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年03月

海野泰男は『授乳の聖母/セザンヌ夫人の不きげん』の中で「〈絵画〉や〈文学〉は、巨視的にも微視的にもそれを生んだ〈風土〉と切り離せない(223ページ「あとがき」)」と書き、私はそれに賛成した。だから私は外国文学をあまり読まず、また外国語を学ぼうとしたとも書いた。つまり外国文学はそれを生んだ外国の風土を知ることで理解が違ったものになる可能性があるということだ。翻訳を読めば、文として理解はできるのだが、その文の持つ裏の意味まで感じることは難しい。

一方で山中は、言語相対主義の立場から翻訳の限界を指摘する。

この議論に関連して、1つ、大変有名な理論を紹介したいと思います。サピア=ウォーフの仮説と言いますが、聞いたことのある方も多いのではないかと思います。これは、エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフによって提示された大胆な言語に関する仮説で、いわゆる「言語相対論」や「言語相対主義」と呼ばれるものです。
サピアとウォーフの提案内容そのものについては、既に、相当手垢のついた議論がありますし、問題のある箇所も多く指摘されています。しかしながら、彼らの提示した一つのものの見方、簡単に言えば、言語が違えば思考が違う、認識が違う、だから言語が違う者同士は分かり合えない、という視点は実に分かりやすく、鋭い指摘だったと言えます。(1-6.ハンプティダンプティの皮肉)

同じ日本人どうしであっても、あるいは身近な人どうしであってさえ「本当に自分が意図した通りに相手に分かってもらうということができるのでしょうか」と疑問を呈する徹底した相対主義の立場に立てば、翻訳の限界はおのずと明らかだろう。

言語哲学者のウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、翻訳の議論を通して、意味の不確定性について述べました。哲学者のジャン=ポール・サルトルは、自分の意図した通りに相手が理解することは不可能だと述べました。その他様々な分野の、様々な人たちが見解を述べてきました。(同じく1-6)

だが一方で、同じ日本語を使う人どうしであれば、「言葉がつうじる」のも事実である。別の親から別々の環境で言葉を教わっているのに、初対面でも言葉がつうじる。人間の頭脳には本能として何らかの言語処理のメカニズムの種子が埋め込まれていると考えざるをえない。そうであるなら、その種子には外国人と共通する部分もあるはずだ。山中は次のように問いかける。

皆さんはどう思われますでしょうか。言語が違えば、例えば日本語の母語話者と、英語の母語話者であれば、第一言語として話す言葉が違います。どう、うまく翻訳をしたって、元の言葉が違うわけです。言葉が違えば、私たちは認識を共有し、分かり合うことはできないのでしょうか。
それとも、私たち人間には、そうした言語の多様性を超えた、もっと根本のところに、共通する核となるものがあり、それは人類共通で、ある意味「絶対的に」理解し合えるものなのでしょうか。(同じく1-6)

すべてを理解することは不可能だろう。だが、「理解できない」「孤独だ」と言うのも間違っている。ヒトという種が共通に持っている理解のパターンがあるはずだ。

2018年10月31日のブログで海野泰男『授乳の聖母/セザンヌ夫人の不きげん』(文藝春秋)について述べた際に、「絵画に言葉はいらない」という主張に対する海野の疑念ないしは反論に対して私は「画家は言葉にできないものを絵にしたのだろうが、物書きは絵で伝えることなどできないから言葉にする」と書いた。この前後の論旨がわかりにくいと指摘されたこともあり、写真のキャプションに言寄せて、絵と言葉の関係について再度述べてみたい。

絵画にしろ写真にしろ小説にしろ、すべての作品は公開されたとたんに独立した存在となる。海野が「作品は作者を離れる」と言うとおりだろう。だから、作者の意図と異なった解釈をされたとしても、それを避けることはできない。作品は、作品自体が持つ力によって評価され、解釈されるのだ。だが、その作品の解釈を限定したいと作者が意図することがある。作品に対する思い入れからくる場合もあるだろうが、作品に自信がないことからくる場合もあるのではないか。

山中が例として挙げた写真のキャプションの場合、おそらく写真の持つ力(それは結局は被写体の持つ力なのだろうが)が強く、月並みなキャプションがその力を削ぐような働きをしたので、山中の不興を買ったのだろう。写真に添えるキャプションにじゅうぶんな力があれば、両方を合わせた作品として、より大きい力を持ったはずだ。たとえば広告にはその良い例がある。良い写真に優れたコピーライトが付けば、写真の力はぐっと強くなる。彼の旧知の写真家はコピーライターとしての才能に欠けるということだ。

ちなみに絵に言葉を添えることは、昔から行われてきた。掛け軸の絵に讃を添えることもあれば、詩画や絵手紙という分野もある。言葉は、心して使えば絵の邪魔をしない。

話を戻そう。同じものに感動したときでも、人によってその表現は違う。違う言葉で表すこともあるだろうが、違うメディアを使って表すこともあるだろうと思う。小説を書く人もいれば詩を書く人もいるだろうし、踊ったり作曲したり絵を書いたりする人もいるだろう。人は自分が好んだ方法(メディア)で思いを表現する。

作品の批評・鑑賞というのは、その作品に接して感じたことを言葉で表すことだ。小説を読んだり音楽を聴いたりしてインスピレーションを得て絵を描く人も多いと思うが、そのような行為に特別な名前はない。言葉で表すことにだけ名前があるのは、やはり言葉に特権的な地位を与えているのかとも思える。それはさておき、作品が作者から独立したものであれば、その作品に接して感じることも、作者が思い描いていたことと異なるかもしれない。だがそれは紛れもなく鑑賞者・評者が感じたことなのであるから、作者はそれを受け入れるしかない。おまけに、評自体が評者からすでに離れているのだから(評は評者の「作品」である)、作者が読んだ評は「その評から作者が読み取ったもの」でしかない。作品にいろいろな見方があるように評にもいろいろな読み方がある。作者が自作品の評を読んだときに受ける感じというのは、そのように作品から多重に切り離されたものなのだ。

「絵画に言葉はいらない」というのは、画家としてまっとうな主張だと思う。言葉で伝えることができるのなら、彼は絵を描かなかったかもしれない。だが、その絵を見た人が何かを感じ、心を動かされた場合、模写をすることもあれば、その作品をモチーフにして新たな作品を描く人がいるのと同じように、言葉で自分の気持ちを伝えようとする人がいるのだ。その人は絵は描けないが言葉を紡ぐことができる。その言葉を、言葉であるからというだけの理由で排斥することは、理にかなったことではない。

彼は言葉、特に書き言葉に重きを置く価値観を西欧近代のものとして批判している。

ヨーロッパ近代が作り出した価値観は、言語に重きを置く中でも、特に書き言葉に対して最高の権威を置きました。言語によって表すことが大切で、中でも書き言葉によって著すことが最もすごいわけです。もちろん、書き言葉が操れる、ものを書けるというのは、教育を受けなければできませんから、必然的に書き言葉の権威が高まることは分かるのですが、それが過剰で、異常ですらあったと思っています。(Week3:メタ・メディアとしての言語 3-2.書き言葉に対する(不当な)特権性)

デジタルメディアが発達した現在なら、言葉以外の方法、たとえば動画や音声で伝えることが可能であり、言葉はむしろ脇役(メタ・メディア)に回るべきだとしている。

医学の場合、西欧には記述解剖学という伝統がある。体の構造をすべて言葉で書き表そうという考え方だ。日本の解剖学もその伝統を受け継ぎ、解剖学の本でありながら、図がいっさいない教科書もある。音声言語学で、母音を説明するのに「後舌円唇母音」など、舌や口唇の位置や形を言葉で説明しようとするのも同じ伝統だろう。音を聞かせたり、図で説明したりするほうが簡単だと言える。

だが、もちろんのことだが、言葉で表す利点もある。養老孟司は解剖学を言葉で切ることだと説明した。つまり、人体の一部に「腕」と名前を付けたなら、どこからが腕であるのかを定義しなければならない。それを彼は言葉で切るとたとえたのだ。言葉で説明するほうが、絵で示すより厳密になる。絵だとその絵の意味するところ(たとえば境界線がどこに引かれているかなど)を解釈しなければならないが、言葉であれば「腋窩のいちばん高いところから烏口突起の隆起までを結んだ線」などと具体的に示せるからだ。母音の発音にしても、音を聞かせても真似できない場合があるし、口の中の様子は絵では表せない。言葉で示せば(そのとおりにできるかどうかは別として)舌の位置や口唇の形を厳密に指定できる。ただし、解剖でも発音でも、言葉と図や音を併用したほうが良いのはいうまでもない。

彼は、言葉がかえって邪魔になる例として、写真のキャプションを挙げている。非常に力のある写真にキャプションがつくと、かえって写真の解釈を縛ることになり、良くないというのだ。彼の旧知の写真家が送ってくる写真にキャプションがついていることに対し、彼は次のように批判している。

これ[キャプション]、いりません。写真だけで十分です。そしてこの場合は、明らかに言語が写真に説明的な意味を添えることで、その写真が本来持つ、潜在的な発信力の多くを削いでしまっていると思うわけです。言語がコミュニケーションの意味を決めてしまう、もっと言えば、言語によってそのコミュニケーションの意味に「錨」が降ろされてしまう、その結果、自由で創造的な意味の付与が、極端に制限されてしまうのです。(Week3:メタ・メディアとしての言語 3-1.写真と言語)

これは、写真や絵画の鑑賞や批評にも関連することであると思うので、稿を改めて述べたい。

山中は日本人が「いわゆる完璧な英語で話すことは」間違っているとあえて断言するが、彼はその理由を複数挙げている。

ひとつは、言語は生き物であり変化しつづけていることである。だから、「言葉の乱れ」という考えは無意味なものとなり、「正しい言葉」も無いことになる。「正しい日本語」というのが幻想であるのと同じように「正しい英語」も無いという考え方を挙げる。

正しい日本語と言った時点で、何か理想的、究極的な一通りの日本語が存在するように思ってしまいます。そんな日本語はありません。じゃあ、誰の日本語が正しい日本語だというのでしょうか。それ以外の日本語は間違った日本語なのでしょうか。(2-4.生き物としての言語、だからこそのダイナミズム)

「私の日本語」も「あなたの日本語」も、決して同じではないが、どちらが正しいというわけではない。言語に対して「正しい」「間違っている」という評価を持ち込むこと自体が間違っている。

さらに彼はビジネスを例にとって説明する。

東南アジアのある国で、もし営業部隊の皆さんが、完璧な British English で現地の社員や労働者と対応したらどのようになると思いますか。
もちろん、よく勉強されていますねと褒めてもらえるかもしれませんが、一方で、同じアジア人の顔をしているくせに、イギリスかぶれの発音をして、キザっぽいやつだと思われる可能性も十分高いでしょう。
また、もっと悪いケースでは、かつての宗主国であるイギリスを連想させ、上から目線で、また私たちを支配したいのかと、大変ネガティブなコノテーションを与えてしまうおそれすらあるでしょう。(2-3.ランゲージ・アティテュード)

コノテーションとは言外の意味を表す。戦時中、イギリス英語を身につけた日本人が米軍の捕虜となったとき、イギリス風アクセントで英語を話したところが非常に嫌われたという話を読んだことがある。彼が身につけたクイーンズイングリッシュが、かえって災いとなったのだ。

彼は次のように述べて受講者を励ましていた。

例えば皆さん、外国人の方が一生懸命日本語を勉強して、片言ながら日本語を話してくれた時、日本語上手だなって思いますし、十分通じているって思いますよね。同じことが、皆さんが話す英語にも言えます。全ては程度の問題です。正しい日本語がなく、それぞれの日本語がそれぞれに魅力的で、その人にしか話せない日本語を持っているのと同じように、正しい英語もありません。そして、皆さんが話す英語も立派な一つの英語です。半人前の英語ではありません。世界中の人が、皆さんが英語で、皆さんが何を考えているのか、どんなアイディアがあるのか聞きたがっています。(2-4.生き物としての言語、だからこそのダイナミズム)

野口英世は英語が下手だったが、彼の発表を聞くために記者たちは野口英語を理解するためのマニュアルを作って臨んだという話を聞いたことがある。英語を練習する前に、人が聞きたがる話ができることを目指したほうがいいということだ。

e-ラーニングコース「gacco」の講座「教養としての言語論:言語は私たちをまやかし生きにくくさせる」(https://lms.gacco.org/courses/course-v1:gacco+ga125+2019_02/about)*を受講した。講師は立命館大学教授の山中司である。
2019年5月2日(木)23時59分に閉講され、閉講以降はこのURLが無効となる場合がある。字幕と動画のダウンロードが可能であるので、引用は字幕からおこなう。ただし、字幕は改行が多く読みにくいため、改行を適宜削除し、必要に応じて最小限の句読点を追加した。

この講座のメインテーマは、副題に示されているように、言語を重視する立場に対抗する見方の提示である。彼は書き言葉を重視する西欧流の文化に疑問を呈し、さらに言葉が人間を特徴付けるもっとも重要な属性だとする考え方に挑戦して、「言語は時として私たちの生き方や考え方を窮屈にさせてはいないでしょうか」と問いかける。

受講生を刺激するための挑戦的な物言いや、極端な断言も見られるが、総じて彼が真剣に言語哲学に取り組んでいることがわかる講座だった。ディスカッションの場も設けられており、かなり盛り上がっていた。ほぼすべての発言に対して山中がコメントしており、そのコメントも早いものでは10分ほどで付いている。彼の熱意が感じられた。

彼はこの講座で、日本人が流暢な英語を話すことを熱望することの不自然さ、無意味さを力説している。

日本人がネイティブ・スピーカー・オブ・イングリッシュ、つまり、英語の母語話者も聞いて驚くような、ネイティブと全く代わり映えのしない、いわゆる完璧な英語で話すことは「間違っています」。(Week2:正しい言語が良い生活? 2-3.ランゲージ・アティテュード)

この発言に意を強くした受講者は多いようで、ディスカッションでも「ずいぶん勇気をもらいました」「これからはもっと肩の力を抜いて英語に取り組んでみようと思いました」などの感謝の言葉が述べられていた。

いくら学んでも使えるようにならない英語教育の改革を「大学で英語を教えていらっしゃる先生の立場から」どのように考えているのかという質問に対する山中の答えが面白かった。

日本人が英語ができるようにする一番簡単な方法は、英語を必修から外すことです。外した途端、日本人は英語ができるようになると思います(逆説的ですがその通りではないでしょうか)。もちろん全くできない人も増えるでしょうが、やろうと思った人はかなりのレベルまで持っていけると思います。

たしかにレベルは上がるだろう。平均値は下がるかもしれないが、モード(最頻値、いちばん人数が多い区分)は(英語がまったくできない人の区分を除けば)上がることになると思う。

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