阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年02月

昨日までのブログを書いていて、日本製薬工業協会(製薬協)の幹部が「m3」のインタビューに答えているのに気づいた。2019年2月18日と2019年2月24日の2回に分けて配信された「製薬企業のボールペン・御香典の禁止、なぜ」である(1回目:https://www.m3.com/lifestyle/659893、2回目:https://www.m3.com/lifestyle/659894)。インタビューに答えている田中徳雄は製薬協常務理事とのことだ。

「製薬協コード・オブ・プラクティス」は、世界60か国の製薬団体が加盟する国際製薬連合会(IFPMA)が「コード・オブ・プラクティス」(以下 IFPMAコード)を制定したのを受けて制定されたものだという。製薬業界の団体について整理しておきたい。以下に田中の説明を引用する。

日本にはもともと医療用医薬品の公正競争規約という厳格なルールがあります。これは公正取引委員会の指定認定のもと、公取協(医療用医薬品製造販売業公正取引協議会)が管理しているものです。独占禁止法や景品表示法などの法律に基づき、製薬企業が医療関係者に景品類を提供する際のルールを決めています。法律に則ったルールですので、拘束力も強く、違反の際の罰則も厳しく定められています。
それに比べまして製薬協は任意団体です。IFPMAの加盟団体として、IFPMAコードを「尊重」する製薬協コードを策定しておりますが、これには強制力はありません。違反があった場合に被疑会社に対して調査をする権限もありません。当該会社に自主的な改善をお願いするのみです。

この「公取協の公正競争規約と、製薬協コードを混同」することが、医療関係者のみならず製薬会社のMRにも見られるという。製薬協の幹部がそのようなことを言うくらいだから、コードの内容は現場レベルまでまったく行き渡っていないということなのだろう。コードを定めたら、それが守られているかどうかのモニタリングが重要である。その点はまったく考慮されていないようだ。田中は公正競争規約と製薬協コードの関係を次のように説明している。

公正取引協議会への加盟企業が233社に対し、製薬協の加盟企業は71社です(2019年2月時点)。景品類にしても、御香典にしても、公取協で認められているものを製薬協の立場で禁止することはできません。もし製薬協コードで71社だけに禁止事項を強要すれば、これは公正な取引を阻害していることになりますので、製薬協が公正取引委員会で取り調べを受けることになってしまいます。

もし製薬協が「より厳しい」ルールを設定してそれが問題となるなら、問題とする仕組みのほうがおかしい。甘い内部規則を作れば、それが問題であるのは当然だ。だが、厳しい内部規則が問題になると言うなら、それは官民がグルになって業界の利益(もっと言えば不正の構造)の確保に走っているということではないのか。

最近、医療訴訟を扱う弁護士と話していたら、医師はなぜあんなに学会が好きなのかと質問された。彼が意味したのは学会への参加ではなく、学会を作ることだ。たしかに医学系、特に臨床系の勉強会や研究会の類は非常に多く、その中から学会に「格上げされる」こともよくある。大学教授をしている人の肩書きを見ると、何々学会理事や評議員といった役職が10個近く並んでいることも珍しくない。

集まって勉強や情報交換をするのに、いちいち学会を組織する必要はない。私は彼に「きっと長がつく役職に就きたい人や理事などの肩書きが好きな人が多いんじゃないですか」と答えた。もしかしたら製薬会社から学会や研究会に金が流れ、それを目当てに人が集まるのではないかと答えようかとも思ったが、憶測に過ぎないので(私はそのような研究会に属しておらず、学会の理事でもないので事情は知らない)口にしなかった。ただ、憶測ではあるものの、肌で感じていることであり、当たらずしも遠からずであろうと考えている。

製薬会社との繋がりが薄い基礎系の学会の学術集会が地味であるのに対し、臨床系の学会は派手で、かなり豪華な懇親会やパーティーが付いていることがある。原資は協賛金であったり抄録集に掲載する広告の料金であったりと、合法的に集められたものなのであろうが、金が集まるところにはかならず「良からぬこと」が発生する。また「なぜそれだけ金が集まるのか」と考えれば、それは製薬会社(あるいは医療機器会社)の長期的な利益になるからに他ならない。

私は、医療に関する知識の普及と市民が医療に主体的に関わることを啓発するNPOに所属しているが、臨床系学会と違い製薬会社からの寄付がそう簡単には集まらない。寄付金を握っているのが営業部門であるため、薬の宣伝がないなら寄付ができないという態度なのだ。製薬会社に対し、医療に関わる企業として社会貢献をしてほしいと頼んでも、良い返事はない。財布を営業部門が握っている限りは、その金は営業のために使われると判断しても間違いないだろう。

私の周囲には英米の学会に所属している医師が何人かいる。彼らになぜ少なからぬ学会費を払って外国の学会に所属しているのかを聞くと、「それだけの価値があるから」と答える。逆に、日本の学会は「専門医の維持のためしかたなく」入っていると答える人が多い。日本の学会が製薬マネーの減少により窮地に追い込まれるとすれば、それは会員が身銭を切って維持しようと思わない程度の学会だということだろう。本当に勉強したい人たちが自主的に集まって開催する学会や研究会だけが残れば、それでもいいのではないだろうか。

ウェブマガジン「日経メディカル電子版」に2019年2月7日付で配信された江本哲朗「製薬マネーの減少が学会を窮地に追い込む」(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t325/201902/559721.html)について書きたい。

臨床系の研究会や勉強会は、開催にあたって製薬会社がスポンサーについていたり、会誌に製薬会社の広告を乗せることで発行経費をまかなっていたりすることが多い。したがって、会員の支払う年会費や集会参加費は低額に抑えられる。ところが、製薬会社がそのように医師に便宜を図ることについて問題視する声が高まり、メディアでも取り上げられる事態になった。それを受けてのことだと思うが、日本製薬工業協会(製薬協)は「製薬協コード・オブ・プラクティス」(http://www.jpma.or.jp/about/basis/code/pdf/code2.pdf)を定め、2019年1月1日から実施しており、医療関係のサイトでは「勉強会に弁当が出ない」「ボールペンやカレンダーが配られなくなる」といった話が散見される(さもしい話だ)。

問題視されるべきは、ワセダクロニクルでも取り上げられているような、一部の医師に対する高額な金銭提供であり、ボールペーンを配ることの規制に意味があるとは思わないが、製薬協としての「めいっぱい」のパフォーマンスなのだろう。ただ、今述べたように、一部の医師が薬剤の宣伝を引き受けることで多額の謝礼を受け取る現在のしくみが改まらなければ、「製薬協コード・オブ・プラクティス」は単なる目くらましでしかなく、意味がない。

米国では製薬業界から医師への金の流れを透明化するために、いわゆるサンシャイン法が制定され、各医師が製薬会社からいくらもらっているのかデータが公開されていて簡単に検索できるようになっているという。日本でもワセダクロニクルと医療ガバナンス研究所が中心となって、膨大な労力を投じてデータベースを作成し、公開を開始した(http://db.wasedachronicle.org)。

米国の食品医薬品局(FDA)は、医師と製薬会社の関係(利益相反)に厳しい。FDAが薬を承認する際には、専門家や患者代表に委嘱して諮問会議を組織し、その投票結果を受けて承認するのだが、特定の製薬会社と利益相反がある専門家はその投票には加われない仕組みになっている。ところが、その規制をすり抜けようとする動きがあることが雑誌「Science」で報道されている(https://www.sciencemag.org/news/2018/07/hidden-conflicts-pharma-payments-fda-advisers-after-drug-approvals-spark-ethical)。承認前に製薬企業から金をもらうと投票できなくなるため、事前には金銭のやりとりをせず、承認後に金銭を受け取るケースが増えているという記事だ。

日本でも同様の疑いをかけられている医師がいる。すべての医師は製薬会社から距離を置くことを基本にすべきだ。医師の側が自律性を発揮し、プライドを持って清廉を貫くのでなければ意味が乏しい。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」で2019年2月4日にVol.022として配信された森田知宏「高齢社会で健康をおしつける危うさ」(http://medg.jp/mt/?p=8849)について書きたい。

森田は医師で、東日本大震災で被災した高齢者のために相馬市が造成した公営住宅に、1か月に1度の割合で、健康相談のために訪問している。そこで発生した認知症患者に関する住民の会話から、「健康であること」を共通価値とする危うさを学んだという。

核家族化が進んで独居高齢者が65歳以上の17%(男性13.3%、女性21.1%)を占めるようになった現在では、コミュニティ内で住民同士が支え合う「互助」が重要であるとする考えに、森田も同意していた。訪問先の公営住宅での住民活動のように、コミュニティのなかで健康を維持する活動を続けていくのが理想的だと考えていたのだ。

しかし、これは間違いだった。「健康であること」を共通価値とすると、「健康であるべき」という規範が生じてしまう。すると、健康でなくなった人を疎外してしまうのだ。[中略]不健康な状態(今回は認知症)を遠ざけようとするあまり、その状態を他人事として捉えようとして、健康でない人をコミュニティから切り離してしまう。その結果、「健康であること」を目標としているコミュニティは、互助のセーフティネットとしての機能を果たすことができないのだ。

ある男性が認知症を発症した当初は、皆が「かわいそうだ」「私達がしっかりしなくちゃ」と同情的・共感的であったが、その男性が騒いだりして不満が蓄積してきた終盤では、「そういえば仮設住宅にいたときから私達と違った」というように差異を強調する表現が増えてきたという。

同様の危うさは、高齢者地域の取材記事でもよく目にする。高齢者ばかりの村でよく聞く「うちの村は高齢者ばかりだけど、みんな健康だから」という住民の発言は、「みんな健康であるべき」という規範の裏返しだ。このようなコミュニティでは、一旦健康を損なうと、疎外されかねない。

一方で、別のコミュニティでは、ある住民が脳梗塞で入院してから「私もいつ介護が必要になるかわからない」という言葉が増え、そこから抵抗なく介護サービスが導入されるようになったという。

そこで森田はコミュニティの役割は「健康を目標にすること」よりも「地域への愛着があること」だと言う。地域への愛着があれば「住民の共通項を持ちやすく疎外されにくい」。

こうして、健全で、予想外の出来事に強いコミュニティを作ることができる。実際、地域への愛着が強いコミュニティは、被災後に復興が早いという研究もある。

「健康を目標にすること」は簡単に設定できるが、「地域への愛着」はそう簡単には醸成できない。価値観も多様化しており、どのようにして愛着を持ってもらうか簡単な話ではないが、少なくとも目標をそこにしっかり定めることから始めるのが重要だろう。

経済格差と健康格差の相関は明らかにされている。

合わせて5951万人を追跡した9つの縦断研究データをまとめて分析した結果、ジニ(Gini)係数(所得格差)が大きい国ほど、高所得者も含めた国民全体の死亡率が高いことが報告されている。これは根拠に基づいた医療(EBM)でいうエビデンスのレベルが最も高いとされるメタ分析の結果である。(85ページから86ページ)

だがこれだけでは経済格差と健康格差の因果関係は証明されない。経済格差を縮めたら健康格差も減ったという国家レベルのエビデンスはない。だが、異なる国家が社会の異なる段階に相当すると考えれば、経済格差のない社会体制に移行することで健康格差が縮まることがじゅうぶんに予想できる。

問題は、格差を縮める政策なり運動なりが効果を現すのに長い期間がかかるということだ。

「高血圧が危険因子である可能性が高いから治療すべきだ」という仮説を初めて検証したフラミンガム研究が着手された1948年以来、降圧療法によって心・脳血管事故が減ることが実証されるまでには、実に40年の歳月が必要だった。そして、それが完全に実証される何十年も前から、治療すべきと考えた医師たちにより治療は始められていたのである。(70ページ)

検証に時間がかかった例として水俣病が最初に取り上げられている。公式発見の日とされる1956年5月1日の30年以上前からチッソ(当時は新日本窒素)が工場排水に対する漁業補償をしていた。公式発見の翌年2月には「水俣湾内の漁獲を禁止する必要がある」と報告されたが、原因物質が特定されていないということで禁止されず、結局被害は拡大し続けた。1959年7月には水俣病医学研究班が魚介類の摂取によると結論し、原因物質として「水銀がきわめて注目される」とした。

これらを受けて、厚生省食品衛生調査会常任委員会は、同年11月12日、原因物質は有機水銀であると厚生大臣に答申した。これが原因物質が公的に確認された日である。しかし、その翌日、なぜか同調査会の中毒部会は、厚生大臣によって解散を命じられた。(73ページ)

結局、原因物質がメチル水銀と特定されたのが1963年2月で、公式発見から7年後であった。だが、著者も指摘しているとおり、2006年にも約4000人が患者としての認定を求めて環境相と懇談しており、公式発見から50年経った今でも問題が片付いているとは言えない。

ところが、世界の事例を見ると、水俣病のような対処の遅れは例外ではない。彼は「行動を起こすのが遅すぎた」のだという。そして、遅すぎることにならないよう「よさそうなことをいろいろ試みること(77ページ)」が必要だと説く。

疫学辞典によれば、公衆衛生とは「科学、技術および信念の組み合わさったもの」と定義されているという(72ページ、太字は原文では傍点)。「エビデンスが不十分であることを理由に何もしないこと」は避けたい。

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