阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年11月

私が知っている複数の医療機関の中にも「かかりつけ患者優先」の施設があったし、また「自院から他院へ紹介した患者は、紹介先から要請があった場合かならず受ける」という病院もあった。

集中治療室の場合、「いつでも患者を入院させることができる」ためには稼働率が60%台でなければならないという話を大昔に聞いたことがある。今回、根拠を確かめてみようと思ったが、果たせなかった。だが、集中治療室が満床になると病院内にうっすらと危機感が漂うのは経験することだ。集中治療室が満床になった場合、いちばん軽症の患者を一般病棟に移してベッドをかならず1床空けるというのは、多くの病院でしていることだろう。

病院の場合、いつでも入院できる体制を取るには、やはり病床稼働率はかなり低くないとならないだろう。もちろん一般病床の稼働率が60%では、公的援助のない病院は潰れてしまう。現在、病床稼働率は病院によってさまざまだが、どの病院も病床稼働率を上げるべく努力を重ねている。となると、「いつでも入院できる」は不可能になる。実際、病床稼働率が上がれば、院内でベッドの取り合いが起こる。満床ではなくても、翌日に手術患者が入院する予定のベッドや、感染症患者が入った大部屋の空きベッドは使うことができない。夜中に大声を出す患者、いびきが極端にひどい患者の隣のベッドも使いにくい。残ったベッドを、各科が取り合うことになるのだ。

私が勤務したある病院は、病床稼働率が90%台で、手術や検査の予定が決まっている患者でも入院に苦労する場合があった。当然緊急入院はできないことがよくある。この病院の方針は「かかりつけ患者優先」だった。それは、患者の治療に責任を持ちたいという思いと、日頃診療を受けているのにいざとなると入院できない(拒否された、と患者は感じる)のでは信頼を得られずクレームも増えるのではないかという心配とがいっしょになって生み出された方針だった。実際に、病院に通院していた患者の入院を他院に依頼した場合、患者からクレームを受けたことがある。

さらに問題なのは、紹介先の病院から嫌がられることだ。緊急に入院が必要ということは、それだけ患者の状態が悪いということだ。今までの治療もよくわからない患者を急に引き受けるのは気が重いと思う相手の医師の気持ちはよくわかる。やはり、軽症の患者から転院させるのが理想だろう。だが、退院を控えた患者を説得するのは難しいし、おまけに転院先の病院では何もすることがなければ収入にならない。

「普段A病院の外来に掛かっていないと、具合が悪くなったときにA病院に入院できなくなるから嫌です」という患者の発言には正しい分析も含まれているが、その解決には社会の考え方の転換のみならず医療システム自体の修正も必要だと思われる。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」で2018年11月19日に配信された、Vol.241「退職した或る医師が考えたこと — 患者の大病院志向によって勤務医は疲弊し退職す」(http://medg.jp/mt/?p=8718)について書きたい。著者の藤岡将は「地方部の県の、人口数万人の市町村に所在する公立病院」(以後、A病院と呼ぶ)を退職した医師である。

藤岡が勤務を開始したとき、A病院での業務は繁忙を極めており、彼は「持続可能な勤務にするために」業務の再編成を開始した。外来診療では「クリニックでも担うことができる種類の病気の患者はクリニックへの通院をお願いする」ことが中心になる。だが、抵抗する患者もいた。彼が挙げる事例を紹介する。

患者オ:3ヶ月に1回、胃薬を貰いに外来受診するだけだから手間は増えないでしょ
その「3ヶ月に1回、薬を貰いに来る患者」が半日に20〜25人来て、人によっては世間話や家族の愚痴などを外来で始めるわけである。その旨を伝えると、皆さん納得頂いた。

次のような患者は公立病院ではときどき見かける。

患者キ:俺は納税者だから、公務員のお前は俺の言うことに従え

公務員は「全体の奉仕者」であり、特定の個人の便宜を図ることができない。

第三十条(服務の根本基準) すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。(地方公務員法、第六節 服務)

「俺たちの税金で給料をもらっているくせに」というのもよく聞かれる悪態である。藤岡によれば「公務員は課税されないと誤解している人が時たま居るが」ということだが、私は経験したことがない。

患者イ:クリニックの先生より病院の先生のほうが、腕がいいと思うので嫌です

藤岡は次のように述べて「これは誤解である」としているが、これは難しい問題である。

手術や入院治療といったスキルは、件数や実施の有無を考えると一般的に病院の医師のほうが当然熟練しているが、外来や(場合によっては検査の)スキルは、私が見る限りクリニックの医師のほうが熟達した先生が多かった印象があり、そして両者のスキルはほぼ独立したスキルである。

疾患によっては病院の医師のほうが優れていることは確かにあると思う。また、地域によっては開業医の実力に開きがあり、患者の目から見ても「明らかに頼りにならない」開業医が多い場合もある。逆に病院の医師のほうが明らかにレベルが低い場合もあり、一般化できない。藤岡が問題としているのは「大病院指向」なのであるから、個々の医師のレベルは直接関係することなのではないが、場合によっては病院の医師側にもクリニックに紹介できない事情が生じることがある。

だが、藤岡が第一に挙げた問題が実は一番深刻なのではないか。

患者ア:普段A病院の外来に掛かっていないと、具合が悪くなったときにA病院に入院できなくなるから嫌です
→確かにこの意見の指摘通り、残念ながら「普段外来で診ていないから入院はお断りします」、「普段外来で診ていないから救急外来の受診はお断りします」という対応をとる病院や医師も若干は存在する。しかし多くのケースでは、これは誤解である。

救急外来の受診を断るケースは確かにまれだろうが、入院の優先順位が下がることは充分可能性がある。その間の事情については、明日考察を続けたい。

2018年10月16日に英国の有力医学誌「Lancet」のオンライン版で、ワシントン大学などの研究者が2016年から2040年までの世界各国の死亡率の推移の予測を発表した(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/30340847)。それによれば2040年にはスペインが85.8歳(95%信頼区間:83.6歳〜87.4歳)で平均寿命世界1位になるという。

ちなみに平均寿命とは0歳児が平均してあと何年生きられるかを示す「0歳の平均余命」であり、乳幼児死亡率が高いと短くなる。成長した人があと何年生きられるかは「平均余命」で、たとえば2018年7月に厚生労働省が発表した「簡易生命表」によれば2017年の日本人の「平均寿命」は女性が87.26歳、男性が81.09歳とのことだが、90歳の人には90歳の余命があり、100歳の人には100歳の余命がある。一般に長寿の人の平均余命はけっこう長く、それだけ普通の人より生命力が強いと考えられている。

医学系新聞「Medical Tribune」ではこれを「2040年の長寿ランキング、日本は2位に転落」(https://medical-tribune.co.jp/news/2018/1109516932/)と取り上げていたが、もともと日本の平均寿命は1位ではなく、「平成29年簡易生命表」によれば男性は香港、スイスに次いで3位、女性は香港に次いで2位である(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life17/dl/life17-04.pdf)。

私は以前から日本の平均寿命は底上げだと考えている。Wikipediaのよれば厚生労働省は、算出の際に一定の年齢以上の高齢者を除外し、変動の大きい高齢者の死亡による平均寿命への影響が少なくなるようにしているとのことで、「日本の平均寿命は、正確なデータではなく、実態より短めに計算されていることになる」としているが、問題は多数の寝たきりの高齢者である。

私の周囲には胃瘻を付けた寝たきり高齢者を多数収容している病院がないが、森田洋之によれば地方にはそのような病院がまだまだあるという(https://note.mu/hiroyukimorita/n/ne2d9621ac578)。そのような人びとはあきらかに平均寿命を押し上げている。欧米にはそのような人はほとんどいないので、その分だけ日本の平均寿命は欧米より高いと言えるだろう。そのような「無理やり生かされている」ひとたちが平穏に天寿をまっとうできていれば、日本の平均寿命は統計に現れるほど下がるのではないかと思っているのである。いくら平均寿命が世界でトップクラスだと言っても、意識もはっきりせず寝たきりなのでは意味がない。与えられている命を、実感して生きることができてこそ意味があるのだと思う。

第20章は「差異を通じての距離強調 — 事故後の組織的学習を妨げるもの」である。「差異を通じての距離強調」とは「distancing through differencing」の訳で、事例と自分たち(の環境)との差を強調することで、「その事例が自分たちの役には立たない」と距離を置いてしまう態度のことを指す。これは私の周囲でも非常によく見られる現象で、「そんなことウチではあり得ない」と有用な情報に耳を貸さないのはよくあることだ。

著者ら(ひとりは編著者のWoods)が例にあげるのが、「ハイテク製品生産工場のクリーンルーム」で起きた化学火災だ。この部署では多くの危険薬品が使われており、充分な対策が取られていたはずだった。

この現場の作業は手順化が進んでおり、かつその現場はISO 9000による評価と認定を受けていた。事故のリスクが存在し、装置そのものとその運用費用が高額であることから、保守作業のためには洗練された公式的手順書が定められており、ほとんどの作業については2人の作業者が共同して行うバディシステムが要求されていた。(324ページ)

この公式手順書には重大な欠陥があった。あまりに手順が複雑であり、同時にいくつもの処理を並行しておこなわなければならないため、作業員は自分なりに手順を並べ替えた手順書を私的に作成しなければならなかった。また、2人の作業員が別々の作業をしなければならないような場合もあり、バディシステムが機能していないことがあったというのだ。だが、ここで問題としているのは、その事故に似たような事故がすでに起こっていたということだ。会社はそこから効果的に学ぶことができなかった。

会社の経営者は海外の事故の取扱いは、それが類似性の高いものであったにもかかわらず、米国での事故を防ぐことに寄与していなかったという事実に直面した。彼らは、他の場所での事故を、心理的に隔離して他人事とみなし自分たちの業務とは無関係なものと思わせる社会的プロセスの影響に直面したのである。[中略]その情報は経営者には届いていて、現場の作業者までも承知していた。しかし彼らは、海外の火災を自分たちの職場に存在する危険の証明だとは考えずに、その海外工場の作業者のスキルが不足か心構えや注意深さが欠けていたことの証明と(要するに彼らは米国人ではないからと)考えていたのである(なお火災を起こしたのは西側諸国の工場である)*。(328ページ)
日本語がおかしいが原文のままである。意味は通じると思う。

このようなdistancing through differencingは事故後の工場内部でも見られたという。つまり、火災はそのときのシフトの作業員のスキル不足が原因と、他の作業員たちは考えていたというのだ。

事故が起こらない状態が続いているとそれが当たり前になり、事故は例外になる。すると、事故には何か特殊な原因があったのだろうと考えてしまい、自分が日頃している作業がちょっとしたことで事故につながると思えなくなってしまうのだ。特にこの工場の場合、まだ作業が危険で事故が発生する可能性が高かった時代に作業していた人びとは皆管理職になるなどして現場を離れており、現場で働いていた若い人たちは職場が安全になってから働き始めた人ばかりで、危険に関する知識が乏しかったという。それが事故発生の背景のひとつとして挙げられている。

著者らは「組織において、自分自身の業務内容とインシデントが起こった組織のそれとの間に類似性を見出すような方策を進めること(330ページ)」が有効だとしている。事故情報を提供する場合、提供先の現場に置き換えたシナリオも一緒に提供すると有効かもしれない。

昨日、医療現場では「『顧客』はほぼ『患者』に等しい」と書いたが、実はここに問題があると考えている。

患者ということについて言えば、患者だけではなく患者家族も顧客である。だがそれは患者の治療方針を決定するのに家族にも相談するという意味ではない。患者の治療方針はあくまでも患者の意思を尊重して決定する必要がある。その際、家族の意向と異なる決定をした場合に、困惑し、ときには傷つく家族もケアの対象となるという意味で、家族も顧客なのである。家族に病人がいれば、何らかの負担が家族全員に及ぶ。各メンバーに合ったケアを一体として提供できるのが理想である。ここのとことが日本の医療では混乱したりおろそかになったりしていると感じる。

もうひとつ、医療組織の顧客には職員も含まれると思っている。組織はその構成員に満足を与えるからこそ持続し、成長するのだ。医療を提供する組織では、患者に重きを置きすぎて職員をないがしろにしたり、職員自身が自分を犠牲にしたりすることがよくある。ある意味ではこれが日本の医療の「文化」になっているとも言える(もっとも、これは世界共通のことであるようだが)。

日本の組織で働いていて思うのは、皆が非常にまじめだということだ。組織の理念や目標が伝達されると、組織人としてその理念や目標の達成に貢献しようと素直に反応する。だが安全性の追求と効率性の追求のように、相反する目標が伝達された場合の反応は複雑で、個人の価値観や、所属部署の文化が強く反映されるようだ。

やはり昨日のブログで、「安全担当組織が満たすべき4I」を紹介した。4Iを実現する組織を設計することは難しいと著者は述べていた。だが、医療現場を考えたとき、見方を変えれば決して難しくはないのではないかとも思える。

医師も看護師も組織人であるとはいえ、患者と接する場合には独立営業に近い。患者にどのように接するか、どのような治療方針、ケア方針で望むかなどは、組織で大枠を決めることができても詳細まで決めることはできないし、医療者がその方針に忠実に従ったかどうかは検証するすべがない。最終的には医療者の独自判断に任されている。つまり医療者はある程度独立して(independent)医療に従事できる(involved)。問題は情報へのアクセスと、情報発信である。

情報発信(informative)はインシデントアクシデントレポートによって実行できる。公式のチャネルであり、そこに発信された情報は安全管理担当部署で共有され、加工されて院内に周知される。そこで各医療者は安全に関する情報を知ることになるが(informed)、すべての情報が行き渡るわけではないこと、また経営や効率と衝突する部分があるといった詳細な情報まで伝えられないことなど、医療者が現場で得られる情報の質と量については改善の余地があるだろう。

だが、医療者自身が、自分が実行する医療の安全管理者なのだという自覚を持てば、現場のレジリエンスが向上する可能性があると考えられる。

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