この本は、医療関係や福祉関係にも大きな反響を呼んでいるそうだ。出版元が医学書院という医療系の出版社であることも影響しているのかもしれないが、社会の見方に新しい次元を提供したということが主たる理由なのだろう。能動態・受動態の責任論を離れ、別の次元から責任を論じる可能性を提供されたということが大きいのではないかと思う。
能動態・受動態という対立図式の背景には、行為者の意志の概念が存在している。たとえ意志などというものが存在すらしていなかったとしても、能動態・受動態という対立図式を設定すると、行為がどちらかに属することが強制される。そして能動に分類された行為には、意志によってされたものと見なされてしまう危険性がつきまとう。
能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求める。(021ページ)
そのような世界を國分は「強制される世界」と表現する。だが、中動態は消え去ったわけではない。文法的な存在としては消えてしまったが、人の思考体系や感情はそんなに短期間で変わるものではない(人類の思考や行動のパターンは1万年前に終わった石器時代のままだと言われている)。中動態は、受動態の中に、自動詞の中に、それとわからない形で「意味として」残っている。彼はそれを丹念に探し出し、現代の言語を中動態の視点で整理し直そうとする。さらに「強制される世界」から脱して「中動態の世界」を再構築しようとするのだ。
中動態は「事象の主体がその過程の中にある」ことを意味し、動作は動作主自身を含んだものになる。それに対し、「中動態と対立する能動態」では動作は動作主の外で完結し、事象の主体はその過程の外にある。たとえば「私は感謝する」は中動態的表現であり、「私は叩く」は能動態的表現である。彼はこのような世界観で意志論を再構築しようとする。
意志論はまだわかりやすいが、責任論は複雑である。意志も責任も(現在の)能動態と結びつけられているが、責任はより人工的で、恣意的である。
人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(026ページ 下線部は原文では傍点)
國分はこの問題に明確な説明を与えていないが、責任というものが人間の都合によって作られた人工的な概念であると認めることで、事態が大きく変わるのではないかと感じる。