阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年09月

この本は、医療関係や福祉関係にも大きな反響を呼んでいるそうだ。出版元が医学書院という医療系の出版社であることも影響しているのかもしれないが、社会の見方に新しい次元を提供したということが主たる理由なのだろう。能動態・受動態の責任論を離れ、別の次元から責任を論じる可能性を提供されたということが大きいのではないかと思う。

能動態・受動態という対立図式の背景には、行為者の意志の概念が存在している。たとえ意志などというものが存在すらしていなかったとしても、能動態・受動態という対立図式を設定すると、行為がどちらかに属することが強制される。そして能動に分類された行為には、意志によってされたものと見なされてしまう危険性がつきまとう。

能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求める。(021ページ)

そのような世界を國分は「強制される世界」と表現する。だが、中動態は消え去ったわけではない。文法的な存在としては消えてしまったが、人の思考体系や感情はそんなに短期間で変わるものではない(人類の思考や行動のパターンは1万年前に終わった石器時代のままだと言われている)。中動態は、受動態の中に、自動詞の中に、それとわからない形で「意味として」残っている。彼はそれを丹念に探し出し、現代の言語を中動態の視点で整理し直そうとする。さらに「強制される世界」から脱して「中動態の世界」を再構築しようとするのだ。

中動態は「事象の主体がその過程の中にある」ことを意味し、動作は動作主自身を含んだものになる。それに対し、「中動態と対立する能動態」では動作は動作主の外で完結し、事象の主体はその過程の外にある。たとえば「私は感謝する」は中動態的表現であり、「私は叩く」は能動態的表現である。彼はこのような世界観で意志論を再構築しようとする。

意志論はまだわかりやすいが、責任論は複雑である。意志も責任も(現在の)能動態と結びつけられているが、責任はより人工的で、恣意的である。

人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものと見なしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。(026ページ 下線部は原文では傍点)

國分はこの問題に明確な説明を与えていないが、責任というものが人間の都合によって作られた人工的な概念であると認めることで、事態が大きく変わるのではないかと感じる。

國分の話をじかに聞いているときの印象では、彼はひねくれたところのない人間のようだった。無論、哲学者はものを疑うことから思考を始めるので、「哲学者は皆ひねくれ者だ」と言ってしまっては身もふたもない。私が言いたいのは、彼がこの本を書いたのは、この本の内容となっていることを人びとに伝えたかったからだと信じられるということだ。

それでは、その彼の思いと、冒頭の対話の「まったく別の意味体系」の衝突とは、どのような関連があるのか。彼はこの本によって彼の思いが私たちにどのように伝わると考えているのだろうか。私は、彼がこの点ではきわめて直感的かつ常識的に行動していると感じている。つまり、言葉を尽くし、丁寧に説明することで、相手にわかってもらえる、共通の理解に達することができると、彼は素朴に考えているということだ。私がそう考える理由のひとつに、彼が言葉と思考との相互作用を説明なしに前提としていることがある。

私たちは言葉によって考え、言葉によって自分の考えを説明する。だが、この事実でさえ、分析してみれば非常に複雑な背景を持っていることがわかる。私たちは突然ひらめいたり、新語を作ったりするので、言葉以外でも考えていることは明らかだ。また、自分の考えを伝えるのに絵を書く人や歌を歌う人がいるので、言葉だけでは説明しきれないものがあることも事実だ。そう考えると、能動態と受動態が対立する言語環境にいる人びとが、人の行為を意志の作用としての能動・受動の対立で捉えているかどうかはあいまいになる。まして日本語では「受け身の助動詞」(れる・られる)はあるが、能動態・受動態はない。受け身文以外の文は「能動形」かと問われれば、多くの人は「その対立図式に当てはめれば能動形なのだろう」としか答えられないのではないか。

現在の日本文化が欧米から強い影響を受けていることは事実である。特に社会制度、法体系などは「輸入した」と言っても良いようなものだ。したがって、特に法律などは能動態・受動態が対立する言語や文化の影響を直接受けているだろう。日本社会の責任論がそのような言語文化から派生していることは充分に考えられることだ。

だから私は國分の考えに同意するのだが、同意の背景にはこれだけの考えがある。ところが國分は、哲学者らしからぬことには、当然同意してもらえるだろうとでも言うような態度で能動態・受動態の対立が私たちの考えを支配していると言い始める。そこが面白いところでもあり、この本の読みやすいところでもあるのだろう。

この本の冒頭にはプロローグとして短い対話が載せられている。「あとがき」にあるように、この対話は「薬物・アルコール依存をもつ女性をサポートするダルク女性ハウスの代表であり、自らもアルコール依存の経験がある上岡陽江さん(328ページあとがき)」の著作や実際の会話からヒントを得た架空の会話とのことだ。この対話には重要な発言がある。

「こうやって話していると何となく分かってくるんだけど、しゃべってる言葉が違うのよね」
— と言いますと?
「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で誤解されてしまう」
— ああ、たしかにいまは日本語を話しているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその二つの狭間にいるという感じかな。
「そうやって理解しようとしてくれる人は、時間がかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね……」(005ページ)

これは会話の最後の部分に出てくる対話なのだが、言葉の理解には2つの層があるという表明である。日本語を聞けば、日本人ならその形式的な意味は理解できる。ところが、字面の理解とは別次元の理解があるというのだ。

この会話の中に出てくる例は比較的わかりやすい。女性の発言者が刑務所の講演会で、依存症は努力では治らないという話を受刑者にした後で、刑務官が「みなさん、分かりましたか。一生懸命に努力すれば薬やアルコールはやめられます。(005ページ)」と言って講演会を締めくくる。演者は脱力する。この話はわかりやすいが、刑務官が話を聞いていなかっただけと解釈することもできる。國分の言いたいのはもっと深い話だと思う。つまり、現在は受動態と能動態が対立する世界であることになっているが、中動態は消えずに言語の中にそれとは見えない形で残っており、能動態の一部と対照される位置に潜むことで隠された世界を作っているということを言いたいのではないか。

実際、この対話の最後は次の言葉で締めくくられている。

— そうですね。この相容れない二つの言葉って何なんでしょうね……。(006ページ)

彼は中動態という言葉で古代の文法を説明しているのではない。能動・受動という文法形式に慣らされ、言葉の意味まで能動・受動の対立図式で理解しようとすることに対し、別の尺度、別の次元を持ち込むことで、同じこの世界を別のしかたで理解することを提案しようとしているのだ。そのように解釈し直された世界こそ、「中動態の世界」なのだ。

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)『中動態の世界 — 意志と責任の考古学』(医学書院)を読了した。

非常に刺激的な本だった。本質的な議論に直ちに入ってもいいのだが、とりあえずこの本がどういう本であるかについて述べておきたい。

「中動態」とは何かについてはさておくとして、この本の第1章から第8章までは過去の研究をまとめた、比較言語学的な考察が中心となり、そこにアレント、ハイデッガー、ドゥルーズ、スピノザなどの哲学者の意志論が関連して述べられている。言語学的知識が要求されるわけではないが、古典ギリシア語やラテン語が数多く出てくるので、そのようなものを好まない人には読みづらい部分だろう。第8章はスピノザ論だが、それまでの章と異なり、中動態の概念を使ってスピノザの考えを読み解く作りになっている。

最終章の第9章ではハーマン・メルヴィルの『ビリー・バッド』という小説が題材になっている。この本のタイトルに挙げられているのは中動態という文法上の用語(動詞の活用形のひとつ)だが、副題が示すようにそれを用いて意志と責任について概念を再構築することがテーマとなっている。第1章の前半で、導入として意志と責任の問題が取り挙げられるが、最終章はふたたびテーマに戻り、能動でも受動でもない中動という視点からこの小説を読み解き、さらに意志と責任について考え直している。

「中動態」という言葉はなじみのない言葉だが、言語学や哲学では古くから論じられていたようだ。古典ギリシア語には存在しており、ラテン語にもその名残が見られる。インド・ヨーロッパ語族の祖語には中動態があり、そればかりでなく受動態がなく、能動態と中動態が対立していたと考えられている。また、日本語の「れる」「られる」も中動態の系譜に連なっており、中動態の概念は古代の言語の多くに存在していた可能性が示唆される。

しかし中動態は徐々に勢力を減じ、代わって受動態がその位置を占めるようになった。そのため、能動態もその役割を変えた。現在の私たちは、その「能動態」「受動態」という区別を無意識に受け入れることで感化され、意志に根ざした責任観を持つようになっているという。

私はギリシア語もラテン語も学んだことがないので、國分の主張が正しいのかどうか判定することができない。だが、私の断片的な諸知識と、彼の主張は整合する。だから私は彼の主張が事実に基づいた根拠のあるものだと判断した。これは以前、私のブログ記事に対して、本の著者をどうしてそこまで信じられるのかというコメントが寄せられたことと繋がっている。

主張が腑に落ちるというだけでは弱いと考え、先日、國分の講演会を聞きに行った。直接彼の姿を見て生の声を聞くことで、彼の人となりがわかるのではないかと考えたからだ。結論から言えば、彼は非常に真面目で、真摯であり、かつ慎重であった。改めてこの本の記述を根拠のあるものとして受け入れることとした。

このガイドラインの根底にある考え方は、米国で一般的な考え方である(いわゆる)新自由主義を色濃く反映している。その考え方は日本でも、医療界のみならず社会全体が受け入れようとしている考え方でもある。

次の文章は身寄りのない患者の意思決定に関する文章だが、家族や代理決定者がいる患者でも同様のことが主張されている。

担当医療従事者が「孤独な」患者に対する治療法を一方的に決定するというのは好ましいことではない。このような行為は、患者が表明した選好や、推測される患者の価値観や選好、または患者にとって最善の利益となる選択についてまったく考えることのない人物(または時間の経過とともに変わる複数の人物)に意思決定を委ねることであり、患者の自律性を損なうものである。また、専門職によって一方的に決定された事項には説明責任がなく、その決定が審査されることもないため透明性を損ねてしまう問題がある。(65ページ)

しかし、患者が自己責任で意思決定をおこなうには、越えなければならない多くのハードルがある。インフォームド・コンセントについての議論でよく言われることだが、患者と医療者とは知識と経験の量に大きな差があり、果たして患者は医療者と同じように決められるのか、また不完全な知識と理解で決めたことは、本当に患者の自律と言えるのか、また患者にとって利益になっているのかという問題がある。患者と医療者が根気強く話し合い、理解を深めていけば乗り越えられる可能性のある問題だが、現実には、事態の切迫、医療者の多忙、患者の体力低下などさまざまな事情のためにそれだけの時間を取ることが不可能であることも多い。さらに本当に話し合うだけで理解が深まるのか、理解が深まれば最良の結論に到達するのかという根本的な問題もある。

医療者が患者になった話が数多く公開されているが、その場合も患者となった医療者が選択に迷うことが一般的のようだ。つまり、自分(患者自身)に関することを選択するのと、他人(担当患者)に関することを選択することは、根本的に異なったことなのだ。となれば、患者がいくら知識を得ても、意思決定の困難さは本質的には軽減されないことになる。「自分のことだから困難」なのだ。

欧米人は、小児期から自己責任を当然視する環境の中で育つので、どのような人でも訓練ができているのかもしれない。一方で日本人はそのような社会で育っていない。インフォームド・コンセントを含め、日本では自己責任を強調する意思決定は患者に過大な負担を押し付けるものだという議論には、一定の真実が含まれていると思う。

先日、ある講演会で哲学者の國分功一郎がフランス留学中の経験として次のようなことを述べていた。フランス人の友人が彼に言うには、「フランスでは男の子が大人になるというのはすごく大変なこと」なのだそうだ。彼は、だからオタクのような「大人にならなくてもいい」というあり方がフランスでは非常に受けるのではないか、また、フーコーがあのような権力論を展開したのも、それに関連しているのではないかとのことだった。たしかにそうかもしれない。

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