阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年07月

森田洋之『破綻からの奇跡 — いま夕張市民から学ぶこと』(南日本ヘルスリサーチラボ)を読了した。彼は経済学部を卒業してから医学部に入学し、卒業後の外科研修を経て2009年に破綻後の夕張市に赴き、村上智彦医師の下で働き、その後診療所の院長を務めた。2013年からは鹿児島県に移り、診療をおこなうとともに、南日本ヘルスリサーチラボ代表および鹿児島県参与として活動している。夕張の医療については、まだ夕張にいた2011年に東京大学医療政策実践コミュニティーにおいて研究したとのことだ。この本の内容は、彼自身がTEDxKagoshima(www.youtube.com/watch?v=lL8aJE9Xp3Y)で語っている。

この本は森田が「勝手に出している」とのことだ。たしかに森田が著者・発行人になっている。現在、一般の書店では取り寄せになるが、Amazonではすぐ購入できる(Kindle版もある)。やはりインターネットは便利だ。書店が追い詰められていくのもわかる。だが、品揃えの充実した書店の棚の前に立ったときの気持ちは格別だ。何気なく暮らしていたのではわからない「本当の世界」を目の前に拡げて見せられたような気がする。また、それらの書籍を集めた人の見識に対して敬意を覚えるのだ。

この本で展開されている理論は社会学や医療社会学の分野では広く知られていることが多い。だがそれが夕張市という実際の「フィールド」で観察された現象と照合されているところに迫力がある。夕張市の状況は次の言葉に要約されている。

つまり、ドクターヘリが飛ぶような山の上の街。そこにひとつしかない総合病院171床が、ある日突然診療所19床になったのです。それまであった、外科とか産科とか小児科などは全てなくなってしまいました。まあ、つまり総合病院がなくなっちゃって、町のお医者さん的なイメージの医療だけになっちゃった、簡単に言うとこんな感じですね。(14ページ)

救急搬送も病院到着までに平均で1時間10分ほどかかるようになった。それでも夕張市では死亡率は増加せず、それどころか医療費が減少したのだ。もちろん高齢化は進み、「75歳以上高齢者人口は増えている(27ページ)」。

病床数とひとり当たりの入院医療費に相関があることは有名である。この本では2010年の医療施設調査に基づく下の図(http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f450232/p613939.html)が引用されているが、相関係数0.914だから寄与率0.84、つまり入院医療費の変動の84%が病床数で説明されることになる。

入院医療費と病床数

だがあくまでもこれは相関関係であって、因果関係ではない。病床数を増やすと実際に入院医療費が増えるのか、逆に病床数を減らすと入院医療費が減るのかについては今後の研究を待つしかない。だが、夕張で病床数が10分の1になり、医療費が減少した(正確にいえば、北海道の医療費の伸び率で夕張市の現在の医療費を推定した額より10万円低い。38ページ参照)ことは、この関係にある程度の因果関係を認めることができるという根拠のひとつになるだろう。

事例17について、私は「臨床的には心因反応である可能性が高い」と書いたが、逆に患者の側からすれば、一方的で非情な発言に思えるだろう。患者にとっては与えられた病気であり、苦しんでいるのは患者自身だ。心因反応だと言うのなら治して欲しいと言うはずだ。「病気」が治り、症状が消えたのなら、裁判でここまでこじれることはないし、そもそも裁判にならなかったかもしれない。この心因反応を簡単に治せないのは患者にとって不幸であるばかりでなく、医療者にとってもきわめて不幸なことだ。

私の専門領域ではないので、立ち入った議論は避けるが、心因反応の場合、「心因反応」と診断することにあまり意味がない。診断することで患者-医療者関係が壊れたり、患者がかえって傷つくこともありうるので、意味がないと言うより有害な場合があると言ったほうがいいかもしれない。診断が治療に結びつかず、また「心因反応」という言葉の裏に「気のせい」「精神的なもの」といった批判的・否定的な意味が硬くこびりついてしまっているからだ。

ヒトパピローマウィルスワクチン(HPVワクチン、子宮頸がんワクチン)接種後のさまざまな症状も、心因反応ではないかと考える人がいる。だが、それを声高に言う人は少ない。それはやはりその言葉が隠し持つ攻撃性に気づき、事態がさらにこじれるのを防ぎたいからだろう。治癒の体験記を発表した人びとが匿名であるのも、その体験記に書かれた経験が、症状が心因反応であることをうかがわせるものだからだろう。

真実がどこにあるのか、科学的な議論ができないことは非常に残念だ。だが、真実がどこにあるのかわかることが、何の役にも立たないものであるとしたら、あるいは単に辛いだけのものであるとしたら、真実を探ることに意味があるのかをまず考えねばならない。

事例17は「採血事故」の例だが、果たして事故と呼ぶべきかどうか迷ってしまう。たしかにきっかけは採血だが、その後の変化も含めてひとつの「事故」とするのは無理があるように思えた。だがこれが事故になってしまうのなら、恐ろしくて採血を躊躇してしまう。

患者は36歳の教諭で、定期健康診断の採血の際に激しい痛みを訴えた。

検査に必要な血液量の6ccの半分の3ccを採血したところで看護師は採血を中止。注射針を抜去しました。[中略]Aさんの右前腕は採血直後から腫れ始めました。採血の翌日、担当した看護師はAさんの勤務先に電話をして、その後の経過を確認しています。その後も痛みやしびれなどが強く残ったため、採血から約1週間の7月26日にC整形外科医院を受診し、診断は尺骨神経損傷でした。(163ページから164ページ)

ところが症状はこれでおさまらなかった。痛みやしびれは増悪し、1年後にはRSDの診断名が追加されている。RSDは、1996年に他の類縁疾患とともに複合性局所疼痛症候群として統一された疾患で、骨折や捻挫などの外傷による神経損傷を発端として、発端の外傷や疾病に不釣り合いな持続性の痛みが出現し、そのほかにも慢性的な感覚過敏、浮腫・腫脹、皮膚温異常など様々な症状が観察される発症機序不明の疾患である。この患者は採血から3年後に「全身状態が悪化して脱水状態となり」3ヶ月入院している。

たかが健康診断でこんなことになったと考えればおそろしいことだが、医学的にみて納得のいかないことも指摘されている。

Aさんを診察した別の医師は、「検査では異常がないのに所見以上に強い痛みを訴える」という病態に疑問を呈します。採血事故から1週間後に右29.5kg、左37.5kgあった握力が、約3年後に右握力は6kg、障害を受けていない左の握力までもが12kgへと低下したときに、「(RSDを発症して)普通6kgの握力しかない場合はもう少し前腕の萎縮があってもいいはず」と考えました。(166ページ)

この医師は心因反応を疑い、実際にこの患者は法廷で「握力がゼロのはずの右手でペットボトルのお茶を普通に飲むこと」ができたという。

臨床的には心因反応である(つまり身体の病気ではない)可能性が高いと推定される状態だが、裁判では同情されたのか3,460万円の支払いを命じる判決となった。裁判官は一般的に言って医療に関する知識が少ない。それは医療者が一般的に言って法律に関する知識が少ないのと同じことだ。だから、そのような裁判官が医療に関する判断をしなければならないところにそもそもの矛盾がある。だがそれは短期間に変えられるものではない。裁判になったとき、私たちはもっとも有効な説得論理を個々の事例に従って考えていかざるをえない。

私がそれよりおそろしいと思うのは、このような症例で簡単に責任が認められてしまうことだ。心因反応の誘引が採血であったとしても、その後に起こった症状をすべて採血のためとされるのには納得がいかない。たとえば失業を契機に心因反応が起こったとしても、解雇した会社を訴えるわけにはいかない。ところが、採血の場合には「関連」だけでなく「因果」が認められてしまう。「たかが採血」であるからすべての採血に説明と同意の手続きをおこなうわけにはいかない。すると採血する側は無防備でこのような不可避的な副損傷に立ち向かわねばならないのだ。プライドを捨て「採血できませんでした」と医師に返すしかなくなるのではないか。おまけにこの事例では患者の勤務先に経過確認の電話を入れたことが、かえって後ろめたいことがあったのではないかと勘ぐられている。悲しい結末である。

事例13と14は血液型不適合輸血(異型輸血)の事例が続いている。事例13は2011年に大阪市立大学で起こったもので、患者が下血によりショックに陥る中、看護師はダブルチェックする相手が見つからず、おまけに電子カルテがうまく動作せず、バーコード認証できずに(間違った)血液バッグを接続したという事例だ。

この事例では、払い出し伝票が血液バッグと一緒に保管されていず、冷蔵庫の扉にマグネットで止めてあるなど、医療安全上の問題点が指摘されている。

[目視で確認することになっている]ラベルは輸血バッグの裏に貼付されており、しかもラベルの上が添付文書で隠されていて、患者氏名の印字は小さくて読みにくい。普段の日常業務でもほとんどラベルによる目視は利用されていないし、ECU内であれば誰か別の看護師に声を掛けてダブルチェックしてもらうけれども、今は近くに看護師はいない……。やむを得ない理由はいくつも挙げられました。(132ページ)

再発防止策として長野は次の3点を挙げている。
  1. 焦っていても決められた手順を実施する
  2. 不測の事態が起こったときこそ焦らない
  3. 医療チームの協働によりダブルチェックを徹底する
これはいずれも正しい指摘であり、これが守れれば薬剤誤投与のような医療事故はかなり防げる。ただし、これには徹底した教育と「覚悟」が必要である。つまり、いくら一刻を争う事態であっても、適正な手続きを経なければ決して行為を行わないという教育と覚悟である。極端を言えば、患者の命と適正な手続きであれば、適正な手続きを優先するという覚悟だ。スタッフは泣きながらでも「手順が実施できません!」と拒絶しなければならない。その場合、非正規な手順で実施を強行するのは、その権限が与えられている医師だろう。医師は当然のことながら最低限必要と判断される患者確認をおこなって輸血を実施する。その結果異型輸血であったとすれば、その責任は医師が負うことになる。それが嫌だからといって、責任を他人に押し付けてはならない。逆に、適正な手続きが守られないからと処置の実施を拒否したスタッフは、「スタッフの鑑(かがみ)」として褒められなばならない。唯一の問題は、そのために患者が死亡したときに、処置を拒否したスタッフを病院が守りきれるかということだ。

医療者は常にそのようなプレッシャーに晒されている。たとえば、手術中に思わぬ大量出血があったり、過失により副損傷を生じた場合、術者は大きなプレッシャーに晒される。出血や副損傷のストレスを乗り越えて、適切な処置を考え、処置が有効でなく不幸な転機をとった場合のことも考えねばならない。パニックに陥っている時間的余裕はない。

手術中に何か失敗した場合、普通ならばそこで落ち込む。しかし術者はそこで落ち込んではならない。最善のリカバリ法を考えて実施し、さらにその失敗があった上で最善の結果を生み出す方策を考え、実施しなければならない。だが、最善のリカバリ法は教科書に記載されていないことが多く、何らかの失敗があった上での術式は非常に高度であることが多い。術者は、特に術者が最上位の医師であった場合、自分の裁量で決断しなければならない。それは想像を超えたプレッシャーである。

だから私は、そのようなプレッシャーを術者に感じさせた後に、「私が控えていてすべての不具合に対処する」と保証するようにしている。それがなければ、術者が真面目な医師であればなおさら、手術そのものに尻込みするようになる。それでは外科系医師は育たない。

なお、「不測の事態が起こったときこそ焦らない」というのは無理な話である。人間であれば誰でも焦る。これはつまり「不足の事態が起こったときも、いつもと同じ手順を踏む」ということだろう。それには日頃の訓練しかない。また手順を外さなかったことを賞賛する文化も必要である。

事例12は、喉頭癌術後で喉頭がなく、永久気管孔を造設してあった患者の気管孔に、看護師が誤ってサージカルドレープを貼ってしまい、患者が窒息したという2006年と2011年に起こった2事例を扱っている。一般の人に「喉頭」だの「永久気管孔」だのと言っても通じないだろう。では医療者ならどうかといえば、永久気管孔はかなり珍しいものなので、実物を目にしたことのある医療者はそう多くないと思われる。耳鼻咽喉科や頭頸部外科のない施設では永久気管孔の患者はほとんどいないだろうし、耳鼻咽喉科があっても医師が少なかったり癌を扱っていなかったりするとそのような患者に接する機会は乏しい。

人が覚えていられる知識には限りがある。いつも使う知識はすぐ思い出せるが、使わない知識は忘れ去られていってしまう。2011年の事例で当事者となった「20歳代の看護師はそれまで永久気管孔を見たこともなかったようです(120ページ)」とあるが、いくら教科書に書いてあると言っても膨大なページ数の教科書に1行か2行書いてあったことをきちんと覚えていて思い出せというのは無理な話だ。おまけにこの事例の患者の診療録には「喉頭の摘出、気管切開あり」としか書いてなかった。頭頸部外科の手術に慣れた医師あるいは看護師であれば、「喉頭を摘出しているのであれば気管切開ではなく永久気管孔のはず」と診療録の間違いに気づいただろうが、一般の医師や看護師にはハードルが高い。

2011年の事例について、長野は次のように書いている。

前途ある若い看護師がこのような事故の当事者となり、不起訴処分になったとはいえ刑事事件として書類送検され、勤務先の病院は退職せざるを得なくなり、遺族からも恨まれる状況など誰も望んではいません。「看護師の指導や教育を徹底するべき」と言うのは簡単ですが、上記のように同じ事故が繰り返されてしまう現状では、再発防止はそう簡単ではないように思います。(126ページ)

医療現場は複雑化し、高度化している。いたるところに危険が潜んでいる。ところが、職員は少なく、まるで飛行機をひとりで操縦しているようなものだ。小さな単発機ならそれでもいいかもしれないが、ジャンボジェット機のような大病院であっても、特に夜間などは、本当に少ない人数で病棟を運営している。もし医療者に責任を負わせようというなら、もっと手厚い人員配置が必要だろう。現在のような人員体制ではミスがなくなることなど考えられない。

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