阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年05月

家族からインフォームド・コンセントを得ようとすると、家族を傷つけてしまうことがある。呼吸筋麻痺で呼吸が止まりそうな29歳の患者に酸素を投与するかどうか、家族に判断を求めるというドラマのシーンを題材として、國頭は次のように述べている(ちなみに、このような患者に酸素を投与すると呼吸が楽になるが、かえって呼吸をしなくなり死期が早まる)。

患者の苦痛を取るのが絶対の第一優先順位であるのに決まっています。
それにどうして、ご両親に、「どうしますか?」なんて聞く必要があるのでしょうか。「お願いします」なんて言わせる必然性がどこにあるのか。もしかしたらこのために、あのご両親は、「自分たちの決断で、我が子の命を縮めたのではないか」という後悔を、ずっと引きずってしまうかもしれない。ただでさえ子どもを亡くしてしまいそうという悲劇のまっただ中にあるのに、そんな余計な負担をかけるべきではありません。(099ページ)

したがって彼は、「鎮静を開始する時、そのために呼吸が止まる可能性について、家族には説明すべきではない。これはしなくてもよい、のではなくて、すべきではないのです(100ページ)」と強調している。國頭が目指す患者・医師関係が成立したときには、これが正当となるだろう。だが、お互いの信頼関係が確立していない場合には、家族の同意を求めるべきではないとはかならずしも言えない。また、そのような決定に参加したいという家族もいるだろう。子どもの死期という非常に重要な事柄を決めることに自分たちを参加させないのは間違っていると考える親もいるはずだ。ここはやはり患者や家族と付き合っていく上で見きわめていくしかない。ただし救急の場面では、日本の現状を考えると、家族に相談しないわけにはいかないだろう。

まったく別の話となるが、言葉が家族を傷つける場合として、日赤医療センターの緩和ケアの医師から聞いた次のような話が取り上げられていた。

たとえばお母さんが病気である。子どもは小さい。そうすると、お祖母ちゃんがその世話をしている、という状況がよくありますよね。そこで、お祖母ちゃんが、「◯◯ちゃんがよい子にしていれば、お母さんはきっと良くなるよ」とか「◯◯ちゃんはよい子だから、神様はお母さんの病気を良くしてくださるよ」なんて言う、というのはありがちなことです。
ところがお母さんの病気は良くなりません。そうすると、言われた子どもは、「僕がよい子でなかったから、お母さんが死んじゃう」と思ってしまう。[中略]
だから、祖父ちゃん、祖母ちゃんには、そういう、「よい子にしていれば……」なんてことを言わせないようにするのが大事だ、ということでした。(073ページ)

欧米での告知では、この「病気が誰のせいでもない」ということを告げるのが重要だという。

特にキリスト教では、神様と人間の関係から、子どもは、「お母さんの病気が悪くなったのは、自分が良い子でないからだ」と思ってしまうらしいんですね。なので、そうではない、これは罪とか罰とかではなく、こういうものなのだ、と言ってあげることは大事なのだそうです。(073ページ)

重要な指摘であり、すべての人が心得ておくべき知識だと思う。

告知の中でいちばん辛いのが積極的治療手段が尽きたことを伝えるときだ。もう「積極的治療」は害にしかならず、QOLを低下させ、予後を悪化させるので、実は「治療」ではなくなってしまっている。もちろん緩和的治療は継続するので、QOLを維持し苦痛を除去するための「治療」はまだまだ数多くおこなわれる。しかし患者はそこで幻滅することが多い。だが考えてみれば、それまでの「積極的治療」だけでなくすべての治療が、死なない体にするものではなく、死期を遠ざけるだけのものなので、死期を1年遠ざける積極的治療がQOLを半年維持してくれる緩和的治療より優れているなどと言う根拠はどこにもない。

しかし患者が医師に裏切られてように感じ、見放されたように感じるのも人情である。國頭は次のように述べている。

白状しますと、だから、というわけでもないですけれど、私も最近は「何かの治療をやってしまう」、ということが多いように思います。とにかく何かやってくれ、座して死を待つのは耐え難い、というのにつきあってしまうわけですね。抗がん剤だけでなくその副作用の対策も進歩してきましたので、仮に効かないにしても、副作用で患者を殺してしまったり死ぬより辛い目に遭わせたりする確率は随分と低くなった。だから、「ダメで元々」という気分になってしまうのですね。(070ページから071ページ)

私がいちばん恐れるのは、積極的治療がないと告げられた患者が怪しげな治療に引っかかることである。「治療の金を惜しむ」ことを悪と考える傾向があるため、医学的に見れば根拠に乏しい怪しげな「治療」に頼ってしまうことがある。よく考えてみれば、世の中に出ていない画期的な治療などというものがあるはずがない。画期的な治療を見つけた人は(たとえその可能性にすぎなくても)先を争って発表するのだから。もし仮に、それが本当に世に知られていない画期的な治療だったとすれば、それを公開せず秘匿しておくことは非倫理的なことであるから、その治療者の人格を疑わねばならない。

金を支払いさえすれば特別な治療を受けられると考える心理は、オレオレ詐欺で金を騙し取られる心理と同じではないかと考えている。金を紛失するなり、事故を起こすなりしたときは、警察に届け出て責任をまっとうするのが正当な方法だ。金を払って問題を解決しようとするのは、厳しく言えば正しい方法ではない。だが人は金を払って何とかしようとする。インチキ治療に騙される人たちも同じように考えるのだろう。金を払ってもできないことがあるのだが、払いさえすれば何とかなるのではないかと思ってしまう。悲しいことだが、私だってとっさの場合はそう考えるかもしれない。というのも「これが詐欺だったらいいのにね」と言いつつ騙されて金を支払った話を聞いたことがあるからだ。

國頭の予後告知に対する態度、考え方について触れておきたい。予後が厳しい(つまり死期が迫っている)ときに、医療者がいちばん恐れるのは、予後を伝えることで患者が悲観して自殺したりすることだ。予後が厳しくもないのに、癌だという病名を聞いただけで自殺する人もいるのだから、医療者にとっては深刻なプレッシャーである。

彼は「どうしても知りたい」という人には「どうして知りたいのか」を尋ねるとよいとアドバイスしている。

私にもよく経験がありますが、「予後を知りたい」「分からない」「分からなくてもどうしても知りたい」、という患者さんは、たしかにいます。その時、「どうしてそんなことを知りたいのか」と確認すれば、いや来月家族旅行に行く予定があるとか、来年初めに孫が生まれるとか、娘が結婚するとかいう事情が出てくるかもしれない。それに対して、たとえば結婚式はもうちょっと早めたほうがいいとか、その家族旅行は大丈夫だとか言えるのですね。(064ページ)

私は進行癌の患者に病名を告げた上で、逆に「いつまで生きたいですか」と訊いたことがある。かなり厳しい予後が予想されたが、実際に何か月生きられるかは誰もわからないので、不用意なことは言いたくなかったからだ。患者は「2年後に孫が小学校に入学するまで」と答えた。私は考え込んでしまった。だが、それが暗黙の告知になったのだろう。私が顔を上げて微笑み、「わかりました。頑張りましょう!」と言ったとき、患者の表情から私の考えが伝わったと感じた。

國頭は「希望も災厄の一つである(164ページ)」という考え方を紹介しているが、希望を持つ患者のほうが予後が良いという研究結果もある。希望をくじかずに予後を理解してもらうことができれば最善である。彼はまた「希望をもつ患者さんは、その裏返しに大きな恐怖を抱えている可能性が高い(202ページ)」とも言う。たしかに、異常とは言わないまでも非合理的な希望を持たないよう、特に医療者の言葉がそのきっかけとならないよう、気を付けて接するべきだろう。

彼は告知の際、よく「すぐ死ぬわけでも、死ねるわけでもない。今日も明日も、まだ生きて、嫌かもしれないけど主治医であるこの私とも、つきあっていかなければいけない(228ページ)」と言うそうだ。実は私も同じようなことを言う。もうひとつ私がよく言うのが「人の命なんてわからないものです。それをどうこう言うのは本当は非常に不遜なことなんです。今私が偉そうに後何か月って言ってますが、私のほうが今日帰りに交通事故にあって先に死んでしまうかもしれないんですから」という言葉だ。先の言葉は微笑みながら言うこともあるが、この言葉は常に真剣な顔で言っている。本当にそう思っているからだ。

國頭は「患者様」という言葉を嫌い、ゼミでの使用を禁止している。

[ゼミのシラバス]に「患者様」という言葉は禁止する、継続的に使ったら落第で救済措置はないと明記しておいたはずです。幸いにこの教室では1回も聞いていませんが、このような汚い言葉を、医療者は決して使ってはいけません。私はこれを使う者を、心から軽蔑しています。
どうしてか、という説明はいたしません。そう言われてもよく分からない、などという語感に無神経な人間は、どうしようもないから相手にしないことにしています。(089ページ)

彼にとって「患者様」という言葉は、「患者を客として金儲けをする」態度を示すものでしかない。彼のこの「患者様」に対する反発が、彼の患者・医師関係に対する思い入れをもっとも端的に表しているのではないかと思う。

「患者様」という呼称は、一時期多くの病院で流行した。患者に対してぞんざいな口のききかたをする職員でも、「患者様…」と話し始めれば、おのずと言葉が改まるだろうという発想で取り入れた病院が多いのではないか。そのすぐ後に「医療はサービス業である」という言い方も広まった。そのために、「医療者は患者に対してへりくだるべきだ」というような誤解が、医療者側にも患者側にも蔓延したように思う。

医療者は自ら患者から遠ざかり、患者側もそれで自分の立場が強くなったと勘違いした。たしかにある意味では立場が強くなったのかもしれない。だが、患者が受けられる医療の質も変わってしまった。均質化したと言っても良い。質の低い接遇を受ける割合は減ったのだろうが、親しい医療者から親身になった扱いを受ける機会が減ったのではないだろうか。だが私は、それが本当に目指すものなのであれば、頭から否定することはない。ちょうど現在話題になっている医師の働き方改革で、国民の受ける医療の質が変わるのだが、それを国民が欲しているのなら反対はしないのと同じだ。ただ問題は、政府が欲していることを国民が欲していると見なして良いのかどうかだ。

國頭は患者と話をする際に、基本的には看護師が同席するほうが良いと考えている。だが、彼は日本ではまだまだチーム医療が浸透しておらず、主治医がすべてといった風潮が強いと言う。

内富先生たちが、国立がん研究センター東病院で外来患者さんからとったアンケート結果があります。それによると、そういう[引用者注:深刻な]面談の際に、他の医療者(主治医以外の医師や看護師など)を同席させることを望むかとの問いに、「望む」が35.2%、「望まない」が64.8%だったそうです。(011ページ)

國頭は「この結果を見て、東病院の看護師さんはみんなガッカリしちゃったそうです」と述べているが、ひとつには外来患者へのアンケートだったために、病棟の担当看護師の有り難みを知らない患者や忘れてしまった患者がいたのだろうと思う。もうひとつにはがん研究センターの風土があるだろう。がん研究センターの医師には休日も回診する医師が多いようだ。以前のこのブログで患者の体験記(関原健夫『がん六回、人生全快〈復刻版〉』)を取り上げたときに述べたことだが、それは患者とのコミュニケーションを維持し向上させる上で非常に効果的であり、社会的にみても賞賛されるべきことなのだろうが、医師自身のQOLやチーム医療の推進という観点からすると、それらを推進するものではない。休日にかならず回診するなら、家族と行楽に出かけることは難しくなるし、かならず主治医が顔を出すなら、チームの他の医師の影が薄くなる。「主治医がすべて」という風潮を変えようと思えば、主治医側からの積極的な働きかけも必要である。

また、「基本的にはこういう面談に看護師さんも同席した方が望ましいのは間違いない(017ページ)」と言いつつも、よくわかっていない看護師の場合、面談の途中でPHSに出て雰囲気を壊してしまうことがあると苦言を呈する。

こういう時、私は「悪いけど出て行ってくれないか」と頼みます。そして面談の後でナースステーションに戻り、「ふざけるなバカ野郎」と怒鳴ったりすることもあります。顰蹙を買いますが、私が悪いんですか(苦笑)?(017ページ)

彼の気持ちはよくわかる。

彼はベッドサイドで話をするときも、座ることが大切だと言う。「立ち話だと。いつこの医者はすっといなくなるかと、相手は、気が気でなくなる」ので、「座って話すということは、私はしばらく、あなたのために時間を割くつもりである、簡単には席を立たないという意思表示になる」のだ。ベッドの脇にしゃがむのもダメで、「どうしてもなければ、患者に断ったうえで、ベッドに腰を掛けろ」という、SPIKESモデル(悪い知らせを伝える際の6つの手順)の提唱者であるトロント大学のロバート・バックマンの言葉を紹介している(006ページ)。私も実践していることだが(たとえば事務職と話をする場合でも、立ったまま要件を言うのではなく、手近な椅子に座った方が良い)、非常に重要なことだ。相手を立たせたままで話すのも、自分が立ったままで話すのも、避けたほうが良い場合が多い。

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