阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年04月

伊藤薫『八甲田山 消された真実』(山と溪谷社)を読了した。伊藤は元自衛隊員で青森の第5普通科連隊に勤務したことがあり、冬の八甲田山の雪中行軍も経験している。この本で取り上げられているのは、もちろん明治35年(1902年)1月におこなわれ199名もの死者を出した歩兵第五聯隊第二大隊の八甲田山雪中行軍である。

この事件については新田次郎『八甲田山死の彷徨』が有名で、 森谷司郎・監督、高倉健・主演で1977年に『八甲田山』として映画化され、記録的な大ヒットになったという。小説はあくまで小説であり、事実ではない。著者の伊藤は「多くの人々は、それら作品に描かれた出来事がまことの事実であると錯覚をしてしまう。また[中略]遭難事故に関する本がさまざま発行され、巷間に諸説が飛び交うことにもなった」と述べているが、伊藤は丹念に資料を分析し、真実が小説からは程遠いところにあることを突き止めた。

今になって真実が露呈する主な原因は、遭難事故の事実が意図的に消されてしまったことにある。責任回避のため都合の悪いことは隠蔽され、あるいはねつ造されて大本営発表となった。この内容が地元の新聞に載り、青森市に派遣された東京の各新聞社特派員も、すぐさま電報で本社に送っていた。そのようなことによって大本営発表が事実として日本中に広がったのであろう。(16ページ)

実際、Amazonで八甲田山関係の書籍を検索すると「指揮官の決断」「リーダーシップとリスクマネジメント」などをタイトルに付けた本が検索される。おそらく多数の死者を出した歩兵第五聯隊の神成大尉と死者を出さなかった歩兵第三十一聯隊の福島大尉を比較したリーダー論なのだろう。おそらくこれらの本は新田の『八甲田山死の彷徨』や映画『八甲田山』を基にして論を立てているのだと思う。私は新田の本も読んでいないし、森谷の映画も見ていない。ましてAmazonで検索されたような本は存在すらはっきりとは知らなかった。だから伊藤の憤懣についても実感が湧かないが、小説を基にしたリーダー論がナンセンスであることについては全面的に同意する。

伊藤によれば、福島は強欲だった。名誉欲の強い野心家であるばかりでなく、行軍に際して事前に通過点の村々に手紙を出し、酒食と宿泊場所を手配するよう要請していた。難色を示す村には「天皇に報告する行軍である」と嘘までついて圧力をかけていた。また、地元民6人を案内に雇い、ただ案内させただけでなく、雪をかき分けさせて道まで作らさせたのだ。このような福島の虚像だけ見て「リーダーのあるべき姿」などと言うのであれば、伊藤が腹をたてるのももっともだ。

安楽死は権利ではないので、安楽死するためには努力が必要となる。安楽死を認めてもらうために皆努力するのだ。その中でもっとも重要なのが家族全員の同意を得ることだそうだ。要件に「家族の同意」はないのだが、家族が同意していなければ発作的なものと判断され、熟慮されたうえの決定と見なされない。また、医師には安楽死の実行を拒否する権利があるため、家族に衝撃を与えるような場合は拒否される。家族の同意は絶対条件なのだ。

オランダでは安楽死のハウツー本まで出版されており、「楽しみがあるように思わせるな」「受診の際にはあまりきちんとした身なりをして行くな」などのアドバイスが掲載されているという。安楽死に努力が要るというのは意外だった。

現在の問題は、徐々に安楽死を権利だと考える風潮が生まれてきていること、医師の安楽死に対する抵抗感がまだかなり強いこと、認知症患者など自分の意思を伝えられない患者の安楽死、などだ。

安楽死を実施した医師は、さらに「遺体処理法」に基づき、検死医に報告する。検死医は現場確認後、「地域安楽死審査委員会」に申告し、同委員会は審査結果を6週間内(1回延期可能)に関連者に伝える。

実施医は翌日患者家族を訪問し、グリーフケアをおこなわねばならない。そのような場合、医師は家族から「先生のほうこそ大丈夫ですか?」と問われることがあるという。患者と充分話し合い納得した上で患者の希望をかなえた家族は、ある意味ですでに覚悟ができている。それに対して、患者からの要請で薬物を注射させられた医師のほうが心理的ダメージが大きかったりするのだ。「絶対に安楽死はおこなわない」と拒否している医師もいるという。そのような場合、患者は諦めるか、他の医師を探すことになるが、かかりつけ医制度が定着しているオランダでは、かかりつけ以外の医師を見つけるのは容易ではなかった。

ところが、安楽死を請け負う医師が現れた。2013年に結成された「最後の意思協会」(原語はCoöperatie Laatste Wilで、「最後の意思組合」という訳し方もあるようだ)に所属する医師たちだ。彼らは自分たちを「安楽死のエキスパート」と称している(「安楽死の専門家」ではない)。彼らは要件が型どおり整っていれば安楽死を実施する。医師会は同協会のやり方に反対しているが、現場の医師たちの多くは自分たちの負担が軽減されるためありがたがっているという。

認知症患者の安楽死に対して、バドワイン・シャボットは強く反対し、署名活動をおこなっている。認知症患者の場合、認知症を発症する前に安楽死を希望する文書を作成していたとしても、安楽死の要件は現在の患者の意思であるので、以前に作成した文書は有効とは認められないというのが彼の主張だ。実際、認知症発症前と発症後では別の人格とみなされることが多い。そもそも、意思疎通が不可能になった患者が過去に作成した文書があっても、何年も前のものであれば、現在の気持ちは変わっているかもしれないとして、有効性を否定されることが普通だという。

ジャネット・あかね・シャボットによる講演「安楽死を選ぶ — オランダ過去12カ月の展開」を聞いた。シャボットの父は米国人で母は日本人だが、オランダ人と結婚して1974年よりオランダに住んで安楽死を研究している。安楽死に関する発言で有名な精神科医のバドワイン・シャボットは夫のいとこだという。

オランダでは安楽死が認められていると一般には理解されているが、厳密に言えば合法ではないということを初めて知った。日本と似たような刑法がある。いわば「運用で」認められているのだ。ただし、2002年に「要請による生命の終結 および自死の援助審査法」(いわゆる「安楽死法」)が施行され、以下の要件が満たされれば医師が訴追されないことは保証されている。

注意深さの要件
  1. 医師は、患者による任意かつ熟慮された要請が存在したという確信を有していること。
  2. 医師は、患者の絶望的かつ耐え難い苦しみの存在について確信を有していること。
  3. 医師は、患者に対して、その現状、および、その予後について充分な情報を提供したものであること。
  4. 医師は、他の合理的な解決策がないことについて、患者とともに確信を有していること。
  5. 医師は、少なくとも、他の1人の独立した医師と相談すること。後者は、患者に面会して、上記1から4に挙げた注意深さの要件について自己の判断を下したものであること。
  6. 医師は、生命終結行為を医療的に注意深く実施したものであること。
(山下邦也訳)

要件を満たしているかどうかは「地域安楽死審査委員会」が審査する。だが、上記の要件に該当するかどうか微妙な案件も実際に複数存在した。そのような案件の場合、今まで訴追されていないというだけで、事例によっては刑罰なしではあるものの有罪判決もあったという。オランダでは量刑に最小の限度がないので、有罪だが刑罰は無しという判決がけっこうあるそうだ。

安楽死は患者の意思によるものでオランダでは選択肢のひとつとして存在するのだろうと思っていたが、それもまったく違った。終末期の患者が苦痛に対し有効な医療を受けられなくなった場合、医師から見捨てられたと思ってしまう。安楽死はそのような患者に対して医師が最後にできることとして提供されたのが始まりだという。つまり、医師にとっては善行原則(患者を見捨てない)の遵守であり、患者の自律尊重から生まれたものではないのだ。

第6章は自閉症、第7章は体外離脱、第8章はてんかんを扱っており、どれも面白い。どれを読んでも感じるのは「自己」が複数のシステムの連携とバランスによって構成されているということだ。著者はサセックス大学の神経学者アニル・セスの「身体と世界の区切りは、私たちが思っている以上にあいまいで柔軟だということでしょうか(294ページ)」という問いかけを引用しているが、まさにそのとおりなのだ。私たちは外界と自分が思っている以上に繋がっている。

何千年も昔に、自己と他者の区別はあいまいで柔軟というより、そもそも自己など存在しないと説いた僧がいた。「私が」「私を」「私の」という意識を支える自己をいくら探したところで、そんなものは見つからない。自己が揺るぎなく存在するという誤った観念にしがみついていることが、すべての苦しみのもとである。(294ページ)

僧とはブッダのことだ。仏教は本来は宗教ではなく哲学だという。自己の輪郭が曖昧であり、「自己」を規定するから自己があるので、規定がなくなれば自己もなくなるというのは、哲学的には明らかなことなのだろう。結論はわかっているのだが、私はその結論に至る筋道を知りたい。また、自己についてさまざまな解釈があるのを、ひとつの統一した理論で束ねたいと思うのだ。

現実は非常に複雑で、ひとりの人がそれを隅々まですべて理解することは困難だ。だから人は模式やイメージで理解する。同じひとつの現実に対して、各人が持つ理解方式(模式やイメージ)はさまざまである。理解方式に正誤はない。すべての人の理解が不完全であるなら、不完全な理解が正しいはずはない。ところが、「自分の理解が正しい」と思うと他人の理解は誤りになり、そこに争いが生じる。だから理解が正しいか間違っているかを争うことは無意味なのだ。まず皆が同じものを見ているということを確認したうえで、その完全な理解が困難であり、皆が理解したと思っているものは近似値にすぎないと合意しなければならない。

「自己」とは何かという問題も、同じ構造をしていると思う。対象は複雑すぎて、完全な理解は難しい(脳は脳自身を理解できるのかという情報量の問題もある)。皆の理解は近似値にすぎない。どの近似値が優れているかを争っても意味がない。近似値はしょせん近似値である。問題はどうして違う近似値が生じたのかということ、ある近似値から別の近似値は誘導できるのかということだ。たとえばある物体を見て、Aが「四角だ」と言い、Bが「丸だ」と言ったとき、斜めから見た図を示して「あ、円柱だった」とA、Bの両者が納得できるような説明、そのような説明が「自己」についても欲しいのだ。

さらにダマシオの説を紹介する。

もうひとつダマシオが提唱するのが、「仮想身体ループ」だ。これは大まかにいえば、脳が身体の状態をシミュレートする能力ということだが、なぜ脳はそんなことをしたがるのだろう? 予測される状態をシミュレートしておけば、身体の生理的状態をすばやく制御できて、エネルギーが節約できる。脳は効率も威力も上がるのだ。脳が運動指令の遠心性コピーをつくって結果を予測し、準備するという考えかたに似ていなくもない。(173ページ)

まるでダマシオの想像のように書いているが、これは知られている事実ではないのか。人の脳は、人が意図的に身体を動かそうとする前に(動作が意識にのぼる前にすでに)その動作を準備している。正確に言えば、人が意識して動作をしようと「思う」のは、実際の動作の準備が脳内でおこなわれた後なのだ(ベンジャミン・リベットの1980年代の実験で、動作の準備が脳波により確認されるのが1秒前、動かそうと思うのが200ミリ秒前と観測されている)。そして動作命令のコピーは脳内の別の場所(後部頭頂葉)に送られ、実際の運動と比較される。これは脳科学で明らかになっている事実だ。

さらに確率予測をともなうフィードバックループもある。

脳は、感覚刺激の考えられる原因について事前信念を持っており、それにもとづいて最も可能性の高いものを計算する。最後まで勝ちのこった予測が知覚として立ちあがってくるわけだ。これが一度きりではなく、えんえんと繰りかえされる。脳は身体と世界の内部モデルを使って、入ってきそうな感覚刺激を予測する。それが実際の刺激と違っていれば「予測エラー」となり、脳は事前信念の内容を更新することで、次に同じ刺激が来たときに正確に予測できる(知覚できる)ようにする。(190ページ)

これによれば、客観的なもとの考えられがちな知覚でさえフィードバックと学習に支えられている。

感情にも認知的要素が関連していることがわかった。被験者に(架空の)薬を注射されたと思い込ませる実験から、次のようなことがわかったのだ。

感情(怒りや幸福感)は、身体の生理学的状態だけではなく、認知コンテクストにも左右されている。被験者は認知コンテクストを頼りに、身体の情動的状態を「評価」していた。注射が引きおこす生理的変化の認知的解釈は、サクラのふるまいや、副作用の説明に影響されつつ、被験者が最終的に感じたり、経験したりする内容に関わっていく。(186ページ)

離人症の患者では情動が抑えこまれるのに、落ち込んだりパニックになったりはする。離人症では身体の内部モデルに誤りがあったり、比較をおこなう神経回路に不具合が生じたりして予測や評価が障害され、知覚や感情が障害されるのではないかという仮説が挙げられている。非常に興味深いと感じた。

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