阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2018年01月

文章をなぜ書くのかといえば、他人に読んで欲しいからに他ならない。となれば読ませるための技術が必要で、特に出だしが重要である。お笑いの世界には「つかみ」という言葉がある。

  1. 相手の気持ちを引きつけること。また、その事柄。お笑い芸人が観客を引きつけるために最初に放つ独創のギャグ。また、講演や説明会の最初に聴衆の関心興味を高めるために話す事柄。「―のうまい芸人」
goo辞書「つかみ」https://dictionary.goo.ne.jp/jn/146623/meaning/m0u/

お笑い芸人は出だしで聴衆の気持ちを引きつけなければ、後のギャグもウケなくなる可能性がある。つかみは彼らの生命線である。

新聞には「天声人語」「編集手帳」「余録」「筆洗」「春秋」など、「1面コラム」と総称されるエッセイが連載されていることが多いが、やはり出だしに工夫を凝らしている。日常のちょっとした出来事や、興味深い逸話などから始め、読者の気持ちを引きつけておいて、社会情勢分析や政治批判につなげる。編集委員の腕の見せ所である。

日経メディカルオンラインの薬師寺泰匡による連載「だから救急はおもしろいんよ」で2018年1月25日に配信された「急変時どうしますかって聞いちゃいます?」(http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/yakushiji/201801/554551.html)を読んだとき、その話運びの上手さに感心し、上記のようなことを考えた。

彼の話は、一見医療と何の関係もなさそうな美容室の話から始まる。

この間、髪を切りました(正確には切ってもらった)。美容室に行くと、大体最初に「今日どうしますか?」って聞いてくれますよね? 僕は「好きにやっちゃってください」ってお願いするんですが、こう言うとうれしそうに切り始める美容師さんと、戸惑う美容師さんと2種類います。戸惑われても困るし、本当に好きにしてほしいので(だって相手は毛髪カットやスタイリングのプロですから)、好き勝手してくれる人のところに通っています。

これがどのような話になるのかは「ネタバレ」になるので控える。だが、彼が論じる問題点は非常に重要なものであるので、話の進め方ではなく彼の問題提起について、項を改めて論じることとする。

どの社会にも、不当なことをして金を得ようとする人びとがいるのは変わらない。ただ、米国ではそれがかなり露骨におこなわれているように思える。

依存症患者は、オピオイド系鎮痛剤を手に入れるため、「ピルミル(pill mills)」と呼ばれる、オキシコドンなどの強い鎮痛薬を不正かつ大量に処方する悪質なペインクリニックに足を向けるようになります。392人しか住民のいないウェストバージニア州のある街の1件の薬局に、2年間で900万個以上ものオピオイド鎮痛薬が出荷されていたこともあったのです。[引用者注:たとえば以下の記事:https://www.npr.org/2016/12/22/506550248/drug-firms-make-millions-by-sending-opioid-pills-to-w-va-report-says]
この悲惨な状況は、さらに悪化の一途をたどります。信じがたいことに、製薬会社は連邦議会に圧力をかけ、2016年4月、医師、診療所、薬局に法外な量の薬剤が出荷されたとしても、DEAがそのことを積極的に調査することができなくなる「S. 483 (114th)」という法律まで成立させてしまったのです。

この法律の主唱者はトム・マリノ共和党下院議員(ペンシルバニア州)だそうだが、製薬業界から約10万ドルという多額の献金を受けている。このマリノ議員をトランプ大統領が麻薬取締政策局局長に指名したというのだから、お笑い種だ(結局マリノは辞退した。https://www.theguardian.com/us-news/2017/oct/17/trump-pick-for-drug-czar-tom-marino-withdraws)。2014年から2016年の2年間で、製薬業界はロビー活動、広告キャンペーンなどのため総額1億200万ドルを費やしているという。

さらに驚くことに、「S. 483(114th)」の成立後、最低でも56人のDEA元幹部や弁護士らが製薬産業側に転職したことがわかっています。彼らはDEAの弱点を知り尽くしており、どうやればDEAの調査を免れるのか十分把握しています。こうしてDEAは、本来は厳正に執行されるべき違法な薬物を取り締まる「権力」を失いました。

米国では現在「約133人に1人が依存症ではないかと言われて」いるそうだ。「少量で死に至る毒性の強いフェンタニルをヘロインに混ぜて使用する人が後を絶たないほど増え」、2017年には「6万4000人以上が薬物過剰摂取が原因で死亡」したという。

しかも死亡者は依然として増加しており、ピッツバーグ大学の研究者らは、今後5年間で30万人に及ぶ米国人が薬物の過剰投与で死亡するのではないか、とまで推定しています。
【Opioid epidemic shares chilling similarities with the past, AP NEWS, Oct 28,2017】[引用者注:https://www.apnews.com/dc926eb0cf114067a35d303c9b18a9cf/Opioid-epidemic-shares-chilling-similarities-with-the-past]

米国社会の闇は銃よりもオピオイドのほうが深いかもしれない。このような記事を読むと、日本の安倍政権の身内びいき・友人優遇政策も可愛いものに思えてしまう。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」で2018年1月24日に配信されたVol.015「製薬会社が米国を滅ぼす鎮痛剤オピオイド危機の現実」(http://medg.jp/mt/?p=8094)について書きたい。筆者の大西睦子はボストン在住の内科医で、日本の新聞や雑誌に定期的に寄稿している。

オピオイドとは「阿片(opium)類似」という意味で、阿片に類似した構造を持つ麻薬を指す。モルヒネなどが含まれ、古くから麻酔や鎮痛に使われるとともに、快楽を得るためにも使われてきた。習慣性が強く、常習するといわゆる「麻薬中毒」になる。ちなみに、「麻薬」という言葉の語源と考えられる「麻」(つまり大麻)の主成分であるHTCはオピオイドではなく別系統である。

癌など疼痛が強い疾患で、一般の鎮痛剤では充分な効果が得られない場合、オピオイドの使用が推奨される。便秘などの副作用が出ることも多いが、適切な量を投与すれば眠気などもなく習慣性も出ず、QOL(生活の質)が向上する。もっとも、末期癌の患者に投与した場合、習慣性が出るまでの予後期間がないのかもしれない。「鎮痛にモルヒネ(麻薬)を使う」というと拒否反応を示す患者がいるが、意味のない反応であるとはいえ、それだけ反麻薬キャンペーンが成功しているとも言えるだろう。

米国ではオピオイドが非癌性疼痛にも広く使用されている。トヨタ自動車のジュリー・ハンプ常務役員(当時)が2015年6月に逮捕される事件があったが、彼女はオピオイドの一種であるオキシコドンを単なる鎮痛剤と認識して内服し、米国から取り寄せていた。一般の米国人の認識はその程度のものだ。だが、一般の疼痛に気軽に使うと、習慣性をもたらす危険性がある。大西によれば、米国ではオピオイドの乱用が拡大しつつある。

2017年11月3日、米疾病予防管理センター(CDC)は、2016年に約6万4000人の米国人が、薬物過剰摂取で死亡したことを発表しました。単純に計算すると、1日に約175人の米国人が、命を落としていることになります。2015年は死亡者が10万人あたり16.3人、2016年には同19.7人に増加しました。
[中略]
さらにCDCの2017年12月21日データによると、1960年代初頭以来、米国での平均寿命は初めて2年連続で減少しています(2014年78.9歳=男性76.5歳、女性81.3歳、2015年78.7歳=男性76.3歳、女性81.1歳、2016年78.6歳=男性76.1歳、女性81.1歳)。このショッキングなデータは、全米のメディアが報道し、専門家は、原因として薬物過剰摂取による死亡の増加を指摘しています。

その原因は、大西によれば製薬会社にある。米麻薬取締局(DEA)元副補佐管理者ジョー・ラナジージの証言を元にした調査結果について次のように引用している。

議会やロビイストらに加え、過去20年間に数億個ものオピオイド系鎮痛剤を、無認可の薬局やペインクリニック(疼痛治療専門医院)に出荷した製薬会社と流通業界が、オピオイド危機において主要な役割を果たしていることが判明しました。ラナジージ氏は、製薬会社「パデュー・ファーマ」や上記のような薬局などに出荷していた流通代理店を非難しています。オピオイド系鎮痛薬の85~90%は、米国の3大流通代理店である「カーディナル・ヘルス」、「マックケッソン」、「アメリソース・ベーゲン」が取り扱いを独占しているのです。

パデュー・ファーマはオキシコンチンの開発元で、2001年に同社の重役が連邦議会で「適切に管理すれば、一般的に依存症は起こりません」と断言している。だが、社会の隅々にまで「適切な管理」がおこなえるわけなどない。

河合は「言葉だけのやり取りでは決して沸き立たない感情」があり、それが「共感」であるとしている。たとえば、ビジネスの世界では「上と下が“つながる”にはその場の空気、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を共有できる“場”が必要不可欠」だとして、自分の投稿から以下のような部分を引用している。

「見る(視覚)、聞く(聴覚)」だけでは、心は“つながった”と認識できない。
元気な会社のトップが歩き回り、昼食を共にし、社長室のバーで語りあったように、触れる(触覚)、匂う(臭覚)、味わう(味覚)が満たされて初めて心と心の距離感が縮まっていく。
――「役員エレベーターと不正発覚の不機嫌な関係」より抜粋

さらに、山極の次のような発言を引用している。

そういえば、霊長類研究で知られる京都大学総長の山極壽一先生が、「人は類人猿の時代から、身体活動を通じて集団を作り生き延びてきた」と話されているのを、ある講演会で聞いたことがある。
先生いわく、
「人が信頼をつなぎ、安心を得るには“共に過ごすこと”が必要不可欠で、それができなくなったとき不安がたえまなく大きくなり続ける」。

つまり、人は言葉だけで繋がっているのではないのだ。私は繰り返し「ヒトは社会的動物である」と述べているが、その社会的ネットワークを維持するのに使われるのは言葉だけではない。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などすべての知覚機能が働いている。ヒトは生身のヒトとじかに接することで社会性を維持するのだ。

近代以降は、メディアの発達とともに、コミュニケーションにおいて文字(言語)で伝えることの比重が非常に大きくなっている。理論や概念を伝えれば、それでヒトとヒトのコミュニケーションが成立していると考える傾向がある。だが、本来のヒト間コミュニケーションは複数のチェンネルを並行して用いたマルチモーダルなものだ。言語という単一のチャンネルしか用いない「ユニモーダル」なコミュニケーションは、人間を不安定な状態に置くのではないだろうか。現在のSNSでの炎上騒ぎは、もしかしたら不安定なコミュニケーションの結果かもしれない。

もちろん人間は個人でいるときと集団でいるときでは違う行動をすることがある。集団心理に巻き込まれると、普段とは違う人格が現れることがある。SNSでの炎上では実際に集団が形成されるわけではないが、似たような集団心理のようなものが働いている可能性も否定できない。

いずれにせよ、楽しくない仕事から帰って、自室でSNSにアクセスしても、寂しさを紛らわすことはできるのかもしれないが、心に充実を得ることは難しい。ヒトは生身のヒトと繋がる必要がある。

だが、もう私たちの生活からインターネットを排除することはできない。SNSはなくならない。私たちはHomo telecommunicansとして、この状況に適応して生きていかねばならないのだ。

日経ビジネスオンラインの連載「河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学」から、2017年12月26日に配信された「今年もコメント、全部読ませていただきました — 2018年、まずしっかり目と目を合わせよう」(http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/122500137/)について書きたい。河合は健康社会学者と自己紹介しているようだが、活動の詳細をあまり知らない。

以前にも書いたが、この連載はビジネス記事のような題名だが、河合がかなり強い調子で、ある意味「言いたい放題」を書いている。彼女なりの計算があって書いているのかもしれないが、「毒を吐いている」感じがしなくもない。そのような記事に対するコメントなので、悪意のあるコメントがあるだろうということは容易に想像がつく。ブログを書いている人の中には、コメントをいっさい読まないという人もいる。ネガティブなコメントは精神衛生上よくないからだろう。ところが河合はすべてのコメントを読んでいると公言する。

昨年末に「みなさんのコメントはちゃんと読んでます」と書いたら、「そんなこと書いたら調子にのってひどいこと書く人がいますよ」と温かい警告をしてくださる方々が何人もいらっしゃいました。
とてもうれしかったです。そうやって気遣ってくれることが……。

今年のコメントの特徴は「目を背けたくなるコメントが多かった」ことだという。

それは私に関するコメントというより、私が取り上げた事象に関するコメントで
「なんでこんなに苛立っているのだろう?」
「なんでこんなに安全地帯から石を投げるのだろう?」
と、息苦しくなるものが確実に増えた。
「恐い」と思ったし、
「ここに書いてスッキリしてくれるなら、それでいい」とまで思うようになった。

彼女が感じるのは社会に蔓延する「不寛容」だ。「自分より優遇される人への不満、弱者や少数派への排除や断絶を感じさせる“正義”の主張」として表現される「不寛容」なのだ。

だが、そのような不寛容さが、さまざまな場面で実際に人に接すると感じられないという。

みな優しいし、みな人を思いやる温かい気持ちをもっていて、異なる価値観や意見が雪解けする。

彼女は次のように結論している。

「不寛容」は社会に宿るのであって、「個人」に宿っているわけではないことを身をもって痛感させられたのが、2017年だったのである。

良い言葉だと思うが、ではそれをどのようにして防ぐのかが問題となる。長くなるので、続きは明日としたい。

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