阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年10月

先日、実行機能について確認しようとウェブで検索して「脳科学辞典」(http://bsd.neuroinf.jp/)の存在を知った。脳科学辞典は、脳科学分野の用語を解説し、無償で公開するサイトである。脳科学と一口に言っても、そのカバーする範囲は広く、認知科学、生物学・医学(解剖、生理、発生、病気)、情報科学(システム、回路、情報技術)など多岐にわたる。現在約1,000項目を解説しているとのことだが、今後ますます増えていくだろう。科学者の社会貢献として、すばらしい事業だと思う。

脳科学辞典は有志による編集委員会がニューロインフォマティックス日本ノードの支援を受けて始めたが、更なる発展を目指して2015年2月に日本神経科学学会の事業として位置づけられた。脳科学辞典編集委員会は日本神経科学学会の常設委員会となり、同学会理事会の監督下にある。

各記事については執筆者と担当編集委員が明記されており、査読を経て公開されている。非常な労作である。

知りたいことがあれば、インターネットで検索するとすぐ知識が得られて便利だと言われるが、それは知識を公開している人がいるからだ。だから、あまり一般的でない事項については情報が少なく、多くの情報が掲載されている項目でも不確実な伝聞情報や根拠のない風説が掲載されている場合がある。

そのような中で、専門家によるこのような辞典が公開されていることは非常にありがたい。欲を言えば、同義語がどのように使い分けられているのか、どの同義語が優勢であるのかについての情報が欲しかった。たとえばprefrontal cortexという領域が脳の前頭葉にある。日本語では前頭前野、前頭前皮質などと呼ばれるが、どちらを使えばいいのかいつも悩む。認知科学領域の研究者や医師は「前頭前野」を好み、解剖学者など基礎系の人びとは「前頭前皮質」を使うことが多いように感じるが、はっきりしない(強いて言えば「野」は機能に注目した見方で「皮質」は解剖学的な範囲と言えるかもしれない)。私たちがどの語を使うのがもっとも「無難」であるのかの指針があると非常に嬉しい。

用語の統一の問題は非常に難しい。たとえば衝動性眼球運動(saccade)は、臨床系では「サッケード」という言い方がほぼ定着しているが、基礎系では「サッカード」という言い方が優勢だ。同じ医学というフィールドでも、このようにまちまちである(ちなみに欧米人は綴りさえ合っていれば読み方にはこだわらないようだ)。

この辞書が、各分野での用語の統一の一助になることを期待したい。

私の人生は苦しみに満ちたものではない。私自身が直接味わっている苦しみは、肉体的なものと精神的なものとを併せても、少ないと言える。だが、私の暮らすこの世界は苦しみに満ちている。この世界は多くの苦しみとわずかな幸せによって成り立っていると言って良い。

この世界の苦しみに対し同時代に生きる者としての責任がある、と私は感じている。また私は自分の苦しみが少ないことに罪悪感を感じることすらある。この本の邦題『他者の苦しみへの責任』は、そのようなことを意識させる題名だった。

クラインマンらは「苦しむ人々・衝撃的な映像」の中で、次のように書いている。

見るべきものはあまりにも多く、なすべきことは限りなくある。こうしてわれわれの時代に蔓延している意識 — われわれは複雑な問題を理解することも解決することもできないという意識 — は、苦しみの映像の大規模なグローバル化とともに、精神的疲労、共感の枯渇、政治的絶望を生みだしているのである、(12ページ)

確かに若い頃の私は戦うしかないと思っていた。戦い続けるしかない。その戦い方も直接的な、戦闘的な戦い方であった。だが最近は違う。戦い続けるしかないのだが、その戦い方はもっと地味で、間接的である。戦うというより「在る」、戦い続けるというより「在り続ける」と言ったほうがふさわしいような戦い方になった。流れをせき止めようと力を入れるのではなく、流れに抗して立っていようとするとでも表現すればいいのだろうか。

どうしてそのように変化したのかは、自分ではわからない。年齢的なものか、クラインマンが言うように精神的疲労や絶望なのか、あるいは戦略や戦術の変化なのか。

私は利益の得られない戦いは無意味であると考える。相手を従わせることができない論争が無意味であるのと同じことだ。戦いのための戦いや論争のための論争は、時間と資源の浪費である。直接的な戦いは自分にも他人にもわかりやすく、「戦った」という既成事実を明らかに残すため満足度も高い。だが、何のために戦うのかという戦いの目的を考えた場合、私の場合は目的が達成されなかった。

私は現在の私の在り方に納得し満足しているわけではない。何か他の道はないのかとつねにもがいている。その意味では過去の私と現在の私ははっきりと繋がっている。

著者は「許容される苦痛」がありうると論じ、次のように書いている。

苦痛は、西洋の近代社会では、必ずしも許しがたいものではない。戦争、スポーツ、心理実験では — 性的快楽の場合と同様 — 肉体的苦痛を与えることが積極的におこなわれ、法的にも許されている。そのことは矛盾を生みだし、議論を生じさせている。(236ページ)

さらに、拷問とは「他人に与える苦痛が残虐で非人間的なものである場合」であると定義すれば、何が残虐で非人間的であるかは、政府が恣意的に決められるものとなる。たとえば、イスラエル政府は拷問を非難する一方で「自白を引きだし情報を得るためには「適度な肉体的・心理的プレッシャー」をかけることを認めている(237ページ)」という。もっとも、拷問を非難する政府であっても密かに拷問をおこなう政府は存在し、さらに政府は「拷問」という呼称を避けようとしていると著者は述べている。

精神的な苦痛に関しては「理論的には、自分たちの信念を捨てて、欧米人の考える完全に人間的なあり方を強要された社会の人々があじわう苦悩や精神的苦しみ」も拷問に分類されるはずであるのに、「一種の相対主義」がそれを妨げているという。

苦悩は、行動の指針となる信念の絶対的な正しさを信じることによって、生じるからである。それに対して、近代の「懐疑主義スケプティシズム」は、強い信念をもつことを、他人にとって危険な、本人にとっては苦痛をもたらすものであり、「非文化的」なものであるとみなす。信念は、生き方と直接の結びつきをもってはならないし、柔軟にいつでも変更できるものでなければならないのである。(238ページ)

この著者の考えが一般的なものであるのかどうかは知らないが、少なくとも私にはあまりなじみのない考えだった。おそらく著者は、世界人権宣言の基準に従えば被統治者が味わう苦悩も拷問の範囲に含められるべきであるのに、宣言を作成した欧米の価値観が優先されるため、その苦悩は拷問から除外されてしまうと言いたいのだろう。

戦争における(戦闘員、非戦闘員の)苦痛、サドマゾヒズムやアートにおける苦痛など、この論文では多種多様な苦痛が取り上げられており、読んでいて面白い、非常に興味深い論文なのだが、著者の価値観がどこにあるのか、著者は何を訴えたいのかが非常にわかりにくい論文だった。

拷問の禁止や廃止について、18世紀に盛んに議論がおこなわれ、ジェレミー・ベンサムは「刑罰の名において与えられる苦しみよりも、拷問の苦痛のほうが正当化できる場合がある(230ページ)」と結論していたそうだ。

最悪の場合でも拷問台に一度かけられれば(したがって拷問台にかけられることが分かるだけでほとんど必ず)すぐに答えたであろう質問に1、2ヵ月収監されていた後でやっと答えるのは、ちょうど、一瞬の痛みに耐えれば治ったはずの歯痛を1ヵ月抱えているのに似ている。(231ページ)

これはあくまでも対象者が答えを知っていることを仮定しての議論だ。ベンサムのことだから、特定の条件が満たされねばならないことを考慮の上の文章だろうと思うが、このような意見が公にされていたことは興味深い。著者は「投獄されることと鞭打たれることは質的にまったく違うものであるにも拘わらず、長期にわたる収監(独房監禁を含む)を「人道的な」刑罰とし、鞭打ちの刑を「非人間的」なものとするのは、まさに、苦しみを比較できるという考えからきている(231ページ)」としている。確かにそのとおりで、質の違う苦しみを比較することはできない。さらに言えば私の苦しみとあなたの苦しみを比較することもできない。しかし、現代の社会制度は、その比較できないものを強引に比較してしまうこと(たとえば苦痛を金銭に置き換えること)で成り立っているのではないだろうか。著者も次のように述べている。

功利主義の「快楽計算」が、現代の思想や実践の通文化的評価にとって重要なものになったことは、容易に理解できる。そして、その「快楽計算」の考え方は、本来、一律には測れないはずのものの、比較・考量を促していることになった。(232ページ)

また著者は、欧州諸国の植民地支配は「人間性に背く習慣や行為を廃止させた(232ページ)」としつつも、以下のように述べている。

しかし私は、ヨーロッパ人統治者が残虐だと考える習慣を非合法化しようとしたときに彼らの念頭にあったのは、現地人の苦しみではなく、自分たちが文明国の正義と博愛の基準と考えるものを被統治国の人々に課すこと — すなわち新しい国民サブジェクトを生みだすこと — だったと考えている。(233ページ)

残虐だと烙印を押された「非文化的な」慣習を捨てねばならない非統治者たちの苦悩は「人間らしくなるために必要な苦しみ」「無駄な苦しみではなく、目的を果たすための苦しみ」とされた。この本ではインドにおける鉤吊りの儀式が例として挙げられている。どのような儀式なのかはわからなかったが、体に鉤を引っ掛けるヒンズー教の苦行らしい。著者は次のように述べる。

パフォーマンスをおこなう本人が、痛みは感じないのだと断言していることは、この際、関係ない。これは宗教儀式なのだという抗弁も、同じである。このような「これは普通とは違うのだ」という主張は、受け入れがたい。質的に異なる種類の行為を「特殊なもの」として一括りにするのは、人間とは何かということにかんする特定の考えを冒瀆するものである。(235ページ)

著者がこのような宗教儀式を良くないと考える根拠はどこにあるのかが、私にはわからなかった。

最後の論文「拷問 — 非人間的・屈辱的な残虐行為」の著者タラル・アサドはニューヨーク市立大学人類学教授である。

本稿は、現代における残虐性(cruelty) — とくに「世界人権宣言」に示されているもの — にかんする考察である。(221ページ)

としているとおり、世界人権宣言を中心に考察している。

「世界人権宣言」第5条は、「いかなる人間に対しても、拷問 — もしくは残虐な、非人間的な、あるいは屈辱的な扱いや刑罰 — を与えてはならない」と規定している。(221ページ)

つまり、ここで「拷問」としてくくられているのは「torture(直接的な苦痛を与えたり、傷を負わせたりすること)」だけではなく、広く屈辱的な扱いも含まれている。著者はこの広い意味での「拷問」に対し、痛みや苦しみを道徳的・法的に判断する際に歴史的・文化的要因がかかわってくることや、苦しみを除こうとする努力が個人の選択権や国益の維持と衝突する場合があることなどを考察している。

彼は残虐行為の存在を否定するつもりはないが、「それをめぐって生み出された普遍的な言説に呈して懐疑的(222ページ)」であると述べている。苦しみへの対応がより個別的になっており、そこに歴史的・文化的要因がかかわるのに、通文化的・普遍的な言説が成り立つのだろうかという、きわめて理論的な懐疑である。

著者はイランの政治学者ダリウス・レージャリーの著書『拷問と近代性』について詳しく論じている。彼は、拷問は近代国家にとって不可欠なものであるとしているそうだ。私はイランについて、国家による拷問が頻繁におこなわれている国という印象を持っている。その印象からすると、彼の議論はなるほどイランの政治学者らしい意見だということになる。

ずいぶん以前におそらく「Newsweek」誌で読んだのだと思うが、イランの秘密警察による拷問を非難する記事を読んだのを覚えている。医師の拷問への関わりを問題視する記事だったかもしれない。腰の高さまで水を張った地下室に閉じ込めて眠らせない拷問のこと、効率的な拷問を医師がアドバイスしたり、心電図などをモニタしながら死なないように監視しつつ拷問をする話などが載っていた。一部の拷問は、自白させるなどの目的があいまいで、とりあえず何かを引き出せればしめたものというような態度でおこなわれていた。

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