阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年08月

裁判員制度についても数々の問題点が指摘されている。詳細な指摘があるが、概略だけ挙げれば次のような点だ(151ページから154ページ)。
  1. 重大事件すべてに裁判員裁判をおこなう必要はない — 制度の趣旨からすれば、重大事案に限らず「否認事件全部」に対する選択制の制度とすべきだ。
  2. 合議体に3人もの裁判官が入る必要はない — 市民を本当に信頼しているのなら1人の裁判官でよい。
  3. 裁判員に課せられている守秘義務の範囲が広すぎ、また、違反した場合の刑罰が重すぎる — 都合の悪い内部事情を隠したかったからともとれる。守秘義務の対象は評議における意見の具体的な発言者氏名や個人のプライバシーに限定すべき。

重大な刑事事件では、残酷な証拠写真が提出されることがあり、瀬木自身も写真を見た後数日間、写真の映像が頭に浮かんで悩まされたことがあるという。一般市民にトラウマを負わせる危険を冒してまで運用すべき制度ではないだろう。民事訴訟でも庶民の知恵が活かせる事案はあるし、逆に民事訴訟から学ぶことも多い。被告人が裁判員裁判を選択できる選択制とし、被告人が原告の主張を否認している事案に限って導入するというのは、理にかなった考え方だと思う。

重大犯罪だけでなくすべての犯罪について被告人に[裁判官が裁くか陪審員が裁くかの]選択権を与える陪審制(有罪無罪の判断は陪審員だけで行う)に移行させ、また、陪審員に法律面の説明を行う裁判官は一人だけとし、その説明も、市民が監視できる公開の法廷で行わせるという方向(陪審審理を原則とする点を除き、基本的にアメリカの陪審制と同一の方向)が適切であると考える。(155ページ)

このようなきちっとした提言は貴重であると思う。一度スタートした制度は、なかなか変えることができないが、裁判員制度が発展的に解消されて陪審制になることを期待する。裁判所がもっとも抵抗するであろうと想像されるが、弁護士の大勢の意見が一致すれば国会を動かすこともできるだろう。

司法制度改革についても非常に興味深い指摘があった。

裁判所当局は、司法制度改革の動きを無効化するのみならず、それを逆手にとって悪用し、その結果、裁判所と裁判官集団は、今世紀に入ってから、徐々に、しかし目にみえて悪くなっていった。ことに平均的な裁判官、中間層のあり方がなし崩に変化、悪化していったことは、私にとって大きなショックだった。(38ページ)

司法制度改革の目玉である裁判員制度について言えば、悪用とは具体的には次のようなことである。

[裁判員制度導入の]実質的な目的は、トップの刑事系裁判官たちが、民事系に対して長らく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権をも掌握しようと考えたことにある(67ページ)

これは「表立っては口にされない『公然の秘密』」だという。実際に刑事系の地位向上には目をみはる成果があった。ただし、この目論見に対し、多数派で力も強い民事系の裁判官がどのように抵抗したのか、あるいはしなかったのかについてはこの本には記述がない。なお、刑事系がなぜ劣勢であったかは、日本の刑事司法問題を把握するうえで重要なことなのであるが、ここでは触れないでおく。

彼は現在の裁判官たちが精神的奴隷状態であり、裁判所はまるでソルジェニーツィンの描く『収容所群島』のようだと述べている(110ページ)。私は彼の説明を読んでパノプティコン(ベンサムのではなくフーコーの)を想ったが、いずれにせよ良いものではない。

彼が司法制度改革でもっとも実現すべきとするのが法曹一元化である。これは、弁護士(法曹)経験者から裁判官や検察官を任用する制度の導入である。

裁判官は、少なくともたとえば10年ないし15年以上の経験を有する弁護士、あるいは学者から採用することとし(アメリカの州最高裁や連邦裁判所の裁判官には、学者から〔一時的に〕登用される人がある程度いた)、場合によっては、より広く、弁護士や学者以外の法律のエキスパートの中からも、一定の試験による選別を経た上での登用を考えてもよいのではないだろうか。(224ページ)

人を裁くというのは、社会経験の少ない若い人には難しいことも多いだろう。司法修習を修了した若者を最初から裁判官として養成するのではなく、弁護士としての経験を必須とするのは、非常に良いことだろうと思う。

瀬木は30年あまり裁判官を勤め、しかもかなりの地位にいたので、裁判所の内部をよく知っている。彼は自分を学者タイプと分類しているが、裁判所の社会に馴染めず、ストレス性の病気なども発症した上で最終的に退官した。だが、この本に彼が書いていることは恨み節でも、負け犬の遠吠えでもない。学者(法律の専門家)から見た、裁判所組織の分析である。

裁判所、裁判官批判の書物はこれまでにかなりの数書かれてきたが、左派、左翼の立場から書かれたものやもっぱら文献に頼った学者の分析が大半で、裁判所と裁判官が抱えているさまざまな問題を総合的、多角的、重層的に論じたものはほとんどない。本書においては、そのような事実を踏まえ、できる限り広い視野から、根源的かつ構造的な分析と考察を行うように努めた。(8ページから9ページ「はしがき」)

彼のこの言葉はこの本の性格をよく表している。彼の意図は成功したと言って良いだろう。

裁判所は、特に2000年以降、「役所化」し、係争を裁くのではなく「処理」するようになってしまったと瀬木は嘆く。処理を迅速化するため、裁判前に法務省と裁判所で事前の打ち合わせをしてしまうことまでがおこなわれる。これは「一種の事前談合行為」であり「裁判の自殺」であると瀬木は断じている(23ページ)。

彼は「良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない(50ページ)」としているが、新藤宗幸『司法官僚』(岩波新書)でも指摘されていたように、もっとも問題が大きいのが最高裁判所の事務総局による人事支配である(瀬木は「人事による統制」と言うが、「支配」のほうがふさわしいだろう)。この本でも数々のパワハラ、セクハラ、情実人事事例が紹介されているが、そのようなことの横行が持続する根本原因が事務総局による支配であると言える。まず何より、裁判官の評価が能力によってなされるのではなく、いかに上司の命令に従うかによってなされていることが問題だ。組織の体質は事務総局を解体したとしてもすぐに変わるものではないのは明らかだが、少なくとも現在のような事務総局支配体制が続くかぎり、組織の腐敗は変わらないだろう。

さらに問題を大きくしているのが、事務総局の権力寄りの姿勢である。本来、司法は立法や行政を監視するべき立場にあるが、現在の裁判所は行政が円滑に行われることに腐心し、立法府には遠慮して異議を申し立てない。そのような裁判所のあり方を統率しているのが事務総局である。彼は次のような「ある学者のコメント」を紹介している。

「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について、数年のうちにリベラルな人々が何となく姿を消していき、全体としてみるみるうちに腐っていったという話を聞きます。国レヴェルでもそうなのですから、裁判所という組織が全体として腐っていくのは、よりありうることだろうと思います」(51ページから52ページ)

瀬木は自分自身を自由主義者と規定しているが、裁判所は左派の裁判官を追い出しただけでは安心せず、自分の考えを述べる自由主義者の瀬木まで排除しようとした。瀬木は自ら退官したのだが、排除されたに等しい。

人事権を掌握していれば異分子の排除は容易である。しかし、組織は劣化する。組織の活性化のために多様な考えを持つものを入れようとしても、それは容易ではない。

瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書)を読了した。瀬木は1979年以降裁判官として東京地裁や最高裁に勤務し、2012年に退官して明治大学法科大学院教授となった。

ある分野に関心を持つと、その分野に関することを頻繁に目にしたり経験したりするようになる。たとえば自動車を買おうとしてある車種に関心を持つと、街中でその車種を見かけることが多くなるような気がする。心理的バイアスの一種である。同様のことが、犯罪などにも言え、「外国人の犯罪が多発」「若年者の犯罪が凶悪化」などの記事を読むと、その後外国人の犯罪が目につきやすくなったり、若年者の凶悪犯罪に気付くことが多くなる。実際は変化したわけではないのに、気が付きやすくなったために多くなったと感じるので、バイアスなのだ。

同様のことが私にも起こっている可能性があるのは承知している。虐待の問題、行政の不正・怠慢、司法の劣化、マスコミの害などに関心を持っているので、そのような本やウェブページが目につきやすい。しかしながら、それがそのままバイアスであるとは思わない。なぜならいずれの問題も、このブログを始めるずっと以前から気付き、注目し、立腹していたことであり、客観的な資料を集めてきたことだからである。日本裁判官ネットワークが『希望の裁判所』という本を出版していることを知っているし、私の知人の裁判官は非常に良い仕事をしていると漏れ聞いている。しかし、一部の裁判官の働きと、司法全体の劣化は別問題だ。私は司法に関しては、いつ医療紛争の当事者になるかわからない立場におり、医療分野でまったく常識や実情からかけ離れた判決が数々出されている現状をいつも警戒している。

日本の刑事司法が抱える問題に警察の留置場の問題があるのは有名である。長期間留置され、長時間の取り調べを受ける。弁護士の接見も制限される。「電車内で痴漢を疑われたらまず逃げること」が教訓として広まり、実際に男性が線路を逃げたために電車が遅れたり、死亡した事件もある(たとえばhttps://mainichi.jp/articles/20170418/k00/00e/040/188000c)。 沖縄平和運動センターの山城博治議長が基地建設反対運動中に逮捕され、微罪にもかかわらず5か月間にわたり勾留されたことは記憶に新しい。このような状態が日米地位協定改定の足枷になっていることもこのブログで取り挙げた。 

このような事態になっている背景には、国が国家を統治していく際に極端に失敗を恐れていることがあると思う。行政・司法・国会のいずれもが、失敗を指摘され責任を追求されることを極端に恐れている。そのため「民は之に由(よ)らしむべし」といったパターナリズム(父権的干渉主義)がはびこるのだ。

そもそも、日本の三権分立は形骸化している。政府と国会は一体に近く、その立ち位置の違いはわかりづらい。さらに裁判所は政府の意向を思いやり、先取りして動いている。思いやりは日本人の美徳とされ、社会に根付いているが、その思いやりは「忖度(そんたく)」と同じものだ。日本の社会が理論や議論で動かず、空気と忖度で動いているために、本来なら分権して相互監視すべき統治機構が一体化してしまっているのだと思う。

本題とは外れるが、2つの態度が交替して現れる現象は、かなり広く見られるものではないだろうか。別の言い方をすると、誰でも二重人格的な要素を持っているのではないかと思った。

たとえば、子どものときに自分を慕ってきた妹や弟をいじめたくなるという話はよく聞く。マンガのエピソードとして登場することもある。また、友人や恋人が無邪気に喜んでいるときに、ふとからかってみたくなったり、意地の悪いコメントをしたりしたくなることもよくあることだ。私も、夫婦仲がうまくいっているときにかぎって失言をして配偶者を怒らせる傾向があることに最近気付いた。

人と付き合うには、どんなに仲のいい人とであっても、ある程度の妥協や我慢が必要だ。そのようなわずかなストレスが徐々に蓄積して、ある時点で行動を変えさせるのではないかと思う。芽衣は結婚直後、優等生的な妻であり母であって、幸せな家庭を築いていた。だが、彼女は幸せが続くことが不安になり、その不安に耐えきれず自分から幸せを壊してしまったのではないかとも思う。

この本を含め、幼児虐待の本を読んで思ったのが、性労働に関する反感の日本社会での少なさだ。いわゆる風俗産業で性が商品化されていることが公然の事実となっている。売春という言葉こそ使われていないが、実質的にはまさに売春である。

昔、偶然にスポーツ新聞の記事を目にして、驚いたことがある。店での性交についての評価や対価があけすけに書いてあった。そのような新聞が堂々と売られているのだ。その後、知人の家がスポーツ新聞を購読していると聞きびっくりしたのだが、宅配版には卑猥な記事は掲載されていないのだと知って、納得した。

2000年頃から、性労働への拒否感が一段と低くなったそうだ。元業界紙記者の言葉が紹介されている。

「さらにハードルが下がったのは、格差社会に入ってからですね。派遣で一、二年仕事をしていた女の子たちが、職業選択の一つとしてこの業界に入ってくる。派遣であれ、風俗であれ、今の二十代、三十代の子は、自分が商品として扱われることに慣れています」(236ページ)

住宅街に隣接した繁華街に風俗店があって看板を出したり客引きをしているのも珍しくないし、子どもも利用するコンビニでもポルノ雑誌をディスプレーして販売している。こういったことに多くの人が無頓着だ。

実はこのようなことが、慰安婦問題を複雑にしている面もあるのではないかと思う。日本では性差別や性の商品化が日常のこととされ、問題視される程度が低いのではないか。特に「本音」と「建前」というダブルスタンダードがあるのは当然とする日本文化では、外国で問題視される性の問題が、「本音」では許されると判断されているのではないか。そこに外国との差が生じるのではないかと思うのだ。

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