阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年05月

雑誌「MMJ」(毎日メディカルジャーナル)に連載されている松村由利子の「からだの歌こころの歌」から、2017年4月号に掲載された59回「高齢者の食」について書きたい。この連載は、歌人の松村由利子が病気や医療に関連する短歌をエッセイ風に紹介するもので、毎回楽しみに読んでいる。今回のテーマ「高齢者の食」ではとりわけ心に響く歌が多かった。

出来たことが出来なくなつてゆくことに
    逆らひながら日々を生きをり

大盛を食べてゐたのに並を残す    
    加齢とはかういふことでもある
牛尾誠三

松村が言うように、牛尾は食べ残した食事を見つめ、ため息とともに自分が年老いたことを実感し、認めたのだろう。すでに老眼、顔のシワやシミなどに気づいていただろう。新たな「加齢」徴候の発見は、彼に追い討ちをかけつつ現実を認めることをさらに迫る。逆らいたいと思う。目の前にある丼を意地でも食べ切りたいと思うが、体が食べきることを許さない。彼の体が、彼の心に、現実を受け入れよと主張する。

何が食ひたい言はれで答容易ならず 
    食ひたいと思ふ物がないのだ
土屋文明

この歌は土屋が94歳のときに刊行された歌集に収められたもので、彼は100歳まで生きたという。何か食べたいものは無いかと聞いてくれる人がいた。それは敬老の日を控えた孫たちかもしれないし、土屋の食が細いことを雑談の話題にした介護施設の職員かもしれない。少なくとも土屋は孤独ではなく、彼の意向を問うてくれる人がいる。

そして土屋は戸惑いの表情を浮かべるか、あるいはしかめ面をして、答えることができない。食べなければ命を維持することができないことはわかっており、空腹も感じることは感じる。ただ「これが食べたい」という具体的な「食欲」は湧かない。この光景はおかしくもあり、切なくもある。

土屋は食べたいと思うものがなくても差し出されたものを食べつつ、100歳まで生きたのだろう。

身体拘束の公式な定義は、1988年4月8日厚生省告示第129号(http://wwwhourei.mhlw.go.jp/cgi-bin/t_docframe.cgi?MODE=hourei&DMODE=CONTENTS&SMODE=NORMAL&KEYWORD=&EFSNO=2019)であるとされることが多い。

二 身体的拘束(衣類又は綿入り帯等を使用して、一時的に当該患者の身体を拘束し、その運動を抑制する行動の制限をいう。)

だがこれは告示の冒頭にあるように「精神保健法(昭和25年法律第123号)第36条第3項の規定に基づき、厚生大臣が定める行動の制限」を定義するもので、一般的な抑制を定義するものではない。そして、精神保健法(現在では名称が変更されて「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」となっており、略称は「精神保健福祉法」、http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO123.html)は精神科病院(病院の精神科も含む)について定めたものである。第36条を引用する。

第36条 精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療又は保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる。
2[略]
3 第一項の規定による行動の制限のうち、厚生労働大臣があらかじめ社会保障審議会の意見を聴いて定める患者の隔離その他の行動の制限は、指定医が必要と認める場合でなければ行うことができない。

つまり、ここで定める「身体的拘束」は精神科病院(あるいは病院の精神科病棟)で精神保健指定医が必要と認めたときだけにおこなえるものだ。一般の病院・病棟についてはこのような規定がなく、厚生労働省が2001年3月に公表した「身体拘束ゼロへの手引き」(複数の掲載があり、たとえばhttp://www.dochoju.jp/soudan/pdf/zerohenotebiki.pdf)で例示されている以下の11項目を援用することが多い。

参考:身体拘束禁止の対象となる具体的な行為
介護保険指定基準において禁止の対象となっている行為は、「身体的拘束その他入所者(利用者)の行動を制限する行為」である。具体的には次のような行為があげられる。
  1. 徘徊しないように車椅子や椅子、ベッドに体幹や四肢をひも等で縛る。
  2. 転落しないように、ベッドに体幹や四肢をひも等で縛る。
  3. 自分で降りられないように、ベッドを柵(サイドレール)で囲む。
  4. 点滴、経管栄養等のチューブを抜かないように、四肢をひも等で縛る。
  5. 点滴、経管栄養等のチューブを抜かないように、または皮膚をかきむしらないように、手指の機能を制限するミトン型の手袋等をつける。
  6. 車椅子や椅子からずり落ちたり、立ち上がったりしないように、Y 字型抑制帯や腰ベルト、車椅子テーブルをつける。
  7. 立ち上がる能力のある人の立ち上がりを妨げるような椅子を使用する。
  8. 脱衣やおむつはずしを制限するために、介護衣(つなぎ服)を着せる。
  9. 他人への迷惑行為を防ぐために、ベッドなどに体幹や四肢をひも等で縛る。
  10. 行動を落ち着かせるために、向精神薬を過剰に服用させる。
  11. 自分の意思で開けることのできない居室等に隔離する。
(7ページ)

これはあくまでも例示であるが、このような行動制限は病院ではごく普通に見られるものだ。介護施設は生活する施設であるから、そこでの行動制限は人権侵害の度合いも高い。拘束がいったん始まるとずっと続いてしまう可能性があり、虐待に近い。それに対し、病院は治療のために一時的に滞在する施設であるから、治療のため緊急避難的に行動を制限することが許されるのだろう。

日本医療機能評価機構の病院機能評価(https://www.jq-hyouka.jcqhc.or.jp/accreditation/)では、一般の病院でおこなわれている行動制限は身体拘束ではないとして、「身体抑制」という用語を推奨している(病院機能評価 機能種別版評価項目 一般病院2<3rdG:Ver.1.1>の2.2.18、https://www.jq-hyouka.jcqhc.or.jp/wp-content/uploads/2016/09/ippan2_v1.1.pdf)。

余談になるが、医療事故についても定義が曖昧になっている。以前は病院で提供される医療に関連して起こった予想外の事故を、患者の生死には関わらず医療事故と言っていた。ところが2015年10月1日に施行された医療法の改正(成立は2014年6月18日)により、医療事故は「提供された医療による予期しなかった死亡」と定義され、医療事故調査制度による調査の対象となった。患者が死亡しなかった事案は医療事故の定義から外されたのだ。そこで患者が死亡した場合は「医療法の定義に基づく医療事故」、死亡しなかった場合は「死亡を伴わないいわゆる医療事故」などと呼び分けるしかなくなった。患者が死亡しなかった事故についての呼称は、まだ定まったものがない。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」で2017年5月17日にVol.104として配信された坂本諒「拘束しなければ高額の賠償請求も、あまりに足りない看護師・介護士」について書きたい。記事には「この原稿はJB PRESS(4月12日配信)からの転載です」とあるが、元記事は有料会員限定の記事であるため、無料で閲覧できるMRICの記事(http://medg.jp/mt/?p=7545)を参照した。坂本は精神医療センターに勤務した経験を持つ看護師だ。

病院の患者が、認知症などのために治療や安静の必要が理解できず、点滴や栄養チューブを抜いてしまったり、ベッドから転落してしまったりする場合には、ベルトなどの器具を使用して患者の体(腕、脚、胴体など)をベッドに固定する場合がある。これを身体拘束あるいは身体抑制と呼ぶ。もう少し一般的なニュアンスを伴う言葉として「行動制限」を使うこともある。だが実はこれらの言葉の定義はきちんとしたものがない。このことについては後日取り上げることとする。

坂本の挙げる例は典型的なものだろう。

患者は、誤嚥性肺炎を繰り返し、そのたびに絶食し、補液や抗生剤を投与していた。しかし、患者は、認知機能の低下によって点滴の必要性を理解できず、自分で管を抜いてしまいそうになることがあった。 [中略]
加えて、サクション(肺炎によって喉元に溜まった痰を管で吸引すること)の必要性を理解することが困難で、暴力で抵抗していた。 
また、歩行が困難な状態であるが、1人でベッドから降りようとするため、家族の了承を得て、拘束(抑制帯で縛ること)をしていた。

ベッドに拘束すれば、当然のことながら患者は寝たきりとなる。この患者は身体機能が低下し、関節の拘縮(固くなり動かなくなること)が進んだ。当初は自力で食事を食べられていたが、それも難しくなったという。では拘束せずに見守ればいいかというと、万が一患者が怪我をすれば家族から訴えられる恐れがある。

負傷における訴訟では、グループホームに入所中の79歳の認知症患者が、1人で椅子から立ち上がり、転倒・骨折した事例がある。入院費用や傷害慰謝料など、400万円の支払いが事業者に命じられた。 
死亡における訴訟では、ショートステイをしている81歳の認知症患者が、夜間に1人でベッドから立ち上がって転倒し、急性硬膜下出血で死亡した事例がある。 
死亡事故という重大事故であったこと、また認知症があるため、指示を従わないことによる患者側の責任はないと判断されたことから、3402万円の損害賠償責任が認められた。 

事故を防ぐには職員を増やして手厚く見守るしかないが、現在の介護・診療報酬ではそんなに多数の職員を配置できない。そもそも看護師、介護士が「圧倒的に足りない」というのが坂本の主張だ。坂本は「グローバル化に適応して移民を受け入れ、超高齢社会における圧倒的な看護師不足を補う方が賢明ではないか」というが、それが現実的な方法だろう。だが、私個人について言えば、別の解決策を考えている。私は絶対に拘束されたくない。拘束されるくらいなら、治療を受けたくない。入院しないというのが私の個人的対策だ。

ウェブマガジン「日経ビジネスオンライン」で2017年5月16日に配信された河合薫「ブラック企業リストに覚えた新たな怒り」(http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/051500104/)について書きたい。

厚生労働省が、労働基準法令に違反したとしてこの半年間に書類送検した全国334件の社名を、2017年5月10日にホームページに掲載した(http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/dl/170510-01.pdf)。そのリストを見て、河合は不安に駆られたという。

334件の中には、高橋まつりさんが過労自殺した「電通」の社名もあったが、明らかに「下請け」と思しき企業名がわんさか載っているではないか! というかおそらくほとんどが、体力のない下請け企業であることは間違いない。HPが存在しない企業も多く、愛知、大阪、福岡などに集中しているのも気になった。
つまり、
「発注元はどこ? 買いたたかれて無理したのでは?? 支払いされてる??? ここに掲載されたことがきっかけで、つぶれちゃう企業もあるのでは????」

河合も「もちろんいかなる理由であれ、違法は違法だ」と述べ、これらの企業を許そうと思っているわけではない。しかし、河合が懸念するように、これらの企業が元請けからの無理強いにより違法な長時間労働に走っていたのだとすれば、「もっと構造的な問題まで切り込まないと。これでは末端の業者叩きでしかなく、違う意味での新たな“犠牲者”を生み出すことになりかねない」ということなのだ。

彼女はこの記事で、「業務委託」による労働環境の悪化、「買いたたき」の問題など、下請け制度にまつわる数々の問題を指摘している。そして、次のように主張する。

企業単位で叩くのは、タテマエでしかない。企業と企業がつながるピラミッド型で産業構造が成り立っている以上、その“つなぎ”を明かにしなくては本質的な解決にはならない。

だが、彼女が指摘しているのはこれだけではない。

24時間営業や迅速な配達など、私たちが「これは便利だ」と感じるところには、ほとんど例外なく、ブラック企業を生む構造が潜んでいる、といっても過言ではない。

ブラック企業を作っているのは、結局私たちの社会だ。私たちの社会の要求に応じる形でブラック企業が生まれていく。夜間照明や爽快な空調が電力消費を押し上げ、原発必要論を後押しするようなものだ。私たちの暮らし自体を見直し、価値観の転換を図らなければ、現在の労働環境問題、経済格差問題は解消に向かわない。

私の勤務先の「障害者用」トイレはドアの開閉や水洗のためのスイッチが大きなボタンになっている。それはそれで良いことなのだが、車椅子使用者と手などに麻痺がある人を「障害者」としてひとくくりにしているようで気になる。エレベータのボタンにはすべて点字がついているように、すべてのスイッチを大きくすることが正しい対処なのだろう。

石﨑は夫とともに「障害者の生きがいづくりに関する講演会」に参加したときの経験を次のように書いている。

市の障害福祉部による最初の演題「障害者差別解消法~障害のある人もない人も共に生きる社会をめざして」の途中で二人とも気分が悪くなって退席してしまいました。

演者は「障害者差別解消法が制定されたので、レストラン等で拒否された等の不当な扱いをされた場合、相談にのる」ことを説明したのだが、彼女らはそれを「ナンセンス」だと感じた。問題はレストランに入れないことではなく、もっと日常生活レベルのことなのだ。

さらに、ほとんどのレストランの方々は最大限の配慮をしてくださいます。3段ほどの段差であれば、車いすを担ごうとしてくださる方もいます。私たちがお店に入れない場合というのは、拒否や不当な扱いを受けているのではなく、階段があったり、トイレが和式であったりという環境的な問題です。

障害者の外出を阻む環境的要素は多い。石﨑の挙げたドアの開閉もそうだが、たとえば人工肛門の人なら汚物の処理が可能なトイレがある場所を確保しなければ外出ができない。ここからわかることは、障害が個別的なものだということだ。このブログでも「障害者」という言葉を使ったが、実は「障害者」という人びとがいるわけではない。さまざまな種類の、さまざまな程度の不便をかかえた個々人がおり、その不便は特定の社会的条件によって生ずるのであって、別の条件であれば不便にならないものなのだ。段差があるから車椅子では不便なのだし、避難放送など音声のみで通知しようとするから聴覚障害があると不利なのだ。

解消すべきは「差別」ではなく「不便」であると考えるほうがいいかもしれない。

↑このページのトップヘ