田中牧郎の記事で最後に詳しく解説されているのは「奇形」という言葉の扱いだ。2016年6月16日に開催された日本医学会主催のシンポジウム「医学用語を考える—医療者・市民双方の視点から」で取り上げられたという。
[医学用語の中でも]特に問題が大きい用語として、「奇形」を指摘し、この用語が患者やその家族にとって非常にきつい響きがあり、精神的ダメージを与え、尊厳を損ねる恐れがあることを、日本小児科学会で言い換えを検討している背景として解説した。
「奇形」に当たる英語は複数ある。anomaly、malformation、deformityのみならず、terato-という接頭語も「奇形」と訳される。anomalyは「変則」を表す。malformationはmal-がうまくいかないことを表し、formationが形作ることを表すことから「形がうまく作れなかったこと」を意味する。deformityはdeform(変形する、形をくずす)の名詞形である。terato-はギリシア語の「怪物」を意味する言葉が語源になっている。
元になる単語が違うのだから日本語でも訳し分けようというのは、理にかなった発想だと思う。だが、田中の発想は違う。奇形などの語が「不快語」や「差別語」に当たるから変えていこうというものだ。
用語を変えれば、差別がゼロになるというものではないが、議論を経てよりよい用語を求めていくことは、人々の意識に変革を促し、その病気への社会的な認識が高まることにつながる。それは、例えば、「痴呆」を「認知症」に変えた事例が示していよう。
その他にも分裂病は統合失調症と呼ばれるようになり、障害も「障がい」や「障碍」という表記が選択される場合が増えた。さらに時間をさかのぼれば「めくら」「おし」「つんぼ」も使われなくなった。そのために「メクラ判」や「ツンボ桟敷」が放送で使われなくなっている。放送できなくなった落語もある*。
この部分を不快と感じる方もおられるかもしれない。事実であり、話の筋立て上必要な記載なのでご容赦いただきたい。
私は差別が嫌いだ。差別を憎むあまり、差別をする人間を差別してしまいそうになるという、笑えない状態になっている。しかし、たとえどんなに差別で有名な人であっても、患者として来れば差別をしないで診療する。医者とはそういうものだと思っている。
差別は嫌いだが、言葉を変えることにはあまり大きな意味を見出さない。もちろん「差別語」を使われて愉快な人間がいるわけがない。しかし、米国ではdeafやmuteが普通に使われており、「Black is beautiful.」を合言葉として黒人差別に対抗した。日本の取り組みを「差別語」を社会の表面から排除しようという努力とすれば、欧米の取り組みは「差別語」を差別語でなくしてしまおうという運動と理解できる。私としては、欧米の取り組み方のほうが正攻法であると思える。言葉をなくすのではなく、差別をなくしたいからである。