阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年04月

田中牧郎の記事で最後に詳しく解説されているのは「奇形」という言葉の扱いだ。2016年6月16日に開催された日本医学会主催のシンポジウム「医学用語を考える—医療者・市民双方の視点から」で取り上げられたという。
[医学用語の中でも]特に問題が大きい用語として、「奇形」を指摘し、この用語が患者やその家族にとって非常にきつい響きがあり、精神的ダメージを与え、尊厳を損ねる恐れがあることを、日本小児科学会で言い換えを検討している背景として解説した。

「奇形」に当たる英語は複数ある。anomaly、malformation、deformityのみならず、terato-という接頭語も「奇形」と訳される。anomalyは「変則」を表す。malformationはmal-がうまくいかないことを表し、formationが形作ることを表すことから「形がうまく作れなかったこと」を意味する。deformityはdeform(変形する、形をくずす)の名詞形である。terato-はギリシア語の「怪物」を意味する言葉が語源になっている。

元になる単語が違うのだから日本語でも訳し分けようというのは、理にかなった発想だと思う。だが、田中の発想は違う。奇形などの語が「不快語」や「差別語」に当たるから変えていこうというものだ。

用語を変えれば、差別がゼロになるというものではないが、議論を経てよりよい用語を求めていくことは、人々の意識に変革を促し、その病気への社会的な認識が高まることにつながる。それは、例えば、「痴呆」を「認知症」に変えた事例が示していよう。

その他にも分裂病は統合失調症と呼ばれるようになり、障害も「障がい」や「障碍」という表記が選択される場合が増えた。さらに時間をさかのぼれば「めくら」「おし」「つんぼ」も使われなくなった。そのために「メクラ判」や「ツンボ桟敷」が放送で使われなくなっている。放送できなくなった落語もある*。

この部分を不快と感じる方もおられるかもしれない。事実であり、話の筋立て上必要な記載なのでご容赦いただきたい。

私は差別が嫌いだ。差別を憎むあまり、差別をする人間を差別してしまいそうになるという、笑えない状態になっている。しかし、たとえどんなに差別で有名な人であっても、患者として来れば差別をしないで診療する。医者とはそういうものだと思っている。

差別は嫌いだが、言葉を変えることにはあまり大きな意味を見出さない。もちろん「差別語」を使われて愉快な人間がいるわけがない。しかし、米国ではdeafやmuteが普通に使われており、「Black is beautiful.」を合言葉として黒人差別に対抗した。日本の取り組みを「差別語」を社会の表面から排除しようという努力とすれば、欧米の取り組みは「差別語」を差別語でなくしてしまおうという運動と理解できる。私としては、欧米の取り組み方のほうが正攻法であると思える。言葉をなくすのではなく、差別をなくしたいからである。

「患者安全推進ジャーナル」47号(2017年)に掲載された、田中牧郎「医療用語をめぐる最新の動き」を読んで考えたことについて書きたい。田中は明治大学国際日本学部の教授で、日本語学を専門としている。

医学用語がわかりにくいという話は繰り返し話題になっている。医療関係者の間だけで通じれば良いというのであれば、あまり大きな問題ではないが、患者が自分の将来を決めねばならない重要な場面で、情報提供が理解不能の医学用語でなされたのでは、情報提供の意味がない。

医学用語がわかりにくいことには2つの要素がある。ひとつは言葉自体が難しい概念や馴染みのないものを指していることである。たとえば視床下部、上皮小体などと言われても、普通の人にはよくわからない。癌が治っても「治癒」と言わずに「寛解」というが、なぜ治癒と言わないのかは一般の人にはわかりにくいだろう。もうひとつの要素は、言葉に難しい漢字を使っていたり、一般とは異なる使い方をしていることである。「梗塞(こうそく)」「大弯(たいわん)」「披裂(ひれつ)」など、読めるかもしれないが他ではお目にかからない漢字が出現する。「炎症」「痰」などの言葉は、一般的にも使われるが、医学的にはきちんとした定義に沿って、非常に限定的に使われる単語である。また「適応がある」という言い方は私が学生時代に最後まで馴染めなかった医学独特の言葉遣いだ*。

ちなみに、ここで取り上げた言葉について簡単に説明しておきたい。
  • 梗塞:動脈がふさがることによって、その流域下の組織が死んでしまうこと
  • 大弯:胃を曲がった管と見たときに外周に当たる、もっとも長い外側部分
  • 披裂:声門の後方の、左右の声帯が付着する部分
  • 炎症:肉眼的には発赤と痛みを伴う腫れ。顕微鏡的には組織の浮腫、血管拡張と白血球の浸潤。
  • 痰:気道分泌物を主体とする気道内の粘液
  • 適応がある:治療などの対象として妥当であること

しかし、これはどの業界でもあることで、専門用語はその業界の知識がなければ正確に理解することはできない。たとえば法律であれば、「審尋」「瑕疵」などの言葉は一般には馴染みがないし、「遺言」「過失」などの言葉は日常語でもあるが、法律用語としては厳密な定義がある。

問題は、法律であれば弁護士や裁判官に任せればよい(任せるしかない)が、医療では患者が中心にならざるをえないということだろう。この問題は簡単には解決できない。

医療系のウェブ新聞「メディカル・トリビューン」で2017年4月7日に配信された「がん患者では自殺死亡リスクが50%上昇—欧州の研究グループ、欧州精神医学会で報告」(https://medical-tribune.co.jp/news/2017/0407506927/)について書きたい。4月3日には「The Guardian」紙がウェブ上でほぼ同じ記事を配信している(https://www.theguardian.com/society/2017/apr/03/cancer-patients-have-55-greater-risk-of-suicide-study-finds)。数値などは日本語記事のほうが詳しい。

Calatiらは1983年から2015年に発表された15件の観察研究のデータをメタ解析した。そのうち、7件の症例対照研究(計24万7,978例)のデータを解析によると、癌患者では非癌患者に比べ自殺死亡リスクが55%高かったという。だが、他の研究データを使って自殺企図や自殺念慮をメタ解析すると、有意なリスク上昇は認められなかった。自殺企図(自殺を試みること)は4件、814万7,762例を、自殺念慮(自殺したいと思うこと)は3件、4万2,700例を解析して結論を出している。Calatiは、研究がまだ予備的なものなので、最終的な結論を出すには時期尚早だが、「がん患者における自殺リスクの評価は極めて重要」と述べている。

自殺死亡リスクが高まるのに、なぜ企図や念慮のリスクが上昇しないのかについて、日本語の記事にも英語の記事にも説明がなかった(報告はまだ論文化されていない)。今後の解析で差が出る可能性も残っているが、かなり多数の症例を解析しているので、このまま差が出ない可能性も高い。

企図や念慮のリスクが上昇しない理由のひとつとして私が考えるのは、癌患者は自殺に成功するものが多く、企図(自殺をしようとして失敗している)や念慮(自殺を実行してない)に数え上げられる症例が少ないのではないかということだ。癌患者が自殺を企てる場合、癌による死が訪れる前に死ななければならないという制限がある。進行癌で、自殺しなくても近々命を失うと予想される場合は、自殺しようとも思わないかもしれないし、自殺する体力や気力が失われているかもしれない。そのように考えれば、狂言自殺は意味がない。進行癌患者が自殺を企てる場合には確実な方法を選択し、すぐ実行に移すのではないだろうか。

個人的な感想であるが、私にはそのような覚悟の自殺は予防すべき「病気」ではないように思える。自殺を罪とするキリスト教圏では「神の意思に背く誤った行為」なのだろうが、日本人としてはむしろ「了解可能な選択」のように思えるのだ。

やや古い記事になるが、2017年3月8日にウェブマガジン「JBpress」で配信された上昌広「東京大学の処分で見えた最高学府の凋落—臭いものには蓋、正直者は徹底懲罰…」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/49367)について書きたい。上は定年前に東京大学教授を辞職し、医療ガバナンス研究所を立ち上げた。

記事は3月3日に東京大学が分子細胞生物学研究所の元教授である加藤茂明ら4人を懲戒解雇相当としたことを批判したものである。上は元東京大学教授であり、福島での活動を通じて加藤と繋がりがある。だから事件の詳細に関する知識があり、加藤の人柄もよく知っている。だが、そのような立場であっても、加藤に対して同情的であったり、弁護的であったりする書き方を避けている。加藤寄りの書き方が、かえって反発を招くことをよく心得ているのだろう。

東京大学のいい加減さは、上が指摘するとおりである。指摘されている論文不正の多くは加藤ではない別の個人がしたものと推測されるが、研究室として不正を認め、責任者として辞職した加藤を、東京大学は徹底的に叩いた。それに対し、犯罪を犯した可能性すらある血液・腫瘍内科教授の黒川峰夫に対する処分はきわめて軽い。

ところが、黒川教授に対する東大の処分は、文書による厳重注意だけだ。黒川教授は、現在も東大教授の地位に留まり、大学生や若手医師を「指導」している。そして、日本血液学会では理事こそ務めていないものの、「教育委員会」の委員として学会員への教育を担当している。

日本循環器学会の代表理事に就任した小室一成も、東京大学は処分していない。2016年8月に論文不正の可能性を指摘され、現在東京大学が調査中とのことだが、前任の千葉大学ですでに研究論文の異常を指摘されている。

千葉大学の調査によれば、調査した108例のデータのうち、収縮期血圧の45%、拡張期血圧の44%に誤りがあったという。約半数のデータに誤りがあるなど、常識的に考えられない。

日本高血圧学会は昨年[2016年]8月に、この研究について紹介した2010年の論文を撤回すると発表した。

さらに記事では糖尿病・代謝内科教授の門脇孝についても、主宰する研究室の論文への不正疑惑が紹介されている。もちろん門脇は「全く根拠がなく、匿名者による誤った告発」と不正を否定している。

先にTBSの虚偽報道について書いたときに「誤りを認めた者を叩くという日本の文化風土があるのではないか」と書いたが、問題なのは認めた者を叩くことではなく、認めなかった者を許してしまう風土である。

ずいぶん前の記事になるが、医学書院発行の「週刊医学界新聞」2015年11月2日号に金容壱(キム・ヨンイル)が寄稿した「家族システムと早期からの緩和ケア」(http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03148_02)について書きたい。金は聖隷浜松病院化学療法科の医師である。この記事は、副題が「“患者家族”への介入が,患者の生命予後延長に寄与する?」となっていることから明らかなように、患者家族への緩和ケアをおこなうと患者の生命予後が延長するという研究報告について論じたものだ。

2010年の米国臨床腫瘍学会でTemelらが「診断時から緩和ケアの専門職が介入することで、肺がん患者の生命予後が2.7か月延びた」と発表し話題になったが、「抗がん薬治療を追加するわけでもなく、緩和ケアを早期から行うだけで寿命が延びるという意外さは、関連する学会にインパクトを与えた(記事より引用)」。 そして2015年には「診断時から看護師ががん患者の主たるケアの担い手を電話で援助すると、3か月後から介入開始するのと比較して、患者の1年後生存割合が15%上昇した」という研究結果が別の研究者から報告されたのだ。
 
金は、家族を「システム」として捉えて働きかけることが有効なのだと解釈している。

[癌罹患、癌告知]の衝撃と話しづらさは家庭内にも及ぶ。「家族にとって、一番大切でありながら一番コミュニケーションができないテーマは『死』」であるからだ。そして同時に、“つながり”である家族の構造そのものが変化してしまう。医療費、病院への送り迎えなど、直接医療に関係する負担が家族にかかる。患者が家事・仕事ができなくなることで、家族における役割も変わってくる。こうした影響を受けて変化する構造を、がん治療に沿うものにしていくのは並大抵のことではない。

そのために患者とその家族を一体のシステムとみなして治療・支援(介入)することが有効なのだという。

要素がつながって全体として機能するため、一部が変わるとシステム全体に影響が及ぶ。また、システム全体の機能が落ちるとき、その影響は構成要素に及ぶ。こうした前提のもと、システム理論による介入をしていく際は、「家族の成員に何かが生じると家族全体の構造が変化する」ことを念頭に置くことになる。そして前述の通り、個人がどう行動するのかではなく、どのようなつながりを持って全体として機能しているかに注目する。

私は、この事実に対して、少し違った解釈を与えている。繰り返し述べているように、人間は社会的動物で、すべての個体が周囲の個体から影響を受けている。つまり、動物の個体としてひとりひとりは物理的に独立しているが、生命体としてのヒトはもともと集団として生きているのだ。家族への介入が良い効果をもたらすのは、個体への介入には限界があり、集団に介入することでその限界を乗り越えることができるからだ。

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