阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年03月

沖縄の米軍基地建設現場で反対運動の先頭に立ってきた沖縄平和運動センター議長の山城博治に対し、異例の長期拘留がおこなわれ、話題になった。微罪(有刺鉄線の切断など)について再逮捕が繰り返され、5か月間もの長期にわたり拘留された。家族の接見も許されなかった。ここで私が問題とするのは山城の主張でも、罪状でもない。証拠隠滅のおそれがあるという理由で、那覇地方裁判所が警察の留置場への長期拘留を認めたことだ。

警察の留置場を「代用刑事施設(代用監獄)」とすることは、日本では合法である。合法であることが問題なのだ。しかも合法であるという理由だけで、裁判所は拘留を認めている。裁判所は国民と政府が対立した場合に、中立的な立場で裁定をする機関でなければならない。国の強大な力の前で侵害されがちな人権を守る機関でなければならないのだ。「疑わしきを被告人の利益に」するのは行政の使命というより、司法の使命だろう。

そもそも、被疑者を逮捕するには、基本的に逮捕状の請求と裁判所による逮捕令状の発布が必要であり、どこに勾留するかについても勾留請求をうけた裁判で決定される。裁判官が警察署の留置場への勾留を認めないかぎり、そこでの取調べはできない。「代用刑事施設」がもちいられているのは、警察・検察にとって自白を導く取調べには便利だからだ。自白の誘導や強要が刑事裁判でつねに問題視されるとともに、誤審の原因をつくっているのも、こうした捜査機関内の施設での取調べが常態となっているからだといえよう。(234ページ)

人は間違える。警官も間違えるし、検察も間違える。当然のことながら裁判官も間違える。間違いを許容しようとする態度と、間違いをできるかぎりなくそうとする態度がある。間違いを許容するのは、少数の無実の人を処刑しても、多数の犯罪者を処罰できれば良いという考え方だ。間違いをなくそうとする立場なら、被疑者に弁護士をつけたり、反論の機会を与えたり、裁判もやり直しの機会を与えたりする。だが、無実の人を処刑しない代わりに、狡知に長けた犯罪者を取り逃がす可能性が生じる。これら二つの立場のうち、現代の先進国の標準であるのは、明らかに後者だ。

著者は、裁判官が真に人権を考え、捜査機関から独立して考えるのなら、被疑者を拘留する理由があるにしても、拘置所への拘留と、そこでの取調べを命じるべきだとしている。そうすれば「代用刑事施設」は次第に意味を持たなくなり、消えていくだろうと予想している。

新藤宗幸『司法官僚—裁判所の権力者たち』(岩波新書)を読了した。新藤は行政学者で、千葉大教授を務めたことがある。司法制度改革審議会は1999年に設置され2001年まで審議をおこなったが、その過程で新藤は、審議会も政府も最高裁も司法行政制度の改革に積極的に取り組まないことに疑問を持ち、同僚の教授らと「司法の政治学」に関する研究を立ち上げた。その中で新藤は司法行政機構、司法官僚の実態や機能を担当し、その成果がこの本となった。司法行政とは、裁判所組織を運営・管理する仕組みのことで、司法官僚とは組織の運営に専門的に携わる判事たちのことである。

ただし、研究を進めるにあたって、司法官僚を包むベールの厚さには閉口したらしい。それでも公開された資料を集め、現職裁判官や裁判官OBから話を聞くなどして、全体像の把握に努めた。その結果、この本は膨大な資料を基にして書かれているが、資料の中には非公開の会議の議事録などがあるわけではなく、いわば「状況証拠」の基づく立証となっている。文章の語尾は「〜であろう」と推定の助詞で終わる文が多く、著者が「あとがき」で述べているように隔靴掻痒の感を免れない(242ページ)。

だが、この本で著者は、司法行政制度を批判するだけでなく、裁判所のあるべき姿と、それを実現するための方策を具体的に描いている。学者としての学問的な力だけではなく、制度設計の実務にも通じた力を感じさせる。この本の意図は達成されており、本として成功していると言えるだろう。

裁判官には上下関係はない。そのことは憲法で保障され、裁判所法でも保障されている。裁判所の運営事項を決めるのは裁判官会議で、所長は決定が着実に実行されるように管理する役割でしかない。たとえば辞令は裁判所名で発行され、裁判所長名ではない。また、各級裁判所間にも上下関係はない。これが理念である。

ところが、実際の裁判所は、一部の判事を司法行政に特化させ、行政的なピラミッドを作ることで、そこに上下関係を持ち込もうとしている。人事評価基準、昇給基準、異動基準などが明らかにされておらず、それらの行政事務を最高裁判所事務総局が実質的に握っているため、その力を通じて判事たちを支配している。それが判事たちの行動に影響を与え、さらには判決に影響を及ぼしていると著者は考えている。

残虐な映像にエロチックな側面があることはソンタグも認めており、第6章の最初に「苛まれ切断された死体の描写のほとんどは確かに性的な興味を喚起する(94ページ)」と書いている。

魅力的な身体が暴力を受けるイメージはすべて、ある程度ポルノ的である。[中略]恐ろしい車の事故の現場を通りすぎるさいに高速道路の交通の速度が落ちるのは好奇心のためばかりではない。それは、多くの場合、ぞっとするものを見たいという欲求のためである。(94ページ)

そして「確かに底流にはこの軽蔑すべき衝動があるという事実も、残酷な写真を検討するさいに考慮に入れる必要がある(96ページ)」としている。彼女はこの「検討する」という動詞を、「見る」の代わりとして意図的に選んでいる。

人間の心にあるこの動きは、自分を含めすべての人にあるものと認めねばならない「暗黒面」である。彼女は「悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない(114ページ)」と断言する。

或る年齢を超えた人間は誰しもこのような無垢、このような皮相的態度、これほどの無知、あるいは健忘の状態でいる権利を有しない。(114ページ)

戦場での人間の行動を、訓練や規律により制御することができると考える人びとも同様に非難されるべきだろう。あまりにも楽観的すぎ、人間の能力を過信している。戦場では、好戦性の亢進、過剰防衛の極端化により、残虐行為が起こるべくして起こる。

だが彼女は、次つぎと公開される残虐映像が「こうした道徳的欠陥」を維持しにくくしていると言う。この「道徳的欠陥」という語には、もっとふさわしい訳語があるのではないかと思う。道徳的に見えていないところがある、認識されていない道徳的問題があるということだ。「道徳上の盲点」「道徳的問題に気付かずにいること」ではどうだろう。

自国の負の歴史を振り返ることは、誰にとっても困難なことである。ソンタグは、1890年代から1930年代までの間に米国のいくつかの町で起こったリンチによる黒人犠牲者の写真が発見され、2000年にニューヨークのある画廊で展示されたときの社会の反応を取り上げている(98ページ)。その写真は、犠牲者を前に白人がポーズをとる記念写真だった。写真展を見た人びとは否応なく自国の歴史、自分にきわめて近い祖先がした行為を振り返ることになる。

リンチの写真を見るのは義務であると思うであろう。かつてはほとんどの人々が疑問を抱くことなくアメリカ合衆国に存在させていた奴隷制度が、途方もない悪であったという認識の強化は、多くのヨーロッパ系アメリカ人が参加せねばならないと感じている、最近何十年かにおよぶ国家的プロジェクトである。(92ページ)

だが、その運動にも限界がある。

アメリカの首都ワシントンに、人口が圧倒的にアフリカ系アメリカ人であるこの首都に、奴隷制の歴史博物館が未だにないのはなぜだろうか。実際、アメリカ合衆国のどこにも、奴隷制の歴史博物館は[中略]存在しない。思うにこれは社会の安定にとって、活性化し創造するには危険すぎる記憶なのである。(86ページ)

そのような「危険な記憶」は世界中にある。ソンタグは「有名な写真映像がないためにわれわれの心に刻み付けられることのない、あるいはそれにかんしてほとんど映像が残っていない残虐行為」として次のようなものを挙げているが、「それらはほとんどだれも思い起こそうとしない記憶である」としている。

1904年のドイツの植民地統治によるナミビア[訳書の表記はナンビア]のヘレロ族の絶滅、中国への日本の侵略、ことに1937年12月に40万人近くの中国人を虐殺し8千人に強姦をおこなったいわゆる南京事件、1945年ベルリンで勝利し、部隊長によって野放しにされたソ連の兵士たちがおかした13万人の婦女子にたいする強姦(そのうち1万人は自殺した)(83ページ)

ただしヘレロ族に対しては、2004年にドイツの経済協力・開発相が追悼と謝罪を述べている。ヘレロ族側は補償を求めているとのことで、決して解決済みの問題ではないのだが、少なくともドイツ人は思い起こそうとしている。それに対し、南京大虐殺問題は、人口の計算が合わないなどの理由で虐殺そのものを否定しようとする人びとが存在する。戦時下ではむしろ虐殺がある方が「普通」である。「誰もがやっているから」と軽視することは論外だが、無かったことにするのは犯罪的である。他人から言われるから行動するのではなく、自分自身が戦争をどう捉えて行動するのかという問題だと思う。南京大虐殺だけを取り出して問題視しても始まらない。すべての戦争と虐殺について厳しく批判することが重要なのだ。

残虐な映像を公開するかどうかは、つねに論争になる。ソンタグが挙げる例は、2002年の初めにカラチで誘拐され殺害された米国人ジャーナリストのダニエル・パールのビデオを、ボストンのある週刊新聞が公開したときのものだ。

激しい議論が巻き起こり、パールの未亡人にはこれ以上の苦痛から逃れる権利があるという主張と、適切で読者に見せる権利があると判断するものを、新聞はネットで公開する権利があるという主張が真っ向から対立した。(67ページから68ページ)

彼女は「どちらの側も三分半の恐怖を、殺人が実演されるポルノ映画並みに扱っていた」と指摘する。このビデオには続きがあり、政治的な非難が繰り返し表明され、最後に脅迫と要求リストがあったのだという。

パールを殺害した勢力がもつ独特の悪意と妥協のなさと対決するためには、このビデオを(もしそれだけの勇気があるのなら)最後まで見るのは価値のあることだと示唆しているのかもしれない。(68ページ)

彼女は、当然ビデオを最後まで見たのだろう。彼女はなぜ見たいと思い、何のために見たのだろう。研究のためだろうか。私は見ることを躊躇すると以前に書いた。しかし、殺害の事実がすでにあり、ビデオを見ている多くの人がすでに他にいるときに、自分が見ないことにどのような意味があるのか。また自分が見ることで、何が変わるというのか。

私が、ビデオを見たくない、見てはいけないと思うのは、半ば本能的な反応で、理屈で考え出した結論ではない。だから、自分のことながら理由をうまく説明できない。だが、それをあえて説明するとすれば、おそらく私の頭の中にはビデオを見ないことが、ビデオの内容に反対する姿勢をより明確に示すことになるという考えが潜んでいるのだろう、ということになる。ビデオを見ることでダーク・エロティシズムを感じてしまうようなことがあれば、その後私は残虐行為を自信を持って非難できなくなる、そのようにも思っているのだろう。

↑このページのトップヘ