阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年02月

裁判所は検察側、弁護側双方の意見を聞いて判断することになっているが、日本の裁判所は明らかに検察寄りである。

たしかに検察は強い。強制捜査権を持ち、予算も潤沢で捜査費用に事欠くことはない。証拠は全部押収し、開示しない。そのような状況下での弁護は非常に困難だ。検察が正しいことも多いだろう。しかし検察も万能ではなく、誤りを犯す。それを監視するのが裁判官のはずだ。

加藤の保釈申請は却下されたが、その理由の根本は「証拠隠滅の恐れ」だった。事件から1年も経っての逮捕で、証拠隠滅も何もあったものではないと思うが、担当する裁判官と面談をした弁護士の「どうして証拠隠滅の恐れがあると考えるか」という質問に対し、裁判官は「否認して争っているので、証拠隠滅の恐れがある」と答えたという(98ページ)。検察の主張を否定したら疑われるというのは、安福の言うとおり「まともな法律感覚ではない」。

しかし、近年、ほとんどの刑事裁判官の感覚はこの裁判官と同じで、保釈申請では、判を押したように「検察官の意見はどうでしたか」と聞いてくる。(98ページ)

裁判官に人権感覚があるのだろうか。いや、裁判官だけではない。検察官であっても人権感覚を持っていなければならない。罪人を扱う看守も同じだ。すべての人が同じように人権感覚を持つべきなのだ。自白に頼らない司法を目指すのであれば、まず長期勾留から変えていかねばならない。

先進国(韓国や台湾も)では警察施設における身体拘束は、24時間、長くても48時間だ。日本のような最長23日、それも弁護人の同席も許されず、密室のなかで長時間の取り調べ、というのは世界の常識から見れば「考えられない人権無視」であり、国連の人権機関から毎年勧告を受けている。(55ページ)

安福は、「この時代遅れの裁判官の人権感覚、日本の司法の現実が、日米地位協定の隠れたネックとなっていることは、ほとんど知られていない(98ページ)」としている。日米地位協定では日本の裁判権が制限されているが、日本の司法が前近代的では、米国も自国民を日本の司法に任せることは到底できないだろう。

安福は、日本における刑事弁護の難しさを繰り返し書いている。被疑者は捜査側の警察施設に周囲から隔離されて「留置」される。弁護人が毎日会うとしてもきわめて限られた時間(30分ほど)しか面会(接見)できない。

諸外国では取り調べに弁護士が立ち会うのが通常。しかしとんでもないことに、日本ではできない。供述調書は警察、検察の作文だと言っても過言ではない。(41ページ)

情報を遮断され、長時間にわたって取り調べを続けられていると、徐々に感覚が麻痺してくる。この事件でも、発生から1年経過しているのに逮捕勾留したのは、「自白」させたかったからだろう。接見した弁護士が怒るシーンがあるが(88ページ)、証拠を重視し自白に頼らないとは言うものの、実際には自白を強要するのが日本の警察だ。

一時期、電車内で痴漢呼ばわりされるとまず有罪になるとの話が広まった。現在では、混んだ電車内では男性は両手を上げるというのが半ばマナーになっている。沖縄平和運動センターの山城博治議長が微罪にもかかわらず4カ月以上にわたって勾留されているのも、海外の基準からすれば露骨な人権侵害だろう。

2013年5月22日の国連拷問禁止委員会の審査会の席上で、日本の司法制度を批判された上田秀明人権人道大使が「Shut up!」と発言した(https://www.youtube.com/watch?v=hkoQjIBA_3U)。

その席上、モーリシャスの委員はおおよそ次のように述べたという。
「弁護人に取り調べの立会がない制度だと真実でないことを真実にする。
弁護人の立会が取り調べに干渉するというのは説得力がない。
誤った自白になり、自白に頼りすぎではないか。これは、中世のものだ。
日本の刑事手続を国際水準に合わせる必要がある」(日弁連新聞 平成25年7月1日より)(267ページ)
委員会のホームページには議事録がアップされているが(http://tbinternet.ohchr.org/_layouts/treatybodyexternal/Download.aspx?symbolno=CAT%2fC%2fSR.1152&Lang=en)残念ながら発言の詳細までは確認できなかった。日本の国際的な地位低下を招く「失言」であるから、ドマー委員の発言と上田大使の発言がそのまま記載されれば、大変な恥辱だろう。

刑事事件の犯人は、仮名で登場することが多い。刑事事件で有罪となっても、裁判で定められた措置の執行が完了すれば、一般市民としてやりなおすことができることになっている。「忘れられる権利」を守るために仮名にしておこうというのかもしれない。また、日本の刑事裁判第一審における有罪率は99.86%と先進諸国の中でも際立って高い(263ページ)が、冤罪である可能性を考えて仮名にしておくのかもしれない。たしかに判決が確定するまでは「犯罪者」ではなく「刑事被告人」である。

しかし本来は、「犯罪者だったが更生した」あるいは「刑事被告人になったことがある」という履歴も含めての経歴であり、存在である。「更生した」ということが社会に希望を与え、犯罪者であったことが他の犯罪者の更生や、犯罪の抑止に役立つ。刑事被告人になった経験は、警察制度や刑事司法制度の見直しに役立てるべきである。また、犯罪歴の把握は再犯の防止、量刑の見直しなどのために必須の事項である。

だが実際のところ、このような議論は理想論に過ぎず、刑期を終えた人が社会から疎外されたり、刑事被告人になっただけで会社を解雇されたり、家族が地域社会から排除されたりしているのが現状である。その現状を考えれば、刑事被告人の人権を尊重し、さらに刑期を終えた人の人権を守るために仮名を使うというのはやむをえないことなのかもしれない。

ただし、医師の自律(オートノミー)の観点からすると、法的に許されても医師としては許されない場合がある。自律の規律は社会一般の規律より強いものでなければ意味がない。そのような意味では、他人の人権・人格を冒す性犯罪には厳しく臨むべきである。たとえば千葉大学医学部学生の集団強姦傷害容疑事件で逮捕された吉元将也、山田兼輔、増田峰登らは不起訴になったとはいえ医師国家試験を受験させるべきではないし、共犯者の医師、藤坂悠司もしかるべき処分を医学界から受けるべきだ。また、集団準強姦の疑いで埼玉県警に逮捕された船橋中央病院医師の上西崇、慈恵医大附属病院医師の松岡芳春、東邦大学医学部の舵原龍佑は医師国家資格を剥奪すべきだ。

米国では性犯罪者が顔写真と個人情報をネットで公開される。特に常習性が見られる場合はGPSの装着が義務付けられる。この措置に対して賛否があることは承知しているが、性犯罪者の一部に累犯を重ねるものがいることは事実である(平成19年版犯罪白書「第7編 特集-再犯者の実態と対策」http://www.moj.go.jp/content/000010209.pdf、法務総合研究所研究部報告55「性犯罪に関する総合的研究」http://www.moj.go.jp/content/001178522.pdfなど)。

医師は患者に対しても、医療関係の他職種に対しても、法の裏付けもあって強い立場にある。したがって、他者の権利や名誉については充分な尊重と配慮をしなければならない。少なくとも性犯罪常習者と判断される上西崇については医師が主導する機関で議論する道筋が必要だ。その機関では告発側も弁護側も法律家に頼らず医師が務めるべきだ。

この本に限らず、他の本やウェブページを見ていて気になったのが匿名の問題である。古いホームページでは加藤医師の名前が伏せられているものが多い。あるものでは「○○医師」などと表記されているし、ウィキペディアでは「本件医師」となっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/福島県立大野病院産科医逮捕事件 2017年2月23日閲覧)。加藤は講演会などで自己の体験を公表しているし、実名で記載されている本や記事も多い。彼は無罪であり、この事件は日本の医療界にとって非常に大きな意味を持つものであったから、今後は実名での記載がふさわしいと思う。

またこの本では、検察側の病理鑑定をおこなった福島県立医科大学病理学第二講座の杉野隆について仮名としている。彼も警察や検察に利用された被害者かもしれない。彼は腫瘍の専門家であったが、専門外の胎盤と子宮の鑑定をさせられた。彼の鑑定書は裁判で否定されたので、彼は誤った鑑定をしたことになる。彼の立場や心情に配慮して仮名とする気持ちもわかる。

しかし私は、プロがプロとしておこなった行為は、その結果がどうであれ実名で記録されるべきものだと思う。東京大学の沖中重雄教授が、1963年に東京大学を退官する際の最終講義で、臨床診断と病理解剖の結果を比較して自身の教授在任中の誤診率を14.2%と発表したのは有名な話だろう。人は間違うことがあり、つねに自分の判断を客観視して、自分が間違っている可能性を排除してしまわないのは大切な心がけである。自分の判断を公表する場合は、批判を謙虚に受け止める心がなければならない。間違っている可能性を計算に入れたうえで公表するのだ。そのようなことを前提とすれば、杉野の判断が誤っていたからといって、彼の名前を仮名とするのは不適切だ。

「犯罪」という言葉をもっとも広い意味で使えば、この「事件」は一種の犯罪であったと思う。多くの人がささいな間違いを犯し、それがこの事件として結実した。間違いの中に、意図的に正しくないことをしようとしておこなったものはないだろう。もしかしたら、私が間違いだと指摘しても当事者は間違いだと認めないかもしれない。また、不可避的なことであって間違いとは言い切れないこともある。

まず、医師に過失がないのに過失があるような事故調査報告書を作成したのが間違いである。これについては昨日も触れた。また、その報告書を真に受け、きちんとした検証もせず立件した警察・検察にも間違いがある。2006年4月14日に、この事件の捜査にあたった富岡警察署が医師逮捕について福島県警本部長賞を受賞し、これに対して多くの批判が寄せられた。功名心からの立件だったのだろうか。

さらに警察の発表を鵜呑みにし、過失を前提として報道をおこなったマスコミにも誤りがある。この本には福島民報の記事が多数引用されている。福島民報は自社の報道内容と判決との食い違いをどのように総括したのだろうか。あるいはしていないのであろうか。現在の同社のホームページは原発事故の記事ばかりでよくわからない。同社を含めたマスコミは東日本大震災後の双葉病院について、福島県が発表した虚偽情報をそのまま報道し、県は病院を運営する博文会から提訴された。同社は過去の経験から学んでいるのだろうか。

お産はたしかに安全になった。だが死亡率がゼロではないことも事実である。お産の危険性をしっかりと伝えてこなかった医療側にも問題があると思う。危険性を訴えると、逃げだとか訴訟対策だと言われることがある。医療側の自己検証能力が高くないと思われているからだろう。医療界の自律能力を社会に示すことは、医療界の責務である。

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