阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2017年01月

この本では、1章「デザインの役割の変化」で、企業活動におけるデザインの役割が変化したことを説明し、現代の企業ではデザインが企業の運営に非常に大きな影響を持っていることを指摘している。2章以下ではS会議への臨みかた、議事進行のしかたなどが順序良く説明されるが、彼が基本的な点として指摘するのは次の2点である。
  1. 自分がクライアントの目的を正しく把握しているか
  2. デザインが目的を正確に反映しているか
これはある意味で当然のことなのだが、実際にはこれらが達成されていないために、うまくいかないことが多い。まず、クライアントは自分の要望を正しく伝えているとは限らない。たとえば「ページのアクセス数を増やしたい」といったことは目的とは言えない。「何をアピールしたいのか」「どのような貢献をしたいのか」など、「ユーザーに何を提供したいのか」が目的なので、アクセス数が増えるのはその結果にすぎない。パン屋が「客を増やしたい」と思っても「どんなパンを売りたいのか」がなければ無意味なのと同じだ。

さらに、デザイナーが自分の好みや主義にこだわりすぎてクライアントの目的に沿わないデザインをしている可能性もある。クライアントがデザインを外注する場合、そのデザイナーの過去の作品などを見たうえで仕事を依頼するのだろうから、そのような行き違いは起こりにくいのかもしれないが、クライアントがデザイナーの意図を誤解している可能性もある。

この本を読みながら考えたのは、医療事故において医療側と患者・家族側がすれちがうのも、まったく同じ原因によるのではないかということだ。医療側が患者・家族側の要求、話し合いの目的を正しく把握し、患者・家族側に接する場合に把握した目的に沿って対応すれば、豊田郁子が『うそをつかない医療』で訴えたような、悲惨なすれちがいを避けることができたのではないだろうか。医療事故後の対応を「デザイン」できるのは医療側だけである。目的や要求の把握を間違った場合には正しい対応ができないし、対応が目的や要求に沿ったものでなければすれちがってしまう。

トム・グリーヴァー『デザインの伝え方—組織の合意を得るコミュニケーション術』(オライリー・ジャパン)を読了した。グリーヴァーは企業や組織のウェブサイトやアプリのデザインを専門とするコンサルタントである。

彼の仕事はデザインなので、企業や組織が実現したいことを聞き取り、それをコンピュータの画面として具体化する。彼が作成したデザインは、当然のことながら幹部の承認を得る必要があるので、会議の場でプレゼンテーションをすることになる(この本では意思決定に関与する幹部を「ステークホルダー」と呼び、意思決定会議を「S会議」と呼んでいる)。ところが、このS会議の場でさまざまな的外れの意見が出され、彼のデザインが承認されない可能性もある。この本は、そのようなことが無いように、どのようにステークホルダーにプレゼンテーションをしてS会議を自分の思いどおりに動かすか、そのノウハウを集めた本である。

デザイナーのノウハウといっても、会議を円滑に運営するノウハウなので、営業職やコンサルタントなど、相手に自分の案を承認してもらう職種だけでなく、何かを決める会議に関わるすべての人に有用だ。

しかし、実は彼のノウハウに目新しいものは無い。昔から言われていること、皆が思っていることばかりだ。しかし、それを上手に整理し、きれいに体系化して私たちに示すことで、非常に魅力的な本になっている。彼の文章力に感心したのだが、思い返せば彼はコンサルタントであり、自分の考えを他人に納得させることが仕事なのだ。この本自体が彼のノウハウの産物だと言えるだろう。

この本について書いていると、きりがないように思える。遺族の立場からの経験についてもう1回だけ書いて、終わりにしたい。

事故が報道されると、遺族は事故を再体験するような事態に追い込まれ、辛い思いをする。それだけではなく、ニュースの扱われた方自体で傷つくことがある。
 
私の知らないところで息子の映ったビデオテープが提供され、ニュースなどで、お遊戯をする姿が流れます。まだ死ということがよく飲みこめない園児に「理貴ちゃんと仲よしだったの?」と問いかけて、「うん」と答えさせたり、それほど親しくしていない人に「いい子だったのに……」などと言わせている場面をテレビで見ると、理貴の人生が踏みにじられているようにも思いました。(75ページ)

事件があれば報道するのがマスコミの務めである。しかし、マスコミの流すニュースを見ていると、事実関係の説明より情緒的な報道が多いように思う。視聴率稼ぎのためだろう。視聴率獲得に躍起になることを一概に否定することはできないが、遺族の視点を忘れてはならないだろう。

また、事故後の記者会見で院長が「魔がさしたというか、悪い条件が重なった。小児科医不足は深刻だが、幅広い病気を診断できる医師の養成や引き継ぎの徹底など再発防止に努めたい」と語ったことについて、豊田は「魔がさした」という言葉を批判している。この言葉は、普段は問題のない者がちょっとしたきっかけで間違いを犯すことを言う。この小児科医はいわば「常習犯」であり、そのような小児科医を放置していた病院の責任は大きい。

当直医は医師になって8年目だそうだが、事故報告書には「診療経験が少なく、判断が難しい」とあったようだ。豊田は「看護師が重症だと思うほど苦しんでいた息子を診たのに」、この言葉は納得しがたいと述べている。そのとおりだと思う。

そして、その当直医が、ほんの数ヶ月後に小児科専門医の認定を受けたことは、まったく理解も納得もできませんでした。
新聞でも報道された事故の渦中の人です。結果的には不起訴となりましたが、まだその判断が下されていない段階で、成り行きを見守ることもしないで、認定してしまったのです。学会がこの情報を知らなかったとは考えにくく、医療界には倫理がないのか、と思いました。(68ページから69ページ)

このことには先日も言及した。恥ずかしく、悲しいことだと思う。

病院の対応が「遺族より世間が先」になっていることも批判されている。病院側は、事故が記事になるとわかってから「ご自宅にうかがいたい」と連絡してきた。しかし、訪問の際には具体的なことにはいっさい触れず、謝罪の言葉を慎重に避けた。

それなのに、最初の記者会見では謝罪をしたと言います。遺族以外のだれに対する謝罪なのか、と思いました。(66ページ)

私の頭に浮かぶのは、フラッシュが焚かれる中、テレビカメラに向かって最敬礼する病院幹部の姿である。病院側の説明が済むと、記者席から過失の有無や責任の取り方についてなど質問が飛ぶのだ。私はこの儀式が無意味であると思っている。遺族や患者に対して最敬礼するならわかる。しかし、医療事故の場合、マスコミや世間に対して謝る必要があるとは思えない。

もちろん、病院の管理が悪いために犯罪の温床になったりしていた場合には、世間に対してもそれ相応の謝罪が必要だろう。だが、豊田の事案のように当直医の対応がまずくて患者を死なせてしまったというような場合、私自身は「世間に対する謝罪」は無意味だと思う。頑なに拒否するつもりはないので、そのような立場になれば私自身もカメラの放列に対して最敬礼するのだろうが、それならばそれより先に遺族に対して謝罪していなければならない。

さらに病院は、事故の報道の後、ホームページに「痛ましい小児科の事例を引き起こした状況が、決して発生しない組織づくりを推進する」という文章を出したのだそうだ。

記事によって病院の評判が落ちることを防ごうと考えたのかもしれません。しかし、いまだ遺族にはミスを認めていない段階で再発防止を公言するというのは、病院への信頼を取り戻すためにあせっているだけではないか。なぜその前にミスがあったと私たちに認め事実を説明し謝罪してくれないのか、とここでも深く傷つきました。(67ページ)

私は、病院と豊田の間に気持ちのすれ違いがあったのだろうと思う。医療事故に慣れている病院など、あろうはずがない。しかも小児患者が死亡するという重大事件だ。病院側は、小児科医に責任があることはわかっているものの、病院の責任範囲についていろいろ検討しており、結果がなかなか出なかったのだろう。また、事故であることは明らかなので、何よりも社会に対し再発防止を約束することが大切と考えたのだろう。この判断は遺族の気持ちに沿っていない。病院は、わかっていること、明らかになったことを、少しずつでも良いから遺族に伝えていくべきであった。

豊田が受けた副次被害について、もう少し書いておきたい。

豊田は病院が対話のチャンネルを開いておかなかったことを批判する。

カルテ開示の場で、病院側は「最善を尽くしました」とくり返したあと、「これ以上は第三者に判断してもらうしかありません」と言いました。こんなことを言ってしまっては、患者・家族はそれこそ裁判に訴えるしか道がない、と受けとめてしまうでしょう。私の、このひと言で病院に対して許せないという気持ちを持ちましたし、事故を公にしてでも事実を明らかにしたいと考え、取材を受けることにしました。(63ページから64ページ)

おそらく病院側は最善を尽くしたのだろう。しかし、それ以上の手立てがないというのは、ちょうど患者に治療法がないことを告げるのと同じだ。医師であれば「治療法がない」ことを単刀直入に告げればショックが大きいことを知っているから、さまざまな工夫をしつつ伝える。それと同じことがなぜできなかったのだろう。家族の気持ちを聞き、希望を尋ね、一緒に解決策を探ろうとするのは、医師にとって基本的な態度である。罪悪感から過度に防衛的になっていたのだろうか。

訴訟を考えた豊田は、さらに大きな壁に突き当たった。

ところが、弁護士は、この事例では裁判をしても勝つのは難しい、訴訟以外の方法を考えたほうがいいのではないか、と言います。(64ページ)

内部告発もあり、マスコミも取り上げているのになぜ勝てないかというと「医療上の過失ではなく、医師の不作為にあたる」から(65ページ)だという。「不作為」とは「当然するはずのことをしない」ことをいう。この本では「当時」そのように言われたと書いているが、現在ではどうなのだろうか。

私は不作為も明確な医療ミスだと思う。場合によって過失より悪質であり、豊田の場合も「処置をしない」ことが「間違い」であったのは明らかだ。もし、裁判で勝つことが難しいとしたなら、不作為の医師に対して適切な処分をくだすのが医師のオートノミーだろう。この当直医は、事件の数ヶ月後に小児科専門医の認定を受けたとのことだが、そのようなことでは医師にオートノミーがあるとは思えない。

↑このページのトップヘ