阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年12月

「この度、誠に勝手ながら2017年1月31日をもってBLOGari(ZAQ動画を含む)を終了させていただくこととなりました」という通知が表示されるようになったのは1年前のことだったと思う。びっくりしたが、半ば予想していたことでもあった。BLOGariはメジャーなブログではなく、競争の激しいIT業界では切り捨てられる可能性もあるだろうと思っていた。

BLOGariにはブログの全投稿をムーバブルタイプ形式(MT形式)で保存する機能があったのは幸いだった。もしその機能がなければ、日々のページを表示して保存し、移行しなければならなかったが、1,400日以上続けたブログだったので、かなりの負担だっただろう。MT形式は簡単な構造のテキストファイルで、タイトルと投稿日と本文のHTMLからなっている。私のブログを出力したところ、約6.4メガバイトあった。2バイト1文字とすれば約3百万字である。

引越し先の選定には難渋した。シンプルなデザインで、カレンダ表示があり、データ移行が可能なブログを探した。選定に難渋したのは、じっくり探す時間がなかったからだ。ブログの移行が可能なブログに的を絞って探したところ、ライブドアブログに行き当たった。同ブログは、名前が示すとおり「ライブドア」ブランドなのだが、現在はライン株式会社が運営しているようだ。ライブドアについてもラインについても、さまざまな思いがあるのだが、とりあえずデータを移行する機能があること、画面がシンプルで読みやすいことなどから、ライブドアブログを利用することに決めた。cazz.blog.jpというシンプルなURLが利用できるのはありがたいおまけだった。

移行のついでに、原稿を用意しながらアップロードできていなかった5月5日、6月24日、8月30日、11月20日の記事を追加した。BLOGariでは原稿をアップロードするのに2回の処理が必要であるため、後の方の処理を忘れて終了してしまうことが何回かあったのだ。酔って帰ってアップロードを忘れ、そのまま寝てしまったこともある。たいてい翌日に気づくのだが、ときにそのままになっていることがあった。
本日をもって、BLOGariへの記事投稿は終了することにする。どうかhttp://cazz.blog.jp/を訪ねていただきたい。

岸本は、学習者の成長について良いことを言っている。初学者はどんどん成長するが、ある程度成長すると伸び悩む時期が来る。その時期を彼は「プラトー」と呼ぶ。プラトー(plateau)とは台地や高原のことで、学習曲線などのグラフが平坦になることをたとえて呼ぶのだ。
大切なことというのは、ここからの成長は「上り坂」を登るのではなく、「階段」を登るような成長の仕方に変わるということです。(91ページ)
彼は努力の重要さを説く。そこで引用しているのが「ヘアアーチストで実業家のヴィダル・サスーン」の言葉だ。
The only place where success comes before work is in a dictionary.
「成功」が先にくるのは辞書だけの話で、どの世界でも「success」ではなく「work」が先だということです。(92ページ)
また、こうも述べる。
誰にでも興味のあることがあり、やりたいこともある。それは当然のこと。でも、仕事というのは「面白い」とか「面白くない」を基準にして選ぶものではないし、そういう考えで「一生懸命やるか」「手を抜くか」を決めたらダメです。
「自分がやらなければいけないことを、責任を持って常に一生懸命やる」
これが仕事に臨む姿勢です。
どんな仕事でも、何から何までやることで全体の中の仕事の役割と重要性がわかってきます。雑用だと思っていることも、大事な役割の一部なのです。だから、若いうちに何でも骨身を惜しまずにやれる人は、将来必ずいい医者になれます。断言します!(96ページ)
これが本当であることは、私も経験上知っている。ただ、私はこのように情熱を持って語りかけたことがない。あまりに正論なので気恥ずかしいのも理由のひとつだ。内容が陳腐であるからと拒否されるのではないか、はたして心を動かされる人がいるのだろうかと思ってしまうこともある。

私は若い人に対する信頼や期待が少ないのかもしれない。もっと若い人を信頼し期待すべきだと反省した。

岸本は患者からの信頼を重視している。信頼を得ているので手術の同意書を取らなかったという(現在は病院の方針に従って取っているとのことだ)。そのかわり、処置や手術を見せているそうだ。手術について、術野カメラの映像をテレビに映して見せる病院や、窓越しの見学を許す病院はあっても、家族を手術室に入れる病院は聞いたことがなかった。非常に良い試みだと思う。
導入当初は異常な緊張感に包まれてピリピリした雰囲気だったこともあり、いつもやっているような手術でも1件終わっただけで全身汗びっしょりになりました。手術中はいろいろなことが起こる可能性があり、それらをすべて包み隠さずお見せする(実際には隠したくても隠せないのだけれど……)。そんなふうに家族がそばで見学(監視?)している状況というのは、自分が考えたことだとはいえ、予想以上にしんどいものでした。精神的な「自分の弱さ」を実感したなあ。(77ページ)
手術への家族立会いは、岸本が真摯に手術に取り組んでいるから、さらに、自分の手技に相当の自信を持っているからできることなのだろう。

実は同様のことが局所麻酔の手術にもある。局所麻酔手術では患者の意識があるので、患者を安心させるため、世間話をしながらするほどの余裕がなければならない。患者は、たとえ顔を布で覆われて術者や術野が見えなくても、手術が順調に進んでいるかどうかを気配で察するものだ。局所麻酔で手術するには、不測の事態にも狼狽することなく対処できるという自信が必要で、さらに緊張の中でも患者に余裕をもって接することができるという胆力が必要である。最近は局所麻酔手術が減少傾向にあり、患者に気配りをしつつ手術をするという「芸」を学ぶ機会が減少している。

外科医には自分の家族の手術をしたがらないものが多い。医師によっては友人の手術もしない。万が一の事態が起こったときのことを考えるからだ。不測の事態が起こったときに冷静な対処ができるだろうか、後遺症が残るようなことになったときに責任をどうとるのだろう、などと考える。医療に百パーセントはないから、どんなに簡単な手術であっても、不測の事態が起こる可能性はあるし、術後に残る症状はある程度の時間が経過しないとわからない。

親しい友人や家族の手術は、手術に自信がないとできない。もちろん、周囲を見回して、その手術をいちばんうまくできるのが自分であれば、自信の有無にかかわらずせざるをえない場合もあるだろうが。岸本はおそらく我が子の手術でも躊躇なくやり遂げるだろう。

彼は初学者が上級医の手術を見学しても、得るものが無いと言う。そのとおりだろう。
初級医は、簡単なことを難しそうに悪戦苦闘してやります。
中級医は、簡単なことを簡単そうにやるし、難しいことは難しそうにやります。
上級医は、難しいことなのに何事もなかったかのように簡単にやります。(69ページ)
初学者は、その手技が簡単なのか難しいかわからないので、上級医が簡単そうにこなすのを見ても、そこから学ぶことができない。熟達した医師の場合、一瞬ですべてを理解し判断することができることもある。
[熟達]すると、考えないで感じることでどんどん仕事ができるので「速さ」が生まれます。ただ、見えていない人たちからは「ちゃんと考えずに適当に判断している」とあらぬ誤解を受けることになるので注意が必要です。(68ページ)
私が問題に感じるのは、相手が患者の場合だ。たとえば咽頭の魚骨など異物を除去する場合、熟達した医師は無造作に取ってみせる。患者は、それが簡単な手技なのだろうと思ってしまい、診療明細で「異物除去(複雑)」となっていると不当に高額の治療費を取られたと思うことがあるのだ。他の医師にかかって辛い思いをした場合には、そのようなことがない。私の患者でも、取りにくい耳垢があるのに他院を受診してひどい目に会い、私の処置を受けて以来、何十年も私の元に通い続けている人もいる。

手術も、時間の長さで評価される傾向がある。下手な医師が行えば手術時間は長くなり、上手な医師なら短い。ところが長い時間がかかるほど大手術だと思われ、患者や家族から感謝されたりするのだ。また、診療報酬の点数も、時間が長くなると高くなったりする。手術は、その時間の「短さ」で評価されることが少ない。それを評価してくれるのは、普段から手術を見慣れている手術室のスタッフだ。

医師に対して強い信頼があれば、手技が簡単そうに見えたとか、手術時間が短かったというような、ある意味で些細な問題で医師の判断や説明を疑うことはないだろう。以前は社会の中に医師に対する暗黙の信頼があった。これからは医師個々人が信頼を築いていかねばならない時代になったのだと思う。

医療者は患者のために仕事をしなければならない。岸本は、患者のためになること以外は「余事」であるとし、また人間学を学ぶことが肝要であると説く。人間学の具体的中身に関する言及はないが、人間性や人格を磨く努力を指すらしい。

私も彼に同感であるし、ある面では同じように実践してきた。しかし、彼ほど情熱を持って周囲に働きかけてきたかと言えば、そうではなかった。私の周囲には志の低い医療者もいたが、その人たちにはその人たちなりの人生があると考え、また、その人たちに何らかの生き方を勧めた場合、彼らがその道を選択したために失敗したとしても、その責任を私が取ることはできないと考え、いわば「口を出すのを遠慮した」のだ。他人が私と同じように動いたり考えたりすることはありえないという諦観もある。

この本を読んで考えたのは、相手に何を言っても、何を勧めても、従うかどうかは相手の本人次第なのだから、別にそこまで気を遣わずとも良かったのではないかということだ。もっと自由に考えても良かったかもしれない。私の考えが自由でなかったのは、岸本がひとりで科を運営しているのに対し、私はかならず複数の医師がいる科を運営してきたからかもしれない。どうしても周囲に気を遣ってしまうのだ。また、青年期に友人のためを思ってしたことが良くない結果を産んだことも影響しているかもしれない。

私の周囲にも質の低い医療者がいることは間違いない。場所によってその割合は異なるもので、質の悪い医療者が多い地区や多い施設がある一方、そのような者が稀である施設もある。しかし、私には「福島県の皮膚科医の質が低い」といった具体的な言葉を使って発信しようという気持ちは無い。そのようなことを発信することで生じると予想される混乱を望まないからだ。だが、福島県なら私の気持ちも違ったかもしれない。福島県の皮膚科医は非常に少ない。さらに現役の皮膚科医には高齢者が多く、皮膚科医がほとんどいなくなってしまう可能性も高いようだ。そのような状況であれば、どんなことを発信しようが(内容が事実でありさえすれば)混乱は大したことがないのかもしれない。

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