阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年10月

グロッサルト=マティチェクのオートノミートレーニングについて、書き残したことがあるので、ここで書いておきたい。オートノミートレーニングの最大の利点のひとつは自分自身で実行できるということである。元来、「答えはクライアントが持っている」としているのだから、当然と言えば当然だ。さらに自律(オートノミー)はわかりやすい具体的な概念で、誰もが良いと認めるものだろう。『オートノミートレーニング』(星和書店)の第13章は「セルフレギュレーションについての質問票」で、244問の正規版質問票と、16問の簡易版質問票が掲載されている。1ヶ月に1回、1年に12回この質問票に回答し平均点(全260問で各問の選択肢に0~7の点が割り当ててある)を記録し、それを何年間も続けることを推奨している。
あなたのセルフレギュレーションの値が上がる傾向にあるか、あるいは下がる傾向にあるか、それとも同じ値に留まる傾向にあるかを観察してください。もしも測定するたびにその数値が下がっていれば、その原因が何か、また数値を上げるためには何ができるかを考えてみてください。その際、特に平均値を下げることになるような項目の質問や関連領域に注意してください。(513ページ)

質問項目はドイツ語からの翻訳なので、宗教に関する質問など、日本の実情に合わないものもある。実際に使う際には平均点の変動を見るのであるから、一部日本に合わない質問があっても支障はないのだが、臨床で公式に使おうという場合には項目の見直しが必要になるだろう。

オートノミートレーニングではクライアントが受け入れる解決策しか採用されない。したがってこのような自己トレーニングが自然に行えるのだ。

そこで言えることは、変わろうと思っている人しか変わることができないということだ。これは原則と呼んでもいいだろう。私の周囲にも、いかにも不器用な人生を歩んでいる人びとがいる。しかし彼らが変わりたいと思わないかぎり、同じ人生を歩み続けるしかない。

関原の大学病院に対する指摘を続けよう。
第二に、患者の容体の変化に伴う家族の希望がまったく聞き入れられなかった。副作用が加わって肺や胃腸の機能が急速に低下した後、母から再三、呼吸器や消化器の専門医の診察をお願いしたのだが、結局、診察を受けることはできなかった。(234ページ)

過去には大学の縦割りは恐ろしいほどだった。呼吸器の専門家といっても、癌、自己免疫疾患、感染症、喘息などと細分化されており、抗癌剤の副作用の専門家がいたかどうかわからない。また、副作用を専門としない医師にとって、副作用の患者を診るのは心臓疾患の患者を診るのと同じようなものである場合がある。現在、抗癌剤による治療は腫瘍科や化学療法科など、化学療法専門の医師が行っている病院が増えつつある。そのような病院では副作用についてもその科の医師が専門としているので、状況は改善されつつあると言えるだろう。
第三に、副作用が深刻に現れた時点で、そのまま治療を続けるかどうかの相談を本人と家族にしてほしかった。[中略]父の場合は副作用をどう考えるかについて何の相談もないまま、最後まで同じ治療が続いていた。がんの消失に積極的なあまり、肝心の全身状態のフォローが等閑視されていたのではないだろうか。(235ページ)

25年前は、まだ治療を止めることが敗北であるという雰囲気が強かった。また、病名の告知は一般的になってはいたものの、予後の告知も一般的ではなく、医療者側も予後の告知を恐れていた。きちんとした告知ができない医者も多かったと言って良い。特に大学病院では誰が告知し、その後のフォローをするかということについて、関与するスタッフが多いだけにあいまいな場合が多かったと記憶している。緩和ケアもあまり普及していなかった。

この点も現在では反省され、改善されていることと思う。だが、大学病院の場合、准教授(当時なら助教授)が主治医になっても、実際に毎日診察するのはレジデントか、せいぜい中堅の医師である。治療が順調の場合は問題が起きにくいが、治療方針の再検討や変更が必要な場合、なかなか迅速で的確な対応ができにくいのは、構造的な問題ではないかと思う。

関原の父親も癌サバイバーだったが、晩年に下咽頭癌にかかり、大学病院の耳鼻咽喉科で治療を受けた。そこでの診療が、国立がんセンターでの診療とあまりに違うことに、関原は愕然とし、釈然としないものを感じた。この本では、大学病院で疑問に感じたことを3つに整理して述べている。
第一に、主治医の助教授が病室に現れることが少なく、最後まで直接話をする機会がほとんどなかったことである。大学病院である以上、助教授ともなれば治療のほかに教育や研究などもあって多忙なのは仕方がないのかもしれないが、国立がんセンターで主治医が毎日毎夕、週末であっても欠かさず診療に訪れていたのとはまったく異なっていた。(234ページ)

1990年のことで、今から四半世紀も前のことであるから、医療事情は現在とは大きく変わっている可能性は否定できない。また、私は大学での診療と縁が切れているので、現在の事情はあまり知らないのだが、実はあまり変わっていないのではないかと思っている。

大学のスタッフの業績は基本的に論文によって評価される。有名な雑誌に論文が掲載されればされるほど評価が上がる。彼らにとって論文を書くということは最重要の仕事である。また、大学の上級スタッフには学会の運営という仕事もあり、それもまた重要で、場合によっては非常に多忙となる。そのようなこともあって、臨床業務がスタッフにとって最重要の仕事ではない可能性がある。また大学では入局年次や職層によって分業体制が敷かれているのが普通で、入院患者の術後の診療は下位のスタッフの仕事である。関原は「日々の診療行為や患者との対話は、主治医の代わりにいつも30歳代に満たない若い医師一人に任されてしまう(234ページ)」と書いているが、少なくとも当時はある意味では当然のことだったのだ。

主治医との密接な関係を望むのであれば、そもそも大学病院を選択することが違っていると思う。

関原は患者の複雑な心境を語っている。矛盾する点も多いが、それが現実なのだろう。
自分の人生の主導権を手放したくなければ、すべての情報を知るしかない。癌の再発がなく落ち着いた時点で狭心症を発症した関原は、榊原記念病院で手術を受けることとし、術前の説明を受けた。医師はすべてのリスクについて説明した。少し長いが、やり取りを引用する。
「もちろんリスクもあります。ひとつは全身麻酔によるショック、第2は大量出血、第3に院内感染、第4に不整脈、第5に心不全や各種臓器不全、第6に脳梗塞などが考えられます」
「そんなに多くのリスクを説明される一方で、この手術は安全で、この1~2年の手術の死亡は皆無に近いと説明されるのですから、何となく違和感があります」
「考えられるリスクをすべて申し上げただけで、その可能性とは別の話です」
「何か病院のリスクヘッジのような気もしますが、具体的にリスクを説明していただいきよくわかりました」
あまりに正直な説明に耐えかねて、そばで聞いていた妻が突然質問した。
「そんなにリスクを説明されて、この病院で手術を受けても大丈夫なのですか」
「手術をどこで受けるかは患者さんに決めていただくことです」
「この病院で手術を受けようと思っているのに、手術を前にいまさらそんなことを言われても困ります。自分に手術を任せなさいと言ってもらえないのですか」(264ページから265ページ)

関原は自分を「プロの患者」と言っていたが、その彼にしてこの問答である。

手術のリスクは負の(悪い)可能性であるが、数学的に言えば、宝くじの正の(良い)可能性と同じである。宝くじを買えば、ほぼ外れる。時に1000円程度の小額の賞金が当たることもある。だが、1等1億円が当たらないという保証はない。全部の宝くじが売り切れれば、誰かに1億円が当たる。これを逆にしたのが手術の合併症の説明である。その病院で手術を受けて大丈夫かどうかは、評判の宝くじ売り場でくじを買えば1等が当たるかどうかと同じことで、当たるか外れるかしかない。合併症を1パーセント起こすということは個人にはありえない。合併症を起こしたら、その人にとっては100パーセントである。それは1等が1パーセント当たるということがないのと同じである。1等を当てた人には賞金の全額、100パーセントが授与される。

彼は、真実を知りたい一方で、医師の一言一言が生きるエネルギーを生む光であったという。癌の転移が見つかっても、医師が手術可能だと言えば、彼は希望を持つ。
どんなに小さな希望であったとしても、それを持つことは人間が生きていくうえでいかに大切であるか。(83ページ)

しかし、何に希望を見出すかはその人次第である。また、偽りの希望であっても、それにすがることができれば有益だと考えることもできる。非常に難しい問題だが、「人は必ず死ぬ」という事実を踏まえた上の希望であれば、間違った道に進む可能性は少ないのではないかと思う。

この本では、何人かの人たちのすばらしい言葉が紹介されている。

彼が米国で入院したとき、ボランティアの高校生がベッドサイドに訪ねてきた。「具合はいかがですか。日本の方のようですが、何かお困りのこと、お手伝いすることはありませんか」と話しかけてくる彼女に、なぜ病院のボランティアを選んだかと尋ねると、次のように答えたという。
「人間なら誰でも病気にかかります。そしていつか必ず死にます。自分が病気になって苦しんだときには、誰か人の助けが必要になります。幸い私は、現在は両親も兄妹も一緒ですが、いずれ離れてゆき、私も誰かに助けてもらうことがあるはずです。そのためにも、今自分にできる手助けをしておきたいのです。」(41ページから42ページ)

彼は「アメリカの良き一面を見た気がした」と書いているが、まさにそのとおりだろう。このような文化は短期間に醸成されるものではない。

また、癌患者であったジャーナリスト千葉敦子から著者に宛てられた手紙の言葉も優れていた。その一部を引用する。
もちろん、私たち癌患者は治療が成功することに賭けて生きているわけです。でも人生の設計を治療の成功だけに基づいて立てておいたのでは、そういかなかったときの失望が大変でしょう。医師を恨んだり、肉親を恨んだり、自己嫌悪に陥る結果になるのです。そして絶望のどん底で死を迎えることになるのです。

癌患者はふた通りの人生設計を持たなければなりません。治療が失敗した場合と成功した場合と。そのふたつの仮定に立って、いま自分にとって何が一番大切か、を選ばねばならないのです。(48ページから49ページ)

この言葉は多くの癌患者にとって座右の銘とすべき金言だと思う。だが、私が言ったら反発を招くだけかもしれない。自身が癌患者である千葉が我が事として言うから聞いてもらえるのかもしれない。そうであれば、この言葉がいかに貴重かを知っているとはいえ、私にはそれを伝える方法がないことになる。

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