阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年08月

彼は終章で原子力研究の倫理について最終的な考察をおこなっている。彼は、日本国憲法の「学問の自由は、これを保証する」という条文を挙げ、この「学問」に自然科学の実験研究がすべて入るのだろうかと問うている。
科学研究の自由が成り立つ条件は何か。21世紀の科学の現状と将来の展望を議論するためには、こうした問いを真剣に検討し、答えを見いだす努力をする必要がある。(144ページ)

彼は、まず日本国憲法制定当時から検証を始める。当時、DNAの構造も知られていず萌芽期にもなっていなかった生命科学は、この「学問」の範疇として想定されていない。しかし、原子爆弾の投下後であったことから、核物理学と核エネルギーの利用研究が「学問の自由」に含まれていたかどうかは重要な問題だ。

敗戦後の占領下、連合国軍総司令部(GHQ)の命令で、理化学研究所、京都大学、大阪大学のサイクロトロンが破壊・撤去され、核物理学の研究が禁じられた。
この禁止措置に対しては、米国の科学界から批判が起こり、来日した専門家の進言によって、占領最末期の1951年春に、GHQは核物理研究の禁を解き、理研などのサイクロトロンの再建を許可した。[中略]さらにその後、1953年に、アイゼンハワー米国大統領が国連総会で、「原子力の平和利用」演説を行ったのを契機に、核エネルギーの開発研究が日本でも認められ、国内で基盤整備が始まった。(145ページ)

彼がインタビューした学者には、知的探求に制限はあるべきではないと主張する者が多かったが、安全性に関する対策は十分になされなければならないと皆が考えていた。遺伝子組み換え研究の自主的制限を討議したアシロマ会議でも、中心問題は、生命の操作をどこまでやってもよいかという倫理的問題ではなく、安全性への配慮だったという(146ページ)。

では、安全でありさえすれば、何をしてもいいのだろうか。彼は、「相互批判を通じて科学的必要性と妥当性が認められた研究しかやってはいけないし、やらせないというのが、科学研究の自由を制約する倫理の第一の原理」であると繰り返した上で、次のように述べている。
つまり、原子力研究では、物質的生活の便利さ、豊かさを求める人々の欲望にどこまで応えるべきか、その欲望の充足を支えるエネルギーをどのように、どこまで求めてよいかが問題になる。そうした欲望の充足には、どこかで制約を課すべきだとするならば、それが原子力研究を制約する倫理の判断基準にもなるだろう。(149ページ)

贅沢すぎる生活、便利すぎることに「健全な後ろめたさ」を感じる文化が重要なのだろう。そのような文化は、忘れかけられているが、まだ失われてはいないと思う。

橳島は、科学と技術開発を区別して論じている。科学(研究)とは純粋に知的興味に基づいておこなわれる活動であるのに対し、技術開発は実用化を目指しておこなわれる活動である。
もちろん、その両者は実際には連続していることがあるかもしれないし、同じ人が科学研究者と技術開発者の両方の役割を果たすことがあるかもしれない。だが職業倫理上は、研究倫理と技術倫理は分けるべきである。研究倫理は科学的必要性と妥当性という科学内部の基準に従う。それに対し技術倫理には、先に医学について述べた、安全性と有効性の保障に加えて、開発行為が生体や環境に及ぼすリスクの適正な管理と、開発利用目的の妥当性(軍事転用の是非、テロ目的での使用の防止など)を問う責任も求められる。(37ページ)
著者が例にあげるのは、核物理学研究と核兵器開発の関係、鳥インフルエンザ研究の公開である。いずれも、いわゆる「正解のない問題」であることは勿論であるが、橳島は彼なりの考え方を示している。核物理学研究については別に述べることとし、鳥インフルエンザ研究について整理しておきたい。
2011年、米国国立保健研究所(NIH)生物安全性科学諮問委員会は、2つの研究グループから専門誌に投稿されていた鳥インフルエンザの研究論文について、詳細なデータを削除する形での刊行を求めた。(38ページ)
問題の論文は、H5N1鳥インフルエンザウイルスに変異遺伝子を組み込んだところ、人から人への感染を起こさせる力を与えることができたという報告で、米国政府は生物兵器開発やテロ目的で利用される恐れが大きいと判断したのだ。世界保健機関(WHO)は国際会議を開き、公衆衛生上の観点から、問題の論文は内容をすべてそのまま刊行することが望ましいとの結論を出し、それを受けて米国の諮問委員会も再検討をおこなった結果、差し止めの要請を撤回した。
当事者となった研究者は、自分たちの研究が大きなリスクを伴うことを認識したうえで、それでもその成果をフルに共有することに科学的必要性と妥当性があることをていねいに社会に説明し、理解を求めることで、研究倫理の筋を通そうとしたと評価していいのではないだろうか。(39ページ)
私は、ここで大切なのは研究者を含めた社会全体による監視の継続であると思う。このような情報は公開後の利用状況の追跡が重要だ。兵器開発に利用されていないか、テロ目的での利用はないか、研究コミュニティが全体として監視していく必要がある。公開された技術は科学に縁のない人が扱えるような技術ではない。設備も相当規模のものが必要となる。研究者たちが連帯して監視すれば、その監視の網を逃れるのは難しいはずだ。研究結果の公表後にも責任を負い続けることで、科学者としての責任を果たしていることになるのではないか。

まず、研究倫理についての橳島(ぬでしま)の考えをまとめておきたい。橳島は研究倫理の基本は「科学的必要性と妥当性が認められること」であるという。

必要性とは、「ある現象について知り、なぜそうなるかを解明するために、しなければいけないこと(24ページ)」である。研究の結果、新しい知見が得られないことが明らかである研究は必要とは言えない。たとえば追試は、初回の追試であれば先行する研究の結果が正しいかどうかを保証する大きな意味があるが、繰り返し追試するごとにその必要性は減少していく。

妥当性は、倫理的に問題がないかがもっとも重要な点になる。代替(他に手段はないのか)、減数(研究対象をもっと減らすことはできないか)、洗練(できるだけ苦痛や犠牲を減らした研究になっているか)の3点について検討を重ね、できる限りの工夫を重ねて作られた研究計画が妥当であると言えるものとなる。しかし、科学的必要性と研究の有用性はまったく別物である。

問題は、「有用性」が生命科学研究の何をどこまで認めるかを判断する倫理的基準にもされてしまうことである。たとえば、人の生命の萌芽である胚を壊してES細胞をつくる研究は、再生医療に有用だから認められるというのが、日本の倫理指針の基本的考え方になっている。

だが有用性は、倫理的判断の基準にはなりえない、倫理とは、欲望の抑制の原理であるのに対して、有用性は、それとは真逆の、欲望の充足の原理だからだ。

科学的活動は科学的必要性に基づいておこなわれる必要がある。ただし、生命倫理など社会の合意の方が優位にあるので、科学的必要性があっても、人の尊厳に反するなどの理由があれば認められない活動もありうる(36ページ)。とはいえ、医療や産業への応用に役立つからという有用性に基づく判断が、科学的活動の判定基準に入り込むことには注意が必要である。無用であるから抑制するということが科学に対する干渉であるのと同様、有用だから認めるということも科学のあり方を歪める力となる。

橳島次郎(ぬでしま・じろう)『生命科学の欲望と倫理―科学と社会の関係を問いなおす』(青土社)を読了した。橳島は社会学を学んで生命科学研究所に就職し、以来一貫して生命科学の社会的倫理的側面を研究しているらしい。現在の職業については奥付にはっきりとした記載がなかった。東京財団の非常勤研究員との記載はあるのだが、東京財団とは非営利・独立の民間シンクタンク(https://www.tkfd.or.jp/about)だそうで、そこの研究員をメインの仕事としているのだろう。

この本は生命科学の研究倫理や生命倫理について論じている。議論を整理するためのキーワードが「欲望」だ。これは「欲求」と言い換えても良い。彼の最大の主張を整理すると以下のようになるだろう。
科学は知識に対する欲求、知りたいという「科学する欲望」に従っており、一方、技術は安楽や便利さに対する欲求、つまり「現世利益を求める欲望」に従っている。また、倫理は、人間の欲望にどう向き合うかという考え方だ。現在の日本では科学研究の産業応用が強く求められる風潮があり、特に生命科学領域では臨床応用がもてはやされる。応用への欲望が科学研究を侵食しているとも言える。今述べたように科学研究を推進する「欲望」と、技術への応用を推進する「欲望」は異なる。欲望が異なるのであるから、両方の領域での倫理も異なる。ところが、科学研究が現世利益的欲望によって侵食されると倫理が混乱する。現在の日本の状況はその混乱を反映している。

彼が1冊の本をもって述べようとしたことを、たかだか300文字ほどで意を尽くして述べることはできない。上の「まとめ」は私の個人的な理解と考えていただきたい。さらに、彼はこの本で研究倫理から生命倫理まで、生命科学研究、医学研究、医療と倫理の問題を広く扱っている。この「まとめ」は彼の主張の一部をまとめたものであることも強調しておきたい。

「欲望」という言葉で整理することで、研究倫理問題が非常に良く整理されている。しかし「欲望」という言葉にはやや悪いイメージがあるため、彼の主張が誤解されるのではないかと危惧する。たとえば「科学する欲望」が人間らしい、ある意味で気高いものであるにもかかわらず、言葉のイメージから怪しげな欲求と受け取られるのではないかと思うのだ。

学力テストの都道府県順位に関する意見にも聞くべきものが多い。中室は「学校教育の成果を測るうえではほとんど意味がない(117ページ)」と断じている。学力は、親の年収や学歴、家族構成などで大きな影響を受けることがわかっている。それらの情報を伏せたままで学力のみ公開しても、学校教育の成果はわからない。
新潟大学の北條准教授らの分析では、子どもの学力の50%が家庭や本人の要因で決定されているそうですから、いかに家庭の資源の影響を適切に取り除くことが重要か、おわかりいただけると思います。(118ページ)

彼女は「学力テストの県別順位は、単に子どもの家庭の資源の県別順位を表しているにすぎない可能性もあるのです(120ページ)」として、学力を公表するのであれば、生活保護率、就学援助率、学習塾等事業者の売上などもひも付けて公表すべきとしているが、私は、国が本気で成果を測りたいのであれば、親の年収、持ち家の状況なども集計してひも付けるべきだろうと思う。

文部科学省が公表する学力テストの県別順位が子どもの学力を表していない証拠として、中室は大手進学塾の四谷大塚が行なっている「全国統一小学生テスト」の結果を示している。文科省テストでは、上位3県が秋田、福井、京都であるのに対し、学習塾のテストでは東京、神奈川、千葉である。文科省テストの結果は、子どもを公立学校に通わせている世帯の経済状況を反映し、学習塾のテストは、子どもを私立に通わせている世帯も含め、その都道府県の全世帯の経済状況の平均を反映していると言えるだろう。

また、中室は行き過ぎた平等主義にも警鐘を鳴らしている。「家庭の資源に格差がある中で、すべての子どもに同じ教育を行えば格差が拡大していくだけ(127ページ)」だとしているが、当然のことだろう。日本ではその矛盾は見過ごされているという。中室はさらに大きな危険があるという。
神戸大学の伊藤准教授らの研究では、学校で平等を重視した教育―「手をつないでゴールしましょう」という方針の運動会など―の影響を受けた人は、他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに「欠ける」大人になってしまうことが明らかになっています。(133ページ)

人間が平等であると教えこめば、能力の差は努力の差だろうと子どもは考えるようになる。自分と同じようにすればできるはずなのに、それをしない自業自得だと考えるようになるというのだ。人は平等ではないと認めることが非常に大切だとわかる。

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