阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年06月

マイケル・トマセロ『ヒトはなぜ協力するのか』(勁草書房)を読了した。トマセロはマックス・プランク進化人類学研究所共同所長である。この本は、2008年にスタンフォード大学で行われたタナー講義の記録なのだが、タナー講義とは米国の実業家・哲学者のタナーが創設した「人間の価値に関連する学問的・科学的知見を省察し前進させること(137ページ「訳者解説あとがき」)」を目的とする連続講義で、「タナー講義の講師として招かれることは、『人間の価値をめぐる研究領域』における比類ない業績を認められたことを意味する栄誉のひとつとみなされている(137ページから138ページ)」のだそうだ。

トマセロはヒトの文化の特徴として「累積的進化」と「社会制度」を挙げる。累積的進化とは、あるヒト個体が克服すべき課題に応じて道具やものごとのこなし方を発明すると、それを周囲のヒトが学習し、慣習や文化にしていくという現象である。社会制度とは「相互に承認されたさまざまの規範や規則によってコントロールされる行動習慣のセット(3ページ)」と定義されているが、あらゆるヒト文化ではそれぞれの規制(つまり社会制度)のもとで交配や婚姻が行なわれ、違反すると何らかの制裁が加えられる。いずれも動物の社会では観察されない現象だ。

この現象の根底にあるものが「協力する技能」と「協力しようとするモティベーション」であるとトマセロは言う。ただし、ヒトが自分自身の生存を持続できなければ子孫を残すことはできない。したがって利己的な性質を持たざるをえない。「ヒトの協力性や援助性は、言うなれば、この自己中心的な基盤の上に成り立っている(12ページ)」のだ。

ヒトの利他性には3つの側面があるという。
1.物品に関する利他性。例)食物の分配に応じる。寛容であること。
2.サービスに関する利他性。例)手の届かないものを取ってやる。援助的であること。
3.情報に関する利他性。例)考え方、ゴシップなどを共有する。情報伝達的であること。

そして、これらの利他性は異なる進化史を持っている。

それぞれについて、チンパンジーとヒトの幼児を比較した実験が紹介されているが、いかにヒトの子どもが小さい頃から「協調する」ことを前提として行動しているかがわかる。トマセロが実験の対象としているのが18ヶ月ほどの幼児であることから、それまでに何らかの教育が行われ、その成果として幼児が協調性や利他性を学習したのではないかという反論がある。しかし彼は以下のように断言している。
[3つの側面の]いずれにおいても、「文化による変容や親のうながし、あるいはなんらかの社会化が、子どもの示す利他性をもたらしている」と考える根拠は、ほとんどありません。しかし、子どもの成長に伴って、社会化が重要な役割を果たすようになるのはあきらかです。個人ごとに異なる経験や文化ごとに異なる価値観や社会規範―これらすべてが影響を及ぼすのです。(32ページ)

社会の影響、親の影響を否定するものではないが、ヒトは生来協力する性質を備えていると著者は考えている。

今月17日、麻生太郎副総理兼財務相が北海道小樽市で開かれた自民党の集会で「90になって老後が心配とか訳のわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」と述べたと報道されている(2016年6月20日共同通信社配信 https://www.m3.com/news/general/434756)。私からみれば、毒蝮三太夫の毒舌(「ババァ、まだ生きてんのか。死ぬの忘れたな?」)やビートたけしのブラックジョークと同列の発言だ。金さん銀さんが長寿の祝いをもらったときに、何に使うかと訊かれ、「老後のためにとっておきます」と言って笑わせた。それと同じようなギャグだと思っている。それがギャグと捉えられないとすれば、そこにこそ異常なものを感じる。

ひとつは過剰な配慮だろう。『からくり民主主義』序章で取り上げられたように、日本社会が過剰な配慮を求めるようになっている。配慮が悪いのではない。実情をひたすら隠蔽するだけの過剰な配慮の強要がいけないと考える。たとえば外国人に対して生活習慣の違いに配慮することは重要である。しかし、習慣の違いから生ずる軋轢まで無かったことにするのは間違っている。軋轢を隠蔽することは、相互理解や歩み寄りを妨げる行為以外の何ものでもない。あるいは障害者に対する配慮も重要である。だがもし障害者に配慮することに資源を投入することに反発を覚える人がいるなら、その反発を抑圧することは間違っている。なぜ資源を投入して配慮しなければならないのかを理解させることを妨げるからである。

もうひとつは、将来に対する不安が実際に増大していることだろう。癌になり高額の医療費が必要となるかもしれない。90歳であれば、子どもが先に癌になったり認知症になったりする可能性もある。自分の年金は確保されているとしても、子どもの年金は危うい。子どもが自分の年金をあてにして暮らしているとすれば、自分が死んでしまえば子どもの生活が立ち行かなくなる。

私は麻生の言葉をギャグとして楽しみたい。しかし、深く考えると、そのギャグは自分の暗い影を嗤ったものであることに気づく。

そろそろ次の本に移ろうかと思ったのだが、この本についてもう1回だけ書くことにする。飛ばしてしまった第3章である。第3章は「忘れがたきふるさと」で、「田舎」や「世界観行遺産」が取り上げられている。白川郷について以下のような記述がある。
遠くから眺めると「ふるさと」だが、中を歩いてみると、まるでテーマパークのようだった。入り口付近に見世物の合掌造りの家屋があり、橋を渡って、集落内に入れば、土産物屋。食堂ではなぜか鳥の囀りテープが流れる。田圃の畦道も観光に訪れた障害者に気を配り、スロープがついていたりする。田で笠をかぶり農作業に励む老人を見かけたが、あとで聞くと、観光客の写真撮影のためのサービスなのだという。(86ページ)

さらに記述は続く。
洗濯物を干す地元のおばさんの前で観光客はむやみに歓声をあげる。群れて歩くので集落の畦道をふさぐ。「はーん」「ふーん」とため息をついて民家を覗く。よく見えないとズカズカと中に入る。町民が帰宅すると、中で観光客がお弁当を食べていた、昼寝していた、仏壇にお参りしていた、などはかわいいほうで、植木を抜く、仏具を盗む、トイレが見つからなかったのか車庫の中にウンコする……。観光客のマナーの悪さは呆れんばかりなのである。(87ページ)

地元では「本音を言えば、今でも合掌を下ろしたいんです(壊すの意)」(99ページ)とのことだ。不便で、不衛生なのだ。さらに規制がかかっているので、改築やリフォームができない。民宿や土産物屋は合掌造りが「売り」なので良いが、普通の商店や民家は不満である。しかし高橋によれば、町の規制をしているのはこの集落の住民全体で構成される「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」だという。
ある町議が言う。

「不公平があってはいけないので、一律が原則。おれが我慢しているのだから、おまえも我慢しろということなんです。駐車場の申請なども、一度許可の前例をつくってしまえば、次も許可せざるをえなくなる。だから一度たりとも許可できないんです」(103ページ)

この章では、日本の田舎を見直すきかっけが新渡戸稲造の「布教」だったという説が披露される。また、高橋は白川郷を有名にするきっかけとなったと言われるブルーノ・タウトの日記を読み、まったくの読み違いであることを指摘している。この本全体を通じて、著者が歴史から周辺事情まで丹念に調査していることに感心した。ルポルタージュとして優れた本だと思ったが、社会学的に見てもしっかりとした本だと言える。

第9章は「ぶら下がり天国」で、富士山麓の青木ヶ原樹海が取り上げられている。ここが自殺の名所となったのは松本清張が『波の塔』を雑誌「女性自身」に連載したのがきっかけだという(287ページ)。地元の人びとにとって、自殺体の発見は珍しいことでも何でもないので、もう慣れきっているらしい。医療者も色々な意味で死に慣れ、死体に慣れるが、同様のことかもしれない。

この章で取り上げられているのは、自殺という非常に重い現実と、それが日常化している西湖民宿村や富士吉田警察署管内での自殺の取り扱いのギャップである。しかし、日頃死に接している私は、この文を一般の人はどう読むのだろう、読んでどう感じるのだろうということが気になった。

地元の人びとにとって、自殺体の発見はうっとおしいだけのことだ。
遺体を発見した場合、法的には警察に通報しなければならない。しかし、そうなると第一発見者ということになり、警察官の到着を待ち、現場を案内し、事情聴取を受けることになる。生真面目にこれをやると一日つぶれることになりかねないので、「見て見ぬフリ」が村人の基本姿勢なのである。

毎年秋、地元の消防団と富士吉田警察署が樹海の一斉捜索を行っているが、やはり「なるべく見ないように」しているらしい。(291ページから292ページ)

あくまでも著者の推測であるが、自殺体は生ゴミか犬のフンのように扱われている。
発見者は「居たぞー」ではなく「あったぞー」と叫び、ぶら下がりの下で、警察官が来るまで待機する。特に合掌することもなく、「今年は運が悪かった」と思うらしい。

ベテラン消防団員は「もう捜索をやめてしまいたい」とぼやく。(292ページ)

このような話が延々と続く。一般の人は「不謹慎だ」と思うのだろうか、それとも「そんなもんか」と思うのだろうか。少なくとも樹海に入って自殺しようと思った人は、この章を読めば思いとどまるだろう。思いとどまって別な手段を選ぶのであれば、自殺防止の効果は無かったことになるが、少なくとも自殺にロマンチックな感情を抱いている場合には、この文章が良い興覚ましになるだろう。

外科医の場合、手術中に冗談を言ったり世間話をしたりするのは日常のことである。そのくらいの余裕があったほうが良いと言う者さえいる。一般の人はそれを聞いてどう思うのだろう。「仕事に集中していない」と思うのだろうか、「そんなもんだろう」と思うのだろうか。その手術で事故が起こったときはどう思うのだろうか。

第8章は「アホの効用」で、元大阪府知事横山ノックのセクハラ事件が取り上げられている。この事件は、横山が選挙運動中、選挙カーの車内で隣に座ったアルバイトの女子大生にわいせつ行為をしたというものだ。横山は起訴後に辞職し、有罪となっている。

横山ノックの「好色」は大阪では常識であったと高橋は言うが、それは東京でも知られていたことだと思う。ただ、捉え方が違っていたかもしれない。
「ノックの隣に座ったら、体をさわられた? 当たり前やないか。知ってて訴えたんやから、陰謀に決まっとる。おそらく元キャバクラ嬢のしわざやろ」

「自分の顔も出さずに、知事はやめさすわ、金はとるわ、虫がよすぎるとちゃう?」

つまりおばさんたちが言うのは「潔白なのにはめられた」ではなく、「好色を利用された」ということなのである。

自然な憶測ではあるが、こうしたおばさん世論をマスコミは黙殺する。下品だし、セカンドセクハラ(性被害に遭った人を裁判や報道などでさらに傷つける行為)になるからである。(253ページ)

実際に作家の曾野綾子が新聞紙上で女子大生が反抗すべきだったと発言した際には抗議文が送りつけられたそうだ。

きわどい話ではあるが、高橋がこの章で問題にしていることも、「被害者=善人」という単純な図式化だ。これは被害を受けた人について何ら責めたりする意見ではなく、完全な善人はいない、被害者になっただけで善人になるわけではないという、非常にまともな意見なのであるが、誤解される可能性が高い意見だろう。高橋もこの点を用心してか、批判をはっきりと述べているわけではない。

唯一の批判は、女子大生自身の言葉から引用されている。女子大生の弁護団はマスコミから賠償金の使途を尋ねられ、返答に窮し、女子大生に支援団体へのカンパを要求した。
前出の手記[『知事のセクハラ 私の闘い』]によれば、彼女が違和感を訴えると、弁護団は「寄付していると言うほうがあなたのイメージがよくなるでしょ」と答えたという。彼女は弁護団にこう言った。

「私がどうして世間によく思われなきゃいけないんですか。被害者は慰謝料を寄付するような誰からも尊敬されるような善人じゃなきゃいけないんですか」

彼女は寄付が嫌だったのではなく、寄付先まで決めてしまう弁護団に対して怒ったのである。(283ページから284ページ)

表面に出ている「大人の事情」だけでなく、もっと深いところにも別の「大人の事情」が見え隠れしている。

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