阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年06月

この本の後半は「フォーラム」と題され、この分野の著名な専門家4人が寄稿している。寄稿者はいずれもトマセロが文献や著作を本文中に引用しており、高い評価を与えている。

興味深いのは、4人がトマセロの説に一部納得せず、批判していることだ。訳者も「訳者解説とあとがき」で次のように述べている。
かれらのコメントは、トマセロの主張に敬意を払ったていねいな表現をとりながら、その内容はときに辛辣だ。(147ページ)

トマセロの主張の弱点が暴かれたり、ロジックがひっくり返されたり、フォーラムでのかれらのコメントを読みすすんで「結局どういうこと? トマセロの主張は正しいの? 正しくないの?」と困惑される読者も、もしかするといらっしゃるかもしれない。(148ページ)

しかし、訳者もこの後で述べているように、科学とは本来そのようなもので、ひとつの現象に対してさまざまな仮説が立てられ、解釈が加えられることで、少しづつ真実に近づいていくものだ。トマセロが、自分自身が認める研究者に寄稿を依頼し、そこで自分の説に対して批判をさせたことは、すばらしいことに違いない。自説に反対する意見を紹介することは誰でもすることだが、自分の文の後に批判的意見を掲載することで、自分に反論の機会を与えなかった態度は潔い。自分の説に自身を持ち、また、寄稿者たちの研究者としての質にも高い信頼を置いていたからなのだろう。

トマセロは、ヒトの文化の特徴として「社会制度」を挙げた。
ヒトは他の類人猿のような物理的・社会的世界を生きているだけでなく、自分たち自身で作り上げた制度的・文化的世界、つまり義務的に力を与えられたあらゆるものとともに暮らす世界を生きているのです。(53ページ)

ヒトは自分たちで規範を決め、それに自ら従おうとする。規範を守ろうとする力がなぜ生ずるかについては諸説がある。ピアジェは、おとなとのインタラクションからもたらされる「権威」と、同格の他者とのインタラクションからもたらされる「互恵性」であると考えた。

しかしトマセロは、「権威」と「互恵性」の重要性を認めつつも、それらが明らかになるのは幼児期後期であるとして、さらにより根源的な性向の存在を考えている。子どもは規範に自発的に従おうとするだけでなく、規範を他者に強制することに関わろうとするからだ。

たとえば、ひとり遊びのやり方を教わった3歳児は、別のやり方で遊ぼうとする実験者を拒否する。
拒否する際の子どもたちのことばは、逸脱に対する個人的な不快感を表明しているだけではありません。「そうやるんじゃないよ」「それは無理だよ」というような、包括的で規範的な通告をおこなっているのです。パペット[注:実験者が操作する人形]が自分と違うやり方で遊んでいることだけが問題なのではなく、不適切な遊び方をしているのが問題なのです。(38ページから39ページ)

ひとり遊びであるから協力の必要はないのに、こどもはルールを個人から独立した存在として認識している。また、「おとなが間違って、それを自分で訂正するところ」を見る必要はない。おとながゲームをやっているのを見さえすれば、子どもは「いかにゲームすべきか」という規範として認識する。「権威」や「互恵性」とは無関係なのだ。

私がこれを知って思ったのは、宗派間対立やセクト間対立のような派閥間の対立は、このような人間の本能に根ざしているのではないかということだ。社会的な活動や行動について、ヒトは本能的に「ルール」を構築する。そのルールから逸脱する行動を本能的に許せないのではないだろうか。差異の少ない、近縁の派閥間ほど対立が深刻になることも、ルールの逸脱が小さければ小さいほど気になると仮定すれば説明できる。

ヒトは幼児の頃から物を分け合う。たとえば、ボードを引き寄せて報酬(食物)を手に入れる課題がある。ボードにはトレーが2つ載っている。両方のトレーに食物が入っている場合、ボードを引き寄せると隣の被験者にも食物が行く。自分の方のトレーにしか食物が入っていない場合は、もちろん自分にしか食物が来ない。ボードは、両方に食物があるものと、一方にしか食物がないものの2種類用意してあり、どちらのボードを引き寄せるかを実験する。

チンパンジーは無作為にボードを引き寄せる。隣のケージが空で、仕切りの扉が開いていて、隣のケージに届いた食物が入手できる場合は、両方のトレーに食物が入ったボードを引き寄せるので、2種類のボードの意味は認識している。隣の被験者に食物が届くかどうかには関心がない。ところがヒトの幼児は同じような実験で、利己的な選択肢よりも公平な選択肢を選ぶことが明らかになっている(28ページ)。

ところが面白いのは、隣のパートナーと共同作業しなければボードが引き寄せられない実験だ。チンパンジーの場合、食物が真ん中に載せてあると共同作業をしない。前もって分配して載せてあると、熟練した共同作業を行う。
これまで[食物がボードの中央に積まれている実験で]チンパンジーたちの首尾が良くなかったのは、この課題を認知的にこなしきれなかったわけではなく、協働した結果起こる闘争まで見越していたからのようなのです。(29ページ)

チンパンジーが闘争を見越すというのも非常に興味深いが、ヒトの幼児では闘争は起こらず、分配される。分配が不公平であれば、一方の子が異議を唱える。
これはふたりともが、まだ次の試行に挑戦するつもりであり、自分たちがうまくやっていけることへの信頼があることを意味しています。チンパンジーにはこのような信頼は見られません。(30ページ)

食物などの資源配分を行なう場合、ヒトの子どもはチンパンジーよりずっと寛容だが、トマセロはこれが程度の問題だと強調する。
ヒトだって飢餓状態にあれば、食物に関してそれほど寛容ではない。チンパンジーは「まるでいつも飢餓状態にあるかのようにふるまっている」というだけのことなのです。(31ページ)

「知らせること」による援助も興味深い。特に「指さし」という行為はヒトに特有のようだ。
ある研究では、「紙をホチキスで留める」といった、子どもとは無縁そうな課題をおとながこなしているのを生後12カ月の前言語期の子どもが見ている、という状況を設けてみました。このおとなは同時に、別の道具も手にしています。その後彼女が部屋を出て行くと別のおとなが入ってきて、ふたつの道具をそれぞれ棚にしまってしまう。そこへ最初のおとなが、紙の束を抱えて、ホチキス留めを続けるつもりで戻ってくる。しかしテーブルにはホチキスが見当たらないので、まごついたそぶりを見せながら無言のままでそれを探す。[中略]ほとんどの子どもが、探しているホチキスの場所を指さしたのです。(20ページから21ページ)

別の道具の場所をさし示すことは少なく、また彼女がホチキスを手にすると満足そうにしていたという。子どもはホチキスが欲しかったわけでも、紙を留めるところを見たかったわけでもなかった。

チンパンジーも指さしするが、ヒトに対してしか使わず、命令的(あれが欲しい、あれを取ってこい)にしか使わないという。また、隠された食物を探す際に、ヒトがその場所を指さして知らせても、チンパンジーはそれを理解できない(23ページ)。

この指さしの理解は、関連性の推論と結びついている。つまり、相手が指をさすことで自分の注意をある物に向けさせるのは、何か別の事象と関連があるからだと理解できなければ、指さしは意味を持たない。ヒトはチンパンジーと違い、自分の欲求を直接的に(「水をくれ」)表現せず、間接的に(「のどが渇いた」)表現する。トマセロはヒトが協力的であるので、願望を表現するだけでそれを充足しようとするからだという。

たとえば最近の研究で、幼児にバッテリーを渡してくれるように頼むという実験がある。バッテリーはふたつあり、ひとつが実験者の目の前にあるテーブルに、もうひとつが部屋の向こう側のテーブルに置いてある。実験者が「取って」と頼むと、子どもは目の前にあるすぐ取れるバッテリーのことではないと解釈する。援助が必要なのは遠い方のバッテリーだと推論し、向こうのバッテリーを持ってきてくれる(25ページ)。

ヒトの子どもがいかに他人を援助しようとするかは、感動的ですらある。
生後14カ月および18カ月の幼児が、さっきはじめて会ったばかりの、血縁のないおとなに対面したとしましょう。そのおとながちょっとした問題に遭遇していると、幼児は、そのおとなの問題解決を援助してくれます―手の届かないものを取ってあげることから、手がふさがっているときに戸棚の扉を開けてあげることまで。ある研究では、テストに参加した24人の18カ月児のうち22人が少なくとも1回の援助を、しかもたいていの場合即座におこないました。(14ページ)

ただし、おとなが洗濯バサミを放り投げても子どもは取ってくれないし、手がいっぱいのまま戸棚にぶつかるのではなく、何かしながらぶつかったときには戸棚を開けてくれない。子どもは文脈を理解し、援助しようとしている。さらに注目すべきなのは、そのような援助行動は親のうながしの影響を受けない。親がうながさなくても同様に観察される。また、報酬を得ることで、かえって援助は減少する。最初に援助に対して報酬を与えられると、その後の援助行動は減ってしまうのだ。これは、もともと活動すること自体が報酬になっている(内的動機が強い)行動に対して外的報酬を与えると、内的動機がかえって弱まるのだと説明されている。

幼児による援助行動には共感的な気遣いが介在しており、トマセロは、この気遣いが幼児の援助行動の動機づけとしてもっとも重要だと考えている。
あるおとなが描いている最中のお絵描きを他のおとながひったくって故意に破り捨てるのを、18カ月および24カ月齢の子どもに脇で見せたところ、これが起こった途端に子どもは被害者(情動は表出していない)へと視線を向け、盲検手続き下でも一貫して「気遣っている」とコードされる表情を示しました。(18ページから19ページ)

そして子どもたちは被害者を演じたおとなに、より多くの援助をしたという。トマセロは「子どもが自然に抱く被害者の境遇に対する共感的あるいは同情的反応が、彼らの援助傾向に影響を及ぼす(19ページ)」ことを示すとしている。

彼は、後どもが後天的に学ぶことで、逆に援助を控えるようになると考えているのだ。

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