阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年04月

高橋泰「医療・介護の提供量が少なくなると、老い方、死に方はどのように変わるのか」について、もう少し書いておきたい。両地域の状況を説明した上で「あなたはどちらのタイプの老い方、死に方をしたいですか」と質問すると、「[著者が]驚いたことに、ほとんどの人が大三島型を希望されます(113ページ)」なのだそうだ。それは当然だろう。驚くことではない。ピンピンコロリを希望する高齢者は多い。問題は、ピンピンコロリには達観が必要だということだ。急に倒れたときに救急車を呼ぶようではだめだし、食欲がなくなってきたときに病院を受診するようではだめだ。

「達観」は「覚悟」と言い換えてもいい。著者は最後に以下のように書いている。
大三島型の社会が不可避だとすれば「できる限り自立を続ける覚悟と、食べられなくなった時に、自然死を受け容れる覚悟」を持つことが重要になります。このような覚悟ができているならば、「適切に医療・介護の提供量が減らされる」ことは、自分の望むような老い方、死に方ができる可能性を逆に高めるので、必ずしも悪い話ではありません。(113ページ)

私も「覚悟」という言葉を使うことがあるが、あまり好きな言葉ではない。人を追い詰める響きがあるからだ。私は「諦め」「諦念」という言葉の方が好きだ。「諦め」には頽廃の香りを感じると言うのなら、「達観」が良い。しかし、「達観」にはやや敷居の高い感じがある。

いずれにしても、医療の供給が減ることが医療を人びとの手に取り戻す機会となることは間違いない。また、介護力の減少がピンピンコロリへの道を開くことも間違いない。ただし、自分の遺体が長期間発見されないことを望む人はいない。独居高齢者の死亡を早期に検知するシステムの充実は、非常に重要な課題だ。

この本の中の高橋泰「医療・介護の提供量が少なくなると、老い方、死に方はどのように変わるのか」について書きたい。高橋泰は国際医療福祉大学教授である。彼は1999年から2003年にかけて愛媛県の大三島町と熊本県の相良村で高齢者の老化パターンの地域差による研究を行なった。

大三島(おおみしま)は、瀬戸大橋の尾道・今治ルート、通称「しまなみ海道」の中間に位置する友人島で、旧大三島町は島の西半分を占め、2005年に今治市と合併した。
2000年の高齢化率は44.85%であり、日本で最も高齢化の進んだ地域の一つでした。それにもかかわらず、医療も介護サービスも乏しく、介護保険が始まった時の保険料は2500円と日本の最低レベルでした。(110ページ)

一方、相良村は熊本県南部の人吉盆地の北に位置し、77%を山林が占める山村である。ダム工事が中止になった川辺川ダムのある村で、工事の仕事があったためか比較的豊かで、若い人が村に残っているために高齢化率や独居率も低く保たれている。
相良村には、老人保健施設や特別養護老人ホームもあり、充実した介護サービスのフルメニューが揃っています。介護保険が始まった時の保険料は4500円を超えました。日本でも有数の手厚い介護サービスが提供されている地域です。(110ページ)

調査開始時、大三島町のほうが相良村より軽度障害の占める割合が少なく、重度障害は若干多かった。追跡の結果は以下のようにまとめられている。
大三島町では自立、死亡が多いこと、相良村では軽度障害が多く、それが維持されることが分かりました。医療・介護介入の少ない大三島町では、障害が発生した場合、その状況に耐えきれず、死亡しているため、機能障害が残りにくいと考えられます。大三島町の状況は悲惨なことかもしれませんが、介護に頼り過ぎない生活を目指せば、ピンピンコロリ型で老いていく可能性が高いという解釈も可能です。特筆すべきは、1999~2000年、大三島町で軽度障害から自立に戻る確率が相良村より高かったことです。(112ページ)

介護需要の将来予測は相良村型を目指して立てられている。ところが本当に必要な介護需要は、実はもっと少ないかもしれないのだ。これは非常に重要な指摘だ。

また、小野沢滋は「医者の出す薬は効くのか」という文も書いている(104ページ)。高齢者の多剤服用はほぼ社会問題化していると言っても良い。雑誌「日経メディカル」の4月号も特集「その症状、薬が原因では?」として、高齢者への多剤投薬を扱っている。厚生労働省もすでに2016年の診療報酬改定で「多剤投薬の患者の減薬を伴う指導の評価」として、入院時に6種類以上の内服薬を処方されていたのを2種類以上減少させた場合に点数を与えることとした。
特に複数の疾患を有する高齢者に、多種類の服薬を要することがあることから、薬剤に起因する有害事象の防止を図るとともに、服薬アドヒアランスを改善するために、保険医療機関において、多種類の服薬を行っている患者の処方薬剤を総合的に調整する取組を行い、処方薬剤数が減少した場合について評価する。(http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12404000-Hokenkyoku-Iryouka/0000112306.pdf)

この記事では複数の問題が論じられている。問題としては、効果の不明な薬剤が投薬されていること、相互作用が不明なまま投与されていること、副作用が適切に把握・評価されていないこと、効果が適切に評価されず漫然と継続されていることなどが挙げられる。日経メディカルでは薬剤を投与した場合の副作用を新たな疾患あるいは症状と勘違いしてさらに別の薬が投与される例を複数掲載している。

私が特に問題とするのは効果の不明な薬剤が投与されることだ。患者の訴えが急性症状である場合、効果発現に時間のかかる薬剤の投与は、投与の目的が曖昧である。たとえば鼻汁・鼻閉に消炎酵素剤を処方したり、めまいにビタミンB12製剤を処方したりするのがこれに当たる。いずれも効果発現に早くても数日かかるもので、短時日で改善する可能性がある鼻症状やめまいに投与するのは不適当だ。

医師は「薬を出さないと患者が納得しないので」と言い訳することがあるが、すべての疾患に薬があるという幻想を振りまいてきたのは、他ならぬ医師自身ではなかったのか。 続きを読む

小野沢滋は別の記事「在宅医療の役割分担」で「私は、在宅医療での医師の役割を、土台のようなものだと思っています。家の土台は、必要な時には力を発揮しますが、必要ない時には、あるのかないのかすら分かりません(99ページ)」と述べている。この考え方には私も同意する。また彼は「在宅医療に携わる医師は、時に聖職者に似た役割も求められます(100ページ)」とも述べる。これもその通りだろうと思う。聖職者に似た役割とは、悩みを受け止め、苦しみに寄り添うことを指すのだろう。末期の患者を受け持てば、患者や家族の悩みを聞き、受け止めることになる場合も多い。だが、これは在宅医療に携わる医師だけではなく、すべての医師、すべての医療者に求められることだ。さらに言えば、すべての人が養い備えるべき能力なのだ。

たとえば、自分が悩んでいるとき、友人に相談できるのが理想だ。他所に行って喋ってしまうような友人でなければそれだけでいい。ただ聞いてくれるだけでよく、有用なアドバイスなどくれなくてもいい。また逆に友人から相談を持ちかけられれば、アドバイスなどせず、傾聴し、寄り添う。このような関係が周囲にあるのが理想だろう。医療者の「聖職者に似た役割」というのは、単にこの延長上にあるものにすぎない。傾聴し、寄り添うという態度は、すべての人が涵養すべきものだと思う。

彼は「医師は他の職種の能力を高め、全体をコーディネートする役割を求められているのではないか」と考え、「一般的な慢性期の在宅医療において、最も力が必要とされている職種は、間違いなく介護職です。在宅で活躍する代表的な介護職は、ホームヘルパーとケアマネジャーです(101ページ)」としている。私は、在宅高齢者の医療必要度を考えると、もっとも力が必要とされるのは(訪問)看護師ではないかと考えている。以前にも書いたが、今後看護師が医療のゲートキーパーの役割を担うようになるのではないかと予想するからだ。

小松秀樹、小松俊平、熊田梨恵編『地域包括ケアの課題と未来―看取り方と看取られ方』(ロハスメディア)について引き続き書きたい。

北里大学病院トータルサポートセンター長の小野沢滋は、前亀田総合病院在宅医療部長だ。彼の文章は、亀田総合病院の在宅診療部の見方を代表していると言って差し支えないのだろう。彼はいくつか記事を書いているが、「急性期病院からの退院」は副題を「あなたの望みがかなうとは限らない」として、急性期医療に対する一般の誤解を解こうとしている。内容は私がいつも書いているようなことだが、亀田総合病院での統計が示されているところに説得力がある。

亀田総合病院から退院した65歳以上の患者のうち、約30%が要支援以上の介護度だが、その半数はもともと要介護状態であると家族からの申告があった人たちだった。
入院直前まで元気だった人のうち、18%弱が一人では生活できない状態で退院することになります。実は要介護者の多くは、急性期病院への入院をきっかけに要介護状態に陥ります。(74ページ)

彼は「急性期病院の医師にとって、最善を尽くすとは、すなわち命を延ばすことに他なりません(76ページ)」と書いているが、これはいささか単純化しすぎだろう。しかしそのような傾向が強いことは否定できない。命を延ばせば、自立した生活が送れなくなることが多い。

たとえば健康な人間の力を100とし、自立した生活を送るために60の力が必要だと仮定しよう。健康な高齢者が病気になって、力が30まで落ちれば、急性期病院に入院するだろう。ところが経過が思わしくなく、5まで下がってしまった。このままでは死んでしまうというとき、医師が必死の努力で(最善を尽くして)命を助けたとしても、高齢者の生命力は50ほどまでしか回復しないかもしれない。若い人なら80までの回復が望めるとしても、もともと体力が減少している高齢者ではなかなか元には戻れないのだ。その高齢者は要介護状態で退院することになる。

だが、急性期病院の医師は、最善を尽くすことを要請され、それを忠実に実行したまでだと考えており、この患者の経過が良かったのかどうかについては敢えて考えないことが多い。問題は医師には治療前から予想がついていた事態だが、患者や家族は別の期待を持っていたということだ。医師が単純に「最善を尽くす」のは、急性期病院の代表格である大学病院で医学教育が行われることと関係があると小野沢は断言している。小野沢のように医療への期待と現実のギャップを埋める発言を繰り返すことが、医療者の果たすべき役割のひとつだろう。

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