阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年03月

この本の解説で、武蔵野美術大学教授の田村善次郎は、宮本が一遍から大きな影響を受けたと述べる。彼は『一遍聖絵』について以下のように述べる。
そのなかでとくに興味深く思われることの一つは、一遍を取り巻く人々の雑然とした多様さである。念仏踊りの興行場面には、とくにたくさんの群衆が描かれている。牛車に乗ってきた女、馬に乗ってきた武士、覆面に柿色の衣を着た人、蓬髪の男、狩人など、貴賎男女を問わず多様な人々がそこには集まり見物しているのだが、それらの人々が無秩序といってよいほど入り混じって見物している様子が面白い。これは一遍智真が誰をも差別せず、来る者を拒まず、去るものを追わず、すべての人々を仲間として、共に喜び、共に苦しむ、そういった人であったからであろう。(341ページ「解説」)

『一遍聖絵』は、ネットで検索すれば少し画像が得られるものの、私は画集などで見たことはない。名前は授業での記憶がかすかにあるが、内容については何の記憶もない。田村は宮本が百姓として民衆の中を歩み、民衆と共にいたところが一遍と共通すると述べている。ところが私はこの文を読んで、話の筋とは無関係に加古里子の『からすのパンやさん』を思い出した。

『からすのパンやさん』は1973年9月発行の古い本であるが、現在でも人気があり、本屋の店頭で入手することができる。ネットに画像もアップされているし、YouTubeには読み聞かせもアップされているようだ。カラスのパン屋の夫婦に生まれた4羽の子ガラスが主人公なのだが、4羽は白、黄色、茶色、赤とカラスらしからぬ色をしている。ところがこの話ではカラスの色が前面に出ることはない。命名の時に言及されるだけで、その後はむしろ触れられることがない。

加古の絵本の特徴は、話の本筋に関係のないディテールが満載であること、群衆シーンがあることだろうか。群衆シーンではそれこそ雑多な職業の人々(カラスたち)が描きこまれている。

私はともすれば枝葉を捨てた幹のみの理論を述べようとする。しかし、重要なのは枝葉かもしれないと感じた。枝葉があってこそ、理論は人々に愛され、受け入れられるのかもしれない。

宮本常一『庶民の発見』(講談社学術文庫)を読んだ。宮本は日本の民俗学の泰斗であるが、自らを農民であるとし、実際に子供の頃から農業に従事し、農業指導もしている。このような学者か今後現れないだろう。

この本の中で『民話の発見』という本を批評している。この批評がいかにも宮本らしいと感じられた。彼は「一人の百姓としてこの書物をよんだ感じをのべてみたい。この二、三年来、鍬を手にしなくなったが、百姓の子であり、百姓として成長し、また民話をきいた一人なのである(257ページ)」と前置きしている。
そこで、この書物をよんでの感想だが、民話の大部分をしめるものは昔話とよばれるものである。昔話の採取は、いままで民俗学をやっている人たちだけの作業であった。この書物を書いた人々は昔話を耳できき(一つや二つではなくて、一連の語りとして)、そういう話に深い感銘をうけた人はあまりいないようである。つまり本当の昔話を知っておられる人もいないし、また本当の農民生活とか農民の意識にふれた人もいないようである。(259ページ)

著者の中で、民話の会の主催者である木下順二だけは例外と感じているようだ。宮本は「民話の発見は同時に農民の発見でなければならないと思っている」が、この本の著者らは「農民を外側からながめて」ものを言っていると言う。

基本的に農民は寡黙である。生活が最重要で、民話の採取に協力している時間をそうそうには作れないこともあろう。また、劣等感により、自分たちの話がばかにされるのではないかと気がひけることもあるだろう。宮本は、多弁な農民は、あまり農作業をせず、農村から出ていきたいと思っている人が多いという。そのような農民の文化を知るには、やはり宮本のような「農民かつ学者」がいなければならない。

「日経ヘルスケア」2016年2月号の「厚労官僚の独白」で、「忍」というサインの匿名氏が「借金大国の日本が取るべき方策は?」という記事を書いている。彼は冒頭で「国の借金額の対GDP比は230%強に上る。2010年に財政破綻したギリシャですらその割合は170%程度であったことを踏まえると、異常な状況といっていい」と述べる。その通りだ。

興味深く感じたのは、彼が挙げる解決策の案だ。
一案としては、長期的な視野に立って、中学・高校段階で社会保障・働き方に関する教科を導入してはどうか。誰もが20歳になれば、安くない年金保険料を徴収される。一方で、いくらの保険料を何年払えば、将来的にどの程度の給付があるのか、事前に学校では教えてくれない。これでは、保険料を払うべきか否かの判断材料がなく、ましてや制度を「こう変えていくべき」と気づくきっかけも皆無だろう。

結論としては賛成なのであるが、教育は簡単ではない。だいいち現在のように年金制度が大きく変わっている状況では、教科書作りもままならない。授業では日本の将来の人口構成から、社会保障のあり方まで、広く教える必要があるだろう。教科をひとつ増やすか、政治経済の一分野として教えるかが問題となる。

私は以前から、医学を学校で教えるべきだと主張してきた。医師と患者の知識差は、患者側の知識を増やすことでしか縮めることができない。なぜ風邪に抗生物質を使ってはいけないのか、なぜむやみに発熱を抑えてはいけないのか、そもそもどういう時に薬を飲むべきなのか。そのようなことは、一般社会人が知っているべきことだと思う。最近学校で薬に関する授業を行うようになった。一歩前進と評価したい。

社会制度も科学技術も複雑化し、体系的な教育を受けなければ全体像が把握できなくなっている。いわゆる「学問」についての教育だけではなく、現代社会で生きるための教育も必要だと思う。昔は家庭や地域社会が情報源になっていたのだろうが、核家族化や地域社会の崩壊という要因よりも、現代社会が過度に複雑化したことのほうが主因ではないかと感じる。

部下を持つと、すべての部下が優秀というわけにはいかず、与えられた目標がクリアできない部下がかならずいる。また、すべての部下が自分の方針に賛成してくれるとはかぎらず、「そんなことを言っても現場はついていけません」「もし何かあったら誰が責任を取るんですか」などと言って反対する。医療の世界では、「できない」と言っている人間にさせることはできない。「やってみろ」とやらせて、本当に問題が起こったとき、患者が被害者になるからだ。そのような部下たちを使って組織をしっかり動かしていかねばならない。部下をもった医療人たちは、誰もがそのようなことで悩んでいる。

しかし、上司の考えがつねに正しいとはかぎらない。上司は万能ではない。部下たちが一糸乱れぬ統制で行動していたとすると、上司が間違った場合に混乱が大きくなる。マイペースな部下や、言われたようにできない部下がいると、「怪我の功名」で混乱が小さくて済む可能性がある。そう考えると、組織の統率はほどほどが良いように思う。統率がとれていなければ非効率に見える部分が出る。だが、完全に統制がとれていると人が個性を発揮する場がなくなる。組織として柔軟性に欠け、成長力が弱まるのではないか。長期的に見た効率は、統制が完全でないほうが高いかもしれないと思う。

何でも、非効率な部分があったほうが良いのではないか。たとえば、辞書を引く場合でも、電子辞書で目的の単語が一瞬で表示されれば、たしかに効率は良い。ところが、紙の辞書では目的の単語に到達する前に、いろいろな単語が目に入る。目移りして、つい関係のない単語の解説を読み始めたりする。効率は悪いが、それが面白いし、語学の上達に役立つ。

厚生労働省は、さまざまな策略を巡らせて、大学病院を支配することに成功した。しかし、厚生労働省の考えることがすべて正しいとはかぎらない。各大学病院が特色を出して、多種多様な研修プログラムを提供したり、バラエティに富んだ医療を提供できるような社会のほうが、底力の強い社会ではないのか。

キム・ジョンウンの独裁者ぶりが報道されることが多い。1月の朝日新聞デジタルの記事を一部引用する。
「気分次第で怒る」「即興で指示を出す」。平壌市民の間に流れている正恩氏の執務スタイルだ。韓国の国家安保戦略研究院の李寿碩博士によれば、正恩氏は「俺が壁を門だと言えば、開けて入る姿勢が必要だ」と指示。高級幹部らに「この野郎」「処刑してやろうか」などの暴言を吐く。(「過食130キロ・「処刑してやろうか」…不安募る正恩氏」http://digital.asahi.com/articles/ASJ195WS6J19UHBI01B.html)

さらに、ささいなことで担当者をすぐ処刑し、側近にも容赦しない彼を恐れて、「側近として知られる黄炳瑞(ファンビョンソ)軍総政治局長は最近、軍内部で「アラッスムニダ(わかりました)」という歌をはやらせているという」と伝えている。

私の知人の大学教授も、周囲からは「キム・ジョンイル」影口を叩かれ、「周囲にイエスマンばかり集めている」と批判されている。権力を持つと、イエスマンが好きになるとも考えられる。

しかし、何かプロジェクトを立ち上げようとするとき、そのプロジェクトに賛成して前向きに取り組もうとするスタッフを集めるのは当然のことである。プロジェクトに批判的なメンバーを入れるには、よほどの度量が要る。限られた人数で複数のプロジェクトを完遂しなければならないとなると、イエスマンを集めるというのは、ある程度やむをえないだろう。

組織を運営するのに部下をどう使うかは非常に難しい問題である。ところが、一般の医師はそれを教わるわけでもなく、まして訓練を受ける機会はない。あるとき部下を持たされて、まさにオン・ザ・ジョブ・トレーニングが開始されるのだ。上司に相談しようとしても、上司も人使いが下手だったりする。

私は、イエスマンに囲まれることを避けたいと思っている。イエスマンが増えてしまう原因が組織の効率にあるのだとすれば、効率重視が良くないのだろう。人間の体には非効率な部分が多いが、そのために障害に強くなっている。遺伝子も非効率的だが、そのために適応力が生まれている。組織もそれと同じで、非効率な部分があったほうが良いのだろうと思う。その非効率な部分が組織の柔軟性を生み、バランスのとれた運営を可能にするのだ。きっと。

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