この本の解説で、武蔵野美術大学教授の田村善次郎は、宮本が一遍から大きな影響を受けたと述べる。彼は『一遍聖絵』について以下のように述べる。
『一遍聖絵』は、ネットで検索すれば少し画像が得られるものの、私は画集などで見たことはない。名前は授業での記憶がかすかにあるが、内容については何の記憶もない。田村は宮本が百姓として民衆の中を歩み、民衆と共にいたところが一遍と共通すると述べている。ところが私はこの文を読んで、話の筋とは無関係に加古里子の『からすのパンやさん』を思い出した。
『からすのパンやさん』は1973年9月発行の古い本であるが、現在でも人気があり、本屋の店頭で入手することができる。ネットに画像もアップされているし、YouTubeには読み聞かせもアップされているようだ。カラスのパン屋の夫婦に生まれた4羽の子ガラスが主人公なのだが、4羽は白、黄色、茶色、赤とカラスらしからぬ色をしている。ところがこの話ではカラスの色が前面に出ることはない。命名の時に言及されるだけで、その後はむしろ触れられることがない。
加古の絵本の特徴は、話の本筋に関係のないディテールが満載であること、群衆シーンがあることだろうか。群衆シーンではそれこそ雑多な職業の人々(カラスたち)が描きこまれている。
私はともすれば枝葉を捨てた幹のみの理論を述べようとする。しかし、重要なのは枝葉かもしれないと感じた。枝葉があってこそ、理論は人々に愛され、受け入れられるのかもしれない。
そのなかでとくに興味深く思われることの一つは、一遍を取り巻く人々の雑然とした多様さである。念仏踊りの興行場面には、とくにたくさんの群衆が描かれている。牛車に乗ってきた女、馬に乗ってきた武士、覆面に柿色の衣を着た人、蓬髪の男、狩人など、貴賎男女を問わず多様な人々がそこには集まり見物しているのだが、それらの人々が無秩序といってよいほど入り混じって見物している様子が面白い。これは一遍智真が誰をも差別せず、来る者を拒まず、去るものを追わず、すべての人々を仲間として、共に喜び、共に苦しむ、そういった人であったからであろう。(341ページ「解説」)
『一遍聖絵』は、ネットで検索すれば少し画像が得られるものの、私は画集などで見たことはない。名前は授業での記憶がかすかにあるが、内容については何の記憶もない。田村は宮本が百姓として民衆の中を歩み、民衆と共にいたところが一遍と共通すると述べている。ところが私はこの文を読んで、話の筋とは無関係に加古里子の『からすのパンやさん』を思い出した。
『からすのパンやさん』は1973年9月発行の古い本であるが、現在でも人気があり、本屋の店頭で入手することができる。ネットに画像もアップされているし、YouTubeには読み聞かせもアップされているようだ。カラスのパン屋の夫婦に生まれた4羽の子ガラスが主人公なのだが、4羽は白、黄色、茶色、赤とカラスらしからぬ色をしている。ところがこの話ではカラスの色が前面に出ることはない。命名の時に言及されるだけで、その後はむしろ触れられることがない。
加古の絵本の特徴は、話の本筋に関係のないディテールが満載であること、群衆シーンがあることだろうか。群衆シーンではそれこそ雑多な職業の人々(カラスたち)が描きこまれている。
私はともすれば枝葉を捨てた幹のみの理論を述べようとする。しかし、重要なのは枝葉かもしれないと感じた。枝葉があってこそ、理論は人々に愛され、受け入れられるのかもしれない。