阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年03月

立森は講演の中で精神科領域のデータを使うことを避けた。自分が深く関わっている領域であるだけに、単純化して述べることが難しいとのことであった。彼が代わりに使用したのが「がん対策基本計画」のデータである。2012年度に策定された「第2期がん推進基本計画」については、2015年6月に中間評価が行なわれ、全体目標の死亡数20%減は目標達成が困難な状況だとされている(https://www.m3.com/news/iryoishin/329673)。

計画の概要は厚生労働省のホームページにある(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/06/dl/s0615-1b.pdf)が、トップの図の最上段に「全ての患者・家族の安心」という表題の下、「がんによる死亡者の減少(20%減)」と「全てのがん患者・家族の苦痛の軽減・療養生活の質の向上」とが全体目標として並置してある。その下にはそれを支える個別目標として「がんの早期発見 受診率50%」「がんの予防 未成年者の喫煙率0%」などが並んでいる。

私は「がんの死亡数を20%低下させる」というこの政策目標が無意味なものであると以前から思っていた。まず、癌の発生は生命の仕組みと深く関わっており、発生を防止することは不可能に近い。単細胞生物のように分裂を繰り返して永遠に生き続ける生物には癌が発生しないが、老いる生物では、長く生きるにつれて癌の発生率が上昇することは避けられない。次に、全体の死亡率は100%であるから、癌の死亡数を低下させるということは、他の疾患による死亡を増やすということになる。体が老化して各臓器の機能が低下すると、いろいろ辛いことが出てくるし、いつ死ぬかわからないのでは金の心配もしなくてはならない。その点、癌は死因として優れているという考え方もある。疼痛のコントロールさえできれば、予後が比較的見通せる。旅立ちの準備もしやすい。

癌で死ぬのがいちばん良いと言う医師さえいる。癌の死亡数が減少することは、私には良いことに思えない。「癌の死亡数を減らす」では目標にならない。その分、何による死亡を増やすのかをはっきりさせねばならない。「癌の死亡を減らして肺炎の死亡を増やす」なら賛成しても良い。

立森が改良案として挙げた目標は、同じ「がんによる死亡の減少」でも「75歳未満の年齢調整死亡率を20%減少」というサブタイトルがついていた。これならよくわかる。私はさすがだと思った。死亡数を減らそうというなら、「普通は死なない」相手を対象にしなければならない。全人口を対象とすることはできない。

私は臨床研修指導医講習会にタスクフォース(世話係)として参加することが年1回ほどある。その講習会では、研修医を指導する立場の参加者に初期臨床研修プログラム(のごく一部)の作成を体験してもらう。

まず地域のニーズを洗い出して、どのような医師を育成すべきか、テーマを選定する。テーマの中で、時間内にプログラムが作成できそうな分野を選択し、一般目標を設定する。一般目標とは「何のために何をどうするのか」といった大づかみな方向性を示す目標である。さらにそれを個別の行動目標に落としていく。行動目標とは、具体的な達成目標で、評価可能であることが望まれる。「~を述べることができる」「~を実施できる」「~を作成できる」「~に配慮できる」などという文で示される。さらに、行動目標を達成するための方略と、達成の状況を判定するための評価計画を立案してもらう。

ここでは、プログラムの各項目の連鎖関係が重要になる。複数ある行動目標の全体を達成することで一般目標が達成できなければならない。また方略は目標達成に資するものでなければならず、評価計画も達成度をきちんと把握できるものでなければならない。このような連鎖関係がしっかりしていなければ、いくら教えても予定した成果は上がらない。

このプログラム作成の過程は、政策の立案、実施、検証の過程とまったく同じだ。立森は、政策を立案する際にいちばん大切なのがセオリー評価だと力説していたが、プログラム作成の際に私たちが気をつけるのは、参加者の作成するプログラムが、まさにこのセオリー評価に耐えうるものかどうかということなのだ。

立森の講演を聞き、政策の立案過程と研修プログラムの作成過程がきわめて似たものであることがわかったので、政策の評価の能力も向上したと思えるし、研修プログラムの作成援助もより論理的に行なえるようになったのではないかと思う。

先日、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所の立森久照の「政策評価の体系と実践」という講演を聞いた。そこで学んだこと、感じたことをまとめておきたい。

私は「政策評価」という演題名を見て、漠然と政策の効果を評価するのかと思っていた。ところが、もっとずっと体系的なものだった。評価は政策の質や決定過程から始まる。政策評価には以下のような複数の方向からの評価があるのだそうだ。
1.理論(セオリー)評価
2.実施過程(プロセス)評価
3.改善効果(インパクト)評価
4.コスト・パフォーマンス評価

セオリー評価とは、原因と結果にきちんとした連鎖関係があるかどうかを明らかにするものである。連鎖関係があいまいでは、ある政策を実施したからといって、思い通りの結果が得られるとはかぎらない。一番重要な、すべての評価の基礎となる評価である。セオリー評価に合格しなければ、その政策は実施してもしかたがないとも言える。

プロセス評価とは、政策プログラムがどの程度当初のデザインどおりに実施されているかを見る。また、計画どおりの質と量のサービスが提供されているかどうかも評価する。

インパクト評価とは、政策による改善効果の有無、程度を評価する。政策は一般に以下のような流れで実施される。
投入(input)→活動(activity)→結果(outcome)→成果(impact)
ここで重要なのは「結果」と「成果」は異なるということなのだそうだ。たとえば癌の早期発見のために、癌検診の受診拡大ブログラムを実施したとする。「結果」として癌検診の受診者が増加したとしても、それが癌の早期発見という「成果」に繋がらなければ意味がない。

立森の話には、やや抽象的で形式的な部分もあったが、評価というものを体系的に把握することができた。私にとって、考えを整理するのに非常に役立つ講演だった。

昔の日本人は貧乏だったという。宮本は「その貧しさの中に、人々は精いっぱい生きてきた。そしてあらゆる工夫もしてきた。と同時に、貧をそれほど苦にもしなかった。つまり、はたからみるほど暗い気持ちはなかった(5ページ「はじめに」)」としているが、一方で、以下のような話も紹介している。
もう十五、六年もまえのことであるが、高知県の山中で一人の老婆から、その人の若いときの話をきいたことがある。イロリの火のもえるそばで、老婆の話をきいていて、しばしばノートの手がとまって、胸がつまる思いをしたのである。その老婆は子をまびいた話をしてくれた。長男はあるのにつぎつぎに子供が生まれる。今日のように避妊の方法もないから、つい妊娠してしまう。なけなしの財産の中で多くの子供をかかえてはやっていけないし、子供たちが苦労をするので、やむなく生まれでる子を処分したのである。「子供たちはみんなこの床の下にうずめてあります。私はその上に毎晩ねています。私は極楽へいこうとは思いません。地獄でたくさんです。あの世でどんな苦労をしてもいい。はやく死んだ子供たちと一緒に賽の河原で石をつもうと思います」としみじみはなしてくれた。(60ページ)

凄まじい話である。これは絶対的貧困の話であり、日本全国が似たような状態であった。だから相対的には貧困と言えない。格差が少ないのである。現代の日本で問題となっているのは格差であり、相対的貧困である。そこを間違えてはいけない。

この老婆が育てた子どもたちは、間引かれ、死んでいった子どもたちの犠牲の上に成り立っている。日本の農村全体が、あるいは社会全体が、そのように経済的限界を守るために処分された人びとの犠牲の上に成り立っていた。私たちが動物の肉を食べて命をつないでいるのと同様に、他の人びとの命を奪うことによって自分の命をつないできたのだ。

だが、考えてみれば現在の社会も、多くの犠牲の上に成り立っている。年金の給付は、小児への手当の削減の上に成り立っている。若年貧困者への給付を抑えて高齢者への給付がなされているとも言えるのだ。

この本に面白い校長のことが載っていた。宮本が初めて勤めた小学校の校長の話である。
独学で教員になり校長にまでなった力行型の人であったが、役所から命令や質問や布達がきても、回答や復命書を書いたことがなかった。「暇な奴らの相手はしておれん」といって、督促の赤紙がきても紙屑篭に入れていた。それでいてその時代には校長がつとまり、表彰もされていたのである。(263ページ)

昭和の初めのことだというが、のんびりした時代だったのだろう。だが、学校は子どもに勉強を教える場所ではないと思う。特に小学校の場合は、基本的な考え方、社会に対する態度を教わる場ではないだろうか。中学校、高等学校でも、勉強を教えるというよりは、好奇心を育み、学び方を教え、世の中にはさまざまな「知」があることを教えることが中心ではないのだろうか。そうであれば、この校長は生徒たちにとって良い校長であったかもしれない。細かいことにうるさくなく、勉強を強制せず、教えること、それも自分が楽しみながら教えることに全エネルギーを注いでいたのではないかと想像してしまう。

私の周囲では結婚式に小学校時代の恩師が招かれていることが多かった。それだけ小学校の教師が生徒に与える影響は大きかったと言える。初等教育の充実が叫ばれ、ITの導入や英語の導入が行なわれている。しかし、一番大切なのは現場の教師が楽しくのびのびと教えられることではないか。この頃、このブログで「無用の用」のような話を取り上げている。この校長を同列に扱っては申し訳ないが、型にはまらない人を許容するしなやかな組織が「強い組織」ではないかと思うのだ。

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