阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2016年01月

会社を経営する立場にあれば、誰しもその会社が育んできた理念や価値観などを見直し、全社員で共有しようと思うだろう。病院の場合も、病院機能評価などでは病院の理念や運営目標が全職員に周知されているかどうかが問われる。しかし、言葉として覚えることは容易でも、それでは理念が「浸透」したことにはならない。
以前、リクルートワークス研究所の雑誌『Works』編集長の高津尚志さんは、理念浸透の難しさについて、

「会社としては、社員一人ひとりに理念を浸透させたいと言ってますが、社員の立場に立てば、誰も自分に理念が浸透して欲しいなんて思ってないんですよ」

とおっしゃっていました。

たしかにその通りです。「理念が浸透する」ということは、今までの価値観を改め、新たな行動規範を学習し、行動を変えるということ。それを他人に強制されることは、どこかで不快感が伴いますし、簡単に実施できることではありません。(029ページ)

いくら高邁な理念を掲げても、それが他人事であっては意味がない。私の勤務先でも、「ビジョン研修」と称して理事長が年1回話をする。いわゆる「ストーリーモード」で話すので、聴き心地は良いが、ビジョンが共有され浸透するかと問われれば、はなはだ心もとない。それがこの本にもあるように多くの組織の現状なのだ。

私は臨床研修指導医向けの講習会に、毎年スタッフとして参加している。岩田健太郎が批判する「富士研」スタイルの研修だが、参加者が理念を共有するようにさまざまな工夫がなされている。スモールグループディスカッションを中心としたワークショップなので、話し合う機会が多い。くつろいだ雰囲気ながら真剣に話し合うので、まさにこの本に述べられている「対話」が行なわれている。

著者らは対話を活用する上での注意点をあげている。
[考慮しなければならないポイント]は、「対話」を実践に結び付けていこうとする意識です。この意識がないと、「対話」自体が盛り上がったとしても、それが組織の変革に結び付かないという事態を招きかねません。(169ページから170ページ)

講習会はホテルを借りて泊まりがけで行なわれる。現場から離れ、非日常的な空間を体験することで、受講者にショックを与えて活動性を高めようとしているのだ。それはそれで効果的なのだが、講習会を終わり日常に帰ったときにすべてが元に戻ってしまう可能性もある。講習会での体験を振り返る機会を持つように、最後の挨拶の際に述べるようにしよう。

中原淳、長岡健『ダイアローグ―対話する組織』(ダイヤモンド社)を読了した。中原は教育学者、長岡は社会学者である。この本はビジネス書の範疇に入るのだろうが、説明されている理論は、教育の現場でも医療の現場でも応用ができる。

彼らが取り扱っているのは、言葉を変えれば成人教育である。予備知識のない「タブラ・ラサ(白紙状態)」と呼ばれる子どもたちを教えることに比べ、すでに社会に出て自分なりの物の見方を手に入れている成人の教育は難しい。教育あるいは学習の目的が変化であれば、つまり教育により「学習者に好ましい変化をもたらすこと」であれば、従来の講義形式の教育や、文章の暗記といった方法では、達成することが難しい。

著者らは社会構成主義の対場から「対話」の有効性を説く。社会構成主義とは、「意味」というものがすべてお互いの了解から生まれるとする考え方である。
社会構成主義の根幹にある考え方は、「物事の意味とは客観的事実ではなく、社会的な構成物である」という主張です。ここでいう「社会的な構成物」というのは、「人々の社会的コミュニケーションによってつくられたもの」という意味にとらえてください。(079ページ)

したがって、あることに意味を見出すためには、コミュニケーションが必要となる。意味を共有するためには、お互いの理解をすり合わせ、近づけるようなコミュニケーション法が必要となる。それが「対話」である。

著者らは「対話」と「雑談」「議論」の違いを以下のように説明する。
「雑談」=〈雰囲気:自由なムード〉の中での、〈話の中身:たわむれのおしゃべり〉
「対話」=〈雰囲気:自由なムード〉の中での、〈話の中身:真剣な話し合い〉
「議論」=〈雰囲気:緊迫したムード〉の中での、〈話の中身:真剣な話し合い〉
(097ページから098ページ)

議論では多数の選択肢の優劣が論じられ、どの選択肢を採択するかを決めることが目的となるが、対話では選択肢そのものの妥当性、さらには別の選択肢がないか、選択することが適切なのかといった根本的な問題が話し合われる。対話で重要なのは相手の話を「聴く(092ページ)」ことであり、また対話に臨む際の心がけは「真面目なテーマについての話し合いを真剣に楽しむ『シリアス・ファン』(Serious Fan)というスタンス(098ページ)」だという。

野中郁次郎:編著『失敗の本質―戦場のリーダーシップ編』(ダイヤモンド社)を読了した。1984年に出版された『失敗の本質』は日本軍の敗因を徹底的に分析しており、役に立つ本だと思ったが、この本はやや質が落ちると感じられた。

どこが問題なのかを明確に指摘することは難しい。印象で述べれば、この本は懐古趣味の戦記物、あるいは老人が書いた「もし歴史がこう変わったら」という夢想の本とでも言えばいいのだろうか。表現がきつくなったが、あまり実際的でない記述が多いように思えた。『失敗の本質』と違う本にしようという工夫はいろいろと見られたのだが、必ずしも成功していないような気がする。

それより著者たちの用語が気になった。編著者の野中は第1章と第2章を執筆しているが、第1章で「太平洋戦争」と呼んだものを第2章では「大東亜戦争」と呼んでいる。第2次世界大戦はヨーロッパ戦線を表す言葉とし、日米の戦いを太平洋戦争と呼称することは一般に行なわれており、私にも違和感がない。しかし、大東亜戦争という文字を見ることは少なく、これが終戦前の大日本帝国で使用されていた言い方であることを考えると、著者に何らかの政治的意図があるのではないかと思ってしまう。

また、野中は旧日本軍を「日本軍」「日本陸軍」などと呼んでいるが、第3章、第10章を執筆した杉之尾宜生は第3章で「帝国海軍」という呼び方を使っている(第10章では日本軍と呼んでいる)。私はこの言葉も気になった。山本七平は「帝国陸軍」という言葉を使ったが、彼自身が陸軍の下級将校として働き、その中で体験した違和感を込めて帝国陸軍と言っている。杉之尾の文脈とは明らかに異なる。杉之尾にとって「帝国陸軍」という言葉はどのような意味を持つのだろう。

ウィキペディアによれば野中は1935年生まれで、米軍の機銃掃射を受け九死に一生を得たという。米国に復讐を誓ったというが、その後米国に留学している。奥付によれば杉之尾は1936年生まれで、これも戦中派である。彼らにとって、大東亜戦争や帝国陸軍という言葉は、体に染み付いた言葉なのかもしれない。

この本に対する米Amazonのコメントを見てみると、「知っていることばかりで目新しいことがない」という批判があった。私の場合は、知らなかったこともいくつかあり、知っていること「ばかり」とは言えなかったが、たしかに意外な話題はない。以前からさまざまな本や雑誌などで取り上げられているテーマばかりだ。

しかし、私はこの本に大きな意味があると思う。まず、この本はデジタル社会の弊害、歪みといったものを網羅的に集めており、そのひとつひとつがきちんと検証されているということだ。私は今まで断片的に多くのことを聞いてきたが、伝聞であったり、資料がなかったりする場合が多かった。サイフェはジャーナリズムの教授だけあって、記事とした話題について、充分な調査を行っているようだ。それはこの本の注がかなりしっかりと書いてあることからわかる。問題点や知識を整理するのに役立つ本だ。

さらに、その問題を、人類の知的劣化、あるいは自然な情報生活からの強制的な逸脱という視点から捉えている。インターネットで情報が溢れるからこそ、かえって情報が届きにくくなっている世界を多面的に捉え、人間が本来持っているコミュニケーション能力のみで生活していれば起こらなかった問題が、デジタル化によりコミュニケーションのあり方が変わったことで起こるようになったことを、やはり多面的に描いている。情報化がかえって人間の情報処理能力を危機に陥れていることが、説得力のある文章で指摘されていると言える。

この本には陰謀の話もなければ、世界の崩壊の話もない。秘密の話も裏話もないので、コンピュータ関係の雑誌などにきちんと目を通している人なら、読んだことのあるような話ばかりなのかもしれない。しかし、それらの問題を整理し、文明の現状分析と将来予測という大きな形で提示した著者の働きは高く評価すべきものだと思う。

第10章は「あなたの脳だもの…」で、脳のコントロールについて論じられる。

最初に取り上げられるのは、線虫の一種だ。以前、このブログでも取り上げたが、この線虫は中間宿主の行動を自分に有利なように変化させる。具体的に言えば、アリを中間宿主とする線虫は、アリが夜間に草の葉の先端でじっとするように行動を変化させる。そのようにして、自分が寄生しているアリが最終宿主である羊に食べられる機会が増えるようにするのだ。

この現象と対比して述べられているのが、インターネット上で無意味にエネルギーを消費させる「ゲーム」だ。FarmVilleというゲームがある。これは畑をクリックして耕すという「ゲーム」だ。ユーザは初期値として一定の面積を与えられるので、クリックして耕す。一定の間隔を置いて耕していると、作物が収穫でき、収穫に応じて畑を拡張したり農機具を入手したりできる。自動的に耕してくれるトラクターや、成長を早める肥料なども入手可能だ。そういったアイテムは現金を支払って購入することもできる。これが会社の収入になる。

人間はやりかけのものを放置できないことがある。また、自分の美的感覚に沿わないと落ち着かないことがある。たとえば古新聞を廃品回収に出す際に、全部たたみ直してきちんと揃えて出さないと気が済まない人のことを聞いたことがある。私の場合、本のページの角が折れているとイライラするので、他人から借りた辞書などがそのよな状態になっていると、何十分もかけてページの端をひたすら伸ばしていたりする。

このような「ゲーム」は楽しみをもたらさない。イライラしたくないので思わずやってしまう。ユーザーからは時間を奪うだけで、何も積極的な利益をもたらさない。ロジャー・ディッキーは、これを「fun pain(179ページ)」と読んでいるのだそうだ。「おもしろつらい」とでも訳すのだろうか。

人間の本能の弱点を突いたソフトウェアが次つぎと開発される。人間の本能についての本を訳している立場のものとしては複雑な気持ちだ。

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