阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年12月

このところ中国関係のセキュリティ事件が多い。このブログで以前取り上げた以後も、中国の知育玩具メーカーVTech社のサーバに11月初旬に不正アクセスがあって、約5万人の保護者と20万人以上のその子どもの個人情報が流出したというニュースが、ポータルサイト「ITmedia」で11月29日に配信された(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1511/29/news013.html)。米Motherboardが報じたもので、VTechもこれを認める声明文を発表している。クレジットカード情報は含まれていないが、住所や子どもの誕生日が特定できるという。

このVTech社の個人情報は同社の知育玩具がユーザに無断で集めたものらしい。正式な記事ではないが、子ども640万人とその保護者500万人のパスワードやチャット内容などの個人情報が流出したという情報もある(http://www.keyman.or.jp/at/30008013/)。中国製のルータなどが、情報を抜き取っているのではないかという疑惑を持っている人は多い(たとえば「キーマンズネット」の記事 「『中国製のルーターにはバックドアが仕込まれている?』ってホント? 」(http://www.keyman.or.jp/at/30007747/)を参照)。しかし、子ども用のIT玩具で本当にそれが行なわれているとわかったのは、やはりショックである。

10月19日にはApple社が、中国のモバイル広告プロバイダー「有米(Youmi)」製のソフトウエア開発キット(SDK)を利用したアプリを「ユーザーの個人情報を収集している」として同社のオンラインストア「App Store」から削除する方針を明らかにした(http://community.m3.com/v2/app/messages/news/2449132)。

日本ではApple社のホームページからXcodeというSDKを入手するのか普通だが、インターネットの検閲や安定性で接続に問題が多い中国では、SDKの複製が出回っているという。Youmi製のSDKは、オリジナルのものにユーザーの電子メールアドレス、デバイスIDなどの個人情報を収集する機能を組み込み、そのSDKで開発されたアプリは、開発者も知らないうちに個人情報を中国のサーバに送信していたらしい。発表では該当するアプリが256本見つかっているという。

中国の会社の製品でこのようなことが相次ぐのは、中国軍がIT分野での攻撃を行なっているのとは別の現象だと思う。ひとつには中国企業がIT分野で活発に活動しているからだろう。活動が活発であれば、事故が起こる確率が同じでも事故件数としては多くなる。

もうひとつは中国の社会の個人情報に関する認識の甘さだろう。これはアジア人に共通したものだと感じており、私は西欧人が個人をベースに考える傾向が強いのに対し、アジア人が集団をベースに考える傾向が強いことと繋がっていると思う。中国がIT世界で巨大な存在になると、現在西欧社会の考え方を基本に構築されているセキュリティ概念そのものが「アジア型」に変わってくるかもしれない。

ガワンデは、過度な治療が行われてしまう理由として、医師の楽観性をあげている。彼が示す研究結果によれば、癌治療に関わる医師の63%が患者の生存期間を過大評価しているのだそうだ(167ページ)。その結果として、医師は治療に突き進もうとする。

もうひとつの理由として「何もすることはない」あるいは「何もしない方がいい」という言葉は非常にいいにくい言葉であるということがあげられるだろう。このような言葉を発するのは医療の(あるいは医師自身の)敗北だと感じる医師は多いだろう。また、患者や家族にこのように告げると「諦めて死ねというのか」と怒り出すことがある。さらに「では治療をしてくれる医師のところに行くから」と自分の元を去ってしまうことがある。患者に良かれと思って言ったことで、かえって患者が過剰医療の餌食になることがある。もちろん言い方の問題はあるが、本質は変わらない。

患者の生存期間を過大評価しているという研究がある一方で、医師は無意識に患者の死期を悟っているという報告もある。医療ポータルサイトの記事では、2015年10月に開催された米国臨床腫瘍学会(ASCO)では、簡単な質問で死期の近い癌患者を6割同定することができるとした研究が紹介されたという。簡単な質問とは「サプライズクエスチョン」と呼ばれる手法である。
サプライズクエスチョンとは1990年に開発された簡単な予後予測ツールで、「この患者が1年以内に亡くなったら驚くか」という質問[を]医師が自身に問う手法。現在進行中のこの研究では、ダナファーバー癌研究所の医療関係者(腫瘍医、看護師、医師助手)76人を対象に、約5000人の患者について、サプライズクエスチョンを行った。

その結果、約85%の患者について「驚く」、約15%の患者について「驚かない」との回答が得られた。1年後に「驚く」と回答された患者は、95%が生存していたのに対し、「驚かない」と回答された患者の生存率は62%。サプライズクエスチョンで、1年以内に亡くなる患者について死期を正しく予測できなかった割合は約40%だった。

この結果を見ると、医師は「助からない」と本当はわかっているのに、自己正当化のため、あるいは患者の現実忌避に逆らえず、無駄な治療をしているのかもしれないとも思う。

彼が勤務する病院の緩和ケア科のスーザン・ブロックは、末期患者の家族との話し合いは、手術と同様に高い技術を要求する行為だと述べている。彼女は、基本的な間違いのひとつが、捉え方の間違いだと言う。ただ選択肢を並べるだけではいけない。
「[緩和ケアの]仕事の大部分が、死に対する恐れ、苦しむのではないかという恐れ、愛する者と別れなければならない恐れ、経済的な恐れといった数々の非常に強い恐れを、人々がうまく切り抜けるのを助けることなんです」と彼女は説明してくれた。「いろいろな心配事があるし、現実の恐怖もあります。それをすべて1回の話し合いで片付けようとするのは無理です。自分が死ぬということを受け入れ、医学の限界と可能性をきちんと理解するというのは、とても時間のかかることで、突然わかるようなものではないのです。」(182ページ)

彼はピッツバーグ大の緩和ケア科のボブ・アーノルドから、末期癌の患者に話をする場合、冷厳な事実を伝えれば良いと考えるのは誤りだと指摘された。彼はアーノルドから、患者との話し方を教わった。彼のようにキャリアを積んだ医師が、会話の仕方を学ばねばならないのは馬鹿げていると言いつつ、彼はその教えをきちんと守っている。

卵巣癌による腸閉塞が一時的に軽快した患者に対し、以前の彼なら将来の話を避けたかもしれないが、現在では今後の見込みについて積極的に触れるようになったのだ。まず彼はアーノルドから教わった「心配」という言葉を使った。
「心配なんですよ」と私はダグラスに言った。「腫瘍はまだ残っているし、また閉塞が起こるのではないかと心配なんです。」
「心配」とは単純なことばだが、どれほどこちらの気持ちを伝えているかはすぐわかるだろう。私は彼女に事実を告げた。しかし私が心配しているという事実を一緒に添えることで、自体の重大さを伝えるだけでなく、私が彼女の味方であることも伝えたのだ。(206ページ)

さらに彼女から詳しい話をしてほしいと頼まれた際には、「訊ね、話し、訊ねる」というもうひとつの教えを実行している。患者との面談で、医師が半分以上話した場合は、医師の話すぎなのだそうだ。

この本は、彼が雑誌「ニューヨーカー」に書いた2編の記事を元にしているが、あとがき(「謝辞」)で、彼はこの本を書くのに3年以上かかったことを書いている。
私が文章を書くときは、いつも言葉がなかなか出てこない。言葉が湧き出てくるという人がいるが、私にはそんな体験はない。私にとって、言葉というのは繰り返して努力をした末に、やっと徐々に出てくるものなのだ。(281ページ「Acknowledgments」)

だが、それだからこそ、彼の言葉には重みがあるのかもしれない。

彼は現代の「生命偏重」の医学に疑問を投げかける。人間にとって重要なのは「長く生きる」ことではなく「意味のある人生を生きる」ことだと言う。医学は最近まで生存期間を延長することにしか興味がなかった。さらに悪いことには、副作用により生活の質(QOL)が非常に低下しても、生存期間さえ延長されれば、QOL低下を顧みない傾向がある。最悪の場合には、長く生きられるかどうか不明確な、あるいは延長期間が非常に短い治療で、非常に副作用の強い治療さえも行なわれることがあるのだ。「治療」さえ受けなければ短くとも充実した生活を自宅で送れたはずの人が、副作用により残りの人生を病院のベッドの上で苦しみながら過ごすという悲劇も生まれている。

彼は「終末期の患者が人生最後の日々をICUで過ごすのは、ほとんどの場合失敗だと考えていい(155ページ)」とまで言い切る。彼が現在最善と考えているのは、在宅ホスピスの訪問診療により緩和ケアを受けることだ。

しかし、以前は彼自身が患者の生命の延長のみを考えるような医師だった。また、医師患者関係にしても、彼は以前は患者に選択肢を

アトゥール・ガワンデ『Being Mortal ― Illness, Medicine and What Matters in the End』(Profile Books)を読了した。私が入手したのは2014年に英国で出版された版だが、同じ年に英米両国で出版されたようだ。ガワンデはボストンにあるブリガム・アンド・ウィメンズ・ホスピタルの外科医だが、ハーバード医科大学他で教授を務め、雑誌「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターでもある。有名な本を何冊か出していて邦訳もある。この本はまだ邦訳が出ていないが、調べたところすでに翻訳権を取得した出版社があるようだ。

この本では彼が経験した多くの「死」が語られている。患者の死ばかりでなく、彼の父の死も扱われている。彼の父は泌尿器科医で、高齢になっても手術を続けていた。しかし、脊髄腫瘍に罹患し、徐々に麻痺が進行して、終末期が近づいているのがわかるまでになった。彼の父は在宅ホスピスを利用するようになり、自宅での死を望んだ。ところが、鎮痛剤が効きすぎたと思われる昏睡に襲われたとき、やはり医師である彼の母はホスピスサービスに電話をせず、救急車を呼んだのだ。その後父親は意識を取り戻す。
私が病室に着くと、父は意識が戻っており、病院で目覚めたことに不満だった。「誰も私の言うことを聞かない」と彼は言った。父は激しい疼痛で意識を取り戻したのだが、スタッフは父が再び意識を失ってはいけないからと、充分な量の鎮痛薬をくれなかった。私は看護師に父が家で飲んでいたのと同じ量をくれるように頼んだ。彼女は当番医に許可を求めたが、半量しか許可が出なかった。(253ページ)

午前3時になり、父親は怒り出して怒鳴り出す。午前5時には説得して鎮静剤の注射を受けさせ、いくらか落ち着いたが、家に帰りたいという希望は続いた。そのため、退院することにして抗生剤や酸素の投与を中止し、その日の昼前には帰宅した。

父親の希望は「苦しまないこと」だった。そこでガワンデが鎮痛剤を定期的に投与するのだが、母親は「痛ければ目がさめるだろうから」と、父親が眠っているときに鎮痛剤を投与するのを嫌がったという。母親は夫がもうすぐ死ぬということを認めたくなく、目覚めている夫と少しでも長く接したいのだ。その気持ちは痛いほどわかる。しかし、その気持ちが夫の苦痛を引き延ばしているのだということを理解しなければならない。それは医師である妻にとっても難しいことだったのだ。

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