阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年12月

小野寺のがん医療に対する不信感について考えてみたい。

昨日のブログの最後に、小野寺の書き方から、病院の収益のために抗がん剤治療が行なわれていると受け取れるということを書いた。ほかにも彼の不信感を示唆する記述がある。たとえば、通常の抗がん剤がまったく効かなかったため、担当医から新薬の治験を勧められ、3種類の新薬治験を受けたものの、効果がなかった症例について、以下のように述べている。
女性はホスピスに来てから、新薬治験を受けなければよかったと何度も嘆いていましたが、その通りで、治験を受けなければ、普通の生活を1年間送れたのです。

担当医は、研究費名目のリベートをもらっていたのか、学会発表のネタにしようとしたのか分かりませんが、患者に対する愛情がまったくないとしか言いようがありません。(99ページ)

何ともやりきれない書き方だ。だが、初めから効かないとわかって投薬する医師がいるだろうか。私はリベートや学会発表のために効きそうもない化学療法を行なう医師はきわめて少数派だと思う。この担当医も、治療しないという選択肢がはばかられたので治験を勧めたのではないか。新薬に過剰な期待を抱いているのは患者だけではない。医師も、何かにすがりたい想いから、あるいは製薬会社の宣伝文句に乗せられて、過剰な期待を抱いていることがあるのだ。

さらに言えば、治験の過程を経なければ、どんなに良い新薬であっても世に出ることはない。動物実験で有効であることがわかっていても、人間に有効かどうかは実際に患者に投与してみなければわからない。それが新薬開発の宿命なのだ。誰かが治験を受けなければならない。有効性が100%ではない以上、薬が無効だった患者は多数存在する。

このような事情を著者は充分心得ているはずだ。それでもなお、がん治療に突き進む臨床医に対して「敵意」を示すのは、自制的な(あるいは「分別のある」と言ったほうが正しいかもしれない)がん医療が彼の思い通りに行き渡らないもどかしさからかとも思う。

しかし、このような敵意は、医療を外から眺める人びとにとって不快なものでしかないだろう。著者の意見に影響される人の心には、著者の正しさが残るのではなく、医療不信が残る。著者自身さえも自分が引き起こした疑念の対象になってしまうのだ。著者の言いたいことがわかるだけに無念である。

昨日のブログの最後で触れたインフォームド・コンセントについては、項を改めて書きたい。今日は小野寺時夫『ムダながん治療を受けない64の知恵』について、もう一度書く。

小野寺は「日本のがん医療の問題点は「やり過ぎる」ことです(31ページ)」と言う。やりすぎには2つの原因がある。ひとつは患者や家族が死を受け入れられないことである。
患者や家族に、「何の治療もしないで、痛みなどの苦痛が出てきたらそれを十分緩和するのがよいと思います。元気なうちに旅行でも何でもやりたいことをたくさんされたほうがいいでしょう」と話すと、「それでは、あきらめて死ね、ということですか!」と怒りだす人も少なくありません。(32ページ)

あるいは「何もしない」ということに納得ができない場合もある。
手術は無理だと告げると、「どうしても取れなかったらあきらめるから開腹手術だけはしてみてほしい」と言う人がいたり、手術してくれる他の病院に移る人が稀にいますが、私はこれには賛成しかねます。(63ページ)

これでは患者の方から不要な治療を強要していることになる。これが「自己決定」かと言えば、健全な自己決定とは言えない。これを自己決定と言ってしまうのは、うつ病患者が自殺したときに「自己決定だから」と言うのと同様のレベルだ。

社会的な事情もある。新聞などで病院のランキングが報道される場合、手術件数の多い順に紹介されたりする。また、専門医の腕も、手術症例数の多さで評価されることがある。そうなると、周囲も本人も、多数手術することを期待するようになる。

さらに経済的事情もある。小野寺が「抗がん剤治療が積極的に行われるもう一つの理由が病院の収益です(90ページ)」と述べるのには、私は賛成しない。少なくとも私が関係してきた病院では、収益を上げるために抗がん剤治療をしていた病院はない。しかし、抗がん剤治療が収益にプラスであることは間違いなく、治療を控えようというブレーキにならないことも事実だ。

この最後の引用からもうかがえるように、小野寺にはがん治療を行なう医師に対する不信感があるようだ。

小野寺時夫『ムダながん治療を受けない64の知恵―医者任せが命を縮める』(講談社+α新書)を読了した。この頃この手の本が非常に多い。題名を見るだけで食傷気味のところがあるのだが、以前小野寺の本を読んで、彼の考え方を知っているので、この本も読んでみることにした。小野寺は元都立病院院長で、現在は日の出ヶ丘病院のホスピス医である。

この本で小野寺が述べていることは、ガワンデが『Being Mortal』で述べていたことと一致することが多い。ただし、小野寺が外科医として、その後ホスピス医として経験した患者に基づいて本書を書いているのに対し、ガワンデはかなり広範囲にフィールドワークを重ねた上で『Being Mortal』を書いていた。小野寺の主張は、やや外科に限定された感じがし、在宅ホスピスや訪問看護の視点が欠けている。もっとも、この本の主眼は「ムダな治療を受けない」ことにあるのだから、それでも構わないのかもしれない。

小野寺は、病気の治療法は患者が「自己責任」で決めることだと言う。
手術、放射線治療、抗がん剤治療のどれにするか、あるいは、何の治療も受けないか、本来は患者自身が納得して「自己責任」で決めるべきことなのです。[中略]

[がん治療に関しては]これが絶対に正しいという選択のない場合が多いのです。

ですから、病状をよくよく理解したうえで患者自身が治療法を選び、治療の結果はこれを受け入れる覚悟を持つこと、これが「自己責任」ということです。(19ページ)

小野寺らしい言い方だと思う。基本的に正しい。しかし、患者にとって困るのは自分の病状を理解することが難しく、治療法を選択するのに必要な治療成績がわかりにくいということではないだろうか。ウェブマガジン「日経Gooday」のコラム「医療問題なぜ?なに?ゼミナール」の第10回でCOML理事長の山口育子は、電話相談に「自己決定できない」という「判断を求める電話」がくるが、その理由が以前とはすっかり変わったと述べている(http://gooday.nikkei.co.jp/atcl/column/14/091100014/072300010/)。理由の詳細は第11回「インフォームド・コンセントの定着が“説明不足”を招いている」(http://gooday.nikkei.co.jp/atcl/column/14/091100014/081900011/)で述べているが、要は「詳細に説明されるためにかえってわからなくなる」というのだ。

昨日のブログで、診療報酬本体の0.49%引き上げ改定に対し、ジャーナリストが報道すべきなのはこの数値がどのような理由で生まれたのか、そしてそれが私たちの生活にどのような意味を持つのか、さらにはそれが正しい判断なのかか違っているのかというジャーナリストとしての判断だと述べた。ここで医療者としての私が見解を述べておかねば、卑怯であるような気がする。資料を準備する時間がなかったので、大まかな見解のみを述べておきたい。

現在、赤字の病院が多い。診療報酬がじわじわ下がっていることに加え、「損税」の問題が経営を徐々に圧迫している。損税とは、医療費には消費税の上乗せがないのに、医療機関が支払う光熱費、消耗品費、医療機器代などに消費税が加算されている問題である。医療機関は消費税を払うばかりで、受け取ることがない。医療機関は消費者が支払うべき消費税を肩代わりしているとも言える。消費税が8%に増税されたため、医療機関の負担は増している。今後10%に引き上げられることになっており、危機感を覚えている医療機関も少なくない。そこで医療機関の経営者側は診療報酬の引き上げを強く望んでいた。診療報酬を毎年削減することが既定方針化することを避けたい狙いもある。

それに対し、財務省は国家財政の危機的状態を何とかしようと、社会保障費の削減に努力している。診療報酬も例外ではなく、引き下げの対象である。そこで、官僚と「族議員」の力くらべとなっているのだ。0.49%という具体的な数値の出処は報道の通りだろう。0.5%になるのを避けた上でぎりぎりの上げ幅になった。

財政規律の堅持を掲げた官僚が負けたのは、参院選を控えて自由民主党側が医療界の票をほしがったからだと考える。これも報道の通りだろう。では、この引き上げの持つ意味は何か。

国の財政が借金で成り立っている現状では、診療報酬を上げるということは、後代にツケを残すということ以外の何ものでもない。強い言い方をすれば、後代に対する裏切り行為だろう。診療報酬を下げ続ければ倒産する医療機関が増え、現在の医療供給体制を維持できなくなるという。私はそれは仕方のないことだと思う。現在の医療供給体制は日本の身の丈に合わない過剰なものだ。国民が医療に過度に依存せず暮らす社会を目指し、医療供給体制そのものを縮小することしか解決策はないと考えている。

診療報酬をさらに下げれば、医療供給体制は縮小せざるをえない。私たちにとって本当に必要な医療とは何かという議論が、そこで初めて可能になるのだ。

開業している医師の間では、2016年度の診療報酬改定で技術料に当たる本体部分が0.49%引き上げられたことが話題になっている。改定全体では、薬価を1.22%、医療材料を0.11%引き下げるなど、1.03%の引き下げになってはいるが、赤字の病院が多いことから、2017年4月の消費税増税を控えて、ほっとしている施設は多いだろう。

この改定率確定までの政治家たちの動きを共同通信が12月22日に配信している。私は医療ポータルサイト「m3」に掲載された「参院選控え財政規律揺らぐ 医療界に5百億円増額」(https://www.m3.com/news/general/385603)で読んだ。表に出ない水面下の動きを、ドキュメンタリー風に報道している。一部を引用する。
「総理が決断した数字です」。予算編成の期限が迫った18日夕、東京・永田町の国立国会図書館の一室。ひそかに集まった田村憲久前厚生労働相ら自民党の厚労族議員に対し、政府側は"首相裁定"を強調して「診療報酬本体+0・49%」と書かれた紙を示した。「日医は納得したのか」。その点を確認すると、族議員は受け入れを決めた。わずか30分足らずだった。

その直前、安倍晋三首相と麻生太郎財務相は官邸で同じ数字を挟んで向かい合っていた。「もう少しどうにかなりませんか」。首相は上積みを求めたが、麻生氏は譲らず、首相は矛を収めた。

首相や族議員は今回、08年度に自公政権が手掛けた「本体0・38%増」を大きく超えることを強く意識していた。0・4%台なら及第点。あと一息で0・5%に届く。だが麻生氏は一歩も引かなかった。わずかな差に見えるが「ここが財務省のプライドだったんだろう」と、族議員の一人が振り返った。

まさにテレビドラマでも見るように、政治家たちのやりとりが描写されている。まるで悪徳商人と悪代官のやりとりのような風情だ。私はこのような報道が嫌いだ。

報道すべきことは、このような数値がどのような理由で生まれたのか、そしてそれが私たちの生活にどのような意味を持つのか、さらにはそれが正しいのか間違っているのかというジャーナリストとしての判断だろう。「いや、理由なんかなくて、ただ力関係だけで決まっている。それが日本の政治です」ということなのかもしれない。ならばそのように、非難をこめて報道すべきではないだろうか。

以前から私は政治記者の話ぶりが嫌いだった。政治家の何某と何某はどんな関係があって、どんな恩義があって、料亭でいつ密談したから、今回の案件はここで政治決着したなどと、得意げに述べる。それは日本の歩む道にとって枝葉末節であり、報道はその政治決着の裏にある思考・政策の妥当性と、社会に対して持つ意味を分析して示すべきだろう。「永田町の事情通」に求めるべきものはない。

この記事のタイトルには「財政規律揺らぐ」とある。いかにも自由民主党が参院選での票欲しさに金を医師会にばらまいたとの印象を与える。本文にも同様の趣旨の記述が満載だ。私も、この事態を同じように理解している。政権は票を金で買ったのだ。しかしそのことは、単に政治家や日本医師会に悪印象を持たせるような記事を書くことで糾弾してはならない。きちんと理論で批判しなければならない。

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