阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年11月

将来の医療費が国家財政を圧迫し、このままいくと医療制度が破綻することが明らかなのであれば、今後の医療はある意味で縮小してゆかねばならない。11月27日に閣議決定された「2016年度予算編成の方針」について、医療ポータルサイト「m3」には以下のような記事があった(https://www.m3.com/news/general/378740)。
基本方針の中で、医療を含む社会保障関連費について具体的な言及はなかったが、堅持を掲げる「経済・財政再生計画」で、高齢化等に伴う社会保障関連費の増加分を3年間で1兆5000兆円以内に抑えるとしており、2016年度の増加分を確実に5000億円に抑えることが求められそうだ。厚労省は高齢化等に伴う伸びとして6700億円増を概算要求しており、1700億円の削減となる。

社会保障関連費は介護や年金も含まれるが、2016年度に改定や制度改正があるのは医療だけで、1700億円の削減は医療だけがターゲットだ。

縮小するに際して、アクセス、質、費用負担の3つを、どのようなバランスで縮小してゆけば良いのかが問題となる。質を下げるのは問題外だろう。最高の医療を諦めることはしかたないとしても、現在実現されている医療の質より低いレベルで我慢するという選択肢が受け入れられる可能性はない。少なくとも「現状維持」が望まれているはずだ。

費用負担を増加させるのにも限界がある。診療報酬を引き上げ、患者の負担を増加させれば、低所得者の医療へのアクセスを阻害することになり、生活保護受給世帯など医療費の支払いを免除されている人びとに対する不公平感が広がり、対立を悪化させる一因となる。

結局、アクセスを減少させるしかないと私は考えている。重要なのは、制度によって制限するのでなく、人びとが自ら医療から距離を置くような文化を醸成することだ。放置しておいても治る「病気」で医療機関や薬剤を利用するのは、決して勧められることではないという考え方、ものの見方を社会に植え付けなくてはならない。つまり、医療政策の問題というより、教育の問題であり、雰囲気作りの問題なのだ。

それには、医療機関や製薬会社が広告宣伝を行なうことを制限しなければならないだろう。それどころか、タバコのパッケージに「健康を損なう」と明記しようという考えと同じで、医療機関の玄関に「不要な受診はかえって健康を害する」と掲示しても良いほどなのだ。医療機関のなかには経営が立ち行かなくなるものも現れるかもしれない。だから「軟着陸」が望ましい。

いろいろな意見があるかとは思うが、医療者の本務が患者の健康を増進することであれば、患者の受療を減らすこと、受療しないで済む力を患者に付けることも、医療者の勤めのはずだ。

医療について、アクセスと質と費用負担に対する要求を3つとも叶えることは無理だとよく言われる。つまり、望むときに医療を受けられるようアクセスを確保し、受けられる医療の質を保とうとすれば、どうしても費用負担はかさんでしまう。医療費を抑え、さらに高い質を維持しようとすれば、医療を受けることが難しくなるということだ。無理だというのが真実かどうかはわからないが、現在の医療と制度を見るかぎり、このトレードオフから逃れる方法は無いように思える。

国は医療費の伸びを抑えようとしている。2016年度の診療報酬改定もマイナス改定になるとの予測が一般的である。同様にマイナス改定だった2006年の改定について島崎は失敗が多いと断じている。
[失敗の]最大の原因は、マイナス改定であったにもかかわらず、〝無理をしすぎた〟ことである。その教訓は、(1)マイナスまたは小幅な改定幅の場合は改定項目を厳選すべきこと、(2)政策意図に反する行動が生じないように算定要件の吟味を十分に行うこと、(3)想定に反する事態が生じたら速やかに是正すること、の重要性である。(154ページ)

はたして2016年の改定では過去の事例をもとに学習がなされているのだろうか。島崎は第5章で、一連の医療制度改革が大きな制度改革の流れの中に位置付けられるものであることを強調している。つまり、私たちの目は医療制度に向けられがちであるが、医療費を含めた社会保障費が歳出の3分の1を占めるようになった今、社会保障や住宅政策なども含め、ひいては歳入歳出の構成をも含めた制度の再設計が必要になっている。また、現在の医療は特例公債という借金を重ねることによって成り立っているのである。
もとより、このような[引用者注:特例公債を発行せざるをえないような]状態が永続できるわけはない。しかも、今日、政府の長期債務残高はGDPの2倍を超えており、2020年にプライマリー・バランス(基礎的財政収支:PB)の黒字化が財政健全化目標になっている。なお、PBを黒字化するということは、「新たな借金はしない」ということであり、PBが均衡したとしても既発行の国債の毎年の金利分は債務残高に積み上がる。いずれにせよ、医療・介護に対する財政制約は厳しさを増すことは覚悟せざるをえない。(99ページから100ページ)

2018年は、財政再建の一区切りの年であり、それに向けて制度の整備が着々と行なわれている。医療だけが別行動をとることはできない。マイナス改定はやむをえないのだろうが、島崎が指摘する十分な吟味と速やかな是正が確実に実行されることを期待する。

藻谷浩介『デフレの正体』(角川書店)では人口の変化が経済にもたらす影響が強調されたが、島崎も人口の変化によって医療が受ける影響を重大なものと捉えている。この本では第4章全体を「人口構造の変容が医療制度に及ぼす影響」としてその解析に宛てている。

島崎は、医療に関する問題が人口構造の変容により政治問題化する可能性として、世代間対立、世代内対立、地域間対立を挙げる。世代間対立は医療資源を最も消費する高齢者が増加し、その費用を支える現役世代が減少することによって生じる対立である。世代内対立は非正規労働者の増加に伴う格差の問題である。地域間対立とは都市部と地方との人口構成が異なることによる軋轢である。

これらの対立を解決してゆくのが政治の役割だと島崎は言うが、同時に「利益の配分に比べ負担の配分ははるかに難しい(106ページ)」とも指摘する。
特に医療・介護との関係でいえば、世代間の利害対立が先鋭化することが懸念されるが、これを民主的な政治プロセスを通じ解決することは難しくなる。なぜなら、高齢者の有権者比率が上昇するため、高齢者にとってマイナスとなる政策決定が行いにくくなるからである。(107ページから108ページ)

ではどのようなプロセスによれば良いのだろうか。将来をにらんで、国の方針としてある程度の強制力をもって決めていかねばならないのだろう。島崎は高齢者医療制度について、負担割合を上げるべきだと主張する。昔の老人医療費の無料化が失政であったことは定着した考え方なのだと思う。現在75歳以上の負担が1割であるのはその後遺症だろう。少なくとも2割(70歳から74歳と同レベル)まで引き上げるべきという彼の主張に私は賛成だ。

後期高齢者医療制度が定着したという評価に対して、彼は「むしろそのことが問題」だとする。
つまり、後期高齢者医療制度の創設は、(1)高齢者自らが納める保険料の水準が適切なのか、(2)若年世代は支援金の負担に耐えられるのか、(3)公費の財源確保をいかに行うべきか、といった世代間配分ルールのあり方を議論する契機とすることが眼目であったはずなのだが、そうした本質的な議論が行われずに今日に至っているからである。(222ページから223ページ)

この本にはいくつかのコラム記事があり、107ページのコラム2では姥捨て伝説が親孝行の説話であると紹介している。世代間対立を解消し、各人が老いの問題、生産に関わらなくなることと死を迎えることについて、我が事として具体的に考える文化を醸成することが課題だろう。また高齢者が若年世代に対する責任を感じる文化も必要だ。

島崎謙治『医療政策を問い直す―国民皆保険の将来』(ちくま新書)を読了した。著者らしい、非常に緻密な議論を展開した本だ。現在までの医療政策の歴史を概観し、現在の医療政策のありようを把握し、将来の医療政策を考える手がかりを整理するのに絶好の本だった。

新書版ではあるが専門書と同じ手応えを感じる本だった。この本のテーマとして世間で扱われていることは細大漏らさず言及しておきたいという著者の熱意が感じられた。こまごまとした意見や提案も網羅的に取り上げられ、それに対して著者の意見を明確な言葉で述べている。意見も月並み・通り一遍のものではなく提言として意味のあるものを目指している。この本の読者に自分の考えの基本となるところを伝えておきたいという気持ちが感じられた。

明確に意見を述べることは勇気がいる。意見の一貫性が保たれねばならないということも圧力になる。人がそのときどきて思いついたことは移ろいゆく。それは当然のことだ。しかし、書作や論文として残したものの主張が移り変われば、読者は混乱し、その著者の主張は受け入れられなくなる。すべての論文・論説を貫く思想、文学的表現を借りれば通奏低音のような流れが求められる。これは論文を自分のために書くのか、世に問うために書くのかという姿勢の違いにも関係することだ。研究の末に得たものは堺に還元する必要があり、得た知見を論文にするのなら、読んだ人が理解し、学ぶことができる論文でなければならない。もし論文と自分のために書いているなら、そのような配慮は必要無い。この本には「発信しよう」という意図がたしかに感じられる。

人は間違う。医療安全の世界では「To err is human」という言葉が有名である。同名の書籍の題名は「人は誰でも間違える」と訳されているが、この成句は「間違うは人の常」と訳されることもある。元の警句でこの言葉と対になるのが「to forgive devine」である。この両方を訳せば「間違うことはいかにも人間らしいことだ。許すことは神々しいことだ」と訳せる。原文の調子を重要視し「過つは人の業(わざ)、許すは神の業(わざ)」「誤りは人の常、許すは神の常」など、数々の訳が工夫されているが、どれも原文の「間違うのはとても人間らしいこと。でもそれを許すのは神様がなさるようなすばらしいこと」という、許すことを誉め讃える感じが失われてしまっている。

島崎が扱っている題材はこの10年から20年の「近未来」である。当然一部の「予想」については「回答」が出る。自分の予想が当たるようにと心の底で願わないのだろうか、予想が大きく外れたとき、彼はどのような論文を書くのだろう、と私は思わず心配してしまう。おそらく学者は私とは違った視点に立っているのだろう。

予想が外れた場合、それはひとつの経験として蓄積されるのだ。株屋の予想が外れたら単なる損だが、学者の予想が外れた場合、それは知識・経験であり、将来の肥やしになる。私はそこまで、金なり学識なりを賭けて予想をしているわけではない。その真剣味の無さが学者に劣るところなのだろう。

諌山創『進撃の巨人』(講談社)の第1巻から第12巻を読んだ。作者の諌山に興味を持ったからだ。たまたま見たBBCニュース・ジャパンに諫山への単独インタビュー「拒絶され諦めそうに」が2015年10月19日付けで掲載されていた(http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34559269)。そこで見た諌山の姿が印象的だったのだ。

「絵が下手だ」と何社も断られ、諦めそうになったところで講談社から声をかけられたという。講談社の担当者は絵の下手さを補って余りある何かを見つけたのだろう。このような話の面白さは、背後にある世界と世界観の大きさによって決まる。彼の用意した世界はかなり大きく、まだまだ全貌が見えない。ただし、話はかなり暗い。インタビューで見た諌山も、何か思いつめたようなやや暗い印象だったが、彼の性格が反映したストーリーだと感じる。

ただ、結末を読むまではストーリー全体の評価はできない。先ごろ映画化された岩明均『寄生獣』は原作しか読んでいないが、結末がやや物足りなかった。先が読めてしまい、作者の「話をまとめあげよう」という意図が見えてしまう。ストーリーがユニークで、哲学的なテーマを持っていただけに、きれいに終わったのは残念だった。なお映画の出来については否定的な意見もあるようだが、観ていないのでコメントできない。予告編を観ただけで観る必要がないと感じたのだ。

諌山の絵は確かに上手くはない。だが、どんどん上達しているように思う。私が彼の絵に慣れたのかもしれないとも思うが、10巻あたりではキャラクタの描き分け、表情の描き分け、動きの描写などがずっと進歩しているように感じられる。ただ、具体的な指摘をする能力は、私にはない。

漫画家がストーリーだけでなく絵も描かねばならないというのは、非常にハードルの高い仕事だと思う。いくら面白いストーリーを思いついても、絵が描けなければ漫画家にはなれない。もちろんそれを文章にしようとしても、訓練を受けていない素人では、読むに耐える文章が書けないのが普通だ。しかし文と絵ではハードルの高さが違う。

シンガーソングライターについても同じように感じる。槇原敬之にしろユーミンにしろ、詩作の才能と作曲の才能の両者を兼ね備えているからデビューできた。歌唱能力も必要だった。最近では外見も求められる。昔、メディアが単純だった時代に比べて、現代は世に出るための条件が非常に複雑になっている。外見、態度、行状も、程度の差こそあれ社会に受け入れられる条件に含まれるようになった。たとえば石川啄木が現在に生きていた場合、彼の行状が週刊誌などで叩かれ、文学の世界から葬り去られていたのではないかとさえ思える。

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