阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年10月

表記のセミナーを受講した。考えてみればおかしなタイトルである。私たちが対策を必要としているのは「医療事故」に対してのはずだ。なぜ医療事故調査「制度」に対して「対策」が必要なのだろうか。

今年10月から改正医療法が施行され、法律で「医療事故」とされるのは「管理者が予期しなかった(提供した医療に起因する)死亡・死産」のみとなった。しかし、従来「医療事故」として扱われてきた死亡に至らなかった事案も、医療安全上の重要性は同じである。そう考えれば、改正医療法上の「医療事故」(予期しなかった死亡事案)のみに拘泥することは適切ではない。私たちはすべての有害事象に取り組み、対策を講じねばならない。

医療事故報告を受理する「日本医療安全調査機構」の木村常務理事は、いずれは重篤な後遺症を発症したものも扱うであろうと言っていたが、少し騒ぎすぎのように感じる向きもあるかもしれない。

ところが医療界には、実は医療事故調査制度に対する強い不信があるのだ。医療事故調査制度は医療安全のための制度であると、繰り返し述べられている。法律にも省令にもそのような記述がある。しかしこの制度には刑事免責も当事者保護の仕組みもない。いくら「医療安全のための制度」だと声を高くして訴えても、この制度を責任追及に利用することに対する歯止めが一切ないのだ。

日本国憲法では、黙秘権が認められている。諸外国の法律でも同様の規定が一般的だが、人は自分に不利な証言を強要されることはない。これは、人がきわめて圧力に弱い存在で、強要されれば真実と異なる「自白」をしてしまうことに由来する。極端な場合は、事実と異なることを事実と信じてしまう。数々の冤罪事件がそれを証明している。だから、人は自分に不利な証言をしなくてよい。その人が不正行為を行なったかどうかを立証する責任は国家や相手方にある。

医療事故の当事者となった場合、本来その人にはすべてを証言する義務がない。それでは事故の本質が明らかにならず、医療安全に寄与しないので、当事者を刑事免責する国が多い。ところが日本は刑事免責の制度がない。

その点を誤解して、医療安全のためとセンターに報告すると、当事者は非常に辛い立場に立たされる可能性がある。本来過失もなく、ただ結果が悪かっただけという事案に関わり、善意ですべてを述べた医療者が、刑事被告になったり、マスコミの批判の矢面に立たされたりする可能性がある。事情を知っている人びとは、それを心配しているのだ。

川渕は診療報酬を「平等」にすることで、実は受けたい医療を受けられなくなっているという。たとえば食事やアメニティに関し「何もそんなに安くしなくてもいいからもう少しマシなものを」と思っても、日本の医療制度ではなかなか患者に合わせた整備ができない。また、海外で承認されている薬の使用法が日本で未承認の場合、規制を正直に遵守すれば治療を諦めるしかない。川渕が挙げる例は抗癌剤のメトトレキサートだ。
[メトトレキサートが]慢性関節リウマチに有効であることは以前から知られ、現に米国では1988年にリウマチ治療への投与を正式に認可している。

わが国でも、適応外使用という長い不遇の期間を経て、ようやく1999年に〝解禁〟され、保険認可された。しかしこの製剤の使用上限は、週に8mg。実際は、この容量ではコントロールできない患者も少なくない。そこで、リウマチの患者に「がん」の病名を付して、この薬を投与するという複雑怪奇な現象が生じている。(028ページ)

これを川渕は「ヤミの混合診療」と名付けている。日本の保険制度では、医療行為は病名のつじつまさえ合っていれば保険適応となるので、それを利用した、本来ならば反則の行為だ(なお、現在は16mgまで認められているようだhttp://database.japic.or.jp/pdf/newPINS/00045664.pdf)。彼はここから「ヤミの診療報酬」に話を進める。医師への謝礼の問題だ。

「ささえあい医療人権センターCOML」が2003年に行なった調査結果をもとに、厚生労働省が発表する全国の患者数を使って謝礼の合計額を推計すると、年間3千億円を超える金額になったという。他の研究者の推計と近く、一定の信憑性のある数値だとしている。
この推計が2004年1月29日付日経新聞の社会面で取り上げられたことで、[開業医には関係ないと、開業医の団体である]日本医師会の当時の幹部(日本医師会・青柳俊副会長)から大変なお叱りを受けた。

また、ネット上でも〝川渕バッシング〟は大変なものがあった。「(大学教授を)辞職してください! 日経新聞のちょうちん研究なんでしょうが、医学部で医学教育に携わる方として見識を疑います。医師でもない医療現場も知らない人間が医療を語る愚かさ・害悪を思い知りました」「年間3000億円にもなることがわかった! こんな見出しはまさか先生は事前に知らなかったんですよね」(032ページから033ページ)

「ラフな推計」と断った上で記事にさせたらしいが、マスコミがそのような断りを無視して、興味を引く部分を強調して記事にするのは毎度のことだ。ただ、私は川渕はそれを百も承知でいた可能性があると思う。彼には「事実は事実として動かすことができない」という気持ちがあったのではないか。彼の人を食ったような話し方を思い出すと、どうもそんな気がする。

川渕孝一『日本の医療が危ない』(ちくま新書)を読了した。2005年刊の本なので、2005年以降の制度改革の予定について書かれている部分は、現状と合わない部分がある。しかし、しっかりした調査と確度の高い情報に基づいて書かれているので、まったく古い感じがしないし、どの部分も強い説得力を保っている。

川渕は一橋大学商学部で経営学を学び、1983年にある病院に事務員として就職した。
民間病院に一事務員として就職してみると、マネジメントなどというものは、かけらもなかった。そこにあったのは、社会性に欠ける医師と劣等感に打ちのめされた専門職集団、そして、背中をまるめて、小さく座っている患者だけであった。(008ページ「はじめに」)

そこで考えを変え、医療の質や医療政策に関する研究の世界に身を投じた。現在、東京医科歯科大学大学院の医療経済学分野教授である。彼は「制度がおかしければ、患者も医療者も浮かばれない」と結論する。彼の研究、口ぶりの背景には、この「原体験」と「結論」が存在していることを感じる。

私は川渕の講演を一度だけ聞いたことがあるが、データを次から次から次へと繰り出し「どうですか、皆さん?」と問いかける口調が今でも耳に残っている。この本も彼の口調そのままの本だった。次々に統計や制度の説明、過去の委員会決定などのデータが示され、日本の医療制度の「偏り」や「不合理」が指摘されてゆく。すべての議論について、その根拠となる数値や事情が示されているという点では、上昌広『医療詐欺』と対照的だった。著者らの性格の違いだろう。

私が聞いた講演の最後に、川渕は孤独死の問題に触れ、これからは孤独死がどんどん増える、孤独死が普通になる時代が来るとした上で、「孤独死なんて言っちゃいけません。『大往生』って言うんです」と言っていた。たしかに、最後まで自宅で暮らし、ある日突然姿が見えなくなったと思ったら死んでいたというのは「大往生」だ。それを「孤独死」と呼んで悪いことのように騒ぎ立てるのは間違っている。非常に共感したので、今でも強く印象に残っている。

井上清成の「医師の公的言論に対する検閲・自主検閲の禁止」という記事が「月刊集中11月号掲載予定」と但し書き付きでMRICから2015年10月19日に配信された(http://medg.jp/mt/?p=6206)。井上は医療を専門とする弁護士で、医療事故調査制度に関する発言も非常に多く、このブログでもたびたび引用している。

さらにこの記事には「断り書き」が付いており、その中で井上は「一般論」と断っているのだが、この記事が念頭に置いているのは明らかに小松秀樹の懲戒解雇事件である。小松は9月末に、副院長を務める亀田総合病院を懲戒解雇された。彼が千葉県の不透明な行政について担当者を痛烈に批判したことが解雇の主な理由になっている。この事件については多くのニュースがすでに流れているので、ここで繰り返すことはないだろう。気になるのは亀田側の反論がまったくと言っていいほど聞こえてこないことである。沈黙は金と、黙殺しているのだろうか。

亀田病院のことは30年ほど前から知っている。聞こえてくる噂は「すごい」という点では共通しているものの、良い話から悪い話までさまざまだった。亀田病院は思い切ったこと、突拍子もないことをするが、しっかりしたビジネスマインドを持っており、損になることはしない、という印象を持っていた。

その亀田病院が小松を副院長に迎えたときは、「さすが亀田病院」と感心したものの「はたしてやっていけるのだろうか」とも思った。というのは、亀田が思い切ったことをするといっても、その陰にはしっかりした計算が見え隠れしているのに対し、小松はあくまでも正論を通すタイプに思えたからである。

小松が千葉県や厚生労働省の不透明な行動を実名で批判し、千葉県や厚労省から睨まれたくない亀田病院が小松を切ったというのは、起こるべくして起こったことと思われた。だが、一民間病院であり、地域を支える役割も担う亀田病院に、存立をかけてまで国と対峙する気持ちが無いのは、ある意味で当然だろう。小松は亀田を買いかぶりすぎていたのかもしれない。

「日経トレンディ」というウェブサイトに2015年9月8日付で大西陸子のこのような記事が掲載された(http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20150904/1066233/)。大西はハーバード大学で基礎研究に従事する内科医である。この記事で述べられている事実を要約すると、次のようになる。
母乳で育てることには栄養的な面、心理的な面で優れている部分があるが、母乳はさまざまな化学物質で汚染されており、一概に粉ミルクがダメで母乳でなければいけないとは言えない。

もちろん大西は粉ミルクのリスクについても触れている。
消費者は、最新の研究に基づいた配合成分、厳密な品質管理、という企業のうたい文句を信じて購入しています。しかし残念ながらこの信頼が裏切られることがあるのは、古くは森永砒素ミルク事件、近年では中国でのメラミン混入粉ミルク事件が物語っています。その他にも輸送・保管中の品質劣化、原材料の汚染による二次汚染など、リスクがないとは言い切れないわけで、しかもそのリスクは消費者がコントロールできません。

中国の事件はきわめて例外的だろうが、粉ミルクと母乳の危険性を単純に比較することはできない。乳腺はもともと汗腺から発達したもので、血中の化学物質を排泄する働きがある。母体が摂取した化学物質が乳汁中に移行することを防ぐことはできない。記事中では、生殖毒性、内分泌かく乱作用、免疫機能の低下や発がん性が懸念されているパーフルオロアルキル物質(PFASs)という添加物についての研究結果が紹介されている。

新生児の血中PFASs濃度を追跡したところ、完全母乳栄養の子どもでは濃度が毎月上昇しつづけ、出産時と5歳で比べると、16%から31%まで高くなっていたとのことだ。これに対し完全母乳ではなかった子どもは増加の割合が低いこと、母乳を与えるのをやめた子どもはPFASs濃度が低下したことなどから、「乳児期のPFASsによる汚染の主要な原因は、母乳であることが示唆された」としている。

しかし、大西が訴えたかったのは母乳の危険性でも、粉ミルクの安全性でもない。どちらも危険だという話でもない。「母乳でなければよくない」と決めてかかり、さまざまな理由から母乳栄養に障害がある人びとを責めるような風潮が良くないと訴えているのだ。この結論はきわめて常識的だと思う。「決めてしまわないこと」が必要なのだ。

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