阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年10月

岩田健太郎:編『診断のゲシュタルトとデギュスタシオン』(金芳堂)を読了した。面白い本だったが、なぜこのような書名を付けたのかと疑問に思う。これは岩田の「遊び」なのだろうか。

ゲシュタルトはドイツ語で「姿形、人影」という意味だが、学術用語としては「ゲシュタルト心理学」のように、全体を分割せずひとまとめとして捉えるという意味で使われる。

デギュスタシオンはフランス語で「味の鑑定、利き酒」という意味だそうだ。ワインやフレンチには縁がないので知らなかった。ギュスタシオンに「味わうこと」という意味があり、「デ」は「反対、否定」などを表すので、「味わうことにより分けてゆく(ばらばらにしてゆく)」という意味になる。

このような「気障な」書名を付けたことでかなりの読者を遠ざけているのではないだろうか。私の関知するところではないが。

「腸アニサキス症」の項を読んで、少し考えるところがあった。よく知られていることかもしれないが、アニサキスは北洋の海棲哺乳類の胃に生息する寄生虫である。糞とともに排泄された虫卵は幼虫となってオキアミの体内に入り、オキアミを食べる北洋の魚介類の体内に取り込まれ、そこで海棲哺乳類に捕食されるのを待つ。それらの魚介類を生食すると、アニサキスの幼虫が人間の胃壁や腸壁に潜り込んで激しい痛みを生じる。

日本での最初の報告は1965年と新しい。
古の時代より魚を食べてきた日本では、病気の存在自体は把握されていたはずですが「サバに当たった」などとして、病名がつくほど確立したものはありませんでした。(279ページ)

病気が恐ろしいのは命を奪われるからで、このように放置すれば自然治癒する「病気」は、従来適当な名前で呼ばれ軽んじられてきたのだろう。現代になって病因が解明されたのは、全身麻酔による外科手術がどこでも安全にできるようになり、強い腹痛に対して「試験的開腹」ができるようになったからだと推測する。この項を分担執筆した窪田忠夫は「多くの疾患は医学の進歩とともにより負担のかからない治療法ができてゆくものですから皮肉と言えます」と言う。

アニサキスはすべてのサバにいるわけではない。北洋のオキアミにいるものなので、北洋で獲れた魚や北洋に回遊する可能性のある魚以外にはいない。「種類だけでなく産地まで聞かなくてはなりません」と指摘するが、腹痛で外来を訪れた患者がサバを食べていたからといって、「どこ産のサバですか?」と訊いて答えられることは少ないだろう。

川渕が医療の財源として提案しているのが「医療貯蓄講座制度」である。シンガポール、中国、米国の一部などで実施されているという。
シンガポールのMSA[引用者注:医療貯蓄講座制度であるメディセーブ口座制度]は、国民の口座に、年齢に応じて一定の割合を強制的に貯蓄させ、これを中央積み立基金(CPF)が運用するというもの。入院医療費と一部の外来医療費の支払いにあてられ、運用益は非課税であり、本人が努力して健康を維持し、医療費として使われなかった場合には、残額の一定額まで非課税で相続できる仕組みになっている。貯蓄のできない低所得者には、CPFの運用益から一定の社会保障費が支給されている。(221ページ)

日本は貯蓄率が高いので、MSAのような制度は受け入れられやすいのではないかと彼は考える。また、MSAが(貯金が減るので)受診抑制につながるという指摘に対しては、保険と併用し、癌医療や急性期医療を保険でまかなうことで解消できるとしている。私は事故などによる外傷は保険でみるにしても、癌治療はMSAで良いのではないかと思う。この点を川渕と話してみたいものだ。

川渕は混合診療の導入も提案している。そのベースになるのは「現物給付」から「現金給付」への移行だ。現物給付とは医療がそうであるように、実際の行為を提供するもの、現金給付とは、介護保険がそうであるように利用者が「原則として全額を事業者に支払い、その後、保険者が被保険者に対して費用を支給するというもの(225ページ)」である。介護保険では、この制度のおかげで、保険外のサービスを保険内のサービスと混合して利用することができる。医療保険も現金給付にすることで、混合診療が自然に行なえるようにしようというのが彼の提案だ。

さらに彼は医療の質の向上に努力している医療機関に「ごほうび」として混合診療を認めてはどうかと言う。
より具体的には、治療日数を劇的に短縮し、結果的に医療費削減に貢献できる新技術を採用する医療機関に対しては、削減した医療費の一定額を成功報酬として上乗せ還元してはどうか。これは医療提供者への動機づけである。(230ページ)

これからの世の中は価値観が多様化するだけでなく医療も多様化し、決まった医療ですべてが解決できる、あるいは皆が同じように満足できるというものではなくなる。国民皆保険は捨てがたいが、どこでも同じ医療が受けられるという医療の均質化は不要になるかもしれない。

少し日が開いたが、川渕孝一『日本の医療が危ない』(ちくま新書)について再び書きたい。

川渕は医師ではないが、医療について精通している。個別の疾患に関する記述を見ると「おや?」と思うことがないではないが、一般の人に対してはこれくらいの説明で良いだろうと思える程度のものだ。

もし彼にその点を指摘したなら「あ、そうですか? ○○(と英語の教科書を挙げ)という本を参考にしたんですが、間違ってますか? 人種差ですか? それとも『見解の相違』ですか?」と言われそうな気がする。彼は出典を明記していないことが多いが、どの記述についても見覚えがあるものが多い。充分な調査・研究に基づいて書いていることは明らかだ。それにしても、これだけの膨大な資料を次から次と繰り出すことのできる能力は大したものだ。

本書の最後で川渕は複数の対策を提案している。ひとつは予防医療に保険給付することだ。これは確かに有効だろう。健康維持のための費用が軽減され、皆が疾病予防を気軽に行なうようになれば、医療費の総額は減少することが期待できる(この考えについては、数日後に稿を改めて述べることとする)。さらに彼は医薬品を3段階に分けることも提案している。
Aランクは医療上の有効性という点で画期的な医薬品で、いわゆる「生命にかかわる医薬品」がこれに該当する。当該医薬品は、研究開発に莫大な投資がかかることから、原則自由料金として[引用者注:薬価の設定は開発企業に任せ]製薬企業の開発意欲を高めつつ、患者の自己負担は限りなくゼロに近づける政策が望まれる。

これに対して、Bランクの医薬品については保険で面倒をみるが、公定価格[引用者注:現行の保険制度のまま]とする。患者の自己負担割合は現行通りとする。(205ページ)

Cランクの薬は保険給付の対象外か、自己負担を8~9割にするというものだ。これに加えて、彼は日本の医薬品をすべて見直すことを提案している。日本でしか承認されていない薬、日本で認められた適応症が諸外国と異なる薬が多いからだ。たしかに日本には「怪しげな薬」が多い。患者は何かというと薬を欲しがるので、そのような毒にも薬にもなりそうもない「薬」はそのようなとき処方するには重宝だとはいえ、正しい姿ではない。

川渕は、厚生労働省が副作用を恐れるあまり、諸外国より少ない用量で薬を認可する傾向があると指摘する。日本では管理者がすべての面倒を見るべきだというパターナリズムがまだまだ根強い。薬を使う限りは副作用に関してある程度の自己責任を前提とするような考え方を、国全体として持つようにならないかぎり、「不十分な用量の薬」の問題は片付かない。

日本医療安全調査機構の木村壮介常務理事が、10月18日に開催された日本医師会医療安全推進者養成講座の講習会で行なった講演の記事が、医療ポータル「m3」に掲載されている(https://www.m3.com/news/iryoishin/367805)。
「誤薬等の単純事例であっても、調査項目を省略せずに丁寧な調査を行うことが重要」と説明したほか、急性心筋梗塞を見逃して適切な対応をしなかった場合も「医療に起因したと判断される例」となり、報告対象となり得るなど、事例を挙げて医療事故調査・支援センターへの報告の考え方を紹介した。(同記事より)

機構は報告を受け、解析し、対策を立案して周知するのが仕事だ。どうも報告を集めたがっているように思えてならない。もちろんいくら事故が少ない方が良いとはいえ、日本の医療規模から推定される妥当な数の報告がなければ、報告すべき事例がされずに終わっていると判断され、良いことではない。また、機構としても開店休業にならないかと、心配もするだろう。

しかし、医療安全のための制度とはいえ、医療事故調査制度は当事者の人権が担保された制度ではない。当事者が「こうしておけばよかった」「あれに気がつけばよかった」と報告書に書けば、すぐさま捜査が開始されたり、損害賠償請求が行なわれたりする。問題のある判定のためにオリンピック金メダルを逃した柔道家のように「私が弱かったからです」と言っても、褒められずにかえって叩かれるのが現実だ。

大多数の医療者は、医療安全の向上に協力しなければならないと考えている。それを躊躇させるのは、「自分の技術が未熟だったせい」「後から考えれば反省すべき点は多々ある」といった従来の謙譲が美徳ではなくなり、攻撃の対象になっているという恐れなのだ。その点で、機構の態度は現場を安心させるものではない。

演者として全日本病院協会会長の西澤寛俊も登壇した。彼はいわゆる「西澤研究班」の代表者で、彼の研究班は、何回も会合を開きながら結局まとめを出せなかったことで有名になった。彼の講演を聞いて、その理由がわかった気がした。

医療事故が「予期しなかった死亡(死産)」と定義されたことで、死亡症例が医療事故に該当するかどうかは予期されていたかどうかの検討が済まなければ確定できない。ところが西澤のスライドでは「従来の」医療事故と「医療法上の」医療事故が区別されておらず、流れが混乱している。家族(遺族)への説明も、死亡時の説明と医療事故と判断した際の説明が一緒のものとして図示されていた。彼の研究班と相対するような形になっていた坂根研究班の坂根みち子がセミナーに出席しており、この点について質問していたが、彼は「死亡時の説明はかならずするものだから一緒にした」と筋の通らない説明をしていた。

彼の前には日本医療法人協会常務理事の小田原良治が講演したが、その講演の中で「悪い例」として挙げられていた図は西澤の図だった。ところが西澤はその同じ図を堂々とスライドで提示しており、その態度には張り合う様子も弁明する様子もなかった。つまり、西澤は小田原の批判を聞いていなかったか、あるいはまったく意に介していないということらしいのだ。また、これまでさまざまなところで繰り返されてきた議論についても、いっこうに関心がないらしい。

私はいささか驚いた。そして、西澤には申し訳ないが、彼のようなリーダーのもとでは個性的な委員たちがまとまるわけはないと納得したのだ。ただ、私がわからないのは、主催者がなぜ西澤を講師に選んだのかということだ。主催者の見識が低いのか、あるいは西澤を晒しものにしようと企んだのか。いずれにせよ高い受講料を払って聞きに行くのだから、もう少し考えてほしかった。

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