阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年09月

自分がよく知っているはずの知識でも、別の整理のされ方をしたり、目新しいポイントを指摘されると、新鮮に感じることがある。先日、知人の小児科医の講演を聞いたのだが、「規則正しい生活」についての話を聞いて、そのように感じた。知っていることなのだが、忘れていたことを思い出したような感じがしたのだ。

講演のテーマは小児の頭痛・睡眠障害・不定愁訴であった。子どもの頭痛や不定愁訴は、背景に睡眠障害があることが多い。また不登校を合併することも多い。子どもの睡眠障害や不登校を治療しようとするとき、重要なのが生活のリズムの調整である。彼は「規則正しい生活」とはどんな生活だと思うかを会場に問いかけた。
「規則正しい生活」っていうと、みんな「早寝早起き」って言いますけど、それは間違ってます。「早起き」だけなんです。人間の活動のうち、自律神経が支配しているものは、基本的に意思の力ではどうにもなりません。「心臓を少し早くしよう」とか、「体温をちょっと上げよう」ということはできないわけです。ところが、意思の力で何とかできるものが2つあります。それは「起きること、覚醒」と「呼吸」です。でも、睡眠は意思の力ではコントロールできません。だから「早寝早起き」ではなくて「早起き」だけなんです。(談)

たしかにその通りで、不眠症の人が規則正しく寝ようとしてかえってそれがプレッシャーになり、「自分は夜寝られない」という自己暗示も関係して、夜になるとかえって目が冴えるという話をよく聞く。意識して眠ることはできない。それに対して起床は、意思の力で無理やりにでもすることができる。飛行機に乗った後の「時差ぼけ」を直すには、睡眠と食事を現地の時間に強制的に合わせることだと聞いたことがある。自律神経の間接的コントロール法として睡眠(と食事)が有効だということがわかる。

睡眠と食事が長周期の自律神経活動をコントロールするものであるとすれば、呼吸は短期間の活動をコントロールする。座禅でもヨガでも、呼吸をコントロールすることで全身の状態をコントロールする。コンピュータを使ってメールを打ったり、プログラミングしたりしている際には呼吸を止めているという。英語では「電子メール無呼吸(email apnea)」と呼び、2008年にリンダ・ストーンという元アップル社重役が作った言葉だそうだが、エスティーズというブロガーがGizmodoというブログで取り上げ、2013年頃にも話題になった。80%ほどの人で呼吸が不規則になるのだそうだ。

話を元に戻そう。ストレスに会った時に深呼吸したり、呼吸を整えて気持ちを切り替えたりすることは、誰しもすることだろう。自律神経を間接的にコントロールする手段として、呼吸の重要性にもっと注目しても良いと思う。プログラミングの最中には、意識してときどき深呼吸をしよう。

この本の第4講では、みずほ銀行のシステム障害と、東証売買システムの障害が取り上げられている。システム開発に関わるものとしては、思い当たることばかりの話だった。

みずほ銀行の場合、当初はしごく真当な「新しいシステムを作る」という方針だったのが、合併する3行のシステムベンダが異なったことから、その3社で激しく競合することを避け、3つのシステムを合わせれば良いと考えたのが間違いだったと指摘する。
この背景には、三行の主導権争いもあったようです。どこか一つの会社にシステムを担当させると、そこと取引がもともとある銀行が優位に見られるという程度のつまらない考えが働いたのでしょう。しかも、こうした判断を下したのは、システムエンジニアリングのことをまったく理解していない経営陣でした。裏を返せば、半ば素人だから「三つのシステムをうまくつなげれば、ちゃんと運用できる」というぬるい判断ができたという解釈もできます。(150ページ)

システムの移行や接続が、非常に難しい作業であることはシステム屋の常識だ。たとえば電子カルテのベンダを乗り換える場合は、昔のデータは参照しかできなくなるのが普通である。以前のシステムで発行した処方箋があっても、それを新システムにコピーすることはほぼ不可能になる。客観的な数値データのはずの検査データですら移行できないことがある。

畑村はトラブルの根本的原因は「付加設計」だという。付加設計とは、「条件などが変化して新たな要求が生じた際、設計全体を一から見直すのではなく、小出しに新たな機能を付け足していくことで対処する方法(151ページ)」をいう。付加設計の例として畑村は山の中の温泉旅館を例にあげる。増築に増築を重ねて、内部が迷路のようになっている旅館のことだ。大浴場から自室に帰り着くまでに大変な思いをする。火災の際は逃げ遅れること必至だ。

実は「付加設計」が必ず悪いわけではない。今流行りの「アジャイル開発」は付加設計の進化したものと言っても良いだろう。違いは、初めから拡張を前提に設計されているということだ。それこそ「デザインパターン」を導入し、プログラムの構造を整理しておけば、後からの機能追加もスムーズにできる。ただし、機能追加をするプログラマもデザインパターンを熟知した人間でないと、構造を壊してプログラムを台無しにしてしまうのは、『ゲーム プログラミング パターンズ』でナイストロムが指摘していたとおりだ。

まだまだ書きたいことはあるが、読み終わった本が溜まってきたので、この本について書くのはこれで最後としよう。面白い本だった。

畑村はJR福知山線の脱線事故について、利便を追求すれば必然的に危険が増加すると言う。
もともと「利便」と「危険」は表裏一体のものです。「サービス」の名のもとに、利用者が求めるわがままを優先すると、必ず危険が顔を出します。そのせめぎ合いの部分で事故が起こるのです。(133ページ)

臨床の現場でも、患者の利便を図るとかえってトラブルを生じることは、しばしば経験している。たとえば患者が書類を持参し、記入を依頼したとする。その日に書くことはできないので、後日に渡すことにしようと思ったが、たまたま1週間後に他の診療科の受診があったので、その日に渡すことにしたとしよう。何でもないことのように思えるが、書類の発行に関する手数料を当日(作成前に)徴収していまうのか、あるいは渡す日に支払ってもらうのか、どの診療科の収入とするのか(徴収日に受診した診療科の実績となるのが一般的)、作成した診断書はどの部署が預かるのか、病院によるが、決めておかねばならないことは多い。したがって、決めたことがうまく伝達されなければ、トラブルが発生する。作成した文書が受け取れない、キャンセルしたのに料金を請求されたなどのトラブルである。

あるいは退院のとき、荷物が多いので全部持って帰れない、一部預かってもらえないだろうかと言われたとしよう。次の患者が入院したら、前の患者の荷物はどこにしまっておけばいいのだろう。患者が荷物を取りに来たときに、もし荷物が足りないと言われたらどのようにすればいいのだろう。

実際に私は患者の利便を図って入院時間を調整したり、検査の日取りを調整したりして、かえって患者に迷惑をかけたことが幾度となくある。利便を追求すると、どこかでイレギュラーな運用が生じる。通常の運用はすべてのことが円滑に行われるように工夫されている。すべてが「当然」と思われている。ところがイレギュラーな運用を行なった場合、それら「当然」であったことが自動的に実施されることでなかったことが明らかになる。一連の手続きには、表面に現れないルールが組み込まれていたのだ。

ソフトウェア開発でも同様なことがある。ある過程をスキップしようとした場合、その過程を通過することで設定された変数や変化を受ける状態があることに気付いていないことがある。その場合、ショートカットを作成したことで、後になって正体不明のバグに悩まされることがある。

畑村はマニュアルの危険性に注目することも訴えている。マニュアルの整備も技術の陳腐化と表裏一体のものである。
マニュアル化の最大の弊害は、マニュアルの持つ意味合いや、なぜそのようなマニュアルがつくられたかという最も大切なことを、仕事をしている人自身が考えなくなることなのです。(103ページ)

マニュアルに沿ってやれば問題が起きないという期間が長くなるほど「時間の経過や条件の変化によって生じる想定外のことが起こると思考停止の状態に陥り、うまく対応できずに大きなトラブルを引き起こす(104ページ)」危険が増す。思考停止は郷原信郎『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)でも繰り返された言葉だ。何か「しっかりしたもの」に出会うと安心してしまうのは人情かもしれない。しかし、そこで「思考停止」するかしないかは本人の心がけ次第だろう。常に自分を客観視することが必要なのだ。自分を客観視する能力は才能だろうと思うが、鍛えることも可能だと感じている。問題は自分を客観視する能力に乏しい人は鍛えることにも消極的だとみられることだ。

医療の世界では、クリニカルパス(以下、単に「パス」とする)に同様の危険性がある。入院から退院まで(場合によっては退院後の近医でのフォローアップまで)に行なわれる医療をセットの形にして、説明、指示、検査、投薬などを一体化したパスは、「流行」の時期を過ぎ、医療の世界に定着した。

パスを作成する人は、治療に関する文献を集めたり、院内の運用を確認したりと、臨床だけでなく患者に提供される医療全体を把握する必要がある。ところがレジデントがパスのある病院で研修を開始すると、どのパスを適用すればいいかを考えるようになり、パスの内容まで踏み込んで考えない傾向が出てくる。なぜ術後の点滴としてある薬剤が選ばれているのか、なぜその投与速度が指定されているのかといったことは、医学的な必然性に基づくものばかりではなく、診療報酬や職員の手間、医局の慣習といったもので決まっていることもある。理由を調べるのが時として困難であることも、パスの個々の項目の意味まで考えないという姿勢に影響しているのかもしれない。
マニュアルはいくら使っても使っている人は賢くなりません。ところが、マニュアルを作った人はその分だけ賢くなります。(108ページ)

パスは適宜見直しするのが原則であるが、見直しの手間がばかにならないため、見直しされずそのまま長期間使用されていることが多い。見直しが難しければ、レジデントにパスをひとつ作成させる、あるいは既存のパスをひとつ取り上げ、各項目の意味を詳細に説明させるなどといったことをカリキュラムに組み込むと良いかもしれない。

畑村はマニュアルは次第に膨大なものになるので「個人用マニュアル」を作成することを勧めている。個人用マニュアルを持っている医師は多いが、場合によっては先輩医師のものをそのまま譲り受けている。全員で「個人用マニュアル」を作成する、あるいは既存のマニュアルを読み込むようなカンファレンスを行なうといったことが有用だろう。

安全な社会で人びとの危険感知能力が低下するという現象は、「慣れ」や「自分に都合の良い方に解釈する」という認知バイアスによるものであり、普遍な問題だと思う。

畑村が繰り返し述べる、技術の30年周期というのも似たようなメカニズムだ。技術の萌芽期には関わる人も少なく、全員が技術の全体を把握している。また危険も身を以て体験しており、よく理解している。ところが技術が発展していくと、領域も拡大し、関わる人も増えるので、個人が全体を経験することがむずかしくなる。効率性を求めるために分業が行われるようになることも影響している。危険を避ける技術や手順が定着し、危険な事態に遭遇することはなくなるため、成熟期にその分野に入った人びとにとって危険は話に聞くだけのものとなる。対処能力は低下せざるをえない。そして、萌芽期に蓄積された知識や経験が充分伝達されないため、技術は徐々に形骸化し、硬直化していく。30年経ち、萌芽期に活躍していた人びとが退職すると、言葉で充分伝えられないノウハウが失われて、大きな事故が起こるようになる。

医療の世界で言えば、クリニカルパス、内視鏡手術などに同様の問題があると考える。クリニカルパスについては後で述べることとし、内視鏡手術について述べておきたい。

内視鏡手術は、全体として見れば萌芽期から発展期への移行期にある。内視鏡手術を早期に導入した分野ではすでに成熟期に近づいているが、導入を模索している分野もあり、それらの分野ではまさに萌芽期である。ただし、他の分野で完成された器械を使用できるので、本当の意味での萌芽期ではない。

内視鏡の萌芽期を経験している医師は、内視鏡を使わない手術での訓練を積んできている。そこで、内視鏡の使用が困難と判断された場合や器械の不調があった場合、ただちに開腹、開胸などのいわゆる「オープンサージャリ」に切り替えることができるばかりでなく、その分野でも充分な経験を積んでいる。

ところが最近は内視鏡の経験がほとんどで、オープンサージャリの経験の乏しい医師が出現しつつある。このような医師が内視鏡手術を行なった場合、トラブルに適切に対処できるかどうかの不安がある。内視鏡手術を行なう医師は、内視鏡手術の低侵襲を強調し、患者を内視鏡手術に誘導する傾向がある。しかし、医療全体の技術レベルの担保を考えた場合、一定数のオープンサージャリが確保されねばならない。患者側の理解と協力が必要となるだろう。場合によっては虫垂炎や胆嚢摘出術のような一部の手術については内視鏡の使用を制限するような制度も必要になるかもしれない。

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