阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年08月

医療情報サイト「MT Pro」に2015年8月13日に掲載された「女性医師のキャリア形成に“楽天的な姿勢”が重要」(http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtpronews/1508/1508049.html)について書きたい。これは7月に行なわれた第47回日本医学教育学会大会で東京医科大学教授の泉美貴らが報告したものだ。

調査は面接により行われ、対象は医科大学もしくは医学部で教授または准教授を務める女性医師20人(教授12人、准教授8人、平均年齢52.8歳)だった。そのうち既婚者は16人で、子どもがいるのは13人、6人は介護経験者だったそうだ。また18人に留学経験がある。

仕事を続けていくうえでさまざまな困難があったようだ。記事では「子育てのために離職」「妊娠時の職場の嫌がらせ」などが挙げられている。「仕事と子育てとの両立」も大変だったが「伴侶、両親、夫の両親、家政婦および職場の同僚に助力を求め」て乗り切ったようだ。最近はまったく対等に家事をする夫婦も増えているのではないかと思うが、相手がすべて家事をやってくれていても教授になるのには相当の努力がいる。

仕事を続けることができ、さらに上位の職位に就くことができた女性に共通したことは、この調査によれば、その楽天性であると言う。
キャリアを継続できた理由は、「仕事が楽しかった」「やりたいことを希求することによりキャリアが開けた」「良い指導者から指導を受けた」「困難時は考えて選択し、結果を肯定的に捉えた」などであった。

キャリアを形成した女性医師に共通する要素として、「楽観的でおおらかな考え方」「仕事は好きなことを探求する」「その時点での最善を尽くす」「社会的責任を果たす」などが挙げられた。

結論として「キャリアを優先させた選択の重要性」が強調されているが、キャリアを優先できるのは楽天的だからだろう。それでは男性の場合はどうなのだろう。やはり楽天的な方がキャリア形成には有利なのだろうか。

一方、地方に移住した場合はどうなのだろう。物価も安く、慢性期を支える医療施設も多いので、たしかに暮らしやすいだろう。だが、街並みに馴染みがなかったり、土地の言葉や考え方に馴染めなかったりすると、トータルな暮らしの質はかならずしも高くない。また、慢性期の病床を利用しない場合、自宅で最期を迎える場合、移住のメリットは物価の安さだけということになる。

高橋は、人口当たりの病床数が多い四国や九州では、病床の絶対数を減らす「減反政策」しかないと言う。
東京や神奈川で病院が倒産するのを見たことがありますが、率直に言って、借金が残る経営者や、再就職の難しい事務職など一部の人を除いて、誰も困りませんでした。医師や看護師は転職し、患者もどこかに移ります。四国でも病床が一気に2、3割減ると困ると思いますが、少しずつ減らしていくなら、うまくいく可能性があると考えます。

彼は率直に話していると感じる。だから揚げ足を取るつもりではない。だが、経営者や事務職の「一部の」困る人の困難が気になるし、「うまくいく可能性」という表現が非常に控えめであるのも気にかかる。やはりこれから10年は日本中で困る人が増えるのだろう。

この回のインタビューの最後で、危機回避戦略に対して医療者からの反論があったかという問いに対し、高橋が次のように答えていた。
データに対する反論はなかったです。地域包括ケアを進める人からの反論はありました。ただ、データを見る限り、(介護需要が大幅な不足が見通される)現状のまま「東京圏に住める」と言うのは無責任に感じます。

在宅医療については、しっかりとしたデータがなく、考慮していません。ただ、在宅の話をするほど、国民が成熟しているとは考えておらず、今後の課題です。

2025年を10年後に控え、彼はいったい何年経ったら国民が「成熟」すると考えているのだろうか。年寄りが増えたからといって成熟するわけではないと考えているのは明らかだ。

医療ポータルサイト「m3」に2015年8月14日に掲載された国際医療福祉大学教授の高橋泰へのインタビュー第1回「病床は“減反政策”しかない」(http://www.m3.com/news/iryoishin/348690)について書きたい。高橋は、高齢者の地方移住を勧めた「東京圏高齢化危機回避戦略」をまとめた日本創成会議首都圏問題検討分科会のメンバーである。

高橋は東京23区の医療需要に不具合が起こることを予想している。
将来的に、23区内の高機能の病床は、周辺からの流入が減る分、だぶつくと見ています。高齢の人口が増えても、高機能医療への需要が増えるわけではありません。平均在院日数がさらに減少すると、ダウンサイジングする必要が出てきます。一方で、肺炎や脳卒中などの患者を診る機能は、東京23区は不足すると見ています。

都内の病床は平たく言うと、患者1人1日当たりの入院単価は5万円ないと成り立ちません。地域包括ケア支援病棟[引用者により誤字修正]は、3万5000円を超えることはないと考えられます。したがって、23区内では、医療密度が高くても、ミスマッチが起きてくると思います。

区部の病院は収入を維持するため過剰な医療の提供に走るのではないかと高橋は懸念している。

東京圏は地価も物価も高い。したがって入院単価の低い慢性期病床は維持が難しい。だから、東京圏の高齢者は必要な医療が受けられなくなる可能性が生じる。暮らし自体にも金がかかる。そこで「地方移住」の話が出てくる。しかし、そこには「終わり方」の議論が欠けている。

「必要な医療」とはいったい何なのだろう。自分が必要とする医療か、それとも他人から見て必要だと判断される医療か。自分が医療を必要としないと考えれば、そこに「必要な医療」は無い。ものが食べられなくなったとき、高い熱が出たとき、息が苦しくなったとき、ただじっとしていれば良いというのなら、医療は不要だ。転倒して歩けなくなったとき、包丁で手を切ったとき、そのようなときは急性期医療のお世話になるのもいいだろう。東京圏は急性期病院が過剰なほどある。

急性期を過ぎ、退院すれば独居もしくは老老介護に戻る。そして最期は、肉体的に苦しまずに済めば自宅で迎える。そのようなつもりであれば、東京圏で最期を迎えることもできる。

高橋自身の体験を述べている部分なら引用できる。彼自身の体験にもさまざまな思いを掻き立てられるものがある。体験は「ある若者」の体験として紹介されるが、最後にその若者が高橋であることが示唆される。
ある若者が、デモに行くという友人と、その後で映画を見ようと約束した。その若者が、友人が交じったデモ隊の列と並んで歩道を歩いていた時、突然、私服警官に逮捕された。(169ページ)

理由は公務執行妨害で、私服警官と目があったとき「きみが威圧的態度をとり、警官は恐怖を感じたからだ」とのことだった。おそらく彼は以前から目をつけられ、警察は逮捕の機会を伺っていたのだろう。いわゆる別件逮捕だ。当時は所持品にボールペンがあっただけで「凶器」とみなされ、凶器準備集合罪で逮捕されたという話まであった。ただし逮捕が事実かどうかの確認はできていない。
留置場に入った若者は、そこで、1年近くも裁判も始まらずただ留め置かれているという窃盗犯に出会った。貧困から何度も窃盗を繰り返した男は、1件ずつゆっくり起訴されていた。警察・検察の裁量によって、裁判が始まる前に、実質的には刑罰の執行が行われていたのだ。

「それって、人権侵害じゃないの」と若者がいうと「わからない。法律なんか読んだことがない」と男はいった。若者と男の話を聞きとがめた看守が、房の外から、バケツで2人に水をかけた。

「うるさい黙れ、犯罪者には人権なんかないんだ」

極寒の房内は室温が氷点下にまで下がっていた。(170ページ)

取り調べ中の被疑者は犯罪者ではないとか、犯罪者にだって人権はあるはずだということを言っても始まらない。このような現実があったということを認めるしかない。そして東京拘置所での松本智津夫死刑囚の処遇についても、正当な処遇が行われていないのではないかという強い疑念があることも心に留めておかねばならない。それを前提として、なぜすべての人間に人権を認めるのか、なぜこのような攻撃が行われるのかを考えねばならない。

なぜ攻撃が行われるのかについては、本書の「標的探しをする人びと」(74ページ)の中にヒントがあった。おそらく攻撃する人びとも苦しいのだ。そして「不当に守られている」と思う相手に対して、少なくとも自分の状況と釣り合うところまで降りてこいと攻撃するのだ。立場の強いものが弱いものを攻撃しているのではない。弱いものが弱いものを攻撃している。

超高齢社会を迎え、高齢者をどのように支えていくのかが課題として突きつけられている。支える方に余裕がなければ、暖かく支えることはできない。高齢者に優しい社会を作るには、まずすべての人に、特に若者に対して優しい社会を作らなければならない。現在の日本は格差が拡大する方向にある。それは高齢者の未来が暗いことを示していると思う。未来の高齢者である私が、若者に優しい社会を作る努力をすることが必要だ。

高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)を読んで、目を覚まさせられた。それまでの私は、眠って夢を見ていたのだと思う。夢の中で私は水の中を泳ぐ魚だった。口を開けるとプランクトンと酸素を含んだ水が流れ込む。私は口をパクパクさせながらゆったりと泳ぎ回っていた。もちろんどこに行けばプランクトンが多いかを考えた。しかしその思考は半自動的で、考えは容易に湧いてきた。苦しんだ末に考えを生み出す必要などなかった。

目を覚ました私は「社会」の中にいた。そこでは動き回るのに意識して体を動かす必要があった。食べ物を探し、水を探して長い距離を歩く必要があった。必要な知識を手に入れるために、こまめにあちこちを覗いて回る必要があった。私は自分の体と心を維持するのに払わなければならない努力の多さに呆然とした。

私は以前から「すべての本を読むことはできない(すべての知識を自分のものとすることができない)」ことを嘆いている。映画『薔薇の名前』に登場する修道士ウィリアムは、あたかもほとんどの本について知っているようだった。舞台となった中世にどれほどの本があったのかは知らない。しかし、写本によってしか複製が作れなかった時代には、それほど多くの本は存在しえなかっただろう。その千数百年前、紀元前300年のアレクサンドリア図書館の司書は、70万巻と言われる蔵書のみならず、おそらく世界中の書物に通じていたのだろう。もちろんその「世界」とはギリシアやエジプトを中心とした世界であり、中国文明などは含まれていなかったのかもしれないが。

現代では流通する情報は膨大である。日本語の情報も本や雑誌だけではない。インターネット上のブログがあり、ウェブページがあり、動画がある。それらに満遍なく目を通すということは、不可能なことというより考えることすら無意味なことになっている。自分に必要な知識を得るのに、すべての情報に目を通す必要はないという声が聞こえる。たしかにそうだ。しかし、目を通してもいない情報が必要かどうか、どのようにして知るのだろう。

高橋が引用元として挙げている「中央公論」「一冊の本」「世界」「現代思想」「すばる」「POSSE」「週刊東洋経済」「宣伝会議」「科学」「Voice」「現代の理論」「アトモス」「文藝春秋」「群像」「月間フラワーズ」「のらのら」「季刊地域」などの雑誌のほとんどを、私は最近読んだことがない。名前すら聞いたことのない雑誌もある。私には雑誌を読む時間がない。テレビを見る時間は朝食のときだけで、ラジオを聞くのはたまに通勤に自動車を使ったときだけだ。高橋と私ではアクセスする情報の幅と質に大きな開きがある。そしてこの本で私は高橋がアクセスした情報のエッセンスに触れることができ、目を覚ました。

刺激的な情報が詰まった本だったが、ここで引用できないものが多い。と言うのも、私が感銘を受けた文の多くは引用された文であり、このブログでは孫引きは避けたいと思っているからだ。だから私は引用文献として掲載されている単行本を端から入手して読もうと思っている。本を読める時間に制限があり、読みたいと思う本、読むべき本が堆積していく。しかし、読む必要がある本であったかどうかは、読了してみないとわからない。

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