阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年06月

ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンで、被接種者が機序不明の疼痛を発症する事例が相次いで報道され、厚生労働省がHPVワクチンの積極的勧奨を中止してから今月で2年を迎えた。

ペンシルベニア大学のスタンレー・プロトキン氏は、6月17日にメディカル・トリビューン社の報道部に「HPVワクチンが使われなければ,日本の女性と男性に何千例ものがんが発生するでしょう」と勧奨中止への懸念を示す書簡を送ったという(http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtpronews/1506/1506061.html)。

たしかにそのとおりで、こもまま進めば、日本での子宮頸癌の発症率は将来上昇するだろう。疫学的に証明されており、これは予言や推測ではなく、統計学的な「事実」なのだ。統計学的に高い確率をもって起こると判断される事柄は、未来に起こる「事実」とみなしてよい。

しかし、副作用に関しては、ことの次第はよくわからない。一部の医師の売名行為のような気もするし、患者の心因反応のような気もする。しかし、私の勤務先の施設の小児科にはHPVワクチン接種後に疼痛のために体調を崩し、現在も学校に満足に通えないでいる子どもがいる。また、私の娘は、ワクチン接種からすでに3年ほど経過しているにもかかわらず、接種部位がときどき赤く腫れ上がり、痒みを訴えている。このような事実を見ると、副作用としての全身性疼痛も否定できない。たしかに海外からの報告は少ないようだ。だが、それをもって日本人にも少ないと言えないことは、厚労省自体が認めていることだ。

関係者は皆、問題が解明されるのを祈っていることだろう。問題の解明の近道は人体実験である。もちろん昔のような人体実験はできない。現代では犯罪である。しかし、被験者が同意すれば可能となる。希望者には同意の上で無料で接種し、副作用が起こったときには国が手厚い保障をするという方法もある。真実の究明のために攻める姿勢も必要なのではないか。当然のことながら、希望者がまったくいなければ、そこで考え直さねばならないが。

クリス・アンダーソン『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』(NHK出版)を読了した。アンダーソンは雑誌「ワイアード」の編集長を務めるかたわら、無人飛行機の製造キットと部品を販売する「3Dロボティクス」社を立ち上げ、数億ドル企業へと成長させている。

アンダーソンの祖父は、自動スプリンクラーシステムを発明したが、それを生産することはできず、スプリンクラーの製造会社に売り込んだ。製品化されたが、その際に支払われたパテント料はそれほど高額のものではなかった。以前は、一般の人々は生産手段を持つことができなかった。したがって、何か工業製品を発明しても、それを資本家に売り渡すのが普通だった。自分で工場を建てて生産に乗り出すことは、大きな賭けで、失敗する可能性も高かった。

しかし、現在は違うとアンダーソンは力説する。3Dプリンタで試作品を作ることができるし、CADソフトで作図すれば、木でも金属でもプラスチックでも、それを「実体」にしてくれる業者がいる。データをインターネットで受け付けて、工作機械で作り出してくれるのだ。昔なら、異なった形のものを少量生産するのは割に合わなかったが、現在ではコンピュータ制御の機械が自動で作業するので、形がデジタルデータとして与えられている限り、異なる100種類のものを1個ずつでも、同じ形のものを100個でも、手間は変わらない。

もし、現在祖父が自動スプリンクラーシステムを発明したなら、ウェブで注文を取り、インターネットで部品を発注して組み立て、宅配便で発送することで、自分でビジネスができる。アンダーソン自身、そのようにして3Dロボティクス社を立ち上げた。

彼はもの作りが「民主化」されたという。そして、現在のデジタル環境を活用してもの作りに励む人々を「メイカー」と呼んでいる。そしてメイカーたちが産業革命を起こすだろうと予言している。

たしかにインターネットを基盤とするデジタル文化は、私たちの住む社会を変えた。メディアの寡占が崩れたことは再三書いたが、生産手段の寡占も崩壊しつつあるのだ。私はもの作りに関わったことがなかったが、夢を与えてくれる本だった。

文科省の愚かしい通達について調べていたら、安渓遊地のブログに行き当たった(http://ankei.jp/yuji/?n=2110)。安渓は文化人類学者で、現在は山口県立大学国際文化学部教授として地域学を担当している。

タイトルに挙げたブログポストで、彼は文化人類学が「役に立たない」といったん言い放った上で、次のように書いている。
(ことばが通じないと知ってすなおにもどったわたし):人間は、みんなちがってみんな変。このことを実感することで、じぶんたちだけが正しい、という独善からめざめ、戦争につながる道を歩まないために心の中の歯止めをかけるために役立つのです。We Are Right(われわれは正しい)を略してWAR(戦争)というのですよ。だから、平和の根本を深く学ぶための学問です。

文化人類学に戦争抑止力がそれほどあるかはわからないが、社会学の本でも「社会学は常識を覆すためにある」と書いてあった(進藤雄三、黒田浩一郎:編『医療社会学を学ぶ人のために』(世界思想社))。人文社会系の学問は知識の相対化を目指しているようだ。理科系の学問が自然現象の解明を中心的課題としているのに対し、文科系の学問は私たちが考えたり行動したりする理由、「なぜそう考えるのか」「なぜそういう行動をするのか」を解明する学問だからなのだろう。周囲の意見や考えに安易に同調せず、意見や考えの根源にあるものを分析しようと常にしていれば、たしかに戦争をする気にはならないと思える。

学問は、与えられた価値に疑問を抱き、分析したうえで理解しようとすることから始まる。これは理科系でも同じである。ガリレオは落下速度について、「重いものは早く落ち、軽いものは遅く落ちる」という通念に疑問を持ち、ピサの斜塔で実験をしたという。科学的な大発見は、常識を疑ったことから始まっているものも多い。

そんな大それた話でなくても、たとえば医師は学生時代に自分の体で得た所見しか信用してはならないと教わる。患者が持ってきた紹介状に詳しい所見が書いてあったとしても、それをそのまま信用してはならない。かならず自分ですべての所見を取りなおさねばならない。ましてや、患者の言うことをそのまま鵜呑みにするなど、もってのほかだ。

そのような学問は、目先の問題を解決してくれない。金が儲かるわけでもない。悩みが消えるわけでもない。困った人を助けるわけでもない。短期的な、即物的なことには役立たない。そのような学問が役立つのは、その人の人格形成においてであろう。

「人文社会系学部「京大には重要」―山極総長、文科省通達に反論」という京都新聞が2015年6月17日に配信した記事が目に止まった(http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150617000174)。ここで示したURLは京都新聞のものだが、私が実際に目にしたのはYahoo!のヘッドラインだった。

文部科学省が国立大学法人に発した通達で、要するに「金にならない学問は縮小せよ」という内容だ。
通達は2016年度から始まる国立大学の中期目標の策定に関する内容で8日に送られた。教員養成系や人文社会系の学部・大学院について、18歳人口の減少や人材需要などを踏まえ、「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」としている。

「社会的要請」とはいったい何を指すのだろう。介護職を増やせということか。あるいは商学部や経済学部を拡大しろということか。それとも理科系を充実させろということなのだろうか。いずれにせよ、あまりに近視眼的で「国家百年の計」を考えての通達とは思えない。大学の良いところは、何の役に立つかわからないような研究をしているひとがいることだと思う。それが大学の学問に幅と深さを与えるのだ。良いアイディアや奥深い哲学は、バリエーションの少ない環境からは生まれてこないと思っている。異質なものが出会い混ざり合って新しいものが生まれてくる。新しいものが、より新奇であるためには、考えが育つ土壌に含まれるものにかけ離れたものが多く含まれるほうが良い。

入社試験の予備校のような大学や、企業そのもののような大学では、ろくな人材が生まれない。現在、企業のトップとして活躍している人々は、決して企業に役立つような勉強をしてきた人々ではない。たしかに若い頃から企業のトップとなるべくサラブレッドとして教育を受けてきた人々もいる。しかし、まったく違う世界から産業界に飛び込んだり、若い頃に挫折を繰り返していた人もいるのだ。特に米国のIT企業のトップを見ると、「まじめな勉強家」が少ない気がする。「社会的要請」を考えて、要請に応えるべく大学で勉強した人には、スケールの大きい人が少ないような気がする。

もっとも文科省は「労働者」を養成したいので、トップを養成したいとは思っていないかもしれない。日米の教育について、「米国の教育は将校を作る教育で、将校ばかり作って兵隊がいない。日本の教育は兵隊を作る教育で、兵隊ばかり作って将校がいない」という言葉がある。教育を司る文科省の役人自体が真面目に勉強してきた「兵隊」ばかりで、どのように豊かな教育をおこなえばよいかわからないのだろう。

MMJ(毎日メディカルジャーナル)の2015年6月号に「アイスバケツチャレンジの伝播性はパンデミックインフルエンザ並の速さ』という題で海外雑誌の論文の紹介が掲載された。毎号掲載される「世界の医学誌から」というパートで、雑誌のほぼ3分の1を占め、欧米系の医学誌に掲載された論文の抄訳と、専門家による解説が組になって掲載される。

この論文だけは「世界の医学誌から Flash」として紹介されており、専門家の解説が付いていなかった。原論文は「英国医学誌(BMJ)」という超一流の雑誌に掲載されたもので、香港大学の研究者が投稿している。
〈目的〉世界的な影響力を持つ著名人の間におけるアイスバケツチャレンジの伝播性を推定し、関連する危険因子を特定する。
〈研究デザイン〉後向きコホート研究。
〈設定〉ソーシャルメディア(YouTube、Facebook、Twitter、lnstagram)。
〈参加者〉デビッド・ベッカム、クリスティアーノ・ロナウド、ベネディクト・カンバーバッチ、スティーヴン・ホーキング、マーク・ザッカーバーグ、オプラ・ウィンフリー、ホーマー・シンプソン、力一ミットを発端例と定めた。各発端例を起点とした第5世代までの接触(contact)を解析の対象とし、合計99人の参加者をコホートに登録した。

原文は http://www.bmj.com/content/349/bmj.g7185 で確認することができるが、これはクリスマス特別研究である。もっともらしい題名と、しっかりした研究手順であるが、内容は「洒落」だ。英国の雑誌でこの内容であればエイプリルフールかクリスマスだと見当がつくが、MMJのページにはどこにもその言及がない。クリスマス特別研究であることを確認するためにはBMJのウェブページで検索する必要があった。

学術雑誌に、冗談の論文(決して悪い意味ではない)を掲載するのは「お祭り」のときだけである。特別なときであるから許される。引用時はその背景的事情も含めて引用すべきで、一般の論文に混じって紹介するのは、けじめが感じられず、正しい態度ではない。6月になってしまい、時期外れとなったので「クリスマス」と表示しにくかったのだろうが、それならばコラム記事とすればよかった。

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