阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年05月

「毎日メディカルジャーナル」の2015年4月号に引用されていた文献によると、「英国医学雑誌(BMJ)」という権威のある雑誌に、学術論文でWikipediaがどれほど引用されているかという調査が発表された。評者によれば、「これまでにすべての領域の学術論文を対象にWikipediaの被引用頻度を検証した研究は報告されているが、健康科学雑誌に特定した研究はなかった」とのことだ。

論文の要約が掲載されているが、記述があまりに簡単で、解析の方法がよくわからない。ただ、コンピュータで自動的に処理して計算したものではなく、論文のどの部分で引用されているのかも調査して分析しているようである。

引用頻度は驚くほど上昇している。2005年には100件もなかったが、2011年から急激に増加し、2013年には1700件を超えている。これらの引用のほとんどが、あまり参照されることのない雑誌の論文だということで、よく引用される質の高い論文が掲載される「有名誌」(インパクトファクターの高い雑誌)での引用は調査した1,433論文中2.2%に過ぎなかったという。

このブログでもウェブ上の記事を引用することが多いが、一番の問題はその記事のURLが変更されたり、記事自体が削除されたりすることがあるということだ。内容だけが変更されることもある。最近は雑誌の記事や単行本でウェブページを引用した場合は「◯月◯日◯時◯分閲覧」などと、日時を特定している場合ある。これはそれなりの工夫だが、ウェブページが削除されたり改変されたりした場合、引用時点ではどのようなものであったのかを知る方法はない。

Wikipediaの記述も常に変化しているが、古いバージョンにアクセスできるように履歴を残しているということである。ただし、保存された旧版のデジタルデータの存在感は、紙に印字して固定された情報の存在感と比較して、いかにも頼りない。

デジタルデータ抜きでは、学習も研究も調査も成り立たなくなっているように思う。国会図書館が紙の出版物を収集しているように、ウェブ上のデータを収集しておくようなプロジェクトが国単位で必要になっているのかもしれない。

人はかならず死ぬ。もし死因を選べるとしたら、私は何を選ぶだろう。「何でもいい」と言いたいところだが、少し怖い気もする。

以前は自分は癌で死ぬのが良いと思っていた。昔は緩和の技術が発達していないので、癌は治療してもしなくても苦しい病気だった。治療は拡大手術が中心で、癌を切除することができても、後の障害が大きかった。そのように「障害者を作る医療」をおこなっていた自分の贖罪の意味でも、自分は癌で死ぬべきだと思っていた時期がある。

ところが現在、癌は苦しい病気ではなくなりつつある。癌で死ぬことを望む人もいるほどだ。死期がある程度予測できることもありがたい。老後の資金を使い切ってしまっても、後で困る可能性はほとんど無い。このブログでも癌は苦しくないという趣旨の本を何冊か紹介した。それならば、私が癌で死んでも償いにはならないし、また私には緩和を拒否するほどの根性もない。

高齢者の死因として挙げられるのは、「心疾患」「肺炎」「悪性新生物」「脳血管疾患 」「老衰」などだ(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html)。悪性新生物とは癌のことで、脳血管疾患とは脳梗塞や脳出血などだ。「認知症」は、それ自体で命を落とすことが無い疾患なので、死因に挙がってこない。

老衰を病名として認めない考え方もある。老衰とは不整脈による心停止であったり、肺炎による呼吸不全だったりと、ある意味で雑多な状態の集合である。「症候群」と言ってもいいかもしれない。そこで、「老衰」と括ってしまわず、死に導いた詳細な原因を「死因」とするのが正しいという考え方だ。私自身が昔、死亡診断書の死因は「老衰」ではいけないと習った。

しかし、現在では老衰を死因として認めることがずいぶん広まった。厚生労働省の統計にも「老衰」があるので、立派に市民権を受けているのだろうが、批判がなくなったわけではない。

少し考えてみよう。死ぬときには死因があるのは当然なのだろうか。まだまだ元気で当然もっと生きるはずだった人が死ねば、そこには特別な原因があるだろう。それを死因と呼ぶのはきわめて妥当である。しかし、人間が動物としての限界まで生きて命を終わらせる場合、死の原因は「生物だから」であり「人間という種だから」ではないのだろうか。もちろん食事が摂れなくなって衰弱したからとか、心臓の機能が徐々に低下して心不全を起こしたからというような説明はできるだろう。しかし、なぜそれが起こったかといえば、私たちが「生き物」だからであり、生命は有限だからである。本来の「死因」は「生命が有限であること」ではないのか。それが「老衰」の意味ではないのか。

高齢者の死因の第1位が「老衰」になることを目指すのも良いかもしれない。第2位としてふさわしいのは「高齢者の友」である肺炎だろう。第3位は「悪性新生物」だ。生物は長生きするとどうしても癌の発生が増える。これは細胞増殖の過程が抱えた欠点からくることで、防ぎようがない。

私の場合は老衰になるまで生きなくてもいい。「不慮の事故」や「自殺」は周囲に迷惑をかけるので、やはり肺炎か癌がいいということになる。

最近、テレビコマーシャルで「肺炎は日本人の死因の第3位です」と訴えるのを見た。高齢者に肺炎球菌ワクチンの接種を呼びかける製薬会社のキャンペーンである。営利目的ではないのだろう。このキャンペーン自体に異を唱えるつもりはまったくない。しかし、肺炎が死因の上位を占めることを強調することには違和感を覚える。

人はかならず死ぬ。死ぬと、医師が死亡診断書を書かなければならず、死因をかならず記載する。書かれた死因は統計にまとめられる(たとえば、http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html)。「老衰」を病名として認めないという考え方をする医師もいるので、統計に表れてくる結果では「老衰」の順位が下がる。そうすると高齢者の死因は「悪性新生物(がん)」「心疾患」「脳血管疾患」「肺炎」などとなる。

キャンペーンは肺炎の順位を下るのが目標なのだろうか。肺炎が死因の順位を下げるということは、がんや脳卒中が増えるということだ。だが、キャンペーンのコピーを考えた人は、当然そう考えているわけではない。また、「悪性新生物(がん)」「心疾患」「脳血管疾患」が今より増えれば、あるいは、高齢者の自殺がものすごく増えれば、肺炎の順位は下がる。もちろん、それは屁理屈だ。キャンペーンは「高齢者の肺炎を減らしたい」という単純な善意の表れなのだろう。しかし、「病気があって予防法があるのだから減らせばいい」という考えの非常に表面的なあり方が気になる。

老衰を除けば、もっとも高齢者らしい死因は肺炎だろう。高齢者の肺炎はあまり高熱にならず、苦しまないことが多い。「肺炎は高齢者の友」という言葉もあるそうだ。実は、老衰の実態は肺炎であるという説もある。キャンペーンでは「しかも、亡くなる方の約95%は、65歳以上です」と言う。当然のことだ。100%が65歳以上だともっと良い。100%が75歳以上であれば最高だろう。

キャンペーンはいろいろなところに顔を出している。Yahoo!で地図を検索しても、地図の下に「高齢者の肺炎は要注意!肺炎は日本人の死因第3位。肺炎を起こす仕組みから自治体助成までご紹介」というキャンペーンページ(http://www.haien-yobou.jp/)へのリンクが表示される。

治る肺炎まで放置するのは非倫理的だ。予防にも賛成する。繰り返すがキャンペーンに反対する意図はない。ホームページに表示されている予防策はどれも良いものだと思う。私も実践しているものもある。問題は、そのようにしても「死因としての肺炎」は減少しないということ、「高齢者の死因の上位に肺炎がある」ことは良いことだということ、そして、「肺炎は日本人の死因第3位」をキャッチコピーにした背景には「病気さえなければいくらでも生きられる」というごまかしが潜んでいるように感じられるということだ。

私の考えすぎであれば良いのだが。

本書の題名にある「できそこない」は、男性を決定するY染色体上に遺伝子が少なく、男性は遺伝的に女性よりひ弱であることを指している。第8章は「弱きもの、汝の名は男なり」で、第7章までの説明を総括する形で、ガンの発生率が男性で有意に高いことなどを挙げて、男性が生物として弱さを運命付けられた存在であることを説明している。

第10章と第11章は、ハーバード大学のスター教授であったベルナルド・ナダル=ジナールと、やはりハーバードで優秀な若手女性研究者として注目されていたヴィジャク・マダービの物語である。ナダル=ジナールは離婚してマダービと結婚し、彼女の求めに応じて美術品を買い集めた。その資金に研究費の不正流用があり、ナダル=ジナールは有罪となり収監され、二人は結局ハーバードを離れることになる。彼は最後まで彼女をかばい続けたという。この話を読むと、女にのめり込んで人生を台無しにする男のことも、福岡は「できそこない」と呼んでいるのではないかと思う。この話を読んで、マレーネ・ディートリッヒの『嘆きの天使』を思い出した。

福岡は次のように言う。
では今日、一見、オスこそがこの世界を支配しているように見えるのは一体何故なのだろうか。それはおそらくメスがよくばりすぎたせいである、というのが私のささやかな推察である。(262ページ)

単に「遺伝子の運び屋」として誕生したオスに、自分に奉仕させるという使い道があると気付いたメスが、オスを利用するうちに、立場が逆転したのではないかというのが福岡の仮説である。
女たちは男に、子育てのための家を作らせ、家を暖めるための薪を運ばせた。日々の食料を確保することは男の最も重要な仕事となった。身を飾るための宝石や色とりどりの植物、そのようなものを求めたかもしれない。(264ページ)

オスはそのうち余剰のものを蓄えるようになった。そのために徐々にオスが力をつけたのだと推測する。福岡らしい、やや悲観的だが、鋭い考えだと思う。

福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書)を読了した。『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読んだときは彼の文章に慣れず、読むのを中断したのだった。福岡の経歴や本の題名から生命科学の入門書、あるいは科学哲学の本だと思ったのだ。ところが、話の運びは文学的で、主題を直接語ることがない。違和感を感じて読むのをやめてしまった。その後、また読む気になって最初から読み直したら、面白く読めた。

その本は、教科書の年表などに1行で記述されている科学的業績の裏には数多くの隠された真実があるという話を語った本だった。最初に取り上げられているのは野口英世である。私は野口の「業績」が科学的に見て怪しいものであるということはよく知られたことだろうと漠然と思っていたが、考えてみれば日本は肖像を札にしようとするくらいなのだから、まったく逆で、英雄視している人が多いということなのだろう。そんな世間に遠慮したからなのか、福岡は野口の行為の非倫理的側面には直接言及しなかった。それが当初、私には解せず、違和感の元になった。

ワトソン、クリックの二重螺旋の「発見」についても、彼らの「業績」が他の研究者から盗んだものである可能性が示唆されていた。面白い本だった。

それに比べて、この『できそこないの男たち』の文体はずっと説明文に近いが、内容には私的な体験が多く含まれ、感情的な文も多い。福岡は先のことを考えず、荷物も金もあまり持たずに渡米した。そこでの生活はやや自虐的に描かれている。彼は、大学の内部や周辺で英語が通じたため、何とかなると思ったが「みんながそれなりの配慮をしてくれていただけだった」と気づく。
ひとたび街場に出ると容赦はなかった。英語が満足に話せない人間は、ここニューヨークでは不法移民か難民のような扱いを受ける。私は、スーパーのレジ係の、年端もいかない女の子にまで蔑みの目で見られた。彼女は、買い物カゴを持った私に、品物を出して台の上に並べろ(take them out)と言ったのだ。しかし私にはそれが聞き取れなかった。立ち往生する私を見かねて、後ろに並んでいた女性がやれやれという態度で、代わりにカゴからものを取り出してくれた。私はすごすごとスーパーを後にするしかなかった。

私は結局、以降、3年間ほどアメリカで恥の多い暮らしをした。(19ページ)

3年間で英語は上達しなかったと彼は述べている。脳がもう固まってしまっているのだと言う。

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