阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2015年02月

理性というものがあるのか無いのかというのは無意味な議論であると考えている。見方によっては「ある」し、見方を変えれば「はっきりしない」。あると考えた方が話をまとめやすいし、無いと断言するのは難しい。

このブログでしばしば述べているように、細かく(ミクロで)見ていくと見失ってしまうものが、大局的に(マクロで)見るとはっきりわかることがある。空の雲を地上から見れば輪郭がはっきりし、光まで反射しているのに、飛行機に乗って雲に入るときには、別に膜のようなものを突っ切るわけではなく、すうっと霧に包まれ、雲の内と外の境界がはっきりしない。あるいは液体の水の表面を目で見れば、どこに表面があるのかは一目瞭然だが、分子レベルで見ると、液体の水の表面からは多くの分子が空気中に拡散し、また空気中の水分子も次々に液体に吸着されていくので、「表面」という3次元の境界を確定するのは難しい。

ミクロで見ていくと分からなくなってしまうものでも、日常の話をする場合には「水の表面」や「雲の形」というマクロな概念を使った方が意味を伝えやすい。理性というものもそんなものだろう。人の心を細かく分析していくと、何を理性と呼ぶのか混乱してくる。しかし、実際に人と相対したときには、その人に理性があるかないか、混乱しているか冷静かはかなり容易に判断がつく。

しかしマクロな概念である理性が、実は数多くの複雑な要素から構成されており、物質的な基礎である身体の影響を受けることは念頭に置かねばならない。古来から意識されていることで、さまざまな知恵が伝承されている。夜に重大な決定を避ける戒め、高揚した気分や落ち込んだ気分のときに浮かんだ考えを棚上げにする忠告、恋愛が人を盲目にさせるという諺、怒りに駆られて行動する前に数を数えるたり深呼吸したりする技法などである。

物質的な説明を付け加えれば、人の精神状態はテストステロン、オキシトシンなどのホルモンやセロトニン、エンドルフィンなどの神経伝達物質の影響を強く受けることがわかっている。別の言い方をすれば、人の心はホルモンや神経伝達物質のバランスの上に成り立っている。

患者の自己決定は患者に合理的な理性があることを前提として成り立っている。もちろん誰にでも合理的な判断を下す能力はあるのだが、その能力が常に百パーセント発揮できるかというと、そうではない。人の心は理性で完全にコントロールできるとするのは幻想だし、理性でコントロールしなければならないとするのは、ほとんどの人にとって無理難題だ。理性を偏重するのは危険だと考える。

専門医制度の見直しが進んでいる。厚生労働省が描く医療の将来像は、総合診療医が在宅および診療所で一般の診療をおこない、必要に応じて専門医に紹介するというものだろう。総合診療医は主に診療所で開業しており、専門医は主に病院に勤務している。総合診療医は軽症の疾患を診療し治療するだけでなく、専門医から治療方針を具体的に示された場合にはその治療を実際に施行し、さらに終末期の看取りもおこなう。専門医の診療を受けるには総合診療医からの紹介状が必須となるため、総合診療医をゲートキーパと呼ぶことがある。

しかし、そのように総合診療医がすべての患者の流れをコントロールするようになると、総合診療医の負担が非常に大きくなる。制度の円滑運用を支えるには、かなりの数の総合診療医が必要となる。ところが、専門医としての総合診療医の養成はこれから始まる。団塊の世代が後期高齢者になる2025年時点で充分な数の専門医が確保できるとは考えにくい。

したがってヨーロッパですでにおこなわれているように、看護師が医療を介入させるかどうかを判断する役目を担うようになるだろう。看護師が患者や家族と相談して、総合診療医を受診するかどうか、必要に応じて専門医に紹介してもらうかどうか判断する。看護師が看取りと判断すれば、医療へはつながない。

現在は、そのような役割を主に医師が担っている。しかし、医療の供給側である医師が、供給するかどうかの判断をすることには無理がある。ひとつには治療する側に視点が偏る可能性が高いので、判断の公平性の担保が難しいと考えられる。もうひとつには供給によって利益を得ているのだから利益相反が起こると予想されることである。その点、看護師の方が客観的に判断できるのではないか。

看護師はキュア(医療)とケア(介護)の双方を専門とする職種である。私は医療がどんどん膨張し、以前であれば対象としなかったような美容や加齢などの領域も取り込もうとする、いわゆる「社会の医療化」の傾向を良くないと思っている。そして、いずれにせよ医師がおこなう狭い意味での「医療」は、医療や介護を包括した広い意味での「医療」の一分野に過ぎなくなると思っている。ちょうど専門医を受診するのに総合診療医の紹介が必要なのと同様に、総合診療医を受診するのに看護師の紹介を必要とするという制度が近い将来に実現するのではないか。医療全体のゲートキーパーならぬコントローラの役割を看護師に期待したい。

東京都立川市で開催されている日本集団災害医学会の関連行事として行われた「全国災害拠点病院連絡会議」に参加してきた。17時からの開催予定だったが、16時50分頃会場に到着したところ、まだ前のシンポジウムが終わっていなかった。

壇上には3人のシンポジストが並んでおり、プログラムによれば杏林大学医学部の山口芳裕、全国危険物安全協会の佐藤康雄、帝京大学医学部救急医学講座の坂本哲也である。コーディネータは福島県立医科大学救急医療学の田勢長一郎と広島大学救急医学講座の谷川攻一であった。

私が強い不快感を感じたのは、コーディネータがシンポジストを呼ぶのに「山口先生」「佐藤さん」「坂本先生」と呼び分けたからだ。初めは田勢が呼び分けているらしいのに気付いて我が耳を疑った。そして、何度か呼び掛けるたびに同じ呼び分けをしていることを確認し、このコーディネータは呼び分けをする人だと認識した。ところが驚いたことにもうひとりのコーディネータの谷川も同様の呼び分けをしていたのだ。

今どき、医師だけを「先生」と呼び、他の職業の人びとを「さん」で呼ぶなどという時代錯誤がおおっぴらにまかり通っているとは思わなかった。私の感想は「恥ずかしくないのか」である。私なら恥ずかしくてできない。彼らは、問われれば「自分たちは何も特権を意識しているわけではない。ただの習慣だ」と言うだろう。だが、医師以外には「さん」を使うのであれば、「それは特権意識も当然になってしまっているからだ」としか言いようがない。

17時15分頃から全国災害拠点病院連絡会議が始まった。司会は国立病院機構災害医療センター臨床研究部の小井土雄一である。厚生労働省の担当者が二人(厚生労働省医政局地域医療計画課救急・周産期医療等対策室 災害医療対策専門官の生駒隆康と同 災害時医師等派遣調整専門官の葛西毅彦)登壇し、国の災害対策の施策について説明した。その二人を紹介する際に、司会者は「生駒さん」「葛西先生」と紹介した。おそらく葛西は医系技官(医師免許を持った役人)なのだろう。ここで私はこの学会では、医師と非医師を区別するのが一般的なのだと結論した。

私は「先生」と呼ぶことを非難するつもりはない。慣例で呼び掛けに「先生」を使うこともある。誰だったか忘れたが、落語のくすぐりにもある。
「先生と呼ばれる程のバカでなし」なんてことも言いますが、「先生」と呼ばれて悪い気はしないもんですな。この間、あたくしも寄席の玄関のところで「先生」呼ばれまして。
「先生!...ちょっと下駄ァとってくんな」

講師やシンポジストとして招聘し、何かを教わろうとするのなら「先生」と呼ぶにふさわしいだろう。それならば、すべての登壇者を平等に「先生」と呼ぶべきだろう。非医師を「さん」と呼び分けるのは、明らかに差別だと感じられる。

このように言う私であるが、実は私も職場では「先生」をよく使う。お互いに「先生」と呼び合っているのは、あまり上品な習慣ではないと思いつつ、つい呼んでしまう。特に相手の名前を忘れたときにはとても便利な呼び掛けだ。もちろん公の場では、身内を呼ぶ場合は呼び捨てだし、司会をする場合に相手の職種によって敬称を変えたりしない。

司会者たちの言葉を聞きながら「医者はこれだからダメだ」と心底不快になった。

ジョン・ハーヴェイ・ケロッグはコーンフレークで有名なケロッグ社の共同創始者のひとりであるが、現在の基準で言えば異常性欲者で異常性格であったと言える。日本版ウィキペディアの記載(http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ)はあまり詳しくないが、英語版の記載(http://en.wikipedia.org/wiki/John_Harvey_Kellogg)は彼の宗教観や、性に対する極端な忌避について述べている。

彼がヨーグルトによる浣腸を推奨していたことは米国でもあまり知られていないらしく、2014年10月17日には一般向け科学番組のポッドキャスト「Science Friday」でも『More Than Cornflakes』として面白おかしく取り上げられていた(http://www.sciencefriday.com/segment/10/17/2014/more-than-cornflakes.html)。しかしながら、そこでは彼の異常とも言える自慰行為攻撃については触れられていなかった。一般向け番組であるから、米国の放送コードに従えば当然のことなのだろう。

英語版Wikipediaには記載があるが、彼が自慰を禁ずるためにとった手段は、現代の基準から見れば異常である。
「男子児童に対してほぼ常に成功する治療法は割礼である[引用者注:陰茎の亀頭を包む包皮を切除する手術]」と彼は述べ、さらに条件を追加する「手術は局所麻酔なしで行われるべきで、手術における短時間の痛みが精神に有益な作用をもたらし、罰を受けるという考えと結びついたときに特に効果を発揮する…[太字は原著者]」

もし怯えてもがく子どもを無麻酔で手術することに抵抗があるならと、ケロッグは以下の方法を提案している。「勃起を抑制するように銀線で1から2針縫う方法もある。包皮を引っ張って亀頭にかぶせ、銀線を通した針を一方から刺入し他方に抜く。銀線が貫通したら両端を捩り合わせて短く切る。これで勃起が起こることはない…」(286ページから287ページ)

女子の場合、性器に触ることを防ぐために、陰核(クリトリス)を石炭酸(フェノール)で焼灼することを勧めている。いかに清教徒の伝統により性に対して非常に厳しいとはいえ、明らかに行きすぎで、現代の基準からは「異常」である。しかし、1870年代以降、米国では自慰を防ぐための割礼手術が比較的一般的におこなわれていたという。

1972年になり、米国医師会は自慰行為が思春期の正常な発達過程で見られるもので医学的な治療を必要とするものではないことを宣言したが、1994年には小児科医のジョスリン・エルダーズが「自慰は人間の性的活動の一部である」と表明しただけで米国公衆衛生局長官を解任されるといった事件が起こっているとのことだ。米国のキリスト教原理主義は根深い。

性に関するきちんとした研究や議論がしにくいために、自然な行為が妨げられたり、間違った知識が広まったりしてさまざまな歪みが生まれる。第21章「性倒錯者哀歌」では、それらの例を挙げている。背筋が寒くなるような話が多い。

ヒトが性的に成熟すれば、性に関心を持ち、性的活動を活発化させるのは、自然の摂理に従った現象である。ところが人間社会、特に清教徒の伝統を持つ米国社会は、成人を対象とした性的刺激が非常に多いにもかかわらず、少年や少女が性的な活動をすることを厳しく制限する。自慰を悪とみなしたり、婚前交渉を不道徳とみなすのだ。

2005年に1万2千人の青少年を対象としておこなわれた調査では、結婚までの禁欲を誓った若者は、悪びれもせずセックスする若者たちに比較して、オーラルセックスをする率が高く、コンドームを使う率が低く、性病に罹患する率が高かった。おまけに、禁欲を誓った者の88%が誓いを守れなかったと報告している。
2003年には、17歳の優等生であり学校の文化祭で「キング」に選ばれたこともあるジェナロー・ウィルソンがガールフレンドの少女と合意の上でオーラルセックスをしたとして逮捕された。その少女はまだ16歳になっていなかったのだ。彼は小児に対する性的虐待の罪で有罪となり、最短10年の懲役刑を言い渡されてジョージア刑務所に収監され、性犯罪者として生涯登録されることになった。もしウィルソンが彼女と普通のセックスを楽しんだのなら、彼らの「罪状」は性的非行のみとなり、刑期は最長でも1年、さらに性犯罪者として登録されることもなかった。(281ページ)

その前年には、自分たちのセックスをビデオに録画した少年少女がネブラスカ州法に違反したとして逮捕された。セックスは合法である年齢だったが、録画は「児童ポルノを作成した」という罪になるのだ。日本でも少女が自分のヌード画像をSNSに投稿することが問題になっているが、米国では自分が被害者である「犯罪」で自分自身が加害者として罰せられるという事態が出現している。

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