理性というものがあるのか無いのかというのは無意味な議論であると考えている。見方によっては「ある」し、見方を変えれば「はっきりしない」。あると考えた方が話をまとめやすいし、無いと断言するのは難しい。
このブログでしばしば述べているように、細かく(ミクロで)見ていくと見失ってしまうものが、大局的に(マクロで)見るとはっきりわかることがある。空の雲を地上から見れば輪郭がはっきりし、光まで反射しているのに、飛行機に乗って雲に入るときには、別に膜のようなものを突っ切るわけではなく、すうっと霧に包まれ、雲の内と外の境界がはっきりしない。あるいは液体の水の表面を目で見れば、どこに表面があるのかは一目瞭然だが、分子レベルで見ると、液体の水の表面からは多くの分子が空気中に拡散し、また空気中の水分子も次々に液体に吸着されていくので、「表面」という3次元の境界を確定するのは難しい。
ミクロで見ていくと分からなくなってしまうものでも、日常の話をする場合には「水の表面」や「雲の形」というマクロな概念を使った方が意味を伝えやすい。理性というものもそんなものだろう。人の心を細かく分析していくと、何を理性と呼ぶのか混乱してくる。しかし、実際に人と相対したときには、その人に理性があるかないか、混乱しているか冷静かはかなり容易に判断がつく。
しかしマクロな概念である理性が、実は数多くの複雑な要素から構成されており、物質的な基礎である身体の影響を受けることは念頭に置かねばならない。古来から意識されていることで、さまざまな知恵が伝承されている。夜に重大な決定を避ける戒め、高揚した気分や落ち込んだ気分のときに浮かんだ考えを棚上げにする忠告、恋愛が人を盲目にさせるという諺、怒りに駆られて行動する前に数を数えるたり深呼吸したりする技法などである。
物質的な説明を付け加えれば、人の精神状態はテストステロン、オキシトシンなどのホルモンやセロトニン、エンドルフィンなどの神経伝達物質の影響を強く受けることがわかっている。別の言い方をすれば、人の心はホルモンや神経伝達物質のバランスの上に成り立っている。
患者の自己決定は患者に合理的な理性があることを前提として成り立っている。もちろん誰にでも合理的な判断を下す能力はあるのだが、その能力が常に百パーセント発揮できるかというと、そうではない。人の心は理性で完全にコントロールできるとするのは幻想だし、理性でコントロールしなければならないとするのは、ほとんどの人にとって無理難題だ。理性を偏重するのは危険だと考える。
このブログでしばしば述べているように、細かく(ミクロで)見ていくと見失ってしまうものが、大局的に(マクロで)見るとはっきりわかることがある。空の雲を地上から見れば輪郭がはっきりし、光まで反射しているのに、飛行機に乗って雲に入るときには、別に膜のようなものを突っ切るわけではなく、すうっと霧に包まれ、雲の内と外の境界がはっきりしない。あるいは液体の水の表面を目で見れば、どこに表面があるのかは一目瞭然だが、分子レベルで見ると、液体の水の表面からは多くの分子が空気中に拡散し、また空気中の水分子も次々に液体に吸着されていくので、「表面」という3次元の境界を確定するのは難しい。
ミクロで見ていくと分からなくなってしまうものでも、日常の話をする場合には「水の表面」や「雲の形」というマクロな概念を使った方が意味を伝えやすい。理性というものもそんなものだろう。人の心を細かく分析していくと、何を理性と呼ぶのか混乱してくる。しかし、実際に人と相対したときには、その人に理性があるかないか、混乱しているか冷静かはかなり容易に判断がつく。
しかしマクロな概念である理性が、実は数多くの複雑な要素から構成されており、物質的な基礎である身体の影響を受けることは念頭に置かねばならない。古来から意識されていることで、さまざまな知恵が伝承されている。夜に重大な決定を避ける戒め、高揚した気分や落ち込んだ気分のときに浮かんだ考えを棚上げにする忠告、恋愛が人を盲目にさせるという諺、怒りに駆られて行動する前に数を数えるたり深呼吸したりする技法などである。
物質的な説明を付け加えれば、人の精神状態はテストステロン、オキシトシンなどのホルモンやセロトニン、エンドルフィンなどの神経伝達物質の影響を強く受けることがわかっている。別の言い方をすれば、人の心はホルモンや神経伝達物質のバランスの上に成り立っている。
患者の自己決定は患者に合理的な理性があることを前提として成り立っている。もちろん誰にでも合理的な判断を下す能力はあるのだが、その能力が常に百パーセント発揮できるかというと、そうではない。人の心は理性で完全にコントロールできるとするのは幻想だし、理性でコントロールしなければならないとするのは、ほとんどの人にとって無理難題だ。理性を偏重するのは危険だと考える。