阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年12月

理化学研究所の調査委員会が、本日東京都内で記者会見して報告書を公表した。さすがにまともな報告だと思える。新聞各紙が夕刊のトップで伝えていたが、ここでは医療者向けポータルサイト「m3」に掲載された、共同通信社が本日配信した記事(http://www.m3.com/news/GENERAL/2014/12/26/281331/)に基づいて書きたい。

委員会は、研究室に残された細胞の遺伝子配列の変異を、既存の万能細胞である胚性幹細胞(ES細胞)の変異と比較した。その結果、変異が99%以上一致したことから、STAP細胞と言われた細胞はES細胞であると結論した。
桂委員長は、STAP細胞は既存の万能細胞である胚性幹細胞(ES細胞)が混入したものだと「ほぼ断定できる」との見方を示し「STAP細胞がなかったことはほぼ確実だ」と述べた。

世間が欲しがっているのは100%正確な科学的結論ではなく、妥当で納得のいくストーリーなので、この報告には満足するだろう。混入が故意であることは明らかにできなかったが、これは当然で、強制捜査権のない調査委員会での限界だ。報告書では「ES細胞を誰かが故意に混入した疑いを拭えない」としたのだそうだが、これは「故意に混入したに決まっている」というのを婉曲に表現しただけなので、これで充分だろう。

細胞が7日間にわたって培養された部屋には、人がいないことも多く、夜間の入室も可能だったという。またES細胞も誰でも使える体制になっていたようだ。報告書では、誰がES細胞を混入させたかは判断できないとし、さらに故意か過失かも判断できないとした。妥当なところだ。
調査委では、小保方氏への聞き取り調査を3回行ったが、小保方氏は「ESは絶対に混入させていない」と話したという。また、小保方氏以外にも、混入の機会があったと見られるすべての関係者にも聞き取り調査を行ったが、「ES混入の目撃者はなく、すべての関係者が混入を否認した」という。(読売新聞、http://www.yomiuri.co.jp/science/20141226-OYT1T50075.html)

産経新聞によれば、調査委員会は若山と小保方を主要な容疑者としたようだ。
調査委は「ES細胞の混入があった場合、当事者は小保方晴子氏と(山梨大教授の)若山照彦氏しかいないように見える」と分析。だが実験が行われた若山氏の研究室は「多くの人が夜中に入ることが可能だった」ことから、「必ずしもそうとは言い切れない」と判断した。
[中略]
調査委は「故意か過失かの認定は、それを行った人物でないと分からない」とし、「調査委の能力と権限の限界でもある」と釈明した。(産経ニュース、http://www.sankei.com/affairs/news/141226/afr1412260023-n1.html)

誰が混入したのか、それは確かに大きな問題だ。しかし、行為者が明らかになる可能性は非常に低いと予想される。だが、それが明らかにならなくても、なぜ論文が共著者、上司、査読者など専門家のチェックをすり抜けたのかを明らかにすることは可能だろう。そちらの方が第2、第3のSTAPを出さないためには問題なのだ。

これで調査は終わってしまったようだ。日本の科学界の自浄作用はこの程度なのだろう。また、日本のマスコミの見識も同じ程度なのだろう。情けない話だ。

理化学研究所は2014年12月19日に開いた記者会見で、STAP細胞に関する検証実験の打ち切りを発表したという。複数のメディアが報道している。その中から、日経ビジネスオンラインが2014年12月24日に配信した『STAP検証、形だけの幕引き―遠い真相解明の道のり』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20141222/275471/)をベースに書きたい。

はっきり言って「もう、うんざり」と言う感じだ。「茶番だ」と決めつける向きもあるが、当事者たちはそれなりに懸命に動いている。それだからこそ問題であり情けない、と私は思う。小保方が退職することで、真相解明は遠のくという。真相解明とは、どのようなことを言うのだろう。

科学者たちは厳密に検証実験を行おうとした。そして以下のような結果を得た。
ただ今回の検証実験で「STAP細胞は存在しない」と最終的に結論付けられた訳ではない。理研は「再現することはできなかった」「確認には至らなかった」と説明するだけで、存在の有無については言明を避けた。

「予想をはるかに超えた制約の中での作業となり、細かな条件を検討できなかった事などが悔やまれます」

小保方氏は19日の理研の会見に合わせて発表したコメント文でこう思いを語った。

存在することの証明は、見つけることができさえすれば容易だ。「ツチノコは存在する」という証明には、ツチノコを捉えれば良い。しかし、存在しないことの証明は非常に難しいく、多くの場合不可能だ。これは科学の常識だと言って良い。STAP細胞が存在しないことの科学的な証明は不可能なのだ。理研の実験で言えるのは「これこれの方法により作成を試みても、作成できない可能性が有意に高い」ということしか言えない。方法は(条件が異なる場合を別の方法と見なせば)無限にある。それをひとつひとつ潰していっても、何の意味もない。その意味で、理研が「確認に至らなかった」と結論し、「存在の有無については言明を避けた」というのは正しい。小保方のコメントも反論のしようが無い。

しかし、そのような結論になることは初めからわかっていた。STAP細胞が確認できないかぎり、有るとも無いとも結論は出ないのだ。「検証実験」が意味を持つのはSTAP細胞が作成できて、「STAP細胞はあります」というテーゼが証明されたとき、そのときだけだ。彼らはSTAP細胞が確認できると思っていたのだろうか。思っていたなら愚かだし、思っていなかったのなら、詐欺だ。無駄な「検証実験」に多額の資金をつぎ込んで実行している理研の研究者も研究者だが、そこにツッコミを入れない周囲も周囲だ(今頃になってツッコミを入れている私も、他人のことは言えないのだが)。

だから、私たちが求めている「真相解明」はそのようなものではない。なぜ小保方が早稲田大学で博士号をとれたのか。なで理研でチームリーダーになれたのか。なぜSTAP細胞の論文を共同研究者たちが認めたのか。なぜ「ネイチャー」誌の査読に通ったのか。そういったことを知りたいのだ。かわいいからか。金を積んだのか。大物の後ろ盾がいるのか。はたまた病気か。

私は、誰かノンフィクション作家に依頼して調査してもらい、実名で本を出版してもらったらどうかと思う。おそらくそれが世間が一番納得する「真相解明」だろう。柳田邦男、立花隆、森達也など誰でも良い、取材費として1千万円ほど提供したらどうだろう。もしかしたら、小説家の方が面白い結果になるかもしれない。高村薫はどうだろう。いずれにしても科学者ができるのは「真相解明」ではなく、科学的検証だ。「自分たちの手には負えない」と断言するのが正しい態度だ。「無責任だ」と非難されようが、できないものはできない。その代わりに第三者の調査に全面的に協力すればいい。

マット・ニューバーグ『詳解 iOS SDK』(オライリー・ジャパン)について書きたい。本書は同じ著者の『入門 iOS SDK』(オライリー・ジャパン)の続編である。もともとは1冊の本だったが、あまりにページ数が多いので2分冊になった。『入門 iOS SDK』を第1巻とすれば第2巻ということになる。本書がやっと出版されて、これで全巻完結である。待ち遠しかった。本書は出版されたばかりであり、さらに700ページを超える大部であるので、まだ読了していない。ただし、非常に有用な本であることはすでにわかっている。リファレンスのような本なので、そもそも全体を読み通す必要は少ないのかもしれない。だが、iOSのプログラミングに本格的に取り組もうというのなら、『入門 iOS SDK』とともに一度通読したほうがいいだろう。なお、『入門 iOS SDK』は通読に向いた本だ。

「まえがき」によれば、ニューバーグが本書の元になる本を企画したのが2010年で、iOS 4の頃だった。そして『Programming iOS 4』として出版されたのが2011年6月である。その後、iOSが頻繁にバージョンアップされるため、本の改定とのいたちごっこの様相を呈する。出版直後の2011年10月にはiOS 5の配布がおこなわれた。それに対応して『Programming iOS 5』が出版されたのが2012年3月、その半年後の2012年9月にはiOS 6が配布され、さらに半年後の2013年3月には『Programming iOS 6』が出版された。2013年9月にiOS 7の配布、2013年12月に2分冊となった『Programming iOS 7』の出版、2014年9月にiOS 8の配布と続く。さらに2014年6月には新しいプログラミング言語Swiftが発表され、9月から1.0がリリースされ、Swiftで開発したアプリをApp Storeに申請することが可能となっている。

本書はiOS 7とXcode 5を解説の中心にしている。iOSは上位互換性が高く、Swiftの仕様も揺れているので、本書はまだまだ活躍するだろう。少なくともライブラリがObjective-Cで書かれている間は重要なリファレンスになるはずだ。

これだけの厚さの本となると、翻訳にもそれなりの時間がかかる。IT技術書の翻訳の場合、記述が正確であるかどうかや日本語での動作などの検証が必要となることがあり、余計に時間がかかる。すると、翻訳している間にiOSの新バージョンがアナウンスされる事態が発生する。iOSの場合、旧バージョンとの互換性が高いため、本の記述にはほとんど手直しの必要がないのが普通だ。ただし、新バージョンの実物での検証をしておきたいし、新しい機能などが追加されていれば、当然その部分の解説も欲しくなる。そのうちに新バージョンが公開され、記述に修正の必要がないかどうか検証しているうちに原書の新版が出版される。ここでもいたちごっこが始まる。

本に比べてウェブリソースの方は対応が速い。出版・流通のコストがかからないのだから小回りが利きやすい。しかし、ウェブリソースは消えてしまうことがある。サーバがなくなってしまうこともあるし、URLが変更されていることもある。対抗策として「魚拓」したりEvernoteに保存したりするのだが、検索したページから参考資料としてリンクされているページがリンク切れを起こしているとどうしようもない。その点、本は情報が固定されているし、情報の質も一定の信頼が置けるので安心できる。特にリファレンス本はありがたい。JavaScript、jQuery、CSS、PHP、Perlなどのリファレンス本はしばしば開いている。どこにどのような記述があるかぼんやりと覚えているので、必要な記事を見つけ出すのも早い。個人的にはやはり本がいい。

河口は「財政規律の堅持」も強く主張していた。現在の日本のように財政に誰が責任を持つのかが明確になっていない制度は破綻する。医療費は、診療報酬点数を政府側が決めるだけなので、医療側がたくさん医療をおこなえばそれだけ医療費が膨らむ。医療費を支払う側(国や支払基金)に費用をコントロールする仕組みがない。介護にしても介護費用を見積もるのは供給側のケアマネージャなので、介護費用を支払う側が出費をコントロールできないのは同じである。さらに、皆が国債発行による負担の先送りに危険を感じているのに、責任が明確でないために誰も現状の変更を言い出さない。

デンマークは非常に小さな国で財政基盤も盤石ではない。歳入を北海油田の売り上げに頼っており、原油価格の低下や、採掘量の減少で容易に国家財政が緊迫するという。政府も国民も現状をよく理解しており、医療の供給は控え目で抑制的ですらある。総額予算制度を採用しているので、万が一予算を使い切ってしまうと、その先の医療供給が不可能になる。そこで細く長く、医療給付は適正水準の下限を目標としておこなわれる。また、財政の責任が明確で、たとえば地域での受け入れ態勢が整わず患者の入院が長引いた場合、長引いた分の入院費は地域側(地方自治体)が負担することになっている。だから受け入れ側も必死になって体制を整えるのだそうだ。

ドイツでも「収支相当」の原則が貫かれ、支払いに見合った成績が上がっているかどうかが常にチェックされ、給付水準と保険料のバランスが重視される。新たに支払いが増えるような事態があれば、それに対応してどの給付を制限するかがかならず議論されるという。

両国の制度とも、それぞれの国民性に根ざしている。日本の現状も、嫌なことを避けたがる日本人の国民性を反映したものと言えるだろう。河口は明言しなかったが、日本国民が現在の危機的状態を認識するには、「痛い目」に会わないとならないのかもしれない。このまま行けば10年後には手酷い「痛い目」に会うことは確実だ。別に何の準備も必要ない。いや準備をしないからこそ痛い目の会うのだが。

講演の最後は看取りの話だった。いくら医療・介護を充実させても、現在のように終末期に病院に搬送されるようでは制度としての一貫性に欠ける。しかし、これに関しては経済学的な視点からの有効なアイディアは少ないとのことだった。看取りは文化の話であるから、経済的な誘導は難しいだろう。かえって反発を招く可能性もある。実際、2008年の4月に後期高齢者医療制度の診療報酬のひとつとして導入された「後期高齢者終末期相談支援料」は、マスコミなどのネガティブキャンペーンにあって同年7月に算定凍結となった(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/07/dl/s0715-16h.pdf)。河口は、日本では年齢によって対応を分けると感情的な反発を招きやすいとして、何らかの給付の条件として全員にリビングウィルの提出を条件付けるなどの方策が考えられるとしていた。

リビングウィルが患者自身を縛ることになるとして反対する意見もある。患者の考えが変わることもあれば、家族に遠慮して本音を書けないこともあるのも事実だ。しかし、意思が変わることを前提とし、定期的に更新する手続きを定めるなどして延命は患者の苦痛であるという認識を徐々に広めていかねばならないだろう。

先日、河口洋行の講演『急性期医療と地域包括ケアの将来ビジョン―独・デンマーク・日の共通点から』を聞いた。河口は成城大学経済学部教授で、医療経済を専門とし、ドイツ、デンマーク、フィンランドなどの医療制度を中心に研究している。

講演の内容は、事前資料として配布された「社会保険旬報」の記事『デンマーク及びドイツの医療・介護制度』(2010年9月11日号から同年10月1日号にかけて連載)にほぼ沿ったものだった。

河口の描く日本の医療制度の将来像はデンマークやドイツの制度の強い影響を受けているが、急性期病院と地域ケアの二本立てという制度だ。現在厚生労働省が示す概念図にあるような回復期・亜急性期病床や長期療養型病床は無い。医療職は急性期病院に集中配置され、高度急性期および急性期医療を担う。急性期が過ぎれば患者は地域に戻り、地域では医療職と介護職が協業し、地域ケアとして医療と介護をシームレスに提供する。

地域ケアについて補足すれば、実質的な日々のケアは介護職が提供する。ただし、介護職を医療専門職化して、現在のような細切れの提供を避ける。現在の日本の制度では訪問介護は医療が提供できず、訪問看護は介護を提供しない。この状態は、利用者側から見ればまことに不便である。介護職の教育制度を充実させて免許制とし、限定的に医療を提供できるようにする。看護師は介護職からのコンサルテーションと管理を主に担う。さらに、看護師が必要と判断したときのみ医師にコンサルテーションするようにする。このようにすると、医師・看護師を急性期病院に集中的に配置できるようになる。

それではその急性期病床はどの程度の病床数が必要とされるなのだろう。医師・看護師の養成体制は整うのだろうか。講演を聴講した参加者の多くがそのような疑問を持ったに違いない。事実、講演後の質疑応答でフロアから「急性期病床の病床数はどれくらいが適正と考えているのか」という質問があった。この質問に対し河口は「経済学者はそのような考え方をしない。ニーズベースで考えるのではなくデマンドベースで考えるのだ」と答え、非常に面白かった。現在の有病率や、人口の将来予測などを用い、現在の病床数から将来の病床数を計算することは、将来の医療ニーズの予測をおこなっていることになるから、ニーズを基盤とした考え方である。それに対し、経済学の立場では、入院費の設定などにより入院したい人の数は変わってくると考える。これがデマンドベースの考え方だという。

たしかに老人医療費の無料化により高齢者の受診・入院が非常に増加した。本来のニーズを上回るデマンドがあったということだ。政府が画策しているように混合診療が解禁され、健康保険でカバーされる医療が基本的な最低限の医療のみになれば、デマンドは縮小するだろう。医療費負担の問題を考慮に入れずに将来の病床数を云々しても始まらないという指摘は新鮮だった。

長くなるので、続きは明日とする。

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