長谷正人、奥村隆:編『コミュニケーションの社会学』(有斐閣アルマ)の第5章「対話というコミュニケーション」について書きたい。
本章では、まず「対話と暴力」という二項対立について疑問が投げかけられる。口喧嘩で負けた相手が暴力に訴えるのは、言葉で伝えられなかった思いを伝えようとする一種のコミュニケーションではないかというのが著者の問いかけだ。
著者は脅迫、自死などのメッセージ性の明白な暴力だけでなく、一見して衝動的に見える暴力にも複雑なメッセージがひそんでいることがあると言う。
著者らは、また逆に対話による暴力もあると指摘し、戦後、国会で意に反する追及を受けて自死した菅季治(かん・すえはる)の例を挙げる。菅は終戦時ロシア語の通訳をしていた際にソ連将校の通達を通訳しただけなのに、通達の背景に日本共産党の徳田球一から指令があったのではないかと国会で理不尽で執拗な追及を受けた。東西冷戦が激化していた当時の政治状況の中で、菅は追い詰められ、抗議の手段として自殺を選ぶ。これは明らかに対話を介して暴力が行われた例だが、著者らはディスコミュニケーションの問題を指摘する。
菅は「完全なコミュニケーション」の可能性を信じ、ディスコミュニケーションに対して無防備であったために深く傷つけられる結果になったと指摘する。また、理性的・論理的な対話というのも、言葉では簡単だが実際におこなうのは極めて困難である。さらに「たとえ実行できたとしても、それだけでは(つまり、感情的・感覚的にも相手を納得させることができなければ)、相互理解や合意形成に関して十分な効果をもつとはいえない(99ページ)」。日常のコミュニケーションは、実はディスコミュニケーションと一体となって機能している。著者は「ずれやすれ違い、誤解や曲解、トンチンカンなど、さまざまんディスコミュニケーションこそが、むしろ人間のコミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさなどを作り出しているのではないか(105ページ)」と述べる。
ディスコミュニケーションに敏感すぎるためにコミュニケーションが下手だと思い込んでいる若者が多いのではないかと著者は推測する。ディスコミュニケーションは不可避であり、不可欠である。恐れる必要はないのにと著者は言う。ディスコミュニケーションの必要性を認識し意識化するようにすれば、コミュニケーション不全を訴える人が減るかもしれない。
本章でディスコミュニケーションの例として佐野洋子『シズコさん』が紹介されていた。以前から気になっていた本なので、早速購入した。
本章では、まず「対話と暴力」という二項対立について疑問が投げかけられる。口喧嘩で負けた相手が暴力に訴えるのは、言葉で伝えられなかった思いを伝えようとする一種のコミュニケーションではないかというのが著者の問いかけだ。
あれこれの具体的な欲求や不満ではなく、学校や家庭や社会のかなで漠然と感じられる疎外感や閉塞感、あるいは「自分の存在を認めてほしい」とか「生きている実感がほしい」といった訴えなどがそうである。こうしたいわば「実存的」なメッセージは、一般に言葉になりにくく、言葉の形で他者に伝達することが難しい。そのため、この種のメッセージはときに(他者あるいは自分自身に対する)暴力という形で表出されることがある。(90ページ)
著者は脅迫、自死などのメッセージ性の明白な暴力だけでなく、一見して衝動的に見える暴力にも複雑なメッセージがひそんでいることがあると言う。
著者らは、また逆に対話による暴力もあると指摘し、戦後、国会で意に反する追及を受けて自死した菅季治(かん・すえはる)の例を挙げる。菅は終戦時ロシア語の通訳をしていた際にソ連将校の通達を通訳しただけなのに、通達の背景に日本共産党の徳田球一から指令があったのではないかと国会で理不尽で執拗な追及を受けた。東西冷戦が激化していた当時の政治状況の中で、菅は追い詰められ、抗議の手段として自殺を選ぶ。これは明らかに対話を介して暴力が行われた例だが、著者らはディスコミュニケーションの問題を指摘する。
ディスコミュニケーション(dis-communication)というのは、鶴見[引用者注:鶴見俊輔]が作った言葉で英語の辞書には載っていないが、たとえば菅と質問者たちとの対話における意図的および無意図的な「すれ違い」の部分をいう。要するに、コミュニケーションにおいて意思の通じあわない部分のことである。(95ページ)
菅は「完全なコミュニケーション」の可能性を信じ、ディスコミュニケーションに対して無防備であったために深く傷つけられる結果になったと指摘する。また、理性的・論理的な対話というのも、言葉では簡単だが実際におこなうのは極めて困難である。さらに「たとえ実行できたとしても、それだけでは(つまり、感情的・感覚的にも相手を納得させることができなければ)、相互理解や合意形成に関して十分な効果をもつとはいえない(99ページ)」。日常のコミュニケーションは、実はディスコミュニケーションと一体となって機能している。著者は「ずれやすれ違い、誤解や曲解、トンチンカンなど、さまざまんディスコミュニケーションこそが、むしろ人間のコミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさなどを作り出しているのではないか(105ページ)」と述べる。
ディスコミュニケーションに敏感すぎるためにコミュニケーションが下手だと思い込んでいる若者が多いのではないかと著者は推測する。ディスコミュニケーションは不可避であり、不可欠である。恐れる必要はないのにと著者は言う。ディスコミュニケーションの必要性を認識し意識化するようにすれば、コミュニケーション不全を訴える人が減るかもしれない。
本章でディスコミュニケーションの例として佐野洋子『シズコさん』が紹介されていた。以前から気になっていた本なので、早速購入した。