阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年09月

勝俣範之『「抗がん剤は効かない」の罪―ミリオンセラー近藤本への科学的反論』(毎日新聞社)を読了した。すでに勝俣へのインタビューを読んで、このブログにも書いている(2014年7月13日~15日)ので彼の主張自体はよくわかっていたのだが、やはり1冊の本として読むと、いろいろ思うところが出てくる。

勝俣がこのような本を、かなりの労力を費やしても書こうと決意したのには、近藤誠の著書がベストセラーになっていることへの強い危機感がある。本書からも近藤の無責任さ、非科学性に対する憤りのようなものが伝わってくる。近藤は自らの方針を「がん放置療法」と呼んでいるらしいが、放置することが「療法」でないことは明らかである。根治可能な初期の癌の患者に「がんもどき」であるからと「放置療法」を勧め、癌が進展すれば「本物の癌でしたね。治療は無意味です」と言うのでは、ただ単に患者が治癒する機会を奪っているだけで、詐欺にも等しい非倫理的な行為だ。

勝俣が本書でも触れているとおり、近藤は多数の医学文献を読んでいるらしい。「放置療法」のみでたいしてすることが無ければ、文献を読む時間もたっぷりあるだろうと、嫌味のひとつも言いたくなるが、多数の文献をちりばめて理屈をこねられると、狭い範囲の文献しか読んでいない医師では太刀打ちができない。その点、腫瘍内科医の勝俣は癌関係の医学文献には広く目を通しており、近藤と渡り合うには適役だ。近藤の主張の誤りを、元になった文献の意味を解説しながら丁寧に論証している。臨床研究のデザイン、結果の解析から運用までよくまとまった解説がされており、いろいろと勉強になった。

ただし、残念な点もある。勝俣はあくまでも客観的な評価を前面に出し、近藤を頭から否定することはしない。だが、私の目から見ると、そのために彼の主張が弱められ、説得力を失っているように感じられる。たとえば、診療ガイドラインに関して、彼は以下のように述べている。
「診療ガイドライン」や教科書が大事だなどと言うと、「所詮、金儲けの好きな腹黒い医者たちが書いているのではないか。そんなものは信じられん」などと言われるかもしれません。また、「〝教科書的な医療〟を一方的に押しつけられたくない」と言われるかもしれません。その気持ちはよく理解できます。[中略]
確かに〝腹黒い医師〟も、一部には存在します。ランダム化比較試験といえども、捏造などを完全には排除できません。
日本では、どちらかと言えば臨床医学研究を軽視しているために、認識も甘い。(173ページ)

別の場所では海外のガイドラインの方が「日本のガイドラインよりも信頼がおけるかもしれません(165ページ)」と、日本の現状を暗に批判してるので、勝俣は日本の癌臨床のレベルには強い不満があることがわかる。たしかに、腫瘍内科医が極端に少ないこと、癌拠点病院であっても標準的な治療がおこなわれているとはかぎらないこと、大学は研究中心で臨床がおろそかにされていること、研究データ捏造事件で日本の診療研究の信頼が失墜していることなどを考え合わせると、このように言わざるをえないのかもしれない。

だがこれでは患者は何を頼り、どうすればいいのかわからない。金儲けの好きな医師は少数派であること、腹黒い医師はさらに少ないこと、捏造する医師もきわめて少数派であることなどを力説しなければならない。つまり、普通に受診した場合、そのような医師に当る可能性は少ない。しかも、金儲けの好きな医師や腹黒い医師はきっと金持ちだろうから、少し様子を観察すればわかるはずだ。現状を包み隠さないことも重要だが、そのようなことをはっきり言わなければ、この本を読んだ人は不安になるのではないかと心配する。

7月13日のブログに書いたが、近藤の本とこの本を読み比べて、この本は「希望につながる感じがしない」と述べた人がいるという。この本に書いてあることは「現実」なのだが、辛いことも多い現実から目を逸らそうという人があまりにも多い気がする。現実から目を逸らしているかぎり、ハッピーエンドは訪れない。

国立がん研究センターの調査結果によれば、米国や欧州で承認され、日本で未承認のがん治療薬41種のうち、24種は薬代が円換算で月に100万円を超えるそうだ。9月11日に報道されたが、国立がん研究センターのホームページを見てみると、「ホーム > 国立がん研究センターについて > 組織紹介 > 先進医療評価室」とたどった先にある「国内で薬事法上未承認・適応外である医薬品について」というページに元データが公開されている(http://www.ncc.go.jp/jp/about/senshiniryo/senshiniryo_01.html)。さらに参考として「未承認薬を用いた場合の、患者さん自らが支払う医療費(モデルケース)」というページ(http://www.ncc.go.jp/jp/about/senshiniryo/senshiniryo_01_02.html)があり、イピリムマブという国内未承認薬での試算結果が出ている。体重68kgの男性で、3ヶ月間に4回投与をおこなった場合の医療費は3,519,690円(薬剤費3,366,000円+入院治療費102,240円+外来治療費51,450円)だそうだ。

先日、國頭英夫の講演を聴く機会があった。國頭は癌化学療法の専門家で、現在日本赤十字社医療センターに勤務している。彼によれば、小野薬品工業が今月(2014年9月)発売した、悪性黒色腫を適応病名とする新しい抗癌剤「オプジーボ」(一般名:ニボルマブ)は、もし彼自身(体重60kgの男性)に使用したとすると、年間治療費が約1500万円になるという。もちろん高額療養費制度を利用すれば、患者側の出費は月10数万円程度で済むかもしれないが、残りの年間治療費は健康保険から支払われる。そして健康保険の赤字は税金によって補填されている。

國頭は、医師が治療費に関心を示さないと批判していた。患者が支払う医療費については一応配慮するが、高額医療費制度で還付されるとわかれば平気で高額の治療をおこなう医師が多い。医療介護関連予算の膨張は限度を超えており、保険制度はすでに破綻していると國頭は述べた。彼はユーモアたっぷりに「『北斗の拳』のような話ですが」と言って笑っていた。先日来取り上げている『日本の医療危機の真実』の著者である南友和も、多大な借金の上に成り立っているこの医療制度がうまくいっていると考えるのは幻想にすぎないと指摘している。
話は変わるが、昨日のブログで取り上げた田辺は、医師が新しい治療に興味を示さないと指摘していた。
本当は、日本には世界的に見ても最高レベルの治療があります。ごく少数の医師が、治る治療法を提唱し、私は雑誌の記事や著書などでそうした医師を応援してます。患者は関心を持ちますが、そうした分野のほとんどの医師は、何の関心も示しません。自分のところのなかなか治らない患者を紹介するわけでなく、患者が聞くと「そんなに簡単に治るなら、医者は苦労しませんよ」と否定します。本当かと疑って問い合わせをすることもなく、学びに来ることもありません。[中略]質は関係ない。つまり、治っても治らなくても、医師にとってはどうでもいいこととしか受け取れません。(『日本の医療危機の真実』155ページ)

田辺は、医療に対する思い入れの強さがなせる業なのか、医師一般に対して攻撃的である。上に引用した「治っても治らなくても、医師にとってはどうでもいいこととしか受け取れません」というのは、言わずもがなのことだ。彼の焦りと苛立ちを表した言葉なのだろうが、善意の医師の方がずっと多いのだから、これは不必要に敵を作る言葉だと感じる。

しかし、実際に田辺が指摘したような現象はあるのだろう。医学教育で教わったことからあまりにかけ離れたことには本能的な警戒心を抱く。また治療の難しい疾患に出会ったとき、治療する側の気持ちがくじけてしまうこともある。たとえば、私は扁桃摘出術後の抗生剤投与を廃止して良好な結果を得ているが、現在でも漫然と抗生剤を投与している医療機関は多い。また、慢性の耳漏、特に真珠腫性中耳炎術後の耳漏について、適切な処置を充分長く継続すれば停止させうる症例もあるのだが、あまりに手間がかかるため、私の後を継ごうという医師が出ない。こういったことのみを捉えれば、医師の怠慢と言うこともできる。しかし、実はこれらのことは優先順位の問題であって、単に医師が現状への対応や、求められている修練など、優先順位の高い喫緊の課題で手一杯で、なかなか新しいことに手が出せないということなのだと思っている。

南友和『日本の医療危機の真実―いまこそ求められる医療制度改革』(時事通信社)の8番目の対談は『良い医師を見つける患者力』で、相手は医療ジャーナリストの田辺功である。田辺は工学部を卒業後、新聞社に入社し、記者や編集委員を経験している。一貫して医療に関心を持っていたようだ。

田辺の考えは冒頭に述べられている。
厚生労働省や日本医師会などは、日本の医療は素晴らしい、だから平均寿命が世界一だと言います。しかし、私がずっと感じてきたのは、日本の医療というのは非常に大きな問題があるということです。それは、品質管理ができていないということです。[中略]私は日本の医療の正しさというよりは、日本人が遺伝子的、体質的に優れているのではないか、あるいは食事がいいのではないか、それが医療制度のまずさをカバーしている。(149ページ)

たしかに、日本は気候が温暖で、きれいな水に恵まれ、海産物も農産物も豊富である。これは日本人の寿命に好影響を与えているだろう。医療者にしろ為政者にしろ、医療のおかげで日本人が長寿になったと考えるのではなく、このような謙虚な態度も必要だろう。

日本の医療制度について、どこでも同じような医療が受けられると言われることがあるが、田辺は次のように指摘する。
一律のレベルの医療さえやっていれば、といま南先生はおっしゃいましたが、そうでもない。質はバラバラなのです。バラバラで、ただ形で支払われているわけです。こういう治療をしたということでお金が支払われているわけです。良い治療をしたとか、治したとか、治せなかったということは関係がない。そういうシステムがあった場合に、お医者さんが本当に腕を磨いて良い医療をしようとしう、インセンティブというか、意気込みが生まれないわけです。そこが一番の問題だと思います。(150ページ)

この「質がバラバラ」という事態が医療不信の原因のひとつだろう。患者は治療がうまくいかないと、いや、うまくいっているときですら、もっと良い治療があるのではないかと考えてしまう。これはある意味で当然のことだ。南も田辺も、この質を現場で評価する役割を「かかりつけ医」に求めている。かかりつけ医がさまざまな情報をもとに、専門的な見地から患者の状態に合った医師を紹介する。患者がいくら情報を得ても、医療機関の評価、治療方法の適不適、専門医の得意分野などについて解釈し判断するのは困難だ。かかりつけ医ならば医師であるから適切な評価ができると期待できる。また、専門医制度を充実させるには、数少ない専門医にきちんと患者を紹介できるかかりつけ医の体制が不可欠だ。

田辺は、医療の質のコントロールは厚生労働省がおこなうべき仕事であるとしている。医師会は所詮開業医の集団であり、日本の医療の舵取りはできないと判断しているようだ。医師会については「勝手に開業し、これまでは患者でなかった地域の人たちを患者に仕立てる現実では、医療費は増える一方です(159ページ)」とかなり否定的だ。医療のコントロール不在については、救急医療を例に挙げて、以下のように批判している。
たとえば、救急医療で、俗にいうたらい回し事件というのが毎年毎年起こっています。話題にもなっています。けれども、こんなことは30年も前から毎年起こっている。誰もそれを解決しないまま、日本というのは同じことを繰り返しているわけです。病院にかかることさえできない、必要な医療を受けられないということは、質でいえば、最も低レベルなわけです。その低レベルなことすらできていないのに、どうしてそのなかの手術のレベルをどうこう言えるのか、ということです。(153ページ)

田辺は、罹患率に応じた医師の配置がなされていないことを問題視している。罹患率の計算、必要な医師数、医師を養成し配置するコスト、そのような計算を「誰もしない」と嘆く。田辺に言わせれば、これらは厚生労働省の怠慢ということになるだろう。田辺の本を読んだことは無いが、インターネットで検索して調べてみた限りでは、かなり極端な論調のようだ。先の「これまでは患者でなかった地域の人たちを患者に仕立てる」という発言は医師に対する敵意がむき出しである。だから厚労省に抑えさせようと言うのだろうか。南の、データ収集と分析は国家事業としておこなわれるべきという態度とは、少し違う印象だ。

介護の場合は、事情がもう少し複雑である。介護に関しては制度が比較的新しいからだろうか、「サービス業」としての側面や、「ビジネス」としての側面が、医療よりも強いと感じる。

医療職は比較的高給を得ることで損な役回りも引き受けることを社会的に要請されている。たとえば医師の場合、労働基準法違反の当直業務を課している医療機関が多いが、それが大問題にならないのは、「医者なんだからそれぐらいやっても良いだろう」と社会が黙認しているからだと思う。看護師の職場が「3K」などと呼ばれつつ、改善がなかなか進まないのも、同様の現象だろう(念のために断っておくが、「比較的」高給と書いたのであって、医療職の給与を高給だと思っているわけではない)。

それに対し、介護職の給与は低い。男性介護職員が結婚に際して給与がより多い職業に転職する、男性職員の「寿退職」があることは有名だろう。今後、2025年を迎えるにあたって、訪問介護がますます必要となるのに、介護職の待遇が悪いことで、必要な人員が確保できないのではないかと懸念されている。

雑誌「日経ヘルスケア」2014年8月号から「高齢者住宅優良事業者の条件」という連載が始まり、第1回は『介護保険制度に依存しない強いビジネスモデルを考える』であった。筆者は「高住経ネット」代表の濱田孝一である。彼は、高齢者住宅事業者は長期安定経営が可能な「強いビジネスモデル」を考えなければならないとして、モデルの条件を2つ挙げている。一つは、高齢者住宅の事業特性の理解と、高齢者の特性の理解である。
高齢者住宅は、高齢者が安全に生活できる住宅 サービスの部分と、食事や介護・看護、生活相談、状況把握などの生活支援サービスの部分で構成される複合サービスである。各サービスの提供者が同一である必要はないが、高齢者が安心・快適に生活するには、連携や提携、協力体制を含め、一体性をもって提供されなければならない。

もう一つは経営環境とその変化の方向性への理解である。高齢者住宅は、30~40年という長期に安定した経営がおこなわれなければならないので、「経営収支に与える外部要因を適切に把握し、その変化に対応できる商品設計が求められる」とする。たしかに高齢者住宅は「商品」なのだ。
高齢者住宅は現在のサ付き住宅のブームなどを反映し、需要の増加だけに目が行きがちだが、想定される経営環境の変化は事業者にとってプラスとなるものばかりではない。介護報酬改定による基本報酬などの引き下げや、 介護保険財政の悪化による利用者負担割合の増加、少子化によるスタッフの採用難など、マイナス要素も少なくない。 これらのリスクの回避・軽減策を商品設計と事業計画の中で継続的に検討していく必要がある。

この部分を読んで、なるほど「ビジネスマインド」が無ければ高齢者住宅は運営できないと感じた。しかし、介護制度を経済的に支えるのはビジネスマインドだが、実際の介護行為を支えるのはビジネスマインドではない。経営者がしっかりしたビジネスマインドを持って安定した事業運営をおこなうことで、介護職員が落ち着いて介護に励むことができるというのが理想なのだろう。

民主党政権の方針を安部政権が継承したからなのか、安部政権の成長戦略の中に医療がしっかりと組み込まれたからなのか、ビジネスとしての医療を語る書籍が多数出版されている。このブログでも何冊か紹介した。医療を「サービス」とする言葉遣いのせいで、医療現場はずいぶん混乱したが、「ビジネス」という言葉でも大きな混乱が見られる。以下、その混乱について、そして、医療・介護のあり方について、私見を述べたい。ただし、私は経済学に関してはまったくの素人だから、大学の授業で学んだことを思い出しながらの、直感的な議論しかできない。間違いや勘違いがあろうかと思うが、お気づきの場合はご指摘いただければ幸甚である。

人間が活動し、それに伴って金が動けば、それは産業だろうから、医療も立派な産業だろう。事実、多数の人間が医療機関やその関連会社に雇用され、多額の資金が動いている。そして、医療は「製造物」を販売するのではなく、相手に働きかけることで対価を得るのだから、産業として分類からすれば、医療が「サービス業」に入ることも納得できる。しかし、それはあくまでも経済学の視点から見た医療の姿であり、日常語としての「サービス」が意味する範囲で「医療がサービス」であるわけではない。だが、いろいろな人と話をしていると、その点に混乱がある人が少なからずいることに気付く。

ここで詳細を述べる必要は無いのかもしれないが、一般のサービス業は質の良いサービスを提供することで、より高い価格設定が可能で、他社との競争が可能だが、医療の「産業構造」はそのようになっていない。提供する「労務」のレベルや質はさまざまだが、医療本体の価格は公定価格である。診療の規模が変わらなければ、金をかければかけるほど損をする仕組みになっている。また、「サービス」という言葉は、一般的には「無料」という意味でも使われるが、もちろん薬を「サービス」したり治療法を「サービス」したりすることはありえない。「サービス」には奉仕の意味もあり、実際に医療現場では患者や家族への奉仕がおこなわれているが、奉仕は医療者の自発的な思いから医療の外でおこなわれているものであり、医療に組み込まれたものではない。さらに、日本語の語感としては「サービス」と「奉仕」は別物である。

したがって、経済的に見れば医療は「サービス」なのだが、一般的な語感では医療は「サービス」ではないということになる。「医療はサービスか」という問いに対しては、否定と肯定のどちらも成り立つと言えるだろう。ところが、この事態を無視した議論がおこなわれることがある。水掛け論に終わることは、当初から目に見えている。

ビジネスという言葉についても、同様の混乱がある。医療が産業であれば、当然ビジネスでもあるだろう。ところが日常語の「ビジネス」には「金儲け」というニュアンスがあり、また「デジタル大辞泉」の解説「個人的な感情を交えずに利益の追求のみを目的として進める仕事」からも推察されるように「冷たい」印象もある。すると、日常の語感を重視した場合には、医療は「ビジネス」ではない、あるいは「あってはならない」ということになる。

ただし、医療の分野によっては日常語のビジネスに近い感覚で捉えられている場合もある。たとえば、メディカルツーリズム対応や、その逆の医療輸出だ。外国との関係の中でおこなわれる医療は、産業、ビジネスの側面が強い。しかし、そのことがかえってメディカルツーリズムや医療輸出に対する「胡散臭さ」を生み出していると感じる。

国民に医療を提供する仕組み自体はビジネスではない。国民皆保険制度で縛られていること、診療報酬が定額制であることなど、「サービスでない」という指摘で挙げたのと同様の理由の他に、患者に対する理解や共感が重要視され、医療の公共性のためにときには採算を度外視した対応が必要となるなど、「ビジネス」の語感とはおよそかけ離れた実践が要求されているからだ。これまで、何冊かの本を読んできたが、「ビジネス」の二面性をきちんと捉えた本は無かった。安倍政権の方針で医療特区などが創設されるのだろうし、それが無くてもメディカルツーリズムへの圧力は次第に増すだろう。その際には「ビジネスである医療」と「ビジネスでない医療」をきちんと切り分けた上で議論や対応をおこなわなければならない。

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