阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年06月

李啓充『市場原理が医療を滅ぼす―アメリカの失敗』(医学書院)を読了した。本書は2004年に刊行されたので、10年前の本ということになるが、現在でも有用性を失っていない。

李は一貫して医療を市場原理に委ねることに反対している。混合診療にも反対し、必要な治療は保険に繰り入れることが正道で、保険外診療を可能にすることは、保険適用外の治療をなし崩し的に増加させていくことにつながり、間違った対処法であるとしている。医療を市場原理に委ねることで悲惨な状況に陥っている米国に暮らし、医師としても働くことで、事情を知悉している李の危機感は強い。

彼の弟はクモ膜下出血を発症した。2000年頃のことらしい。そのとき彼はちょうどセミナーに出席するために日本におり、病院に駆けつけた。弟は手術を受けたが、彼は疾患と予後についてインターネットを検索し、「手術が成功しても術後数日目に始まる『脳血管攣縮』[引用者注:脳の血管が痙攣を起こして細くなり、血流が途絶えること]により死亡したり重篤な合併症を残す人が多い(72ページ)」こと、後遺症予防薬としてニモジピンが世界的に標準的に使用されていることを知った。しかし、ニモジピンは日本では承認されていなかったため、投与できなかった。弟は、恐れていたとおりに脳血管攣縮を発症し、後遺症が残った。

李は非常に悔しい思いをしたのだが、それでも混合診療により未承認薬が使用できればよかったとは思っていない。未承認であること自体が問題であり、速やかに承認する体制作りが必要だという立場だ。なぜニモジピンは未承認だったのか。製薬会社が治験をしなかったためで、売れなさそうな効能では治験をしないという事実がある。
[二モジピンの販売権を持つ]B社は、二モジピンについて(1)80年代後半に「慢性期脳血管障害に対する脳循環代謝改善薬」として開発を進めたが、申請後判定算出基準の変更があり、有用性を認めてもらえなかった、さらに、(2)90年代に、アルツハイマー病の患者をも対象として、改めて「抗痴呆薬」として開発を進めたが、試験段階で有効性が認められず開発を中止した、という事実が判明した。驚くべきことに、クモ膜下術後の脳血管攣縮に対する効能については、開発の対象とすらされず、臨床治験も行われていなかったのである。(190ページ)

ニモジピンは米国では「クモ膜下出血術後の脳血管攣縮予防」という狭い適応しかない。ところが、B社はこの適応では満足しなかったようだ。日本でのクモ膜下出血症例は毎年1万5千人と見積もられている。二モジピンの投与期間は21日間である。それに対し、脳循環改善薬や抗痴呆薬として認可されれば、対象患者は2桁から3桁多く、投与期間も長期化する。李は「欲張ったために何も得ることができなかった[中略]舌切り雀の欲張り婆さん(191ページ)」と評しているが、大損をしたのは製薬会社ではなく患者である。李の試算では、B社が米国と同様に申請し、1989年に保険収載されていれば、2万2,500人の患者が後遺症から救われていたことになる。

米国では医療保険を民間が担うことで、市場原理が導入され、高所得者ほど自己負担が少なく、低所得者ほど医療を受けにくい構造が出現し、それが定着してしまった。日本には皆保険制度があり、さまざまな問題を抱えているものの、機能している。混合診療を解禁して日本の医療に市場原理を導入すれば、皆保険制度が徐々に崩壊していくことが予想される。その理由の第一は、医療保険が最終的には採算に合わない制度だからである。自動車保険や生命保険を考えればわかるように、リスクの少ない人の保険料を低く、リスクの多い人の保険料を高く設定できれば、保険は安定して運用ができる。米国は医療保険もそのようになってしまった。しかし、それでは弱者ほど保険料が高くなってしまう。日本は現在まで国民全体が所得に応じて保険料を負担する制度を運用してきた。病気にかかりやすいからといって保険料が割増しされることはない。しかし、これは「逆ざや」を含む制度で、全体を市場原理で運用できるものではない。部分的に市場原理を導入すれば、「おいしいところ」だけが民間に持ち去られ、公的制度の負担は増加することが予想される。

それよりも問題なのは、日本では製薬会社がすでに利潤追求のために公共の福祉に反する活動をおこなっているということだ。薬品に関わることが市場原理で動くために多くの問題が起こっていることは、あまり取りざたされない。李が指摘したニモジピンについてのバイエル社の態度は、「不作為」[当然おこなうべきであると期待される行為を(自分から進んでは)しないこと]の典型である。また、薬価収載から外されるような「効かない薬」を、効果があるように宣伝しつつ長期間にわたって販売していたことも、故意ではないにしても褒められるべきことではない(効かない薬としてはダーゼンやアバン、エレンなどの脳循環改善剤が有名だが、ATPや抗めまい剤なども、どれだけ効くのか怪しいものだと思っている)。さらに、精神科の医師の中には製薬会社が疾患の範囲を広げるキャンペーンをおこなうことにより向精神薬の投薬対象を拡大しようとしていると批判する者もいる。

話がやや拡散してしまうが、生産される抗生物質の大部分(9割以上)が家畜に投与されており、耐性菌が発生する温床になっている。これも最終的には人に影響が及ぶことで、大きな問題であると考えられている。市場原理や企業倫理だけではうまくいかない代表例のひとつとして挙げておきたい。

[昨日に続く]このように家族の気持ちは変わっていくのだが、患者の気持ちはさらに揺れ動く。当初、身動きができないくらいなら死んだ方がましだと思っていた患者が、実際に動けなくなったあとに、窓から見える空の変化や、吹き込む風や、体にあたる日光に、生の喜びを感じることは多い。川口も「たとえ終末期に入っていたとしても、本当に死ぬまでは一瞬でも楽しいことはある(281ページ)」と主張する。そのような患者が意思表示できなくなったとき、以前に書いておいた事前指示書をそのまま当てはめるのは危険ですらある。川口は次のように述べる。
「リビング・ウイル(尊厳死の宣言書)」など、自己決定権を行使して一筆書いておけばその通りに死なせてあげましょうという法律が今超党派の議連で検討されているんですが、すごく危ないと思っています。患者の気持ちは揺れるのに。(279ページ)

また、彼女は「尊厳死というのは、周りの人から何を言われても自分で決めたのだから、絶対に死ぬんだという決意を貫き通せという話です(283ページ)」とも言う。つまり、事前指示書を書くことにより、患者は過去の自分に縛られてしまう可能性がある。川口の父親は一時期誤嚥性肺炎で入院したが、彼女がケアし続けることで軽快し、退院して普通に暮らせるまでに回復した。入院時は担当医から回復不能と言われたそうだ。
父がリビング・ウイルを持っていて、それで呼吸器装着が遅れてしまったり、できなかったりしたら、植物状態になっていたかもしれないし、死んでいたかもしれない。(288ページ)

終末期患者への延命処置が、患者を苦しめると憶測されることもあれば、「無駄」であると評価されることもある。彼女は、そのような「無駄な延命」という評価されることについても疑問を述べる。
最初は母のことがかわいそうだと思っていました。でも実は逆で、どんなに頑張っても母から何のレスポンスももらえない自分がかわいそうだったんです。やっても無駄、面白くないと思っているのは自分だった。「無駄な延命」の「無駄」は患者にとっての「無駄」じゃなくて、医療者やケアする側の自己評価なんです。(296ページ)

昨日のブログでも書いたとおり、患者のケアをする家族は、患者の状態が徐々に悪化していくのを見たり、患者とまったくコミュニケーションがとれなかったりすると、徐々に心理的に追いつめられていく。自分のしていることが良いことなのかどうか、評価する手がかりが何もないために、続けていくことが困難になるのだ。患者のQOLの維持や向上に役立っていないという判断や、延命処置が無駄であるという評価は、そのような家族の心理状態を部分的にせよ反映している可能性が否定できない。

過剰な点滴をして、全身に浮腫を生じ、肺水腫を起こして水様の痰が大量に引けるというのでは、患者のQOLを低下させる「過剰な」処置が行われていることは間違いない。しかし、胃瘻から栄養剤を注入することで安定した状態が得られているなら、その処置が患者の役に立っていないかどうかを、患者の立場から推測するのは難しい。患者の尊厳と言っても、極言すれば「他人が決める尊厳」でしかない。

カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)に「記憶する自己」と「経験する自己」の説明があった。現実を生き、楽しんだり苦しんだりするのは「経験する自己」であるが、その経験を後になってまとめ、評価するのは「記憶する自己」である。「記憶する自己」は「経験する自己」にとって「他人」である。卑近なたとえを使えば、「経験する自己」にとって苦痛に満ちた青春時代であっても、「記憶する自己」にはそれが他人事でしかないから老人は過去を振り返り「夢のような青春時代」と言うのだ。事前指示書を作成するのは患者の「記憶する自己」である。また、植物症になってケアされている患者の人生を評価するのはケア者の「記憶する自己」である。いずれも患者の今を生きている「経験する自己」からすれば他人でしかない。他人の決定に身を委ねることになってしまうのだ。この問題は解決することができない。

「天寿を全うしたい」というのは自然な考えだろう。しかし、天寿を事前に予測することはできない。食品であれば賞味期限が表示されているが、人間の場合はそうはいかない。死を迎えたときが天寿(つまり賞味期限)であったかどうかは結果論でしかない。つい数十年前まで、ほとんどの人間は賞味期限の切れる前に死亡していた。医学・医療が発達した現在では、人間を賞味期限を越えて生かしておくことができる。私自身は、自分が賞味期限前に死ぬことを望んでいる。死はいつのときでも「残念なもの」であってほしいと思っている。そのためには、賞味期限がかなり残っているのに死んでしまうことも許容しなければならないと肝に銘じている。

大上段で恐縮だが、尊厳死のことを書いておきたい。会田薫子『延命医療と臨床現場―人工呼吸器と胃ろうの医療倫理学』(東京大学出版会)を読んで、大野更紗『さらさらさん』(ポプラ社)に再録された川口有美子との対談『生きのびるための、女子会』(初出:青土社「現代思想」2012年6月号)を思い出した。ここで整理しておきたいと思う。

川口は筋萎縮性側索硬化症(ALS)の母親を介護した経験から学び、書籍を出版したり、日本ALS協会の理事に就任したりしている。ALSは全身の筋肉が動かなくなってゆく病気である。徐々に手足の力がなくなり、ものが食べられなくなり、呼吸ができなくなる。そのため、胃瘻を造設して栄養を補給したり、人工呼吸器を装着して呼吸を補助したりする。また、眼球や眼瞼の動きは残ることが多いので、眼やまぶたの動きで操作するコンピュータを使ってコミュニケーションを補助することもある。一時期、終末期医療での人工呼吸器や胃瘻による延命に対する批判がALS患者にまで及び、呼吸器や胃瘻が敵視されることがあった。現在、川口はALS患者に適切な医療が行われることを当然のことと考えているが、以前は母親の安楽死を望んでいたという。
賛成どころか、安楽死がどうして法制化されていないのだろうと思っていました。それが2000年頃で、その年にうちの母がトータリィー・ロックトイン(Totally Locked-in State, TLS)という完全にコミュニケーションができない状態になって、いたずらに生かされているだけだと思ったんです。それで「わたしが殺してあげないとかわいそうだ」と。

一般的な発想だと思いますよ。(272ページ)

しかし、この考えは、自分と妹と母親だけの閉じた世界で介護に明け暮れている閉塞感から生まれた思考であると気付いた。介護事業所を立ち上げ、母親と自分との間にヘルパーを入れることで「母親の尊さがわかった」と言う。
ヘルパーさんはヘルパーさんなりのセンスで母を看ますから、わたしなんかより大事にしてくれる人もいるわけです。家族は他人が病人を介護する姿を見て、病人に対する態度を学び直しますね。[中略]ヘルパーさんたちの感性から随分教えてもらいました。やがて病んでいる母を相対化して見られるようになると、どうも苦しいばかりでなく、安らかな時間が結構あるんだということがわかってきました。(274ページ)

川口は、コミュニケーションがいっさいできなくなった母親を注意深くケアする様を「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」と表現している。このような感想は、厚生労働省の高山義浩も「アピタル」掲載の記事『直観の濫用としての「胃ろう不要論」』(http://apital.asahi.com/article/takayama/2013061900003.html)で述べている。
私は胃ろう推進論者ではありませんが、胃ろうを選択した方々が後ろめたさを感じることがないよう配慮したいと思っています。寝たきりでも、発語不能でも、それで尊厳がないと誰が言えるでしょうか? コミュニケーションできることは「生命の要件」ではありません。胃ろうを受けながら穏やかに眠り続けている・・・、そんな温室植物のように静謐な命があってもよいと私は思うのです。

身の回りのものすべてに神が宿っていると考えてきた日本人には、このような発想はごく自然なものだろう。かまどや縫い針にまで神様がいるのだから、眼前で息をしている植物症患者の身体に命が無いわけがない。

三重県津市の温泉街にあるリハビリテーション病院に勤務する笠間睦が、朝日新聞社の医療サイト「アピタル」に「ひょっとして認知症?」という記事を連載しているが、その中の2014年3月10日配信分『《429》胃瘻について―平成26年度診療報酬改定』(http://apital.asahi.com/article/kasama/2014031000001.html)で、胃瘻をめぐる現在の状況と、今回の診療報酬改定が与える影響についてまとめている。

昨日のブログで述べたように、実際に胃瘻造設を受けるのは高齢の脳血管障害患者や認知症患者が多い。そのような患者に胃瘻を造設することを一概に否定することはできないが、無条件に造設するというのも倫理的に問題がある。そのような問題が社会的に広く知られるようになったことは良いことであるが、非常に一面的な捉え方をし、「胃瘻は悪」というように受け取っている人が少なくないことが問題である。笠間もその問題を以前から指摘している。
シリーズ第131回『終末期への対応─「胃ろうはすべて悪である」と思うな』[引用者注:http://apital.asahi.com/article/kasama/2013042600014.html]において、『胃ろうは嫌だけど、経鼻経管栄養なら構わない』という全くもって不可思議な意向を述べる家族が多くなってきているという現状をご紹介しました。

長尾和宏先生も2013年8月3日発行の日本医事新報において同様の指摘をされております。

『この1年間で、老衰や認知症終末期の方への胃ろう造設は明らかに減っている。しかし、経鼻栄養や中心静脈栄養(IVH)は、むしろ増加し、人工的水分栄養補給(AHN)の総数としては決して減っていない。先日、テレビの某人気報道番組を観ていて腰を抜かした。高齢者への胃ろう造設に大反対されている先生の施設の様子が映されていたが、その施設にはたしかに胃ろうの方はいなくても、鼻から管を入れている患者が何人かおられたのだ。
“これでは本末転倒だ!”と思った。経鼻チューブの苦痛があるからこそ、またIVHは非生理的で管理が大変だからこそ、便利な胃ろうに変わり普及したわけだ。しかしこの2~3年のマスコミ報道が正しく伝わらず、人工栄養法が逆行、退行しているのだ。』(長尾和宏:シリーズ「平穏死」③─水分、人工栄養補給を巡る混乱への対応. 日本医事新報No.4658 28-29 2013)

神経難病の患者でも、当然行われるべき胃瘻造設が、根拠のない胃瘻忌避感により施行できない例があると聞いたことがある。物事を単純化して理解しようとするのは、人間の認知能力の限界に関することなので、しかたのないことであると思うが、マスコミがもう少ししっかりしていてくれれば、事態の悪化はいささかなりとも防げたのではないか。胃瘻が経鼻経管栄養やTPNより優れた方法であることは間違いないのだが、一般には「胃瘻」という言葉ばかりが悪いイメージを伴って先行している。この責任の一端はマスコミにある。

さらに今回の診療報酬改定で、胃瘻造設に強い制限がかかり、診療報酬も大幅に引き下げられた。「もう胃瘻造設は引き受けない」と一部の医師の言う声が私の耳にも届いている。本来ならば胃瘻を造設すべき患者が処置を受けられない事態が起こるのではないかと心配だ。

先日、私の高齢の知人が誤嚥性肺炎を起こし、入院した。脳梗塞の後遺症で失語症と右半身の不全麻痺があり、主治医は治療方針に迷ったようだが、家族の希望があり胃瘻を造設し、入院時に留置した経鼻胃管も中心静脈ラインも抜去した。解熱したところでリハビリテーション病院に転院となり、そこで摂食訓練を受けたが、なかなか上達せず、退院して在宅で訓練を続けることになった。帰宅したとたんに摂食が上達し、現在は胃瘻も抜去し、毎日の散歩に励んでいる。彼に胃瘻を造設せず、経鼻経管栄養をおこなったらどのような経過をたどっただろうか。経鼻胃管は不快感が強いので、彼も1回自己抜去したが、自己抜去を防ぐためには抑制が必要となる。当然寝たきりになるため足腰は弱まり、不穏も増悪するだろう。私はそのまま寝たきりになっていた可能性が高いのではないかと思う。

病院が赤字になるような処置は、医師からも提案しにくい。医師からの提案がなければ、家族も選択しにくい。今回の診療報酬改定の意図は了解するが、訪問診療の点数にせよ、あまりに極端な変更が多い。その影響を直接受けるのは高齢者だ。

本日は同書の後半(第II部)で取りあげられている胃瘻造設について、考えるところを述べたい。

胃瘻が普及したのは経皮内視鏡的胃瘻造設術(PEG)が開発されたためである(日本では診療報酬により誘導効果もあったと考えられる)。PEGを開発したのはガウダラーで、摂食嚥下障害を持つ小児患者のために、できるだけ身体的負担の少ない方法として1979年に発表された。しかし、米国では早くも1980年代から高齢者に過剰に施行されるようになり、ガウダラーは1999年の論文で「PEGの簡便さが一因となり、過剰に施行されるようになってきた」と憂慮を表明した。
日本でPEGを推進してきた専門医の鈴木裕は、2000年代初めには「PEGの真の目的は再び経口摂取可能になることであり、その最善の方法がPEGである」としていたが、最近では、ガウダラーと同様に、適応を顧みないPEGの過剰施行を憂えている。PEGの実際の対象者の多くは高齢の脳血管障害患者や認知症患者であり、二度と自分の口から食べることができずに生涯を閉じる人が大半であるからである。(152ページ)

会田は、さまざまな文献の比較検討から、認知症末期の経管栄養法にはQOL改善や機能・生命予後の改善効果はなく、適応は無いと結論づけている。さらに、生存期間の延長効果があるならば、「そうやって延長された生存期間にどのような価値を見いだすか、それを判断するのは、やはり本人とその家族ではないだろうか(157ページから158ページ)」と述べている。

ところが、高齢者専門病院勤務者を含む30名の医師を対象としたインタビュー調査では、胃瘻を含めた人工的栄養補給(AHN)を施行しない選択肢を患者家族に提示する医師はまれであった。その中でもPEGが選択される直接要因を会田は以下のように分析した。
長期のAHNには、TPN[引用者注:中心静脈栄養]、経鼻経管栄養法、PEGによる胃ろう栄養法の3種類あるが、その中でPEGの選択が増加している要因として医療システム関連要因とPEGの利便性が抽出され、前者の構成要素として急性期・慢性期区分による転院圧力、診療報酬制度改定の影響、上昇するPEGの保険点数、後者の構成要素としてTPNに対する利点と経鼻経管栄養法に対する利点が挙げられた。(170ページ)

これらは要するに、制度からの圧力である。さらに、なぜAHNを施行しない選択肢を提示しにくいのかについて、会田は以下のように分析している。
PEGが選択される要因の背景にあるのは、経口摂取不可能な患者に対しては何らかの人工栄養法を当然施行するものであるという考え方であった。勤務施設の種類を問わず、ほとんどの対象医師は「AHNを施行しない選択肢」を患者家族に提示しないと語っていた。分析の結果、その選択肢提示が困難である要因として、医師と患者家族の心理的安寧、患者家族の感情・意向への応答、法制度関連問題、慢性疾患の特徴の4つが抽出された。(174ページ)

これらは要するに心理的圧力である。患者を餓死させることになるのではないか、見殺しにすることになるのではないかという不安や恐れが主であるが、患者が生きていてくれるだけでいいとする家族から患者を奪うことになる心理的抵抗もある。ただし、普段面会に来ない親戚が最期の場面に現れて延命医療を求めて騒ぐことや、患者の年金を当てにする家族に言及する医師もいた。

会田は最後に、いかにしてAHNを円満に中止するかについても考究しており、総論として非常に参考になる。その中止法のひとつとしてtrial therapy(やってみて有効であれば継続し、有効でなければ終了する)を提案している。実際にそうしている医師が大多数だと思うが、名前を付けて体系立てて整理されると、医師の治療方針自体も整理しやすくなる。

胃瘻について、現在問題となっているのは、むしろ「胃瘻の否定」だろう。今回の診療報酬改定も大きく影響している。明日は、このシリーズの最後として、現在の胃瘻を嫌う風潮についてまとめておきたい。

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