李啓充『市場原理が医療を滅ぼす―アメリカの失敗』(医学書院)を読了した。本書は2004年に刊行されたので、10年前の本ということになるが、現在でも有用性を失っていない。
李は一貫して医療を市場原理に委ねることに反対している。混合診療にも反対し、必要な治療は保険に繰り入れることが正道で、保険外診療を可能にすることは、保険適用外の治療をなし崩し的に増加させていくことにつながり、間違った対処法であるとしている。医療を市場原理に委ねることで悲惨な状況に陥っている米国に暮らし、医師としても働くことで、事情を知悉している李の危機感は強い。
彼の弟はクモ膜下出血を発症した。2000年頃のことらしい。そのとき彼はちょうどセミナーに出席するために日本におり、病院に駆けつけた。弟は手術を受けたが、彼は疾患と予後についてインターネットを検索し、「手術が成功しても術後数日目に始まる『脳血管攣縮』[引用者注:脳の血管が痙攣を起こして細くなり、血流が途絶えること]により死亡したり重篤な合併症を残す人が多い(72ページ)」こと、後遺症予防薬としてニモジピンが世界的に標準的に使用されていることを知った。しかし、ニモジピンは日本では承認されていなかったため、投与できなかった。弟は、恐れていたとおりに脳血管攣縮を発症し、後遺症が残った。
李は非常に悔しい思いをしたのだが、それでも混合診療により未承認薬が使用できればよかったとは思っていない。未承認であること自体が問題であり、速やかに承認する体制作りが必要だという立場だ。なぜニモジピンは未承認だったのか。製薬会社が治験をしなかったためで、売れなさそうな効能では治験をしないという事実がある。
ニモジピンは米国では「クモ膜下出血術後の脳血管攣縮予防」という狭い適応しかない。ところが、B社はこの適応では満足しなかったようだ。日本でのクモ膜下出血症例は毎年1万5千人と見積もられている。二モジピンの投与期間は21日間である。それに対し、脳循環改善薬や抗痴呆薬として認可されれば、対象患者は2桁から3桁多く、投与期間も長期化する。李は「欲張ったために何も得ることができなかった[中略]舌切り雀の欲張り婆さん(191ページ)」と評しているが、大損をしたのは製薬会社ではなく患者である。李の試算では、B社が米国と同様に申請し、1989年に保険収載されていれば、2万2,500人の患者が後遺症から救われていたことになる。
米国では医療保険を民間が担うことで、市場原理が導入され、高所得者ほど自己負担が少なく、低所得者ほど医療を受けにくい構造が出現し、それが定着してしまった。日本には皆保険制度があり、さまざまな問題を抱えているものの、機能している。混合診療を解禁して日本の医療に市場原理を導入すれば、皆保険制度が徐々に崩壊していくことが予想される。その理由の第一は、医療保険が最終的には採算に合わない制度だからである。自動車保険や生命保険を考えればわかるように、リスクの少ない人の保険料を低く、リスクの多い人の保険料を高く設定できれば、保険は安定して運用ができる。米国は医療保険もそのようになってしまった。しかし、それでは弱者ほど保険料が高くなってしまう。日本は現在まで国民全体が所得に応じて保険料を負担する制度を運用してきた。病気にかかりやすいからといって保険料が割増しされることはない。しかし、これは「逆ざや」を含む制度で、全体を市場原理で運用できるものではない。部分的に市場原理を導入すれば、「おいしいところ」だけが民間に持ち去られ、公的制度の負担は増加することが予想される。
それよりも問題なのは、日本では製薬会社がすでに利潤追求のために公共の福祉に反する活動をおこなっているということだ。薬品に関わることが市場原理で動くために多くの問題が起こっていることは、あまり取りざたされない。李が指摘したニモジピンについてのバイエル社の態度は、「不作為」[当然おこなうべきであると期待される行為を(自分から進んでは)しないこと]の典型である。また、薬価収載から外されるような「効かない薬」を、効果があるように宣伝しつつ長期間にわたって販売していたことも、故意ではないにしても褒められるべきことではない(効かない薬としてはダーゼンやアバン、エレンなどの脳循環改善剤が有名だが、ATPや抗めまい剤なども、どれだけ効くのか怪しいものだと思っている)。さらに、精神科の医師の中には製薬会社が疾患の範囲を広げるキャンペーンをおこなうことにより向精神薬の投薬対象を拡大しようとしていると批判する者もいる。
話がやや拡散してしまうが、生産される抗生物質の大部分(9割以上)が家畜に投与されており、耐性菌が発生する温床になっている。これも最終的には人に影響が及ぶことで、大きな問題であると考えられている。市場原理や企業倫理だけではうまくいかない代表例のひとつとして挙げておきたい。
李は一貫して医療を市場原理に委ねることに反対している。混合診療にも反対し、必要な治療は保険に繰り入れることが正道で、保険外診療を可能にすることは、保険適用外の治療をなし崩し的に増加させていくことにつながり、間違った対処法であるとしている。医療を市場原理に委ねることで悲惨な状況に陥っている米国に暮らし、医師としても働くことで、事情を知悉している李の危機感は強い。
彼の弟はクモ膜下出血を発症した。2000年頃のことらしい。そのとき彼はちょうどセミナーに出席するために日本におり、病院に駆けつけた。弟は手術を受けたが、彼は疾患と予後についてインターネットを検索し、「手術が成功しても術後数日目に始まる『脳血管攣縮』[引用者注:脳の血管が痙攣を起こして細くなり、血流が途絶えること]により死亡したり重篤な合併症を残す人が多い(72ページ)」こと、後遺症予防薬としてニモジピンが世界的に標準的に使用されていることを知った。しかし、ニモジピンは日本では承認されていなかったため、投与できなかった。弟は、恐れていたとおりに脳血管攣縮を発症し、後遺症が残った。
李は非常に悔しい思いをしたのだが、それでも混合診療により未承認薬が使用できればよかったとは思っていない。未承認であること自体が問題であり、速やかに承認する体制作りが必要だという立場だ。なぜニモジピンは未承認だったのか。製薬会社が治験をしなかったためで、売れなさそうな効能では治験をしないという事実がある。
[二モジピンの販売権を持つ]B社は、二モジピンについて(1)80年代後半に「慢性期脳血管障害に対する脳循環代謝改善薬」として開発を進めたが、申請後判定算出基準の変更があり、有用性を認めてもらえなかった、さらに、(2)90年代に、アルツハイマー病の患者をも対象として、改めて「抗痴呆薬」として開発を進めたが、試験段階で有効性が認められず開発を中止した、という事実が判明した。驚くべきことに、クモ膜下術後の脳血管攣縮に対する効能については、開発の対象とすらされず、臨床治験も行われていなかったのである。(190ページ)
ニモジピンは米国では「クモ膜下出血術後の脳血管攣縮予防」という狭い適応しかない。ところが、B社はこの適応では満足しなかったようだ。日本でのクモ膜下出血症例は毎年1万5千人と見積もられている。二モジピンの投与期間は21日間である。それに対し、脳循環改善薬や抗痴呆薬として認可されれば、対象患者は2桁から3桁多く、投与期間も長期化する。李は「欲張ったために何も得ることができなかった[中略]舌切り雀の欲張り婆さん(191ページ)」と評しているが、大損をしたのは製薬会社ではなく患者である。李の試算では、B社が米国と同様に申請し、1989年に保険収載されていれば、2万2,500人の患者が後遺症から救われていたことになる。
米国では医療保険を民間が担うことで、市場原理が導入され、高所得者ほど自己負担が少なく、低所得者ほど医療を受けにくい構造が出現し、それが定着してしまった。日本には皆保険制度があり、さまざまな問題を抱えているものの、機能している。混合診療を解禁して日本の医療に市場原理を導入すれば、皆保険制度が徐々に崩壊していくことが予想される。その理由の第一は、医療保険が最終的には採算に合わない制度だからである。自動車保険や生命保険を考えればわかるように、リスクの少ない人の保険料を低く、リスクの多い人の保険料を高く設定できれば、保険は安定して運用ができる。米国は医療保険もそのようになってしまった。しかし、それでは弱者ほど保険料が高くなってしまう。日本は現在まで国民全体が所得に応じて保険料を負担する制度を運用してきた。病気にかかりやすいからといって保険料が割増しされることはない。しかし、これは「逆ざや」を含む制度で、全体を市場原理で運用できるものではない。部分的に市場原理を導入すれば、「おいしいところ」だけが民間に持ち去られ、公的制度の負担は増加することが予想される。
それよりも問題なのは、日本では製薬会社がすでに利潤追求のために公共の福祉に反する活動をおこなっているということだ。薬品に関わることが市場原理で動くために多くの問題が起こっていることは、あまり取りざたされない。李が指摘したニモジピンについてのバイエル社の態度は、「不作為」[当然おこなうべきであると期待される行為を(自分から進んでは)しないこと]の典型である。また、薬価収載から外されるような「効かない薬」を、効果があるように宣伝しつつ長期間にわたって販売していたことも、故意ではないにしても褒められるべきことではない(効かない薬としてはダーゼンやアバン、エレンなどの脳循環改善剤が有名だが、ATPや抗めまい剤なども、どれだけ効くのか怪しいものだと思っている)。さらに、精神科の医師の中には製薬会社が疾患の範囲を広げるキャンペーンをおこなうことにより向精神薬の投薬対象を拡大しようとしていると批判する者もいる。
話がやや拡散してしまうが、生産される抗生物質の大部分(9割以上)が家畜に投与されており、耐性菌が発生する温床になっている。これも最終的には人に影響が及ぶことで、大きな問題であると考えられている。市場原理や企業倫理だけではうまくいかない代表例のひとつとして挙げておきたい。