阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年05月

デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)について引き続き書きたい。

エイガスは運動の大切さを強調する。運動の大切さは、人間の進化の過程を考えれば明らかだ。食べるためには食物を得なければならないが、それには運動が必須である。人間は明るいうちはずっと動いている生活に適応している。したがって、動かないのは生理的状態ではなく、体に悪影響を及ぼす。
[最近出版された論文は]ロンドン大学ユニバーシティカレッジ疫学部と公衆衛生部の研究者らによるもので、テレビやコンピューターの前に座って1日4時間以上過ごすと、心疾患で死亡したり入院したりするリスクが2倍以上になることをその研究は示唆していた。しかも長時間に及ぶ不活動の悪影響を、運動によって相殺することはできなかった。研究者たちは、モニターの前で4時間以上過ごす人は、2時間以下しか過ごさない人に比べて、炎症の指標であるC反応性タンパク質の血中濃度が2倍高いことに気づいた。(284ページ)

彼はC反応性タンパク質(CRP)高値は、体内で問題が起こっていることの指標であると言う。この論文で恐ろしいのは、「運動によって相殺することはできなかった」とい部分である。仕事の後にいくら運動しても、4時間座ってしまったことは取り返しがつかないということだ。1日何時間かコンピュータに向かわざるをえない身としては、何とも切ない。

私の勤務先では、現在2つのプロジェクトが立ち上がろうとしている。ひとつは手当集計システムで、職員に支払う手当を自動的に計算し集計するシステムである。もうひとつは返書管理システムで、紹介状の返書を作成したかどうかを追跡し、作成していない場合には督促するためのシステムである。どちらもそこそこ複雑なシステムで、開発と検証におそらく2ヶ月ぐらいかかるだろう。日常業務をこなしながらの作業なので、毎日長時間端末に向かうことはできないが、時間がとれれば8時間でも10時間でも端末に向かってひたすらキーボードを叩き続けることもある。そんな仕事のしかたが自分の健康を害しているのかと思うと辛いものがある。

それはともかく、彼は次のように助言する。
(1)運動には1日のストレスを軽減させる効果があるので、週末にまとめて行うのではなく、毎日の日課とし、時々休息の日を設けるようにしよう。(2)1時間をはるかに超えて運動するのは逆効果だ。1時間を超すと運動の恩恵は減り始め、むしろ体を痛めることになる(持久力トレーニングの是非を論じたり、マラソンやトライアスロンの挑戦することについて語ったりするつもりはない。それは次回にとっておこう)。(287ページ)

彼は、さまざまな運動強度の運動を頻繁におこなうことを勧めている。「座業の途中でしばし席を立ち、ウエートで上腕二頭筋を鍛えながら歩き回るだけで疾患と早死にのリスクを下げることができる(285ページ)」と推奨するが、私の場合、いかに長時間集中できるかがプログラミングの効率に直結している。しかし、何時間も集中していると、体が痛くなったりむしゃくしゃしたりして、思わず立ち上がって歩いたりすることも事実である。そんなときのために彼の勧めに従ってウエイトを用意しておき、立ち上がるときにはウエイトを持って腕の筋肉を鍛えるような運動をするといくらかでも良いのだろう。

デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)について引き続き書きたい。

エイガスが人間をシステムとして見る場合、システムの中には体内や体表に棲む微生物まで含まれる。「健康な大人の体内に棲む微生物の細胞の数は、人間の細胞の数の10倍にも及ぶと見積もられている(234ページ)」が、それらの微生物は人間の体と相互作用している。この、いわば人間と共存関係にある微生物の集合体を「マイクロバイオーム」と呼ぶ。
実のところ、中国と米国における、一部のがんの罹患率の違いは、マイクロバイオームの違いによって説明できる。たとえば、前立腺がんになるリスクは、米国の男性の場合、約17パーセントだが、中国農村部に住む男性では、2パーセントに満たない。しかし、中国人男性が西洋文化圏に移住すると、10年後には、そのリスクは大幅に高くなるのだ。

この件について、かつては食事が原因だとされてきた。諸悪の根源が欧米型の食事にある可能性は高く、米国に住むようになると、誰でも米国人と同様に、加工食品をむさぼるようになるだろう、と考えられたのだ。しかし、実際にはマイクロバイオームが大きな役割を果たしていることが判明した。(234ページ)

腸内細菌は食物の代謝のしかたや、吸収の速度や量に影響を与える。それがホルモン値に影響を及ぼし、ひいては前立腺がんや乳がんなどになるリスクに影響する、とエイガスは説明する。

ヒトと共生する細菌の重要性は、近年急速に明らかになってきている。ある種の乳酸菌を摂取するとインフルエンザにかかりにくくなるということで、明治の「R-1」ヨーグルトが品薄になったのは、記憶に新しい。乳酸菌の産生する多糖体が、遠隔臓器である肺にも影響していることが明らかになっている。英国では腸内細菌を移植する「便移植」が実用化されている。潰瘍性大腸炎やクロストリディウム・ディフィシル感染症に対する治療としての有効性が確認されており、いずれ日本でも行われるだろう(通常は家族の便が使用される)。

皮膚常在菌の重要性も注目されており、インターネットで検索すると美容関係のサイトを中心に多数ヒットする。アトピー性皮膚炎の治療にも重要な因子として認識されるようになり、皮膚常在菌叢を破壊しないスキンケアが重視されている。また、体臭との関連も指摘されている。エイガスは、血液型や民族で人を分類するように、マイクロバイオームのタイプで人を分類するようになるのではないかと述べる。

エイガスは、コンピュータ技術者のダニエル・ヒリスとともに「アプライド・プロテオミクス社」(http://www.appliedproteomics.com)という会社を経営している。彼は、遺伝子より、遺伝子の産物であるタンパク質に注目している。遺伝子(ゲノム)は設計図にすぎず、実際に仕事をしているのはタンパク質である。体内にどのようなタンパク質がどれだけ存在するかを知ることで、どの遺伝子が発現しているか、どのような反応が活発におこわれているのかを知ることができる。体内のタンパク質の全体像をプロテオームと呼ぶ。彼の会社では、少量の血液からプロテオームを解析し、グラフィカルに表示する技術を開発した。血液は体内をくまなく循環しているので、末梢の情報であっても知ることができる。

プロテオームの面白いことは、人体が製造したものでないタンパク質が混在していることだ。腸管からは食物に含まれるタンパク質や、細菌が産生したタンパク質が微量ながら取り込まれる。それらがプロテオームに反映される。
重要なのは、プロテオームについて考える時には、人間の細胞だけでなく、これら[引用者注:マイクロバイオーム]の細胞すべてを視野に入れなければならないということだ。(329ページ)

まだ未知の部分が大きいとしながらも、エイガスはプロテオミクスの解析により、各個人に合わせた医療、疾病予防、生活指導などができるようになると予想している。

デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)を読了した。エイガスは南カリフォルニア大学教授で癌を専門とする医師、ロバーグは専門的な話題を理解しやすい作品に仕上げることで定評があるライターである。書名の『ジエンド・オブ・イルネス』は、もちろん“The End of Illness”で、「病気の終わり」という意味だ。

癌を専門として臨床に携わる医師が書いただけあって、バランスがとれていて説得力がある。彼の主張をまとめると
1.人間の体を「システム」として考えよう
2.自然に近いことが体に良い
3.運動をしよう

ということだろう。

人間の体をシステムとして扱うということは、部品(あるいは現象)の集合として考えないということだ。血糖値が高いから血糖値を(薬で)下げる、癌ができたから切り取るという発想では、最良の対処は不可能なのだ。システムは、その構成要素が複雑に連携し合い、密接に関連している。一部を変化させると、その影響は全体に及ぶ。われわれが人間の体について知っていることはごくわずかにすぎないので、体の一部を部品と見てそこに介入した場合、全身への影響は「思わぬ副作用」と受け止められる。

複雑系の科学が進歩して、人体を複雑系として捉えることが一般に受け入れられるようになったということなのだろうか。このように人体をシステムとして捉えるという考え方は、古くから東洋医学にあった。東洋医学の世界では、人体を個々の部品に分解するのではなく、関連や系列の中で整理してきた。それに対し、西洋では全体を個々の要素に分解し、その要素を詳しく調べることで全体を理解するという方法論を採用している。人体から器官へ、器官から細胞へ、細胞から分子へ、分子から原子へ…と分解し調べていく。

東洋医学でも西洋医学でも分析していたことに変わりはない。しかし、東洋では人体の中へ分け入ろうとはせず、人体をブラックボックスとしたまま、入力と出力の関係を調べ、システムとして把握しようとした。このような考え方が、東洋思想の輸入としてでなく、西洋科学の延長として語られることは、大変好ましいことと思う。東洋医学と西洋医学が、本当の意味で融合を始めたのかもしれない。

本の紹介に入る前に長くなってしまったが、著者の考えは、私にとって当然のこととして受け入れ可能な考えであった。続きは明日とする。

実は、私はもうひとつ仮説を考えている。それは、混雑時の車両内では皆が周囲の人を無視することが習慣化しているのではないかということである。

日本人は、人がぶつかっても「知らん顔」をすることで、相手を許すことを間接的に表現すると感じている。無関心を装ったり、気がつかなかった振りをすることで「あなたは私に何も危害を加えていませんよ」と伝えるのだ。もちろんぶつかった方は、ぶつかったことをわかっているから、ちょっと会釈したり、「すみません」と声に出したりする。言われた方は、初めて気付いたような顔をして会釈を返す。そんな「儀礼」により争いを回避しているように感じている。

ところが、ぶつかっても「知らん顔」をすることがある。本当に気がついていないこともあるだろうが、相手が知らん顔をするのを良いことに、こちらも知らん顔をして、ぶつかったことを無かったことにしてしまおうというのである。お互いが定型化したちょっとした仕草を行うことでコミュニケーションするという文化は、明示的な文化ではないので、伝承が難しかったり、変質したりするのだろうか。「江戸仕草」が失われていっているのと同じメカニズムだろう。

混雑時の車内でドアの脇にこだわる姿勢は、その「知らん顔」の究極の姿のような気がする。ドア脇に残ろうとする人は、まるで川の流れの中で、流されまいと石にしがみつく人のような表情をしている。その人にぶつかりながら乗降する人々は、その人にとって「物体」でしかない。

なぜ「物体」と見なせるかと言えば、回りの人々は自分に危害を加えないという自信のようなものがあるからではないのか。「人」であれば、怒らせれば争いになり、危害を加えられる可能性がある。ところが現在の日本では、人はめったに怒らない。特に朝の通勤時間帯に電車に乗る人々は我慢強い。そこで、周囲の人間から危害を加えられることは無いと無意識下に確信が形成され、その無意識のままに周囲の人間を「物体」として扱う習慣がついてしまったのではないのだろうか。

これは一種の「社会に対する甘え」だろう。お互いに甘え合えば円滑にいくのかもしれないが、何となく気持ちが悪い。また、そのような甘えは、コミュニケーションを乏しくする方に働くので、社会の暮らしやすさや成熟といったことを考えると、決して良いことではないように思える。少なくとも私にとって住みやすい社会ではない。

かなり古い記事なのだが、「日経ビジネスオンライン」2014年1月23日配信の鈴木信行『なぜ電車で「中ほど」まで進まないのか~気の利かない人が増えた理由~川西由美子・ランスタッドEAP総研所長に聞く』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140121/258582/)について書きたい。

私は10年以上徒歩や自転車で通勤できる範囲に職場があった。ところが、1年ほど前に異動があり、電車通勤を始めた。都心から離れた自宅から、同じような郊外にある病院までの通勤なので、都心部へ向かう線のような混雑ではないが、そこそこ混んでいる。電車通勤を始めるようになって、混雑時の人の流れが昔と違うような気がしていたときに、この記事を見て、「あ、みんなそう思っているんだ」と少し驚いたのだ。そして今日、会議で都心に出かけ、帰りの電車を降りる際に、必死になって降車する人の流れに抗してドア脇のスペースを確保する乗客を目にして、この記事について書こうと思ったのだ。川西はオランダに本社がある総合人材サービス企業の行動健康科学コンサルタントであり、日本内外の企業・スポーツ界、病院、学校などで『ココロの健康管理』に関するコンサルテーションを手掛けているそうだ。

記者(鈴木)の「電車の中ほどまで進まない人にイライラさせられた経験がある人が多いのでは」という質問に、川西はドア付近にとどまる人を、以下のように分類する。
1.気が利かない人:「ドア付近にいたら、乗り降りする人に迷惑だな」とか「自分が奥まで行かないと、後から乗ってくる人が乗り遅れかねないな」などと思考する回路が、脳に十分作られていない人。
2.周囲が見えていない人:「ビジュアルフィールドが狭い人」と言い換えられる。ただし気を利かせる能力はある。物理的に周りがよく見えていない場合と、見えてはいるがその視覚情報を有効に認知・活用できない場合がある。
3.“奥に行く技術”がない人:気を利かせる力も、周辺の環境を認知・活用する能力もある。たとえば自分は奥に行った方がいいと思っても、通路が塞がっていて進めず、「もう面倒だから今日はドア付近で我慢するか」というタイプ。

気を利かせる回路が育っていない人が増えた理由を、川西は社会が変化して充分な教育がされなくなったからだと言う。
そもそも「気を利かせる」という能力は、必ずしも先天的才能ではありません。基本的には後天的に身に付くものです。何より影響を及ぼすのが幼少期。単純化して言えば、脳の形成期に「気を利かせることはいいことなんだ!」と強く実感する経験と記憶を数多く積んだ子は、それだけ気を利かせられる大人に育ちます。

経験を育み、記憶を残すには、気を利かせたときに、なぜ褒めるのか意味を明確化して褒めることが重要だと指摘する。
昔はそれができていたんです。「それが可能な子育て環境」が整備されていたからだと思います。今ほど核家族化が進んでおらず、地域社会も機能していた結果、気が利いたことをすれば褒め、利かないことをすれば諭す大人が、子供の周りに沢山いました。

第2のタイプは、ストレスによって感性が鈍っている可能性もあるが、やはり「子供の頃の経験不足によって、見えてはいるけど知覚した周囲の環境情報を有効に認知・活用できない場合」があるのではないかと言う。第3のタイプも社会生活のスキルの低下で、教育の影響が大きいとする。

川西の説は明快で説得力がある。一面の真理を捉えているだろう。しかし、私が目にする「ドア脇にこだわる人々」は若い人ばかりではない。30代から50代の人も目にするのだ。これは、ラッシュアワーの混雑がある程度緩和され、そのような振る舞いができる余裕が生まれたからとは言えないだろうか。以前、池袋・新宿間の山の手線で通勤していたこともあるが、ドア脇に残ろうとすれば怪我をするおそれがあった。人々は殺気立っており、乗降には心も体も準備を整えて臨んだ。

人の流れが変わったもうひとつの原因はスマートフォンだ。「歩きスマホをする人がいるので危ない」といった話ではない。スマートフォンを操作するには、自分の体の前に一定の空間が必要になる。その空間を確保する行為が、さまざまな影響を及ぼしている。まず列が長くなった。以前であれば、前の人のすぐ後ろ(前の人が体を少し動かしても接触しない程度の間隔)に並んだものだが、現在は自分の前に「スマホスペース」(と呼びたい)を確保するので、間隔がずっと広くなる。したがって列が間延びして長くなるのだ。当然のことながら列はきたなくなり、割り込みも誘発しやすい。

さらに、歩きスマホをすると歩行の速度が遅くなる。また、周囲に気を配りにくくなるので進路を妨害することも多い。駅の構内の人の流れが、何となくスムーズに流れない。また、電車に乗れば、車内でスマホスペースを確保しようとするので、譲り合って詰めることが少なくなる。

しかし、これも車内でスマートフォンを使える程度の混雑状態だから言えることなのではないかとも思っている。都心部のラッシュアワーなら、そもそも車内で人に囲まれたらスマホは無理だろうと想像している。

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