阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年05月

大野更紗『さらさらさん』を読了した。同書に掲載された対談のうち、大野と重松清との対談「『可哀相なひと』と『困ってるひと』はイコールではない」について書きたい。これは「SYNODOS JOURNAL」に2011年12月2日に掲載されたものである(http://synodos.jp/info/1828)。

大野が福島県出身であり、重松も震災に取材した本を書いていることから、冒頭から福島の話になる。重松から「取材が多いだろう」と水を向けられ、大野は「『福島』で取材のお話を頂いたり、福島のことを書いてくださいと言われたときは、基本的にはお受けしないようにしてきました」と言う。
わたしには代弁する資格はないと思っています。父母も含め、親戚の多くが福島で暮らしていて、原発の作業員もいます。原発避難民の親戚もたくさんいます。農家の親戚もいます。3・11のすぐ後に「テキストの担い手として、福島の人に後ろ指さされるようなことだけはしてはならない」と、福島出身という立場である自分を戒めました。

この自制的な態度を重松は「戒めのデリカシー」と呼び、大野のストレスになっているのではないかと心配していたが、大野自身はそのようなことはないと言う。彼女にとって自制は自然な態度であり、日頃の行動と一貫性を持った立ち位置にすぎないのだろう。難病患者でありながら、難病を客観視したような語り口と共通した点があるように感じられる。

この対談には、興味深い発言、重要な指摘がいろいろ出てくるが、対談自体は比較的とりとめも無く、内容をまとめにくい。興味深い発言には、福島の人間と東京の人間を比べると、東京の方が浮き足立っているというものがあった。大野は、福島県の書店でのイベントに参加した際、「逃げられるところから見える景色と、本当に逃げられないところから見える景色はぜんぜん違う」と感じ、東京にいてはわからない福島の人々の生活を感じた。
大野 書店の一角で三十分話しただけでしたが。それはともかく、郡山市のその書店で、福島で日常を暮らす人たちにお会いした。そこで、東京の人こそ「苦しい」のかなと感じました。福島で少しずつ日常が壊れて、土地が消えようとしていることは、もちろんわかっているんだけども、放射線やこれからどうやって生きていくかという事実から少し切り離した心情的な話では、東京の人のほうがストレスを感じ、怯えている印象があるんですよね。

重松 うん。いまの東京の人たちは、たとえば「引越しをする人もいるし、しない人もいる」「しようと思えばできる」という選択肢のある状況に、かえって悩まされて、苦しめられている気がする。開き直れなくて右往左往しちゃう。

大野は、東京のほうが浮き足立っていると感じたと言い、重松は「ここで生きるしかないんだ」と開き直り腹をくくった人は強いのだと言う。逆に言えば、福島の人々は現地にいることでその強さを得るのだろう。

重松が子育てについて言っていたことも面白かった。最近の子どもが負けることを嫌がり、チャレンジしようとする気持ちを失いつつある、適当なところですぐ満足して落ち着いてしまうという文脈でだ。
親としての立場からいうと、世間全体が子どもたちに「自分らしさが大切だ」とか「お前はお前で満たされてるんだよ」と言いすぎてしまったのかなって。本当はまだまだ足りないものがいっぱいあるのに、「探しに行ってこい」ではなく「自分らしく」と言って、それが都合よく解釈されちゃった気もする。[中略]かみさんともよく話してるんだけど、ちょっとほめて育てすぎちゃったかな、と。もっと厳しくやりゃよかったかな(笑)。[中略]
たとえば、走り高跳びで言えば、1メートルを跳んだのを「すごいぞ」とほめる。それは、気分よくなって1メートル20に挑戦するかなと思ってほめたわけ。そうやって上がっていき、ときには挫折して、励まして、と思ってね。ところが、1メートル跳んで拍手したら「じゃ、もうやーめた。いいもん、1メートルで」って(笑)。

褒めて育てるのが主流である。たしかに短期的な効果は高い。しかし長期的な効果について疑問があることは、このブログでも述べてきた。やはり昔ながらの「叱って教育する」ことの利点も探っていかねばならないだろう。何しろ「先人の知恵」なのだから。

現在、大野更紗『さらさらさん』(ポプラ社)を読んでいる。これは、自称「絶賛生存中」の「難病女子」であり『困ってるひと』の著者である大野が、2012年までにさまざま媒体で発表した記事や、彼女が関係した対談記事などを集めた本である。どの対談も興味深いが、そのうちのいくつかはウェブ上で公開されたものであることがわかった。そこで、ブログ読者の便を考え、ウェブに掲載された対談を引用する形で、考えたことを述べることにした。今回は「SYNODOS JOURNAL」に2012年11月28日に掲載された、乙武洋匡と大野更紗の対談「『五体不満足』から遠く離れて」(http://synodos.jp/welfare/852)について述べたい。

乙武はある意味で自分が例外的な存在であることを自覚している。例外的にうまくいった人生だということだ。「あれはまぐれだ」とも言われることがあるらしい。しかし、彼はこう述べる。
その「まぐれによる成功例」であるぼくが、頑張りの押し付けになってしまったり、比較対象となって、辛い思いをされている方も少なからずいらっしゃる。ぼくが障害者の代表のようにとらえられて、誤解を与えかねないポジションになってしまっていることについてはずっと気をつけるようにしてきました。

なかなか言える科白ではない。難病患者の大野も、「難病で苦しんでいる人が大勢いるのに、ユーモアを交えるのはけしからん」と言うようなことを言われたらしい。「初めのうちは、どちらかといえば圧倒的にそういう声のほうが大きかったかもしれません。「パンドラの箱」の1つを開けてしまったのかもしれないと思うときもありました」と言っている。難病は従来「研究の対象」であり、社会政策の対象としては捉えられてこなかった。大野は、そのような状況下で不条理に堪えて必死に頑張っている人々の「潜在的なマイナスの反応を一気に誘引したような気がしています」と述べている。彼女の言うとおり、社会に対し、自分や家族の運命に対し、やり場の無い怒りを抱えた人々にとって、ユーモアをもって語る大野の語り口は、感情を逆撫でするものだったのだろう。

しかし、乙武が言うように、辛い話を書いても読んでくれる人は少ない。
『五体不満足』も『困ってるひと』も、ぼくらの共通点って「一般的にマイナスだと捉えられている要素を人生に背負わされているのに面白く書いちゃったよ」ってところだと思うんですよね。なかには「面白く書くなんて、けしからん」って思う人もいるでしょう。ぼくも「障害を楽しいって言わないで欲しい」ってさんざん言われてきました。だけど、ああいう書き方をしたからこそ、あれだけたくさんの方に読まれたんだと思います。

くそ真面目に「私こんなにつらいんです」って書いても誰も読まないでしょう。それじゃ意味がないと思う。自分の思い出づくりに書くならそれは好きにしたらいいですけど、本当にこの問題について考えてもらいたい、知ってもらいたいと思うなら、一工夫加えなくちゃいけない。不快な思いをする人がいることも理解できます。でも多くの人に届いて、届いたからこそたくさんの賛否両論がでてくるわけです。そこから知恵や考えるきっかけが生まれてくればいい。それでいいとぼくは思っています。

乙武は確かに非常に恵まれた環境に育ったようだ。彼の母親の話には感心した。出版後、当然のことながら乙武の母親がすごいのだという声が上がった。
それに伴って、母に対して膨大な量のテレビや雑誌の取材依頼、講演会の依頼が来ました。ところが母はそれらを一切断るんです。不思議に思って訊いてみたところ「もし私までメディアにでて外の人間になってしまったら、あなたが外で頑張ってつらいときに帰ってきて休むところがなくなっちゃうでしょ」って。

だから、街を歩いていて小学生くらいの男の子に「なんだあれ! きもちわりー」と言われても、その言葉は差別や偏見から発せられたものではなく、今まで見たことのない得体の知れないものを初めて目の当たりしたための驚きであり「それは自然な反応だと思います」と言い切れる強さが育ったのだろう。

高村薫『神の火』(文庫版、上・下)(新潮文庫)を読了した。高村の「高」は、活字では「ハシゴ高」を使っているが、変換・表示に難があるので、ここでは「高村」と表記させていただいた。

彼女の作品は初めて読んだが、面白かった。文庫本の解説によれば、本書は原子力発電所関係の専門用語が数多く登場するため、読みにくいと感ずる読者も多いとのことだ。私の場合、わからない言葉は飛ばしてそのまま読み続けることができるので、問題なかった。

それよりも、登場人物などの背景が説明されないまま物語が進むことの方が読者を面食らわせるのではないだろうか。私自身は気にならないし、謎解きのような気がしてかえって面白いのだが、登場人物の経歴も主人公との関係も、いっさい説明なしに物語が進んで行く。主人公の外見すら、何十ページも読まないとわからない。わからないまま読み進んで、頭の中のジグソーパズルのピースが徐々につながって絵がゆっくりと現れてくるのが面白いのだが、慣れない人には読みにくいだろう。

この作品を読んで感じたのは、各々の登場人物が、リアリティを持って書かれているということだ。最近読んだ小説では、登場人物が役者のように役回りを与えられていると感じる場合がしばしばあった。だが、本書の場合、登場人物はそれぞれが語り尽くせない背景を持った、いわば人生を背負った人間として描写されている。小説の主人公はひとりだが、主な登場人物は、皆それぞれの人生の主人公だと感じさせてくれる。

また、彼らの棲む世界は、私が暮らす世界とはまったくと言っていいほど接点の無い別世界なのだが、その別世界のリアルな描写にも興味を引かれた。もちろんリアルであるからと言って、現実がそうだということではない。それは、彼女があまり得意ではなさそうなコンピュータシステムの描写で知ることができる。私が知らない世界については、本当なのかどうかわからないのだが、コンピュータに関する記述には現実と異なる部分があるから、きっと他の部分も実際の現実とは異なっているのだろう。しかし、そのような現実世界との差も、彼女が示す大きな虚構の中では些細な「くすみ」に過ぎない。

本書を読むことにしたのは、技術評論社の「Software Design(ソフトウェアデザイン)」という雑誌の2012年8月号に掲載された特集「いま読んでおくべき本はどれだ?エンジニアのパワーアップ読書」で紹介されたからだ。現役のソフトウェアエンジニアから読むべき本を推薦してもらうという企画だが、本書を推薦したエンジニアは高村薫を高く評価していた。そのため私の手元には『照柿(上・下)』と『レディ・ジョーカー(上・中・下)』がある。小説は一気に読むのが好きなので、どこかで5日ほど工面しなければならない(だいたい1日で1冊のペースだ)。いつ読もうかと、今から思案中だ。

もう一回だけ、デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)を題材として書きたい。最初に取り上げたときは、本の内容に至らずに終わった。今回も引用はしない。

エイガスは、運動が「唯一、科学的に証明された若返りの薬(265ページ)」であると言う。彼は、自分の運動量を測定し、電話会議などで何時間もじっとしていることが多いとわかり、すぐにワイアレス電話のヘッドセットを購入し、電話がかかってきたときに話しながら歩き回れるようにしたのだという。「1日の歩数35%も増やすことができた!(284ページ)」と喜んでいる。いかにもアメリカ人という感じで面白い。エイガスに好感が持てるのは、非常に控えめで、自分が実践していることを書いていることだ。科学を信じ、医学を信じている。そのうえで、現代の医療者や患者が陥りやすい罠を指摘し、それを避ける手だてを示そうとする。決して脅かしたり、強要したりしない。

エイガスは断定的なことをあまり言わない。逆に、今の医学でわかっていないことがいかに多いかを強調する。良いことの陰にはかならず悪いことが隠れていることを、常に意識している。その態度は非常に好感が持てる。物事を簡単に断定するような人間の言葉は信用できないというのが、私が今まで経験で学んだことだ。この言葉自体が、「信用できない」と断定せず、あくまでも自分のこととして断定を避けているのは、読んだ人に中立的に受け止めてもらい、できれば賛成してほしいからだ。

繰り返しになるが、本書は、有益な情報と示唆に富む洞察に満ちた、良い本だった。ただ、ひとつ思うのは、米国人らしい実利主義が全面に出ており、そこに限界を感じたということだ。本書には体に良いことと悪いことが書いてある。体への良し悪しと、人生(ライフ)への良し悪しが、エイガスの中では一致しているように思える。しかし私は、体に悪いことが人生に悪いとは言えないと思っている。これは、単に「タバコを我慢する方がストレスだ」「体を壊すほど酒を飲まないとわからない世界がある」と言ったこじつけや観念論の話ではない。医学的、科学的な話だ。

良いことの陰に悪いことが隠れているように、悪いことの陰にも良いことが潜んでいる。以前このブログで走ることが体に悪いとする説を紹介した。走ることは生理的でない(自然にはやらない)ことなので、不自然であり、体に悪いとする説だ。しかし、石器時代の人間を考えれば、ときには獲物を追って走らなければ食べる物がないこともあっただろう。大型の動物に追われて逃げることもあったかもしれない。また、寝不足は良くない。しかし、石器時代には、交代で夜間の見張りや火の番をしなければならなかったかもしれないし、赤ん坊がいれば母親が寝不足になるのはいつの時代でも同じだろう。ヒトはそのような「体に悪い」ことを時としてしなければならないことを前提に進化してきたのではないか。

人は規則的な呼吸をするが、規則的な呼吸だけでは肺の働きが悪くなるため、ときどき深呼吸をしなければならない。規則的な呼吸を「生理的」と考えていると、深呼吸は不要な不自然なものと判断されるかもしれないが、実は必要なものなのだ。自然は規則的ではなく、不規則な乱れに満ちている。人間の体はそのような「乱れ」を前提にして進化したのではないかと思う。走ること、夜更かしすることは、生活における深呼吸のようなものではないのだろうか。

エイガスは、人体をシステムとして考えるべきだという。私は、生まれてから死ぬまでの人体を、経過する時間も含めてひとつのもの(システム)として見たい。人を5年間追跡して得られた研究結果は、5年間の効果しか説明することができない。また、死亡率を指標として得られた研究結果からQOL(人生の質)の変化を知ることはできない。じっとしていることが体に悪く、命を縮めるとしても、読書に費やす時間を削ることはできない。

自分がしてきたことを評価する場合に人生においての意味を問うのと同様、さまざまな生活パターンやそれからの逸脱が人に及ぼす影響も、人生という時間の中で評価しなければならない。失敗にも意味があるのと同様、嫌なこと、辛いことにも良い面と悪い面があるのだ。

デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)について引き続き書きたい。

エイガスは眠りについても有益な情報を提供してくれる。規則的に充分な睡眠をとることの重要性は良く知られているが、特に子どもに関する調査結果ついて、以下のような記載があった。
就寝時にルールがあるとした家庭の子どもたちは、そう出ない子どもたちに比べて、語彙力は6パーセント、計算能力は7パーセント、高かった。両者の差は歴然としていた。ティーンエージャーと大学生を対象とする研究でも、規則正しい睡眠が、学習能力やテストの成績に影響することが確認された。(308ページ)

また、12歳から14歳で睡眠に問題を抱えている子どもは「15歳から17歳で自殺を考える割合が2倍高くなる(309ページ)」という別の研究も紹介されている。成人の精神障害や成人病の遠因が子ども時代にある場合がしばしばあり、その一部に睡眠が関与しているという推測もされているようだ。

睡眠により成長ホルモンが分泌されることも知られている。成長ホルモンは子どもでは文字通り身体の成長(大きくなること)を司るホルモンだが、成人では障害された組織の修復に関与している。私は仕事のため2晩続きで徹夜をしたことがあるが、3日目には口中に口内炎ができてしまい、睡眠と組織修復の関連を実感した。

睡眠中に記憶が定着することも良く知られている。私の経験でも、朝までの一夜漬けで勉強した場合、眠らずにテストを受けると成績が悪く、1時間でも眠るとずっとましな成績が取れた。ところが、記憶の定着には睡眠だけでなく「休み時間」も重要らしい。本書で紹介されているラットを使った実験では、学習により脳内に生まれた活動パターン(神経回路)が「脳に定着し、永続的な記憶になるのは、ラットが小休止を取った場合に限られた(312ページ)」という。脳は休むことで経験を受け入れ、強化し、永続的な記憶にするので、刺激が絶えず続いているとこの学習過程が妨害されるそうだ。さらに、次のような研究結果もある。
2008年、ミシガン大学の研究者たちは、元気な脳と疲れた脳の明確な違いを発見した。その実験では、都会の混雑した道を歩いたあとより、自然の中を歩いたほうが、学習能力が格段に向上した。つまり、情報の波にさらされると脳が疲れることが明らかになったのだ。したがって、自分は楽しんでいる、あるいはリラックスしているつもりでも、スーパーマーケットの列に並びつつ、動画を見たり、メールをチェックしたりと、複数の仕事を同時にやっていると、知らず知らずのうちに脳に負担をかけている恐れがある。(312ページ)

都会の混雑した道が脳を疲れさせることに異論は無い。しかし、自然の中を歩くことが、脳を疲れさせないのではなく、脳の疲れを取るという可能性は無いのだろうか。研究の詳細が明らかになっていないので著者の情報だけからでは判断できないが、実際に自然の中を歩くのは気持ちがいい。漂ってくる植物の香りを嗅ぐと、元気になるような気がするのは私だけではないはずだ。

もうひとつ、非常に気に入った記述があった。「楽観的な人ほど長生きをする(321ページ)」のだそうだ。楽観的であることにかけては、私は人後に落ちない自身がある。私も長生きなのだろう(「長生きするよ」という声が聞こえてくるような気がする)。

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