加藤徹『漢文の素養―誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書)を読了した。加藤は明治大学法学部教授で、専攻は中国文学だ。「文学部」の誤りではないかと思って明治大学のホームページを調べたが、間違いなかった。ちなみに文学部には中国文学科はなかった。
著者がこのように述べるように、本書は「素人向け」である。そのためだろうか、参考文献がいっさい無い。面白い本で、著者の主張にも共感するのだが、資料としてみた場合には扱いにくい。参考文献があれば出典を確認できるので、安心して引用できる。ところが、参考文献がない場合、著者の主張を引用するには差し支えないが、記事を引用する際に、それがどのような根拠に基づいて書かれたものであるのか調べようが無いので、引用しにくい。
たとえば、以下のような記述がある。
後段については問題ない。古代の日本語は語末に子音がくることがなく、母音が付加されるということは一般的に認められている。問題は「おに」の元となる漢字が何かということだ。高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書)では「怨」説を全否定しているが(87ページ)、「おに」の由来は不明と結論している。そうなると、「隠」説が加藤の私見であるのか、学会で一定の評価を受けている学説なのかが判断できない。
この記述の前には、「うま(馬)」「うめ(梅)」「ほとけ(仏)」が字訓であるとする記述があり、とくに「ほとけ」については別の箇所で以下のように説明している。
馬と梅は定説だが、仏に関して、またもや素人の私には引用して良いものかどうか判断がつかない。
著者が、膨大な知識を背景として本書を書いたことはよくわかる。知識の範囲は現代中国語、古代中国語にとどまらず、古代日本語、古代朝鮮語などにも及んでいる。本書の記載事項のすべてに詳細な注解を付けることが不可能なのは、ある意味で当然である。しかし、歴史に関することはすべて「説」であると言っていい。そしてその「説」には「定説」「仮説」「異説」など、「事実に近いだろうとして受け入れられている度合い」というものがある。参考文献を挙げるというのは、その「受け入れられている度合い」を推定する手がかりとなる。定説は断りなしに引用することができるが、異端の説であれば、そうと断って引用しなければならない。「度合い」がわからなければ迂闊に引用できない。「諸説を一々紹介する」必要は無いのだが、著者が採用した説が定説であるのかぐらいは知りたいところだ。
それはともかくとして、著者の博識と熱意が伝わる本だった。著者は「漢文は東洋のエスペラントだった」という。漢字圏から多くの国々が脱落してしまった現在、共通語としての地位を復活させることはできないだろうが、過去の知の蓄積に自由に接する能力を維持するため、一般の人にも漢文の素養は不可欠なものだと感じた。
また、日本の漢文教育の偏りも非常に気になった。学校の授業で漢文と言えば孔子、孟子や唐詩であり、日本の思想家の文章に触れる機会が無い。このことは『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)でも強調されていた。私なら、荻生徂徠や新井白石ではなく、たとえば和算家の関孝和の著作や杉田玄白の『解体新書』など「理科系」の文章を読んでみたい。しかし、触れる機会がまったく無い。日本人の知的遺産に接する機会が無いのは惜しむべきことだろう。
本書は、日本漢文についての概説書ではない。「漢文の素養」の歴史や意味について、筆者の考えを述べたものである。論述の主軸をあえてプロの漢学者や文人でない人々に置くという、漢文関係の本としては異色の著述スタンスをとった理由も、ここにある。また、諸説を一々紹介するとそれだけで紙数が尽きてしまうため、筆者の見解だけを述べたところも多い。(239ページ「あとがき」)
著者がこのように述べるように、本書は「素人向け」である。そのためだろうか、参考文献がいっさい無い。面白い本で、著者の主張にも共感するのだが、資料としてみた場合には扱いにくい。参考文献があれば出典を確認できるので、安心して引用できる。ところが、参考文献がない場合、著者の主張を引用するには差し支えないが、記事を引用する際に、それがどのような根拠に基づいて書かれたものであるのか調べようが無いので、引用しにくい。
たとえば、以下のような記述がある。
「ふみ(文)」「かみ(紙)」「おに(鬼)」という字訓の語源も、「文」「簡」「隠」の古い字音「フン」「カン」「オン」である。昔の日本人は、音節の最後を必ず母音(アイウエオ)で止める、という発音のくせがあった。フンもカンもオンも、ン(n)という子音で止めず、母音イを添えて日本風に「フニ」「カニ」「オニ」と発音された。フニとカニの場合は、さらに音転して「フミ」「カミ」と読むようになった。(135ページ)
後段については問題ない。古代の日本語は語末に子音がくることがなく、母音が付加されるということは一般的に認められている。問題は「おに」の元となる漢字が何かということだ。高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書)では「怨」説を全否定しているが(87ページ)、「おに」の由来は不明と結論している。そうなると、「隠」説が加藤の私見であるのか、学会で一定の評価を受けている学説なのかが判断できない。
この記述の前には、「うま(馬)」「うめ(梅)」「ほとけ(仏)」が字訓であるとする記述があり、とくに「ほとけ」については別の箇所で以下のように説明している。
ホトは「仏」の六世紀当時の漢字音を日本語に写したもの。ケは、目に見える状態にあるものを示す接尾語で、カゲ(影)とかカナシゲ(悲しげ)のゲ(ケ)と同根である。(69ページ)
馬と梅は定説だが、仏に関して、またもや素人の私には引用して良いものかどうか判断がつかない。
著者が、膨大な知識を背景として本書を書いたことはよくわかる。知識の範囲は現代中国語、古代中国語にとどまらず、古代日本語、古代朝鮮語などにも及んでいる。本書の記載事項のすべてに詳細な注解を付けることが不可能なのは、ある意味で当然である。しかし、歴史に関することはすべて「説」であると言っていい。そしてその「説」には「定説」「仮説」「異説」など、「事実に近いだろうとして受け入れられている度合い」というものがある。参考文献を挙げるというのは、その「受け入れられている度合い」を推定する手がかりとなる。定説は断りなしに引用することができるが、異端の説であれば、そうと断って引用しなければならない。「度合い」がわからなければ迂闊に引用できない。「諸説を一々紹介する」必要は無いのだが、著者が採用した説が定説であるのかぐらいは知りたいところだ。
それはともかくとして、著者の博識と熱意が伝わる本だった。著者は「漢文は東洋のエスペラントだった」という。漢字圏から多くの国々が脱落してしまった現在、共通語としての地位を復活させることはできないだろうが、過去の知の蓄積に自由に接する能力を維持するため、一般の人にも漢文の素養は不可欠なものだと感じた。
また、日本の漢文教育の偏りも非常に気になった。学校の授業で漢文と言えば孔子、孟子や唐詩であり、日本の思想家の文章に触れる機会が無い。このことは『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)でも強調されていた。私なら、荻生徂徠や新井白石ではなく、たとえば和算家の関孝和の著作や杉田玄白の『解体新書』など「理科系」の文章を読んでみたい。しかし、触れる機会がまったく無い。日本人の知的遺産に接する機会が無いのは惜しむべきことだろう。