阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年04月

加藤徹『漢文の素養―誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書)を読了した。加藤は明治大学法学部教授で、専攻は中国文学だ。「文学部」の誤りではないかと思って明治大学のホームページを調べたが、間違いなかった。ちなみに文学部には中国文学科はなかった。
本書は、日本漢文についての概説書ではない。「漢文の素養」の歴史や意味について、筆者の考えを述べたものである。論述の主軸をあえてプロの漢学者や文人でない人々に置くという、漢文関係の本としては異色の著述スタンスをとった理由も、ここにある。また、諸説を一々紹介するとそれだけで紙数が尽きてしまうため、筆者の見解だけを述べたところも多い。(239ページ「あとがき」)

著者がこのように述べるように、本書は「素人向け」である。そのためだろうか、参考文献がいっさい無い。面白い本で、著者の主張にも共感するのだが、資料としてみた場合には扱いにくい。参考文献があれば出典を確認できるので、安心して引用できる。ところが、参考文献がない場合、著者の主張を引用するには差し支えないが、記事を引用する際に、それがどのような根拠に基づいて書かれたものであるのか調べようが無いので、引用しにくい。

たとえば、以下のような記述がある。
「ふみ(文)」「かみ(紙)」「おに(鬼)」という字訓の語源も、「文」「簡」「隠」の古い字音「フン」「カン」「オン」である。昔の日本人は、音節の最後を必ず母音(アイウエオ)で止める、という発音のくせがあった。フンもカンもオンも、ン(n)という子音で止めず、母音イを添えて日本風に「フニ」「カニ」「オニ」と発音された。フニとカニの場合は、さらに音転して「フミ」「カミ」と読むようになった。(135ページ)

後段については問題ない。古代の日本語は語末に子音がくることがなく、母音が付加されるということは一般的に認められている。問題は「おに」の元となる漢字が何かということだ。高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書)では「怨」説を全否定しているが(87ページ)、「おに」の由来は不明と結論している。そうなると、「隠」説が加藤の私見であるのか、学会で一定の評価を受けている学説なのかが判断できない。

この記述の前には、「うま(馬)」「うめ(梅)」「ほとけ(仏)」が字訓であるとする記述があり、とくに「ほとけ」については別の箇所で以下のように説明している。
ホトは「仏」の六世紀当時の漢字音を日本語に写したもの。ケは、目に見える状態にあるものを示す接尾語で、カゲ(影)とかカナシゲ(悲しげ)のゲ(ケ)と同根である。(69ページ)

馬と梅は定説だが、仏に関して、またもや素人の私には引用して良いものかどうか判断がつかない。

著者が、膨大な知識を背景として本書を書いたことはよくわかる。知識の範囲は現代中国語、古代中国語にとどまらず、古代日本語、古代朝鮮語などにも及んでいる。本書の記載事項のすべてに詳細な注解を付けることが不可能なのは、ある意味で当然である。しかし、歴史に関することはすべて「説」であると言っていい。そしてその「説」には「定説」「仮説」「異説」など、「事実に近いだろうとして受け入れられている度合い」というものがある。参考文献を挙げるというのは、その「受け入れられている度合い」を推定する手がかりとなる。定説は断りなしに引用することができるが、異端の説であれば、そうと断って引用しなければならない。「度合い」がわからなければ迂闊に引用できない。「諸説を一々紹介する」必要は無いのだが、著者が採用した説が定説であるのかぐらいは知りたいところだ。

それはともかくとして、著者の博識と熱意が伝わる本だった。著者は「漢文は東洋のエスペラントだった」という。漢字圏から多くの国々が脱落してしまった現在、共通語としての地位を復活させることはできないだろうが、過去の知の蓄積に自由に接する能力を維持するため、一般の人にも漢文の素養は不可欠なものだと感じた。

また、日本の漢文教育の偏りも非常に気になった。学校の授業で漢文と言えば孔子、孟子や唐詩であり、日本の思想家の文章に触れる機会が無い。このことは『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)でも強調されていた。私なら、荻生徂徠や新井白石ではなく、たとえば和算家の関孝和の著作や杉田玄白の『解体新書』など「理科系」の文章を読んでみたい。しかし、触れる機会がまったく無い。日本人の知的遺産に接する機会が無いのは惜しむべきことだろう。

ビットコインと言えば、マウントゴックス社(以下「Mt. GOX」と表記)の事件に触れないわけにはいかない。そもそも、これだけビットコインが注目されたのはMt. GOXのビットコイン消失事件があったからだ。先日、東京地裁が民事再生法の適用申請を棄却したので、今後Mt. GOXは破産手続きに入る見通しになった。破産管財人が活動を開始すれば、さまざまなことが明らかになってくるだろう。

ビットコインの消失について説明する前に、ビットコインの匿名性について説明しておかねばならない。決済手数料がかからないことは昨日のブログに書いたが、ビットコインの人気のもうひとつの理由が匿名性だ。ビットコインデータには取引の履歴がすべて記録されている。つまり、取引は完全に公開されている。ビットコインの匿名性は所有者が明らかにできないことにある。

ビットコインを所有したり取引したりするには「口座」を作らなければならない。口座はデジタル暗号で、誰でもいくつでも生成できる。参加者はその秘密鍵を使って口座を管理する。秘密鍵を持っている人がその口座にアクセスできる。だから、口座の所有者をデータとして保存する必要はない。口座の匿名性ゆえにビットコインは裏社会や不正な取引で利用されることが多かった。そのためビットコインに胡散臭さがつきまとうようになったが、それはビットコイン自体の問題ではない。

Mt. GOXのコイン消失事件の概要を聞いて誰でも考えるのが、取引の履歴がすべて記録に残されているのなら、Mt. GOXのコインがどうなったかは追跡可能であり、事件の概要はすぐに明らかにできるのではないかということだ。ところが、Mt. GOXが使っていた口座が明らかにされていないので、追跡ができないのだ。口座をいくつ使っていたのかも不明だ。ネットには入手できるデータから可能な限りの解析をおこなった結果が示されているが(http://www.slideshare.net/11ro_yamasaki/bitcoin-4)、口座が匿名であるため、怪しい口座があってもそれが誰の口座かがわからない。Mt. GOXの口座情報は破産管財人によって明らかにされるのだろうが、内部の犯人にビットコインを持ち逃げされている可能性もある。

秘密は必ず漏れる。もう少し穏やかに言えば、秘密が漏洩する危険性をゼロにすることはできない。秘密鍵のようなデジタルデータの場合、インターネットに接続したコンピュータに保存すれば、ネットワーク経由で侵入される危険性があるが、接続していなくても、人がアクセスできるものであるならば、何らかの方法で盗み出すことができるのだ。秘密鍵はQRコードに印刷して保存しておくことが多いらしいが、テレビで「これが秘密鍵です」と放映したところ、その画像をスキャンされて口座が盗まれたとの話だった。Mt. GOXの秘密鍵も、何らかの方法で盗まれたのだろう。雑誌などではその他の説も紹介されているが、いずれも説得力に欠ける。

ビットコインには、過半数の採掘者が結託すれば嘘の取引データを書き込んでビットコインを詐取できるという欠陥もある。ビットコインが安全な貨幣として流通するには、クリアしなければならない問題が多い。しかし、すでに実際に貨幣として流通しているという実績があるのも事実だ。社会がデジタル貨幣を必要としてるのは間違いない。ビットコインの騒動から学んで欠点を克服した新しいデジタル貨幣が開発されることを望む人が多い。

Mt. GOX破綻前のビットコイン人気は多分に投機目的のものであった。セミナー講師たちの分析では、投機対象としては危険が大きいだろうとのことだった。やはり普通は手を出すべきものではないのだろう。

先日ビットコインに関するセミナーに出席した。勤務先の事務方対象にITの勉強会をしているのだが、単なる授業では飽きられるので、IT関係の時事問題などを入れ、できるだけ興味を引くように工夫している。だが、充分な時間を割くことができず、なかなか情報を集められないので、セキュリティ関係のネタが多くなっている。その現状を打開しようと、昨今話題となっているビットコインについて情報を集めに行った。

インターネットを検索すると、ビットコインに関する情報は非常に多いが、多すぎて全体像が掴みにくい。しかしセミナーでは非常によくまとまった解説がなされ、効率よく全体像を整理することができた。以下では、今まで調べたこと、セミナーで学んだこと、それに私の解釈を含めて、ビットコインについてまとめておくことにする。

ビットコインは、関連する名称をあるコンセプトで統一している。そのコンセプトは「金(ゴールド)」だ。システムが特殊なデジタルデータを生み出す過程を「マイニング(採掘)」と呼び、生成されたデータを「ビットコイン」と呼ぶ。アイコンは金貨だ。そのコンセプトが生み出すイメージが人を惹き付けていると言える。

概念としての「ビットコイン(の総体)」は大きな表と考えるとわかりやすい。行数は2,100万行だ。その各行が「貨幣」の1単位(1ビットコイン、1BTC)にあたる。各行には、そのコインの所有者の履歴が書き込まれることになるが、最初は書き込むことができない。「採掘」されて初めて誰かの手に入る(実際には、行が生成されて採掘者の名前が所有者として書き込まれる)。

実際のデジタルデータとしてのビットコインは、取引の履歴を書き込んだブロックの連なりになっている。履歴には、採掘された各行について、誰が最初に所有し、それがどのように人手に渡って行ったかが記録されている。したがって、最初のブロックから追っていけば、各コインがどのように流通し、最終的に誰の手にあるかがわかる。参加者全員が同じデータを所有(共有)するので、誰でも分析をおこなうことができる。

ブロックを作成するには専用のソフトウェアが必要で、過去のブロックすべてを使用した「一種の数学バズル」を解く必要がある。ソフトウェアは無料で入手できる。パズルを解いてブロックを追加できると、そのブロックには暗号技術を使用したロックが掛けられる。そして、そのブロックの追加に成功した参加者に25BTCが提供される(表の中の25行が公開され、最初の所有者としてこの参加者のデータが書き込まれる)。これが採掘である。このようにして流通するコインが増えてゆく。

現在ビットコインデータは約16GBで、採掘されたコインは1270万BTC、全「埋蔵量」の約60%である。ブロックの追加は約10分ごとに行われる。報酬として与えられるコインは4年ごとに半減する規則になっており、採掘は徐々に困難になるように設計されている。2100万BTCの上限に達するのは2141年頃と見積もられている。

以上がビットコインシステムの全貌だが、これがなぜ通貨としての意味を持つかは、システムの仕組みからは導き出せない。あくまでも「皆が通貨と見なすから」通貨なのだ。ビットコイン関係者の中には、希少性(上限が決まっていること、採掘に手間がかかること)を価値として強調する者もいるが、経済学者によれば、希少なものは骨董品と同じで、客観的な価値を付けられないと言う。

ビットコインに人気がある理由のひとつが、決済に費用がかからないことだ。パソコンがあり、インターネットに接続されていれば、送金したい分だけのビットコインを持っていればいい。しかし、そこにも問題がある。ビットコインの流通が可能であるためには、ブロックの追加が継続して行われることが必要で、そのためには採掘者が採掘を続けなければならない。だが、すべてのビットコインが採掘し尽くされれば、採掘者が無報酬でコンピュータを動かし続けるわけがない。100年後には採掘者に報酬を支払うため、決済手数料の上乗せが一般的になるだろう。現在でも決済手数料を上乗せする場合があるとのことだが、100年後にはどれだけの手数料が設定されるか、その額が受け入れられるかは未知数である。

金(ゴールド)と違って、ビットコインはデジタルデータである。採掘者が一斉に採掘をやめると、データは存在価値がなくなってしまう。もし飽きられたら消滅してしまうシステムなのだ。

村上春樹、柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)を読了した。村上は言わずと知れたノーベル文学賞候補作家であり翻訳家でもある。柴田は東京大学の教授で、やはり翻訳家でもある。

昔から翻訳に興味があったので、この本を手にした。私は現在技術書や解説書の翻訳をすることがあるが、昔から興味があったのはいわゆる「文芸翻訳」である。今まで読んできた翻訳関係の本も、小説の翻訳に関するものが圧倒的に多い。本書は村上と柴田が対談し、聴衆から自由に質問を受けるというフォーラムの記録だ。フォーラムの参加者は学生(フォーラム1)、翻訳学校の生徒(フォーラム2)、新人翻訳家(フォーラム3)とさまざまだ。また、同じ短編小説を村上と柴田がそれぞれ訳すという試みも掲載されている。

本書によれば、村上にとてって翻訳はリフレッシュの作業らしい。創作で小説を書き、呻吟し、疲れきると、翻訳をするのだそうだ。翻訳は楽しく、ふたたびエネルギーが蓄積されていく。翻訳から学ぶことも多いという。だいいち、村上が翻訳の対象とする作家は、彼が学びたいと思うものを持っている作家なのだ。村上は、翻訳は「もっとも効率の悪い読書」(111ページ)であると言っているが、彼はそのように読み込むことで創作技法を学んでいる。
僕の場合は、日本の作家から小説技法を学んだというのがまったくなかったから、自分で自分の文体というのを作らなくちゃいけなかったわけですね。で、その叩き台になったのが英文の文章だったからね。(219ページ)

そのため、村上の日本語は英語の影響を強く受けている。
出席者E 僕が村上さんの小説の英訳を読んだときに驚いたのは、いま言われたような文体の特徴が、逆に英語だと普通の文章になっちゃうじゃないですか。『ねじまき鳥クロニクル』の一部が「ニューヨーカー」に載っているのを見たんですけど、英語の表現としては普通なのに、逆に中身はすごく日本的な文章に思われたんです。
村上 おもしろいですね。あの小説はジェイ・ルービンというハーヴァードの先生が訳したんだけど、僕はあの本の会話で、「個人的にとらないでくれ」って日本語で書いたんです。でもそれ、ジェイ・ルービンに言わせれば英語なのね。Don't take it personally. で、ジェイ・ルービンは「おいハルキ、そんな表現は日本語にないよ」って言うんだ(笑)。確かにそうなんだよね。(220ページから221ページ)

そして何と、村上は最初の小説を英語で書いたという。
文章の説得力って、語彙が少なくても関係ないんですよね。語彙が少なくてすごくいい文章を書く人もいっぱいいるし。だから、僕も最初の小説を書いたとき、とりあえず英語で書いて、それを全部日本語に訳し直して日本語にしたんです。つまり、英語で文章を書くときは、当然のことながら日本語に比べて語彙が少ないんですよね。で、少ない語彙でも書こうと思えば書けちゃうんですよ。(235ページ)

村上は、ジャズ喫茶を経営するなど、音楽に深く関わってきた。そのため、翻訳について語るときにも音楽に例えた話が多い。とくに彼が重視するのは文章のリズムだと言う。原文の持つリズムを感じ取ることとも重要だが、翻訳文にいいリズムがあることも重要だ。ただしそれは朗読したときのリズムではない。
それは目で見るリズムなんです。目で追ってるリズム。言葉でしゃべっているときのリズムとスピードと、目で見るときのスピードは違うんです。だから、目でリズムを掴まないと、口に出していたら、いつまでたっても文章のリズムって身につかないような気がする。(212ページ)

話は変わるが、村上が面白いことを言っていた。
逆説だけど、自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。(25ページ)

それをもじってこんな言葉を考えた。「愚かな人は自分が愚かであることがわからない。賢い人は自分が愚かであることがわかる」。誰かがすでに言っていないかとインターネットで検索してみると、ブッダが同じようなことを言っているらしい。

上田の仕事を見ていくと、アートに関連したものが多い。彼はアートを学習に積極的に取り入れようとしている。その中心的な活動がネオミュージアムの建設と運営だろう。彼は私費を投じて、展示物のないミュージアムを1990年代に建設した。そこに展示されるのは、「ワークショップにおいて学習者が様々に経験する出来事(90ページ)」であり、「学びの風景」である。つまり、「モノ」を展示するのではなく「コト」を展示するという発想だ。

第1章の「04 プレイフル・ラーニングの実践」では1993年にネオミュージアムで実施された「人力コンピュータ実験」が紹介されている。彼のゼミの学生たちが参加し、ひとりひとりがコンピュータの部品やOSのモジュールとなり、実際のコンピュータの動作を再現するのだ。
2人の学生が大きなフロッピーディスクを運んできてコンピュータのフロッピーディスクドライブに入れます。フロッピーディスクマネジャーがコンピュータ内部で受け取りローディングを始めます。それを紙に書き出して、バスマネジャーに情報を渡します。バスマネジャーはその紙に書かれた情報(プログラム)をメモリに持っていく、メモリを演じている学生はメモリボードに書いていくというように。(105ページ)

実際に動くことで、コンピュータの動作原理に対する理解が格段に進んだという。さらに「ラーニングアート 2005」では、上田は参加者に名札兼ノートとして段ボールでできた立方体の椅子を配った。
来場者にはまず、「自分が座るイスをつくってください」と、白い段ボールが手渡されます。折り目通りに組み立てると、小さなイスができるので、そこに、自分の写真を貼り、名前を書き込みます。このイスがあれば、会場内のどこにいても即座に「自分の居場所ができる」というわけです。(117ページ)

さらにそこにノートも書き込んでいく。何とも斬新で楽しいアイディアだ。第2章では「学生から社会人まで約120名がネオミュージアムに結集して行われた、ラーニングイベント(132ページ)」「経験のREMIX unconference@neomuseum」が紹介される。これも非常によく練られたイベントで、さまざまな趣向が凝らされ、面白い仕掛けがぎっしりと詰まっている。ここで詳細を解説することはしないが、ワークショップを企画運営する側として、私たちのワークショップでも一層の工夫をしなければならないと痛感した。

たとえば、現在わたしたちのワークショップでは冒頭に「他己紹介」をしてもらっている。単なる紹介になっているのだが、「自分とに似ていると思ったこと」というコメントを付け加えてもらうと、ずっと親近感が増すのではないだろうか。また、参加者には何か(たとえばお気に入りの筆記用具、自分のカップ)などを持ってきてもらい、それを使ってもらったり、それについて説明してもらうのもいいかもしれない。

あるいは、参加者の作業の様子をたくさんの写真に撮り、1日のまとめのセッションで時系列で流すのもいいだろう。現在は机を並べて、その上で発表資料づくりをしてもらっているが、思い切って床でやってもらうのはどうだろう。

さらに思いついたことがある。ワークショップの前日にはタスクフォースの打ち合わせがある。それがワークショップになっていないことに初めて気付いた。確かに打ち合わせする事項が多く、時間が少ないことも事実なのであるが、タスクフォースも楽しみ、学ぶというワークショップの原点は、前日から始めるべきなのではないか。そのようないろいろなアイディアを生み出す力のある、貴重な記録だった。

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