阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年02月

日本の場合、江戸時代は医師が薬の調合もおこなっていた。医師に支払うのは診察代ではなく「薬代」であった。これが分けられたのは、1874年に制定された医制以降のことである。島崎謙治『日本の医療―制度と政策』(東京大学出版会)によれば、以下の通りである。
医制は、「医師たる者は自ら薬を鬻(ひさ)ぐことを禁ず。医師は処方書を病家に付与し相当の診療料を受くべし」(41条)という医薬分業の規定を設けた。[中略]医薬分業は薬舗(薬局)の数が少なかった上、医師(開業医)の強い反発があったことから、定着しなかった。(33ページ)

戦後、GHQは強硬に分業を進め、1951年にはいわゆる「医薬分業法」の制定にこぎつけたが、GHQの引き上げ後は医師会が巻き返し、1954年には議員立法により改正され、「医薬分業を建前としながらも、患者が希望した場合には医師は調剤できるなど例外的事由が多数認められることとなり、今日に至っている。(75ページ)」
なお、医薬分業率(院外処方率)はこの当時は微々たるものであったが、「平成19年社会医療診療行為別調査」によれば、2007年には59.8%に達している。それを促した一番大きな要因は、薬価算定方式の見直しにより薬価差益が大幅に縮小したこと、処方箋料の引き上げなど診療報酬により院外処方の経済的誘導が図られたことによる。(75ページ)

そのような歴史的流れの医薬分業であるが、少し風向きが変わってきた。今回の診療報酬の改定では、外来での主治医機能を重視した改定が行われている。
外来医療で注目すべき点は、複数の慢性疾患を持つ患者への「主治医機能」を評価する項目を新設したことだ。「地域包括診療料」と「地域包括診療加算」の2つがある。高血圧、糖尿病、脂質異常症、認知症のうち2つ以上を有する患者に対し、服薬管理や健康管理を行ったり、介護保険の相談を受け付けることなどを算定要件に盛り込んだ。地域包括診療料は、許可病床数200床未満の病院と診療所を対象とした包括払いの点数で、1503点を月1回算定できる。地域包括診療加算は診療所が算定できるもので、1回につき20点。(「日経メディカル」『包括払いの「主治医報酬」は1503点に』http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/int/201402/535067.html)

地域包括診療料は、その算定要件が院内処方を原則としたものとなっている。「日経メディカル」が2014年2月20日に配信した『主治医報酬、「原則として院内処方」の衝撃』(http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/eye/201402/535136.html)では以下のように伝えている。
実は厚労省は当初、病院が地域包括診療料を算定する場合は、完全に院内処方に限定する姿勢を見せていた。答申に先立つ1月29日の中医協に提示した案では、算定要件を「当該患者について院内処方を行うこと」と規定し、院外処方を一切認めない方針だった。
だが、この案には薬剤師代表の中医協委員が異論を唱えたこともあり、最終的には病院が算定する場合は「24時間開局している薬局」への院外処方が認められることになった。

厚生労働省のホームページに掲載されている「平成26年2月12日版(未定稿)」の『平成26年度診療報酬改定の概要』(http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12400000-Hokenkyoku/0000037490.pdf)では、たしかに「当該患者に院外処方を行う場合は24時間開局薬局であること(37ページ)」とある。24時間開局している薬局は例外中の例外だ。地域包括診療料を算定する場合は院内処方になるだろう。

もともと、院外処方には「二度手間だ」「余計に金がかかる」といった批判が多い。体の不自由な患者の場合、院外薬局に行かせるのは忍びない。私は雨の日に高齢者に院外処方箋を渡すだけで申し訳なく思ってしまう。しかし、複数の病医院で診療を受けている場合、内服薬の統合管理は極めて重要な問題である。日経メディカルの記事はこう締めくくっている。
例外的にではあるが厚労省は、地域包括診療料について、24時間の開局・対応をしている薬局への院外処方を認めている。見方を変えればこのことは、薬局にその面での努力を促していると捉えることもできる。つまり厚労省は、24時間対応を行う薬局を選別して評価する方向に政策のかじを切ったわけだ。
そうした政策の変化に目を向けず、在宅への取り組みも放棄して、門前の医療機関から出てくる外来処方箋の応需のみに汲々とする薬局が早晩、厳しい状況に追い込まれることは間違いないだろう。

開業医も地域包括ケアで24時間対応が求められている。薬局も同様ということなのだろう。

4月1日に消費税が8%になる。また、診療報酬が改定される。現在、医療関係の雑誌やポータルサイトでは関連する話題が非常に多い。医療機関の経営にかかわることなので当然のことだと思う。しかし、それでいいのかとも思う。

昨日のブログで取り上げた上昌広の『特定秘密保護法への危機意識弱い医療界』(メディカル朝日、2014年2月号)で、彼は以下のように書いている。
わが国の医療界は、お上意識が強い。今回も大した議論もせず、政府の意向に従おうとしている。厚労省による価格統制、量的規制(医師数や病床数)が徹底している現状ではやむを得ないのかもしれない。ただ、これでは社会から信用されない。特定秘密保護法案が社会の関心を集めていた時期、医療業界誌のテーマの大部分は「診療報酬改定」だった。業界誌を見せたビジネスマンは「土建業界そっくりですね」と感想をもらした。これでいいのだろうか、今こそ、医師のあり方について真摯に議論する時期である。

これは何も特定秘密保護法への対応に限ったことではない。厚生労働省は診療報酬によって医療を統制しようとする。しかし、本来医療は営利目的の商売ではない。もちろん労働に対して対価を得ることは当然であるし、医療を続けるには資金の供給が必要だ。医療職とて霞を食べて過ごしているわけではない。しかし、「いかにして利益を上げるか」に汲々とする、あるいは控え目に言って、汲々とせざるをえない現状は、私にとって何とも情けない。医療職は、プロフェッショナルとして、社会に対する自分の役割を自覚していなければならないはずだ。「してはいけないこと」をしてはならないのと同様、「しなければいけないこと」は、しなければならない。ニンジンを目の前に下げられても、馬ならいざ知らず、人間であればきっぱりとはねつける気概が欲しいのだ。「やせ我慢」は大切である。

金銭的な損得を度外視して仕事をしている医師は、私の周囲にも大勢いる。そもそも医師は時間外労働が異常に多く、その多くに手当が払われていない事情は何度か述べた。それだけではない。たとえば某病院では東京ルールの当番を週に何日か引き受けているが、24時間対応する医師の労働時間を確保するために当直した医師の昼間の外来枠を減らしている。病院としては夜間の救急より、昼間の専門外来や検査のほうが収益が高い。しかし、誰かが引き受けねばならない救急であるとして、減収を承知で夜間救急を行っている。

しかし、そのような声がなかなか公の場に出てこない。日本医師会と厚労省のやり取りを見ていても、数の問題、金の問題ばかりが前面に出て、10年後の医療供給体制として厚労省の描いている図が本当に適正であるのか、現実的であるのかといった議論が聞こえてこない。医療界自体に道を作っていくのは自分達だという自負が感じられない。医療の将来は役人に任せるべきことではない。まさにこの問題こそ「プロフェッショナルオートノミー」の問題だろう。

消費税対策を考えるのも良い。いかに新しい診療報酬体系に適応していくか、厚労省はどの方向を向いているのか、研究することも医療機関の維持・存続には必須だろう。しかし、厚労省がどちらを向いているかではなく、自分達がどちらを向くのかといった議論、医療が進むべき方向に関する議論がもっと活発に行われるべきだと思う。

2月16日に引き続き、「メディカル朝日」2014年2月に掲載された上(かみ)昌広『特定秘密保護法への危機意識弱い医療界』について書きたい。上は東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門特任教授である。医療ガバナンス学会ではメールマガジンMRICを担当している。

特定秘密保護法については、マスコミでもしばしば取り上げられているので、ここで改めて取り上げることはしない。ただ、秘密の保護に関する規定が必要であることは認めるが、どんなものでも良いというわけではなく、政治家が自分に都合の悪いことを秘密に指定し、それを暴露したものを処分できるような、恣意的な運用が可能な法律には反対であるという態度表明だけにしておく。

この上(かみ)の記事を取り上げる気になったのは、A4の雑誌1ページという短い記事でありながら、日本の医師の国家犯罪への加担の歴史がしっかりと綴られていたからだ。その最初にして最大のものは、石井部隊による人体実験だ。
ジュネーブ宣言は1948年の第2回世界医師会総会で採択された、第2次世界大戦での医師たちの犯罪が背景にある。石井四郎・陸軍軍医中将を中心とした関東軍防疫給水部(通称731部隊)は、人体実験の資料を米国に引き渡すことで、戦犯としての訴追を免れたが、ドイツでは、国家命令に従い業務を遂行しただけの医師も責任を追及された。ニュルンベルク裁判では23人の医師が起訴され、16人が有罪となり、このうち7人は処刑されている。

石井たちが訴追されなかったことが、日本の医療界に大きな影響を与えている可能性がある。731部隊のことを無かったことにしてしまおうという風潮があるように感じられる。これは上も感じているようだ。
石井部隊の総括をしなかったためだろうか、戦後も国家犯罪に加担してきた。例えば、53年に改定された「らい予防法」に基づく強制隔離だ。この法律の原型は07年に制定された法律「癩予防ニ関スル件」である。ハンセン病の伝染力が強くないことが分かり、40年代に治療法が確立されたにもかかわらず、法律が廃止されたのは96年だ。政府の命令に従った医師により、無数の患者が言われなき人権侵害を受けたことになる。

石井部隊に話を戻せば、その残党が「ミドリ十字」という血液製剤を扱う製薬会社を興したが、ミドリ十字社が薬害エイズを引き起こしたことは記憶に新しい。上が次に指摘するのは、検疫法による人権侵害だ。
2007年に「結核予防法」は廃止されたが、「検疫法」に基づく強制隔離は今でも有効だ。09年の新型インフルエンザ流行時には、医学的エビデンスに乏しく、法曹界から憲法違反の可能性が強いと指摘されたにもかかわらず、多くの医師が、政府の要請で検疫に従事した。[中略]これでは世界保健機関(WHO)に「旅行者の人権を守れ」と勧告されても仕方がない。

これらの人権侵害がなぜ特定秘密に結びつくかと言えば、政府が「特定秘密を取り扱う公務員に対する適性評価について、行政機関から照会を受けた病院は回答義務が生じる」との見解を示しているからだ。医師は、患者の個人情報を患者の意思に反して国家に提供させられるかもしれない。これは信義に反する行為であり、医師の職業上の倫理に反する行為だ。人にはプライバシーがある。医師は患者のプライバシーに踏み込むが、それは医師がプロフェッショナルとして患者の人権を守ると患者が信じてくれるからこそ許される行為だ。特定秘密保護法がこの医師の倫理を踏みにじる可能性があるにもかかわらず、医療側の反応が鈍いことに上は危機感を持っている。

たとえば日本医師会の倫理の考え方について、健保連大阪中央病院顧問の平岡諦がMRICで再三批判しているが、やはり日本の医師全体にプロとしての(医療のプロとしてということではなく、社会におけるプロフェッショナルとしての)矜持がいささか足りないように感じる。

『シッコ』はマイケル・ムーアが監督・製作・脚本を務める2007年のアメリカ映画だ。別の映画のロードショーの時に予告編を見て、以来気になっていたのだが、見る機会がなかった。先日ある場所でDVDを見かけ、急に見たくなってAmazonで購入した。映画の原題は『SICKO』で「病気」(sick)の意だそうだ。

この映画は、米国の医療制度の失敗を告発するドキュメンタリーだ。米国の医療制度は失敗している。医療費は世界第1位であるが、国民皆保険の制度がないため、国民の6人に1人が無保険で、満足な医療が受けられない。しかし、映画の冒頭で述べられているように、この映画は無保険の人々の映画ではない。保険に入っていても、保険会社は些細な既往歴の申告漏れを理由に支払いを拒否する。これは李啓充の著書(たとえば『アメリカ医療の光と影』医学書院)でも再三取り上げられているし、有名な話なのだと思う。この映画は、保険に入っているにもかかわらず満足な治療が受けられなかった人々の映画だ。

この映画では、まずマイケル・ムーアが、カナダ、イギリス、フランスなどの国々を取材して歩き、各国の医療制度について報告する。現地に住む米国人たちのインタビューもある。いずれの国でも(彼が取材の対象とした)医療は安価、もしくは無料である。イギリスでは公営の病院を訪れるが、無料と聞いたのに精算窓口があるのを見つける。そこで「ほら、やっぱり金を払うんじゃないか」と言うと、「ここは病院に来るための交通費を払い戻すための窓口だ」と聞かされる。ムーアは「イギリスでは病院でお金を払うんじゃなくて、お金を貰うんだ」とびっくりして見せる。

後半では保険に加入していたのにさまざまな理由から満足な治療が受けられなかった9.11事故現場の作業者たちを取材する。そして、グアンタナモ基地に拘留されている9.11関連の犯人たちが手厚い医療を受けていることを知り、彼らを連れて船でグアンタナモ基地に近づき、拡声器で「ここにいる9.11の英雄たちに、そこにいる囚人たちと同等の医療を施せ」と抗議する。

グアンタナモ基地はキューバにある。そこで彼らはキューバに寄り、そこで治療を受けることにする。キューバの医療制度は、これもまた有名である。キューバの医療レベルは非常に高いが、キューバ国民は医療費(教育費も)無料だ。外国人の場合は有料だが、米国よりは安価だろう。ムーアは、日頃見下し敵視している社会主義国のキューバの医療のほうが米国より(制度として)数段優れていることを見せつける。

この映画が「プロパガンダ(政治宣伝)映画」だという批判を目にすることがある。そのような見方もできるだろう。たしかに英・仏・加の医療の悪い面はいっさい描いていない。製薬会社、保険会社と政治家の癒着については悪意をもって描いている。しかし、いささか極端に描いているとは言え、映画で取り上げられていることは真実であり、真実には真実としての重みがある。

「がん哲学外来」を開いている順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫(ひの おきお)と「よろず相談」を実施してる静岡県立静岡がんセンター総長の山口建(やまぐち けん)が「メディカル朝日」2014年1月号の新春対談『患者支援のあり方から、より良い医療を探る』で対談していた。樋野は癌研究会癌研究所病理部出身で、2003年から順天堂大学教授となっており、山口は国立がんセンター出身で2002年から静岡がんセンター総長を務めている。

樋野は、癌研究所長を務めた病理学者の吉田富三の言葉「がん細胞で起こることは人間社会でも起こる。人間社会に起こることはがん細胞にも起こる」という言葉を「がん哲学」と定義し、「それに『外来』という言葉をつけて」2008年1月にがん哲学外来を開始したという。
「がん哲学外来」のコンセプトは、 診療や治療は行わず、無料で、互いにただお茶を飲んで1時間ぐらい話を聞くというものです。開設時、3カ月計5回の予約があっという間に埋まり、キャンセル待ちが80組出ました。(77ページ)

面談は病院内の喫茶店のほか、近くの駅前の喫茶店でもおこなったが、病院外のほうが患者も来やすいようで、次第に外でするようになったという。現在では全国32カ所でおこなっている。
その内容は、僕が行ける時には個人面談、行けない時にはメディカルカフェ的な形でスタッフがお茶を飲みながら患者や家族らと話しています。僕の面談の時にはだいたい60分で、カルテも何もないですから、最初の15分ぐらいはなぜここに来たかの傾聴で、あとは対話です。患者の顔が来た時と変われば、そこでやめます。(78ページ)

患者は心に大きな憂いや怒りを抱えてやってくる。吉田富三は「風貌を見て、心まで診る」と言ったそうで、樋野は彼の教えに従い、その患者の表情が柔らかくなるように慎重に言葉を重ねて対話するのだそうだ。患者は樋野と言葉を交わす過程で心が和み、表情が変わる。樋野が目指すのは悩みの解消である。
悩みの解決は何もしていないけれど解消はできている。悩みを問わなくなるのが解消です。(79ページ)

一方、山口は全国どこの病院にも「心通う対話」のできる部門がないことが問題であると考えた。
そこで2002年の静岡がんセンターの開院の際には、その実践の場をつくろうということで、できるだけ敷居を低くして患者さんやご家族との対話を進める部門として「がんよろず相談」を設置し、「出張がんよろず相談」も同時に始めました。(76ページ)

開院時は患者が集まるかどうか心配だったとのことだが、ふたを開けてみると相談者が殺到し、相談数が3年目で年間1万件を超した。およそ半分が直接来院で、残りの半分が電話相談とのことだ。よろず相談でも対話が中心となる。患者自身が話しながら気持ちを整理していく。
ある時、医学的にはもう全く手がないと言われた患者さんと、何度も同じような話を繰り返して、最後に患者さんはお泣きになって。結局、それだけ話を聞いてもらえたうれしさと、そこまで話をしてもらって、死を迎える覚悟がつきました、本当にうれしい、ありがとう、と。こういう対話が力になる世界が、やっぱりもう一つ医療にはあるんですね。(78ページ)

私は癌患者の会で話したり、NPOで「市民参加型学習会」を行なったりしているが、目指すところは似ている。解決策の提示ではなく、患者自身が自分の中にあるものを発見することが目的だ。集団に対して話すほうが、多くの人に働きかけられるので良いと思っていたが、どうしてもコミュニケーションの密度は薄くなる。私自身、外来で癌患者と話し込むこともあるのだから、思い切って私も「お話し外来」を開始しようか。

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