阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2014年01月

「日経ビジネスオンライン」2014年1月24日配信の「キーパーソンに聞く」で家庭教師の西村則康が述べている教育論が面白かった(http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140121/258583/)。西村は「2500人以上を難関中学に合格させたプロ家庭教師」だそうだ。家庭教師であるため家庭の中に入り込むので、外からは見えないものが見えたという。

西村によれば、部屋は適当に散らかっているほうがいいのだそうだ。とくに、何もかもきれいさっぱり片付けて何も表に出ていないような状態はよくない。父親の趣味を中心に、あるいは子どもに必要なものを中心になど、目的を持って片付けてあるのならいい。要するに子どもの知的な発育には多くの刺激が必要なのだ。
いわゆる「断捨離」は、子供の発達にとってはよくないと思います。捨ててさっぱりする大人にとってはいいんですが、断捨離された空間というのは子供にとって刺激がなさすぎる。子供というのは過剰なものに反応するんです。本棚からあふれてしまってる本とか、道具箱からあふれてしまってるものに子供は興味を持つんです。

子どもの発達に刺激が必要という例は他にもある。西村は高層マンション育ちの子供が「伸びない」と言う。親の収入は概して高いので、学校の成績はいい場合が多く、学歴も高いことが多いが、彼に「すごいな」と思わせる優秀な子どもがほとんどいないのだそうだ。その理由を彼は身体への刺激が少ないためではないかと考えている。
普段の生活環境が、すぐ外に出て何かに触るということができないし、風のそよぎも感じられない、音も聞こえない。五感への刺激が圧倒的に少ないために、身体感覚が自然に鍛えられるべき時期に十分鍛えられないというのが大きいと思います。

たとえば、高層マンション育ちの子どもは、イネを見たことがないと言うことが多く、低層マンションや戸建てに暮らす子どもでそのように言う子はいないそうだ。彼は、高層マンション育ちの子どもは、たとえば田舎に行っても、そこで目にしたものを風景としてしか見ないので、実体験として取り入れられないのではないかという。

刺激の必要性は小学校までで、中学以上ではあまり差が無くなるという。

ところで、藤原正彦は『国家の品格』(新潮新書)の中で、「天才を生む土壌」の条件として「美の存在」「跪(ひざまず)く心」「精神性を尊ぶ風土」を挙げている。世界各国の天才が生まれた土地を概観し、この条件が成立することを示した後、藤原はこう述べる。
それでは日本はどうでしょうか。この三つの条件を見事に満たしています。まず、日本には美しい自然がある。第二に神や仏や自然に跪く心がある。それから三番目に、役に立つものとか金銭を低く見る風土がある。(170ページ)

江戸時代に来日したザビエルは、町人よりも貧しい武士が、社会的な尊敬を受けていることを驚きとともに書き残しているそうだ。確かに日本は世界的に見ても優秀な人材を数多く輩出している。

ヒトの心が、どのようにして成長するのか。何が成長を助け、何が成長を阻害するのか。確かなことを知ることは不可能である。ただ、五感に訴える、豊かで穏やかな刺激が多いほどいいということは言えるように思う。

「こころっコロ」協同代表の窪田と林の話についてもう一度書きたい。昨年までは1回で読み切りとしてたため、前回のブログの出だしの紹介文を再度載せていたが、今年からはやめようと思う。「こころっコロ」については昨日のブログを参照していただきたい。

林は、赤痢とマラリアで乳幼児が次々と死んでゆく低開発国での医療を経験し、非常に強い無力感に襲われたという。当然のことだろう。薬はあるのだが、その薬が効かなかった場合、限られた対症療法以外に何もできることがない。しかし、林はその無力感が、日本の病院で乳幼児の死に接して感じる無力感と異なることに気付いた。低開発国で感じる無力感は圧倒的である。彼は、医療者の満足感が違うのではないかという。日本ならば、さまざまな薬剤があり、薬剤が効かなくても、代替の治療手段があることが多い。あらゆる手を尽くして治癒に至らなかったとしても、医療者側には最善の手を尽くしたという心理的な逃げ道が残されるのではないか。そのため、日本で感じる無力感は、低開発国で経験した無力感ほど絶望的なものにならないのではないかと言う。

私はなるほどと思い、納得した。そして同じことが患者を失う家族にも言えるのではないかと思った。つまり、八方手を尽くした上で患者が亡くなったのであれば、家族の喪失感は軽減されるが、何もできずに患者を無くすと、家族は強い無力感に囚われるのではないかということだ。遺された家族の心理的負担を軽減しようと、患者は自分の終末期の処遇に家族の意向を優先させる。自分は抗癌剤治療を受けたくなくても、家族から強く勧められれば(家族によっては患者に頼み込むことさえある)治療を受諾するのだ。また、病院で積極的治療が不可能と告げられた患者や家族が、怪しげな免疫療法などに多額の金をつぎ込むことも珍しくない。

悪い結果や苦しい選択でいかに満足できるように心を保つか。難しい問題だが、結局はひとりひとりが死と向き合う心を持つしかないだろう。医療者も、辛いコミュニケーションを避けたいがために、安易に希望を持たせるようなことを言うことがある。厳に慎むべきだろう。また、患者の弱みにつけ込むような怪しげな高額治療は、もっと厳しく取り締まるべきだろう。

なお、研究の結果、良い終末期を迎えるための要因として重要なのは、「精神的苦痛がない」ことと、「家族が自分の希望を知っている」ことだと明らかになったそうだ。家族に自分の希望を伝えることは、たとえ家族が死の話を嫌がって避けたとしても、何とか実行することができる。精神的苦痛を無くすことのほうは、かなり前もって準備しておかねば実現できないだろう。

「こころっコロ」の小学6年生対象の「いのちの教室」では、生徒が「早く死ねる自殺法は?」「人を殺したときはどんな感じか?」などと質問してくることがあるという。彼らは、そこで「なぜそんなことを訊くの?」と質問を封じてしまってはいけないと言う。もちろんその質問に答えることは困難だ。しかし、子どもがそのような疑問を持ったことは事実なのだし、質問できる環境があったことは喜ばしい。子どもが求めているのは「回答」ではなく「反応」である。「難しい問題だね。一緒に考えよう」と「反応する」ことが大事だと訴えていた。彼らのテイクホームメッセージは「答えられなくても、応える」であった。

先日、臨床死生学・倫理学研究会に参加し、「こころっコロ」共同代表の窪田祥吾と林伸宇の話を聞いた。「こころっコロ」は、小学生、大学生、一般市民などを対象に「いのちの教室」を開催している団体で、窪田も林も医師である。窪田は小児科医だが、国際協力機構(JAICA)に深く関わっており、海外での仕事が多いようだ。林は大森赤十字病院の内科医である。現在、「こころっコロ」のホームページ(http://cocoroccoro.org/)は調子が悪いとのことで、ホームページにアクセスすると別サイト(http://flavors.me/cocoroccoro)に転送される。主な活動報告はFacebookサイト(https://www.facebook.com/Cocoroccoro)でおこなっているようだ。

ホームページによれば、彼らは医師として患者の最期を看取るうちに、「もっと幸せな最期を過ごせなかっただろうか」と感じることがあった。「もっと幸せ」であるためには医療だけが充実してもだめで、生と死についての考えや態度が重要だと気付き、「生と死の尊さを感じ、『生きていること』に感謝をする、そんな機会を一緒に持つために」活動を始めたという。小学2年生の教室では、クイズや実験で体の仕組みや命について学習する。小学6年生の教室では、「非常に苦しいが、唯一の(不確実な)治療法」を選択すべきかどうかといった臨床倫理の問題を取り上げるという。医学生に対する授業では、告知を受ける患者、家族、告知する側の医療者の役を割り振って、厳しい予後告知のロールプレイをおこない、患者のサポートに必要な医療者の資質について考える。

先日のブログにも書いたが、彼らの授業を受けた学生が研修医となり、実際の患者を相手にするようになったところ、「自分の死も考えたことがないのに、死に臨む他人を支援することはできない」とのフィードバックがあり、それまでの告知やサポートのロールプレイをやめ、自分の死について考えるワークショップにするのだそうだ。

当日もそのさいに使用するシートの雛形が配布された。「あなたはどのように最期の時間を過ごしたいですか?」と「実際には、あなたはどのように最期の時間を過ごすと思いますか?」の2つの部分からなるシートで、死亡の日時、原因、予後を知っていたか、何をして過ごし、何を手放し、何を大切にするようになったか、死に立ち会った人の有無などを記入する形式になっている。

参加者の答えはさまざまだった。私は75歳ぐらいで死ぬだろうと思っているのでそう書いたが、100歳まで生きるつもりの人もいた。また、最期を迎えたときに「自分の子育ての答えが出る」と述べた参加者がいたが、会場が大いに湧いた。

高齢者に語学を教えている参加者がいた。研究会に参加するようになり、受講生にエンディングノートをつけることを勧めるようになった。ところが、受講生に癌の告知を受けた人が複数出て、いずれも告知を受けたとたんに「生きたい」という思いが強くなり、エンディングノートを書きなおさざるをえなくなったという。人は、何かを失いかけてはじめてその有難味を知るというのがよくわかる。私は果たしてどうだろう。自分の心がどう反応するのか、非常に興味深い。

岩田健太郎が「週刊医学界新聞」に連載している「ジェネシャリスト宣言」が面白い。ジェネシャリストというのは、岩田の造語で、「ジェネラリストか,スペシャリストかの二元論を乗り越えた新概念」だそうだ。彼がこの連載で述べているのは、二元論を排除することがいかに重要かということだ。今回、2014年01月20日付けの「週刊医学界新聞」第3060号は、その第7回で『なぜ、二元論が問題なのか―その5 ワークとライフ』であった(http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03060_02)
。なお、岩田は神戸大学の感染症治療学教授である。
ワーク・ライフ・バランスという言葉がよく聞かれるようになった。ぼくも(理由はよくわからないけれど)、「イクメンの」なんとかとか「女性医師の」なんとかという会合に呼ばれて、話をする機会が増えている。でも、あれって本当に変だなあ。会合が開かれるのはほぼ間違いなく夜か週末である。そういう会が開かれなければ、家事・育児にもっと時間を割けるというのに。矛盾してません? 午後5時以降と週末の会合を減らせば、日本はもっともっと働きやすい国になります。

この出だしからして面白いと思った。私はそのような会合にあまり出たことがないのだが、そういえば先日私の勤務先で開かれた女性医師のワークライフバランスに関する講演会は17:00からだった。他の病院での話だが、女性医師の会を行うのに毎回土曜日に、原則子連れで行っている事例もある。子連れなら終末でもいいかもしれない。

岩田は、ワークとライフという二元論を認めない。仕事が充実していなければ生活が面白くないし、生活がうまく行っていなければ仕事にも身が入らないというわけだ。仕事と生活が両立しないような職場には人が集まらない。現在の医療における「立ち去り型サボタージュ」もそんなところからきているのではないかと言う。人が集まる職場を作るには、多様な人を受け入れる組織にしなければならないというのが彼の考えだ。当直ができないからといって文句を言っていたのでは、人は辞めてしまう。人が減ればますます仕事がきつくなり、辞める人が増える。当直ができないなら昼間の仕事に専念してもらえばいい。しかし、岩田がそう考えるようになったのは、後年のことだと言う。
白状すると、ぼく自身、昔は「馬鹿野郎,医者なめんな」と思っていた。昼夜関係なく、週末も休みを取らず、盆も正月も忘れて患者に尽くすのが医者の本分だと思い込んでいた。そのくらいの覚悟がなければ、医者なんて職業を選ぶんじゃない、とも鼻息荒く主張していた。いや、まったくお恥ずかしい。若気の至りである。

年を経て、岩田もまるくなったのだ。
若くても体力的にハンディキャップがある人も当然いるし,家庭の事情(育児や介護など)のある人だっているだろう。人は「いろいろな事情」を抱えているものだ。その「いろいろな事情」を馬鹿野郎と最初から排除してしまう,そんな狭量な人物が,多様な患者にまっとうに対応できるものだろうか。

さらに彼は、昔は言うことをきかない患者が苦手だったが、最近は考えが変わったと言う。言うことをきかないほうが、むしろ当たり前と思うようになったのだ。病人だって病気のことばかり考えているわけではない。彼は「医療のことばかり考えているのは,医療者くらいなものだ。たいていの人は、政治や、経済や、仕事や、家庭や、食事や、服や、恋人や、子どもや、親や、娯楽や、その他重要なこと、どうでもよいこと、いろいろ考えている」と書いているが、この考え方が患者に接する際には重要だろう。よく「治療に専念します」と言うが、現在は治らない疾患が多く、専念するのはそもそも誤りだろう。

医学書専門の出版社「医学書院」が発行する「週刊医学界新聞」という業界紙(?)がある。発行部数を知らないが、かなり広範囲に配布しているようなので、相当の部数を発行しているのだろう。自社の宣伝になるような記事が多いのだが、けっこう面白い。ほぼ毎号欠かさず目を通している。医学書院のホームページから無料で閲覧できるのも良い(http://www.igaku-shoin.co.jp/paperTop.do)。2014年01月20日付けの「週刊医学界新聞」第3060号の1面は、緩和ケアに携わる3名の医師による鼎談『がん治療医が今日からできる診断時からの緩和ケアとは』であった。日本緩和医療学会が、癌治療医が今日から実践できる「診断時からの緩和ケア」として「5つのアクション」を提示したことを受けての企画である。

5つのアクションの第1は、「患者・家族の心情への配慮とコミュニケーション」であるが、記事では、学生時代にコミュニケーションの教育や指導を受ける機会が少なく、皆が医師になってから自己流で取り組んでいるのではないかとの指摘があった。それはその通りであろうと思うが、コミュニケーションは、スキルを学んだからといって上達するものではない。患者の悩みや苦しみに対する心情的な理解が、前提として必要である。

日を改めて書こうと思うが、医学生に死について考えてもらう授業を行っている「こころっコロ」(http://flavors.me/cocoroccoro)という団体があり、そのメンバーたちの話を聞いた。彼らが言うには、医学生に患者の終末期を支える資質などを考えてもらう授業(ロールプレイ)などをやってきたが、「自分の死を考えた事も無いのに、他人の終末期を支えることはできない」という受講生からの指摘があり、自分の死を考えてもらう形に授業を変えるとのことだった。まさに、スキルの前の在り方を学ぶ授業になると思う。

患者への情報提供と意思決定支援について、医師患者間の「馴れ合い」の指摘があり、興味深かった。
木澤 最近思うのは,医師・患者間に、いわゆる「馴れ合い」が相当あるということです。日本の医師・患者関係は、欧米よりもずっと深いと思います。患者さんのことをよく知っているし、お互いを思い合っている。だからこそ、相手にとってつらいことを言えないし、患者さんもつらいとは言わない。「本当はこうなのに、この人(担当患者/主治医)には言えない」という関係になってしまう。だからこそ、第三者が入って意思決定支援をしないといけない。その役割は、いま厚労省が進めているように、看護師がしてくれるといいのかなと思います。

加藤 そうですね。患者さんの意思決定支援において中心的な役割を果たすのは主治医ですが、患者さんのなかには「本当は治療をやめたい」という本音が主治医の前では言えない人もいます。けれども、そういう気持ちを第三者に話し、それを主治医に伝えてもらうことはできる。「○○さんはなかなか本音を言えていないけれども、こういうふうに考えているようなので、今度はそういう切り口でお話を聞いてみてもらえないでしょうか」というようにです。

ちなみに、木澤(義之)は神戸大学大学院先端緩和医療学分野特命教授で、加藤(雅志)は国立がん研究センターがん医療支援研究部長である。確かに、このような「お互いに遠慮する気持ち」を持つことは多い。しかし、情報を提供することは医療者の義務である。遠慮する気持ちを大切にし、「遠慮しつつ話す」ことで、患者の心情も尊重され、配慮されることになるのではないか。話さないで済まそうと思うから「馴れ合い」になるのだろう。問題は「気持ち」ではなく、その気持ちに押し流されてしまうか、その気持ちを素直に抱えたまま行動するかの違いだろう。

私は、患者と話していてよく言いよどむ。腕を組んで「困りましたねェ」と嘆息することもある。左手の指の腹を右手の親指でこすりながら「あの、非常に申し上げにくいのですが…」と切り出すこともある。これはスキルでしているのではない。自分のこととして、あるいは私と相手のふたりのこととして悩んだり、苦しんだりしているから、そのような行動として出るだけなのだ。効果を期待しているわけでもなければ、どこかへ誘導しようとしているわけでもない。ただ一緒に悩んでいる。そのように体当たりで一緒に悩むには、少々勇気が必要であることは事実だ。

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