阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年12月

先日友人と話していたら、「かわいそうという言葉は『上から目線』だと言われた」と言う。友人は配偶者を癌で失い、生前ああすれば良かった、こうすれば良かった、と様々に後悔し、かわいそうなことをしたと思ったとのことだ。ところが別の友人(Bとしよう)にその話をしたところ、自分を上と見る物言いだと言われたのだ。

「かわいそうだ」というのは相手を下に見て、哀れみをかける言葉だということらしい。友人は、Bにそう言われて新しい見方を得ることができたようだった。しかし、私はこの話を聞いて、疑問に思った。本当に相手を見下した考え方なのだろうか。

Bがどのような意図で発言したのかは不明である。悲しんで後悔している人間に対して、慰めたり励ましたりするのではなく、逆に批判すること元気づけるという手法も存在する。ただし、批判の強さのコントロールが非常に重要で、強過ぎると却って相手の気持ちを痛めてしまう技法ではあるが。もしかしたらBはそのようなつもりで言ったのかも知れない。

だがもし本気で「上から目線」と思っているなら、賛成しかねる。勿論、「無意識の中では」と無意識を持ち出されてしまうと、何でもありになってしまうのだが、少なくとも「かわいそうだ」と思う気持ち全てを優越感に基づいたものとすることには賛成できない。例え自分がどんな立場にいたとしても(自分の方がもっとかわいそうな立場にいても)、「かわいそう」という気持ちは起こりうる。これは人間本来の感情であると思う。例えば自分がひどい失敗をした後で、同じような失敗を冒しそうな人を見て「かわいそうに、このままでは自分と同じだ」と思うことは、いかにもありそうだ。私は、「かわいそう」と思うことには何の問題もなく、問題があるとすれば、「かわいそう」という言葉自体、さらにそう思った後の振る舞いにあると思う。

かわいそうという言葉は哀れみをかける場合にも使われる。だから紛らわしいのだろう。私が、自然な感情だと言うのは、心の痛みや悲しみの共有のことである。相手の心の痛みを自分の心の痛みとして感じるという事だ。この心の動きも「かわいそう」と表されるが、哀れみではない。この心の働きは、嬉しそうな顔を見ていてこちらも嬉しくなったり、泣くのを見ていて思わずもらい泣きするような、本能的な共鳴だ。人間の心は、周囲の人の心に共鳴する。これは人間が社会的動物である事と密接に関連したことであると考えている。

心の傷ついた相手に対しては安易な同情や、相手の事情を考えない援助は禁物である。しかし「かわいそう」と思うと「何かできることをしてあげたい」と考えてしまう。これも自然ではあるが、「できること」が何もない場合も多い。そんな場合に安易に金銭を持ち出したり、安易に同情したりしてはならない。相手のことを却って傷つけることが多い。安易な行動に走れば「上から目線」と非難されるような結果になる。できないときはできないと認めて、自分の心に中に生まれた痛みをじっと味わうのが良い。

友人との話には、友人の甥が先天性の心臓病により2歳で亡くなった話も出た。葬儀の際の挨拶で、父親は「息子のことをかわいそうだと思わないでほしい。短い人生だったが充実して精一杯生きた」と述べたそうだ。

この世を去り難くして去る人々は、みな無念であろう。家族も無念である。そかしそれは哀れではない。「かわいそう」と言葉にするから違ってしまう。無念ではあろうが哀れではない。不用意に言葉にせず、人生の苦しみや悲しみに思いを致す気持ちを持ちつつ、相手に寄り添うという心構えを持つべきであると思う。
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このブログを1年続けることができた。それを可能にしてくれた周囲の人々、様々な事柄に感謝したい。自分で感謝しておきながらではあるが、事柄にまで感謝するのは極めて日本的な気がする。欧米人なら神に感謝するところだろう。しかし、私としては先ず人に感謝し、それから事に感謝したいのだ。来年からのブログは、読者に読みやすいブログを(徐々にではあるが)心掛けていく所存だ。

1年間ありがとうございました。

北原茂実『「病院」がトヨタを超える日―医療は日本を救う輸出産業になる!』(講談社+α新書)を読了した。北原は脳神経外科医で、東京都八王子市で病院を開設し、様々な意欲的取り組みに挑戦している。本書は、彼の取り組みについて、その基本となる考え方を説明した本だ。

北原は、患者家族が病院の業務にボランティアとして参加する仕組みを作り、ボランティアには院内で使用できる地域通貨を支払っている。彼の理想は、地域全体が医療に関わるようになる事で、そうすれば医療の質が担保され、医療費が抑制されると考えている。彼は、地域住民が医療を支えるのであれば、自分達が利用する医療の質を落とさないだろうと考える。また、医療費の多くの部分を人件費が占めるが、ボランティアが数多く参加すれば、人件費が抑制され、医療費が下がると考えている。

勿論、そのような仕組みは医療が自由化されていれば、よりうまく動く。従って彼は自由診療推進論者である。彼は、国民皆保険はもう役割を終えた制度であると断言する。国民皆保険を支える保険制度が円滑に機能するためには若年人口が多くなくてはならず、経済も右片上がりでなければならないからだ。現行の保険制度では、病気にかかりやすい老人の医療費を、病気にかかりにくい若年層が負担する事になるのだから、若年人口が減少してくると、制度的に破綻する。また、医療は進歩して行くものなので、医療費もそれに合わせて増大して行く。

現行の保険制度に対する彼の批判は、非常に厳しく、かつ説得力がある。現在の医療崩壊は保険制度の帰結であり、自由診療を解禁する事により、医療費は低減し、医療水準は上昇すると主張する。ただし、さらにその前提に国民の所得の正確な把握がある。
[所得を把握する仕組みを整備した上で]続いて、収入や資産に応じて自己負担する医療費の上限を3~5段階くらいで分けます。
これには十分なシュミレーションが必要になりますが、簡単にいえば「年収200万円以下の人は月額8000円まで」「年収5000万円以上の人は月額50万円まで」などといった分け方です。
それぞれ上限までは自己負担とし、上限を超えた部分は公金によって補填する。さらに、「全額自己負担するから最高の医療を」と希望する富裕層に対しては、その希望にかなうだけのサービスを提供して、全額自己負担してもらう。おそらく、これがもっともスマートなやり方でしょう。(117ページ)

ただし、彼は日本の保険制度がかつては優れたものであったことを認めている。日本が発展途上国であった時には優れた制度であったが、現在の日本にように成長期を過ぎた国には適合しないと主張するのだ。

そこで彼は、日本の優れた医療制度を輸出する事を提案している。現在、メディカルツーリズムの流行が注目され、国策としてメディカルツーリズムに力を入れる国々があるが、彼は医療の姿をゆがめる行為だと批判する。ある国がメディカルツーリズムで成功したとしても、その国の貧困層が医療の恩恵に与れる訳ではない。また日本がメディカルツーリズムに力を入れれば、顧客国の富裕層しか相手にせず、さらに相手国の資金を吸い上げることになる。彼は、医療制度を輸出した先の国の国民に医療の恩恵が行き渡るようにしなければならないと説く。

彼はその輸出先としてカンボジアを選択した。カンボジアはポル・ポト政権の時代に知識人の大量虐殺があり、内戦終結時の人口が1000万人であったのに、医師はたったの46人だったという(163ページ)。現在もその後遺症がひどく、医療は極端に立ち後れている。彼はそのカンボジアに医科大学と付属病院を建設するために奔走している。

彼の現状認識は正しいと感じるし、実践している事も注目に値する。しかし、彼の結論には一定の距離を置きたいと感じる。彼の構想があまりにも大胆だからだろうか。それとも、彼の以下のような発言に、違和感を感じるからだろうか。
実際、私は最高の医療を求める関東全域の中高年層(特に富裕層)が八王子に集まる時代が来ると確信していますし、その受け入れ態勢を一刻も早く整えようと努力しているところです。富裕層が集まれば地元に多くのお金を落としてくれるため、地域経済の活性化にもつながっていくでしょう。(58ページ)

これを読むと、衣の下の鎧が見えるような気がするのは、私自身の方の問題なのだろうか。

尾内康彦『患者トラブルを解決する「技術」―やさしいだけじゃ医療は守れない!』(日経BP社)についてもう一度書きたい。尾内はトラブル解決の能力を評価されて「なにわのトラブルバスター」と呼ばれる大阪府保険医協会の職員で、「日経ヘルスケア」に「病医院トラブル110番日記」を連載している。本書はその連載をもとに書き直した本である。

著者が「トラブルを迎え撃つ大原則」の第1に挙げるのが「解決できないトラブルはない」である。確かに、永遠に続くトラブルは無いとも言えるが、それでは「解決しないトラブルはない」でしかない。著者が言いたいのは、解決しようと思えば必ず解決できるということだ。トラブル解決のベテランから言われれば、こんなに心強い言葉はない。特に彼の場合、彼自身が現場に赴くことはなく、必ず電話で指示し、後刻報告を貰うという形にしているという。そうしなければ現場にトラブル解決の力が定着しないのだ。だからこそ、彼の著書を読むだけで、彼の相談者同様トラブル解決力が向上するのだと言う。

12項目の大原則に続いて、トラブルの本質を見極めるための9項目の着眼点が示される。着眼点1は「『本当の不満・要求』を見抜く」だ。患者が訴える不満は、患者が心に抱いている本当の不満とは異なる場合がある。著者が挙げたのは、訪問診療の看護師に対して、接遇に関する文句を言う夫だ。
院長には、「一度、患者の夫とじっくりと話をしてみたらどうか」とアドバイスした。実際に院長が患者の夫に連絡して面会し、「今日は心おきなく何でも話してください」と誘い水を向けたところ、予想外の答えが返ってきた。それは院長に対する不満だった。
「院長が診察に来ると、まるで子どもを諭すような口調でいつも話す。妻は診察後に『子ども扱いされた』と悲しそうだった」(125ページ)

院長は優しく接したつもりだったのだが、相手には「尊厳を傷つける行為」と受け止められたのだ。我々も、高齢の患者に親しく呼びかけるつもりで「おじいちゃん」と呼んではいけないと教えられたが、逆に言えば、昔はそのような呼びかけのほうが一般的だったのだろう。この院長もそのような一世代前の人間かも知れない。

着眼点2は「事実を正確にたどり客観視する」で、「事実」と「感情」を切り離して整理することの重要性が挙げられている。この項に少し面白い話があった。
少し話がそれるが、ある販売コンサルタントから、「最近の若者の中には、客の表情の変化を読み取ることができない人が多い」という話を聞いた。これは物販点での話だが、お客が店員の接客の悪さにむっとして帰っていったのを見ていた店長が、その店員を呼んで「今、お客さん、怒っていたけど何があった」と聞くと、「怒ってましたぁ? 別に普通だったと思いますけど」という答えが返ってきて、ショックを受けたという。(133ページ)

著者は、メールによるコミュニケーションを中心として育ったためという説を紹介している。この販売コンサルタントは若い販売員を教育する際に必ず顔の表情を読む訓練を行なうのだそうだ。

着眼点6は「相手の人間関係を探る」で、家族内の緊張関係がトラブルの原因となった事例を紹介している。寝たきりの患者が便秘症のため、介護している嫁が週に1回下剤を使って排便させていた。その患者が衰弱気味になり、息子夫婦が医院に連れてきた。診療に当たったX医師は、「う~ん。その下剤は、おばあちゃんにはきついなあ。もう少し効き目の緩い薬を使ったほうがいいから別の薬に変更しよう。それでこまめに排便させたら。世話は今より大変になるだろうけどな」と言った。ところが、その夕方、院長に息子の嫁から抗議の電話があった。「X先生は、母の目の前で私を侮辱した。『何回も排便の世話をするのが嫌だから、1回で済ますことができるように強い薬を使っているんやろ』って。そんなつもりは全くないのに」と言うのである。
このケースでも、奥さんは介護の責任を負わされ、精いっぱい頑張ってきたはずだ。その奥さんが最も気にしているのは、おそらく義母からどう思われているかということではないだろうか。
「本当は介護を嫌がっている」と疑われたらどうしようと、奥さんは普段から気が気ではない。そのデリケートなポイントにX医師のややぶっきらぼうな発言が突き刺さったというのが、おそらくトラブルの原因だ。(165ページ)

とかく人付き合いは難しい。

尾内康彦『患者トラブルを解決する「技術」―やさしいだけじゃ医療は守れない!』(日経BP社)を読了した。尾内は大阪府保険医協会の職員で、本来事務職であり、現在は会員の入退会、事業の継承、開院対策などの組織管理を担当している。ところが以前、担当する業務に支障のない範囲でトラブル相談に乗るように命ぜられ、現在では「なにわのトラブルバスター」と呼ばれるほどになった。本書は「日経ヘルスケア」に著者が連載している「病医院トラブル110番日記」をもとに書き直した本である。

彼は最近トラブルが増えているという。
振り返ってみると、相談件数が増えはじめたのは1990年代の後半からで、特に多くなったのが2005年以降だ。当時の小泉純一郎首相による〝改革〟で医療費にメスが入り、診療報酬の大幅なマイナス改定が行われたころから件数が増え、トラブルの中身も悪質化しているように感じる。(1ページ「プロローグ」)

彼はトラブル増加の背景を4項目に整理している(30ページから)。第1は社会情勢の変化である。経済のグローバル化が一気に進み、市場原理万能主義が力を得る一方で、年金や医療などセーフティネットの諸制度が次々と切り崩され、「自己責任」という名の下に「個人の安心」が放置されるようになった。世の中のリスクが増大し、我が身を守るためには強く要求したほうが良いという考えが広まったためだとする。

第2は医療費抑制策などの外部環境だ。医療費が抑制されれば自己負担が増える。患者は当然費用対効果を重視し、出費に見合う効果を求めるようになる。第3は医療従事者の意識変化だ。
[一般サービス業における接遇向上の]潮流はもちろん医療界にも波及し、「接遇研修」という形で「患者満足度を上げる」ことに取り組む医療機関が増えた。それはそれで悪いことではない。
だが、患者満足度を上げても問題患者が減るとは限らない。接遇研修などで患者を「患者様」として迎えるように教育された医療機関は、モンスターペイシェントの格好のターゲットとなっている。問題患者がつけあがりやすい環境を、医療機関のほうで用意している形になってしまっているのだ。(31ページ)

第4として、彼は「患者側の地域医療を守るという意識の欠如」を挙げる。医療は限りのある公共財だという意識が患者側に欠如しているように思えるという。これは私も市民講座などで事あるごとに訴えてきたことだ。

本書は、トラブルを迎え撃つ大原則を12項目に、着眼点を9項目に、解決の「技術」を10項目に整理して、31件の事例とともに、分かり易く具体的に説明している。そのエッセンスとも言える最重要項目は冒頭に示されている。
最初に、とても大事なことを言っておきたい。
トラブル解決のための3要素は、「先見性」「勇気」「現場力」であることを、まず肝に銘じてほしい。
実はこの3要素は、クラウゼヴィッツの著書『戦争論』の指揮官の心得をベースに、早稲田大学ビジネススクール教授の内田和成さんが、不確実性の今の時代を生き抜くための経営者の資質としてあげているものだ(『異業種競争戦略』日本経済新聞出版社)。
私はこれまで、「先を読む力」「クソ度胸」「場数の多さ」をトラブル解決に必要な資質としてあげてきたが、言わんとするところは全く同じだ。さすがビジネススクールの先生だけあって、「先見性」「勇気」「現場力」と言ったほうが、言葉としてスマートかもしれない。(4ページ「プロローグ」)

本書はプロローグの後に目次がある。パラパラとめくって目次の後から読み始めた人がいれば、大事な情報を逃していることになる。

クラウゼヴィッツにしろ、孫子にしろ、現代でも非常に高い価値を維持している。「名著」と言われるだけある。実を言うと、『戦争論』は高校生の頃に購入したが、まだ読んでいない。読むべき本のリストに入れよう。

いささか古い記事だが、日経ビジネスオンラインの「キーパーソンに聞く」2013年9月13日配信の『40歳過ぎのランニングは「元気の浪費」―「患者リテラシー」の有無で健康寿命は決まる』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130910/253245/)について書きたい。インタビューの相手は岡本裕、聴き手は日経ビジネス副編集長の秋山知子である。岡本は、癌患者同士の情報交換や治療へのアドバイスを行うウェブサイト「e-クリニック」を12年前から運営している医師である。

岡本は、病気の治療には患者が自立し、何が正しく何が必要かを見極める力を持つことが一番大事であるとし、「医者というのは本来、活用するための存在」だと言う。全く賛成である。さらに彼は生活習慣病を治療する医師を批判する。
高血圧とか高脂血症、糖尿病など、いわゆる生活習慣病は本来は医者がいなくても自分で治せるんです。なのに、ずっと途切れずに通院してくれて、薬だの検査だのをずっと続けてくれるから医者にとっては実においしい患者なんです。
薬というのは一時の症状を抑え込むにはよいけど、それは病気が治ってるわけではないです。根本的な解決ではなく、問題を先延ばししてるだけ。本来、高血圧の薬をずっと飲みなさいと医者から言われた時に、違和感を感じるというのが患者の自立ということだと思います。なんかおかしいなと。

確かにその通りだろうが、岡本がそのような医者を「ダメ医者」と批判し、治療を受けている患者達を「おいしい患者」と批判するのを読むと、少し医師が可哀想になる。

岡本の考えは、基本的には正しい。例えば糖質制限ダイエットを批判し、人が炭水化物を摂取しない方が良いのであれば、そのように進化したはずだが、現実はそうなっていないと説く。また、記事の標題にあるように、40歳過ぎにはランニングは勧められないと言う。
自然界で自ら好き好んで走る動物は人間以外いないんです。それは、走るということが有害だからです。
もちろん敵から逃げるとか、獲物を追う時は走りますが、あくまで短時間です。2時間も走っている動物はいない。

夢中になってタイムトライアルをするなど、無理をするからいけないので、息が切れない程度のジョギングは良いとも言うが、「走る人は寿命が短いというデータも実際あります。走ったら元気になるんじゃなくて、元気な人が走ってるだけ。元気を浪費してるだけ」とも言う。

人類は石器時代の暮らしに適応している。これはほとんどの研究者に認められている「事実」だ。食事も生活習慣も、石器時代の暮らしが一番うまく行くように、体も心も機能するようになっている。では石器時代の暮らしが一番良いのかというと、そうではない。石器時代の乏しく栄養価の低い食事で効率良く生きられるようになってはいるが、いわば「無理矢理生きていた」のだ。もっと栄養価の高いものを食べれば、もっと余裕を持って生きられた。ただしそれが程度問題であるということが大事なのだ。10倍栄養価が高いものを摂取すれば10倍健康になるかというとそうではない。喩えてみれば、10キログラムの重りを使ってトレーニングしたら効果があったので、10倍の100キログラムの重りでトレーニングすると10倍の効果が得られるのではないかと考えるようなものだ。却って体を痛めてしまう可能性の方が高い。

また、石器時代の成人の平均寿命は30歳ほどであっただろう(人類全体の平均寿命は乳幼児死亡率が高いのでもっと低かったと考えられる)。となれば、それ以降の人生は石器時代の人類にとって「存在しない」ものだったので、「石器時代への適応」には縛られないものになる。当然のことながら、30歳以降の体は、30歳以前の体の延長であるから、多くの性質を保持しているのではあるが、単純に石器時代を基準として考えることができなくなるのだ。

従って、中高年に発症する高血圧や糖尿病は、自然に沿った暮らしをするだけで治癒するとは言えないことになる。場合によっては薬でコントロールせざるを得ないこともあるだろう。

また、どんなときにも楽をしたいのが人間だ。粗食が体に良いと分かっていても、おいしいものが手に入るのにそれをこらえることなど、できない人もいるだろう。そういう人のことも治療しなければならないのが医療の宿命である。

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