阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年10月

大島堅一『原発のコスト―エネルギー転換への視点』(岩波新書)を読了した。奥付によれば、大島は立命館大学の国際関係学部教授で、環境経済学や環境・エネルギー政策論を専攻している。本書は2011年12月20日に第1刷が発行されており、約2年前の本ということになるが、その後事態は大きく進展しており(後退した部分もあれば、全く変化が無い事態が継続しているという意味での「進展」の場合もある)、本書の内容が現状にそのまま当てはまる訳ではない。しかし、福島原発事故後の早期にこれだけの研究がまとめられ、提言がなされていることの意味は大きいと感じる。

大島の本書にかける意気込みは「あとがき」に良く現れている。
福島第一原発事故は、原発を15基(1基廃炉中)かかえる福井県出身の私にとって、衝撃的な出来事でした。これまで、原子力政策を政治経済学的立場から研究してきましたが、原子力政策の異常な推進体制をしっかり国民に伝えきれたかどうかを振り返り、心から反省しました。

一般書を書こうと決意したのはこのためです。注をつけず、大学入学したての一年生が読んでも理解できるように努力しました。これまでの歴史上の大きな変革は、常に若者によって先導されました。私は、若者に賭けたいと思います。(「あとがき」219ページ)

この後で大島は、原子力技術の必要性は却って高まっており、事故処理、廃炉、除染、放射性廃棄物処理・処分には原子力技術者・研究者の総力を結集してあたる必要があるとして、若い技術者・研究者が多数でてくることを願うとしている。

本書は、目次を見ても明らかなように、また「あとがき」で大島自身が述べているように、原発政策に対する批判であり、脱原発可能性の経済的根拠を提示するものである。原発政策に対する批判点は大きく分けて二つある。一つは政策決定が原発による利益に強い関連をもったごく一部の人達によって行われてきたこと、もう一つは国民に対して偏った情報提供が行われてきたことである。悪く言い換えれば、甘い汁に群がる者達が勝手にものごとを進め、国民に対しては嘘をついてきたということになる。

本書の中心的テーマである原発のコスト計算は第3章で詳述される。各電源ごとの電力のコストとして最も広く知られているのは、2010年に政府が発表した「エネルギー白書」の表だろう。この数値が取りまとめられたのは2004年だそうだ。それによれば、毎キロワット時に換算して、太陽光:49円、風力:10~14円、水力:8~13円、火力:7~8円、原子力:5~6円、地熱:8~22円と、原子力が最も安い。しかし、このコスト算定に問題があると大島は指摘する。

この発電コストは、電力会社10社が構成する電気事業連合会(電事連)が国の委員会に提出したものである。モデルプラントを想定して、一定の前提の下に発電コストを計算している。大島は、日本の現状に鑑みて、前提としている運転年数40年、設備利用率80%という数値は大き過ぎると指摘する。実際に電事連が提出した報告書では、設備利用率や運転期間、為替レート等のパラメータを変化させて各電源のコストがどうなるかをグラフで示しており、条件によっては石炭やLNG(液化天然ガス)よりも原子力の方が高くなることが示されている。原子力が一番安くなる条件を恣意的に選んで公表したことが疑われる。

さらに大島は、このような電力会社が直接負担するコスト(私的コスト)の他に社会が全体として支払っている「社会的コスト」を考えなければならないと主張する。この分野は大島の専門分野だ。
発電コストを考える場合、一体何を含めるべきかという点が最も重要である。発電コストはまず基本的に三つに分けて考えられる。

第一に、「発電事業に直接要するコスト」である。これは、減価償却費(資本費)、燃料費、保守費などからなる。燃料費(水力は不要である)以外は、基本的に水力、火力、原子力のいずれの発電方法もこのコストを必要とする。これは先の「私的コスト」に相当する。

第二に、政策的誘導を行う場合の追加的コストである。ここではこれを「政策コスト」とよぶことにする。これは、(1)技術開発コストと、(2)立地対策コストからなっている。[中略]

以上に加えて、第三に、「環境コスト」が含まれなければならない。環境コストとは、環境破壊を通じて第三者が負担しているコストのことである。例えば火力発電についていえば、地球温暖化対策費用や被害、原子力発電について言えば、第2章で述べたように、事故被害と損害賠償費用、事故収束・廃炉費用、原状回復費用、行政費用である。(98ページから101ページ)

立地対策コストとしては、原発を誘致した自治体には電源三法により莫大な交付金がバラまかれている事は周知の事実である。技術開発コストとしては、開発が頓挫している高速増殖炉に莫大な資金が注ぎ込まれている事も良く知られている。大島の試算の結果は、原子力:10.25円、火力:9.91円、水力:7.19円(112ページ、表3-1)で、原子力が最も高かった。しかも、これは事故対応のコストを除いた計算である。

原子力発電については、原発建設ありきで恣意的に議論が進められてきたと感じる。現在、原発の再稼働が部分的にせよ行なわれ、脱原発の動きは封じ込められようとしている。そこに感じられるのは、あらかじめ決めてある到達点を隠し、議論を操作してまるで公正な討議の結果その到達点に達したかのように見せようとする、不誠実な態度だ。原発だけではない。TPPに関しても、機密保護法に関しても、重要な点の議論は避け、とにかく自分の思い通りに事を進めようとする態度が感じられてならない。

日経ビジネスオンラインの2013年10月22日号「ニュースを斬る」に山根小雪が寄稿していた『世界で広がる「再エネバッシング」の裏側―日本は先行ドイツを見習うべきか』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131021/254855/)について書きたい。実は大島堅一『原発のコスト』(岩波新書)を読了したのだが、いかんせん紙メディアの情報は古い。そこでこちらを先に取り上げることにした。『原発のコスト』は明日取り上げるつもりだ。

福島原発事故のすぐ後に、ドイツは2022年までに脱原発を行うことを決めた。当時、ドイツが日本より素早く反応したことに驚いたことを記憶している。実は、ドイツではエネルギー戦略上の観点から電力供給源の分散化を既に進めており、2000年より再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)を導入していたのだった。

10月15日、ドイツの送電会社4社は、毎年の恒例行事となった、翌年(2014年)のFITにともなうサーチャージ(賦課金)の金額発表を行なった。これに先立つ10月11日に、欧州の大手電力10社のCEO(最高経営責任者)揃って会見を開き「FITは廃止すべき」と訴えたそうだ。山根によれば、9月末にはドイツの電力会社などで構成する独エネルギー水道事業者連盟(BDEW)も、FITによる負担増を指摘する声明を出している。このように、ドイツ国内に電力料金の引き上げに繋がるFITに対して批判の声があるのは事実だが、欧州の電力会社がこぞってFIT廃止を求めているからといって、制度そのものが失敗かと言えばそうではない、と山根は述べる。
2005年のドイツの電力市場は、大手電力4社が約80%のシェアを占めていた。ところが、2011年にはこれが約70%にまで下落しているのだ。シェアを奪ったのは、再エネを手かげる事業者たちだ。1社ごとの規模は決して大きくないが、FITの追い風に乗って電力市場での存在感を高めつつある。

ドイツはFITの下、再エネは一定期間、固定価格で電力会社が買い取ることが義務付けられている。ただし、買い取りに伴うコストは再エネ賦課金として広く国民が負担する。電力会社が再エネに投資すれば、新興の発電事業者と同じく、再エネによる収益を得ることができる。ところが、大手電力会社の再エネ投資はさして増えることなく、現在に至っている。

大手電力会社は既存の発電設備の稼働率を高めて収益を上げることを第一に考えていたのだ。しかし、国が脱原発を決めた以上、原発を諦めねばならない。さらに火力発電についても、世界銀行を筆頭に欧米の政府系金融機関が、二酸化炭素排出量の大きい石炭火力発電所への融資を停止または削減する方針を打ち出し始めるなど、逆風が吹いている。大手電力会社の収益は悪化しており、財政を圧迫するFITの見直しや廃止を求めているということのようだ。

一方で、ドイツ国民は経済的負担があっても再生エネルギーを支持している。
ドイツのエネルギー議論が成熟していると感じさせられるのは、電力会社がFITへの反発を強める反面、多くの国民は再エネ導入を推進することに理解を示していることだ。たとえば、ドイツの消費者団体VZBVが今年実施した調査では、82%のドイツ人が再エネに舵を斬ったエネルギー政策は正しいと答えている。先月のドイツ連邦議会選挙でも、主要政党はいずれも再エネ推進を表明した。

2000年には6%だったドイツの再生エネルギーは、現在では25%を超え、2020年には35%に到達すると予想される。さらに、再生エネルギーがもたらす産業振興や雇用効果により既に35万人以上の雇用が生まれているとしている。日本では安全保障の観点からの再生エネルギーに対する議論があまり聞かれず、FITを評価しない人も多いという調査結果がある(日本経済新聞電子版のアンケートでは、回答者の3分の2が「FITを評価しない」と答えている)。しかし、ドイツの電力会社がFITを批判しているからと言って、そのまま日本に当てはめる訳には行かない。
日本のFITは始まったばかりで、再エネ賦課金もドイツに比べると微々たるものだ。しかも、エネルギー安全保障の観点からは、日本はドイツよりもはるかに分が悪い。

ドイツは巨大な欧州の送電網によってフランスなどの近隣国から、不足があれば電力を購入することができる。島国で隣国との送電線を持たない日本に比べて、エネルギー確保の選択肢は多い。そのドイツですら、必死で再エネを増やしてきたのだ。

日本では再エネの占める割合はわずかに1.6%(2012年度)で、先進国の中では最低レベルだ。原発をやめて再エネで代替するといった極端な議論に終始するのではなく、エネルギーを確保するための選択肢を増やすことを考えるべき時期だ。

日本もFITによって再エネが現在の約1.6%から、10%、15%と増えてきて初めて、ドイツと同列に条件を議論する必要が出てくる。

山根は最後に太陽電池に偏る傾向に警鐘を鳴らし、「バランスの取れたエネルギーポートフォリオ」を作成することが大事だと述べている。安全保障としての再生エネルギーの役割について認識を深める必要があると感じた。

上野正彦『「死体」を読む』(新潮文庫)の後半について書きたい。上野は文京区の監察医務院で死体の検案と行政解剖に30年かかわり、最後は監察医務院の院長を務めた法医学者である。本書は小説を法医学的な観点から見直すという試みである。

第4章は「日本史に見る毒の系譜」として、松本清張『日本の黒い霧』を取り上げつつ、日本における毒殺の歴史が語られる。中でも鍋島藩の「罅(ひび)青磁」の話が面白い。
[罅青磁は]中国から移住した陶工の手になるもので「毒を消す」食器として、宋の皇帝が使用していた高級な秘器であった。
罅が入ったくすんだ緑色の茶碗に湯を入れ、しばらく放置すると毒は罅の中に吸収され、解毒されるという。それを知った藩主は、この特殊な製造法を独占しようと、秘窯の里(ひようのさと)をつくり、関所を設けて出入りを厳重にした。さらにその施設を隠蔽するため、囮として派手な有田の赤絵を前面に出し、生産したのだともいわれている。
現在の有田焼、伊万里焼きがそれである。最高の材料を用い、独特の技法で染付、色絵、青磁等を焼き、その華麗な美しさは色鍋島とたたえられ、芸術的評価も高く、広く海外にも輸出され、幕府や朝廷への献上品、贈答用にも使われたのである。(149ページ)

鍋島家は歴史的な因縁から龍造寺家の恨みを買っており、暗殺される危険があったので、毒には注意を払っていたとのことだ。罅青磁に毒消しの効果があるかどうかはともかく、その隠蔽のために世界的に評価されるような素晴らしい焼き物を生み出したのだとしたら、陶工達の底力はたいしたものだ。現在でも伊万里の一番奥にある窯で罅青磁が作られていると言う。

この章では帝銀事件と和歌山毒物カレー事件も取り上げられる。
[毒物カレー事件では]混入されていた毒物の不純物をスプリング8という巨大な最先端装置で細かく分析した結果、犯人が家庭に保存していた砒素と、カレーに混入されていた砒素、そして死体から検出された砒素が、その含有していた不純物の成分まで一致して同一と判定された。三つの点が線となってつながり、科学的に毒物の動きをとらえることができたので、犯人の特定に至ったのである。(167ページ)

帝銀事件では青酸が使われたので、分析の手法は異なるだろうが、科学捜査が進歩した現代であれば犯人の特定はもっと容易だっただろう。上野は現代の科学力をもってすれば「疑問を残すことなく事件は解決したのではないだろうか」と残念がる。

第5章は下山事件である。この事件は、当時の国鉄総裁だった下山定則が1949年7月6日の0時過ぎに常磐線綾瀬駅付近の線路上で轢断死体として発見された事件である。当初から自殺説と他殺説が対立したが、上野は轢断面に生活反応がない(生きているときに受けた傷には必ず創の周囲に毛細血管からの出血があり、これを生活反応と呼ぶ)ことは動かせない事実だとして他殺説を採る。
しかし、他殺だとしても、死因が明確に特定できないなど、他殺説でこの事件をすべて説明することもできない。結論に明確さがかけることも否定できないのである。死者は死亡前後の状況を一番よく知っている。ただ言葉を発しないだけである。検死、解剖をする法医学者は、丹念に死体観察をし、もの言わぬ死者が語り出す真実を聞きとり、その人の人権を擁護するのが仕事である。
生きている人の言葉には嘘がある。しかし死者は決して嘘はいわない。(221ページから222ページ)

他殺と結論しておきながらここで少しトーンを下げるのは、自殺説を強硬に主張した先輩法医学者に配慮してのことであろうが、言葉の裏には生活反応の欠如に同意しない自殺論者の姿勢への厳しい非難を感じる。

最終章は中国の宋慈という刑吏が1247年に著した『洗冤録』を取り上げる。これは1冊にまとまった法医学書としては最初のものらしい。非常に古い本であるが、毒殺を判定するために死体の口に米を詰め込み、後でその米をニワトリに食べさせて死ぬかどうかで判定するなど、現在でも応用できる方法が書いてある。上野は死体の口腔内を脱脂綿で拭き、その脱脂綿をメダカの入ったコップに入れたり、アリなどを載せたりして「生物テスト」をしたそうだ(151ページ)。

『洗冤録』の序文には「誤りはすべて経験が乏しいために生じたものである」と述べられているという(249ページ)。この言葉を謙虚に受け止めたい。

上野正彦『「死体」を読む』(新潮文庫)を読了した。上野は、東京都文京区の監察医務院で、23区内で発生した死体の検案と行政解剖に30年かかわってきた法医学者である。最後は監察医務院の院長を務めている。以前に出版された『死体は語る』は30年にわたる監察医としての経験談であったが、本書は小説を法医学的な観点から見直すという試みである。

彼はこの試みについて、以前は避けてきたものであったが、森村誠一の『精神分析殺人事件』の解説を断りきれず書いたことがきっかけとなって行う気持ちになったという。
[当初、森村の著書の解説を断った理由は、自分が門外漢であることの他にもあった。]私が文芸の専門家でないこと以上に、法医学の専門家であるものが、その立場から小説を読み批評することは、野暮ではないかと思ったのである。[中略]
それ以前にも、「推理小説を先生の専門である法医学の眼で読み、矛盾点を指摘して欲しい。それをまとめて本にすれば、ベストセラー間違いなしだ。」と何度か依頼されたことがある。
しかし私はそれをことごとく断ってきた。推理小説はフィクションである。少しぐらい現実離れをした飛躍があった方がおもしろい。目くじらを立てて、学問的におかしいなどと指摘するのは、私の性にも合わない。
だが、森村さんの文庫に解説を書いてから、そのような批判をするのではなく、小説と法医学の差異について書いたり、一致点を述べたりするのであれば、読者にとっても法医学の知識がわかりやすく解説できて、小説そのものも、よりおもしろく読めるのではないか。そう考えるようになった。(24ページから25ページ)

序章では森村誠一『精神分析殺人事件』と横溝正史『犬神家の一族』が扱われるが、関連した事件の解説も行われる。森村作品では、首吊り自殺に見せかけた老女の殺人事件と、大正年間のマゾヒズム事件が取り上げられるし、横溝作品ではジョンベネちゃん事件、大韓航空機爆破事件、酒鬼薔薇事件が取り上げられる。いずれも主要な法医学的要点だけで、詳細な分析は無いが、まるで殺人事件の事典のようだ。

森村作品で同一犯が3通りの方法で被害者達を殺害していることに対し、上野が「泥棒にしろ、殺人にしろ、人間には癖というか習性というものがある。行動を起こすときは一定のパターンをくりかえしてしまうものである」と指摘して、複数犯を示唆しているのがおかしかった。

第1章では芥川『藪の中』が分析される。この犯人探しが面白かった。小説の描写は法医学的見地から読んでも寸分の矛盾も無いと上野は驚く。私も、この小説が様々に解釈されうる懐の深さをもったものであることに驚いた。誰が犯人かについては正解が無いのであるから、上野の分析はあくまでも「上野説」ということになる。それはそれとして、法医学者の緻密な分析に耐えられる小説であることに、あらためて感服した。この小説は1922年の発表であるから、芥川が29歳の時の作品である。29歳の我が身を振り返れば、また芥川に感服する。第1章の後に『藪の中』が採録してあり、併せて読むことができる。

第2章はポーの『マリー・ロジェエの怪事件』である。これは米国で実際にあった事件を、場所の設定をフランスに変えて書いたものだという。上野は溺死を専門に研究していたそうだが、その上野の眼から見てもポーの記述は正確で、ポーは溺死に関してかなり詳しい知識を持っていたと断じている。19世紀半ばの作品であり、日本で言えば江戸時代末期の作品であることを考えると、ポーのすごさが分かる。

第3章は谷崎潤一郎『鍵』で、性交死が取り扱われる。上野は性交死について論文をまとめたことがあるという。1976年には238例について「性交死の実態」として医学雑誌に発表している。世界中から問い合わせが殺到したそうだ。
こうした研究は世界で唯一のものである。なぜならば性交死は、事柄の性質上事情を明らかにしえないことが多く、個別の事例は時折報告されてはいるが、いずれも体験した医師個人の数例の解剖所見についてのものでしかなかった。(118ページ)

238例というのがいかに突出した数の多さであるかが知れる。その中で男性202例、女性36例であった。男性は心臓死が多いが、女性は脳血管疾患、特にクモ膜下出血が多い。年齢は30代が最も多い。
[一般論として]死亡率は寒い季節に高く、暑い季節には減少する傾向がある。しかし性交死はその傾向にはあまり左右されず、春に多いのである。次いで夏、冬の順で秋が最も少なかった。なんとなく人間臭さを感ずるのである。(124ページ)

この章は、逸話のバラエティーがことのほか豊富で、楽しめる章だった。最後に谷崎と詩人の佐藤春夫に関する逸話(夫人譲渡事件)があり、『鍵』との関連が示唆されていて興味深い。

「わかりやすいプロジェクト 国会事故調編」(http://naiic.net/)の存在を知り、ホームページで動画を視聴した。このプロジェクトは2012年9月に、国会事故調報告書作成に従事した若手プロ集団と、大学生、社会人の18名が「わかりやすい国会事故調プロジェクト」として発足したもので、その後、2013年6月に「わかりやすいプロジェクト 国会事故調編」と団体名を改め、8名の事務局メンバーを中心に活動している(ホームページ「About Us」より)。

プロジェクトメンバーは、福島原発事故から最大限のものを学び取ることが重要だと考えている。
私たちは、おそらく将来も世界史の教科書に残る福島原発事故の教訓から学ぶことが、これからの日本のために、とても大切なことであると考えています。
私たちは、原発事故の事実をまっすぐに見つめ、議論と対話を積み重ねることで、未来に関わる選択と意思決定を行いたいと考える良識ある人々が繋がることが、日本の未来にとって、とても大切なことだと考えています。

彼らが日本中で考えてほしいと思っていることは以下の5つだ。
1.福島原発事故では何が起こったのか。
2.福島原発事故の教訓とは何か。
3.何を残し、何をどう変えていかなければならないのか。
4.どれだけの選択肢があり、選択肢がもたらす価値は何か。
5.短期的な視点と、長期的な視点で、私たちは個々人として何をするのか。
動画は、言葉と、それに合わせて図を描くシーンで構成されている。図はホワイトボードにカラフルなペンで描かれるが、早送りされ、言葉の進行に同期するようになっている。YouTubeに投稿されている講義の動画でよく用いられている手法だ。同期させるのにかなり手間がかかると思うが、完成度は高い。

事故調に関しては、黒川のブログ等、様々な資料に目を通したが、事故調の視点の高さ、その真摯さは、日本が原発事故への対応の成果として、世界に誇って良いものではないかと思う。
国会事故調報告書はこう述べています。「福島原子力発電所事故は終わっていない。不断の改革の努力を尽くすことこそが国民から未来を託された国会議員、国民一人一人の使命であると当委員会は確信する。」

原発事故の経過を見ていると、過去の教訓が生かされていないと思うことが多い。原発事故の教訓を未来に確実に生かして行くことが我々の務めだろう。その点、このような見やすく分かり易い資料が整備されているということは非常に貴重なことである。

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