阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年08月

シャロン・モアレム『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)について再び書きたい。モアレムは医師で、神経遺伝学や進化医学の研究者でもある。彼は、祖父のアルツハイマー病発症をきっかけに、祖父のことをもっと知りたくなった。彼が15歳のことだ。祖父には体のあちこちが痛くなるという持病があった。そんなときは献血をするとすっきりするという。彼は文献を調べ、ヘモクロマトーシスという鉄が体内に蓄積する病気を探り当てた。ところが18歳の頃から彼も体に痛みを感じるようになっており、検査の結果は彼もまたヘモクロマトーシスに罹患していた。なぜこのような病気の遺伝子が淘汰されず残っているのかについて疑問を持った著者は、遺伝学や進化医学の研究に進んだ。後年、医師になり、ヘモクロマトーシスとある種のアルツハイマー病には関連性があることを発見し、博士号を取得したとのことだ。

第8章は老化と生命に関する章で「あなたとiPodは壊れるようにできている」というしゃれたタイトルが付いている。この章の後半で紹介されていた「アクア説」が非常に興味深かったので説明したい。
他の哺乳類に比べて人間の出産はリスクが高く、時間がかかり、痛みが大きい。これには人間が人間であるための二つの重要な特徴が関係している。大きな脳と二足歩行だ。いざ出産というときに、この二つの特徴はやっかいな組み合わせとなる。(231ページ)

人類は二足歩行を行うようになって骨盤が変形した。中央で彎曲しており、産道の出口は非常に狭い。また、数百万年かけて脳を大きくしたので、赤ん坊の頭は頭骨が融合しないぶよぶよの状態で産まれてくる。
脳が大きくなりすぎては産道を通ることができなくなるため、人間の脳は未完成のまま外に出てくる。サルの脳は生まれたときすでに65パーセントの大きさになっているが、人間の新生児の脳は25パーセントの大きさしかない。赤ん坊の脳は生後三か月のあいだに大急ぎで発達する。(232ページ)

さらに人間の産道は曲がっているため、赤ん坊は出産時に回転し、母親から顔を背けた向きで出てくる。このため、母親は自分で助産をすることができず、他人の助けを借りることが多い。チンパンジーは自分で助産できるそうだ。問題は、なぜこのように進化したかである。

一般的に知られている説は「サバンナ説」である。詳しい説明はネットなどで入手可能であろうからここでは繰り返さないが、草原での暮らしに適応して二足歩行になったという説である。それに対し、本書で紹介されているのはエレイン・モーガンというウェールズ人の作家が広めた説だが、非常に説得力がある。
モーガンは本を書くにあたって調査をしているとき、アリスター・ハーディという海洋生物学者のことを知った。ハーディは1960年に、人類が他の霊長類と別の進化の道をたどったことについて、これまでとはまったくちがう説を提唱していた。森の住人だった類人猿の一群が、現在のエチオピアあたりにあった大きな島に隔離されて、そこで日常的に水につかったり泳いだり食料を探したりしているうちに、水に適応するようになったという説だ。ハーディはこの説を、その30年も前にウッド・ジョンズ著『哺乳類の中の人類の位置づけ』を読んでいたとき思いついた。その本の中にあった、「陸生の大型哺乳類の中で皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」という記述に、海洋生物学者のハーディはぴんと来た。人類と水生哺乳動物との共通点。カバもアシカもクジラも人間も、みんな皮膚の下に脂肪がある。水生哺乳動物に特徴的な特性を人類が共有している理由はただひとつ。人類には水生生活またはそれに近い過去があるからだ、と彼は思った。(236ページから237ページ)

この「アクア説」によれば、水中で過ごすことも多かった人類の祖先は、自然に二足歩行に移行した。人間に体毛が無いこと、鼻孔が下向きに開口していること、皮下脂肪があることなど、全てが水生生活への適応でうまく説明できる。そして、人間の出産様式も水中での出産に適応したものと考えられる。

2005年に発表されたイタリアの研究では、水中出産の安全性が確認されたばかりか、利点があきらかになったという。まず、新生児が呼吸を開始するのは顔に直接空気が触れたときなので、水中出産では新生児の顔をきれいにしてやることが容易で、吸引性肺炎を起こす危険が無い。また、分娩第一期の時間が非常に短く、分娩が加速された。さらに、会陰切開を必要とした産婦の割合も少なかった。そして最も注目すべきことは水中出産した妊婦のほとんどが鎮痛剤なしで済ませたことであるという。

新生児の動作を観察すると、水に漬かったとき、息を止めるだけでなくリズミカルに水をかく動作をするという。この動作は生後4ヶ月頃には消失するというが、サバンナで暮らしていた動物にこのような本能的動作が根付く可能性は低い。アクア説はもっと検証されて良いと思う。

以前読んだ本であるが、シャロン・モアレム『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)について書きたい。モアレムは医師で、神経遺伝学や進化医学の研究者でもある。本書にはジョナサン・プリンスという共著者がいる。ただ、対等な共著者という扱いではなく、表紙の表記も少し小さめだ。プリンスは米大統領の演説原稿を書いていた人物のようで、きっと表現を直したり構成にアドバイスをする編集者のような役だったのだろう。そのような人物の助力のためか、本書は軽妙な語り口で、非常に読み易い本に仕上がっている。翻訳も良い。日本版は2007年初版で、比較的新しいこともあり、ネシー、ウィリアムズ『病気はなぜ、あるのか』よりも薦められる本かも知れない。本書も各章がトピックに分かれて構成されている。今回は第5章「僕たちはウイルスにあやつられている?」を取り上げたい。

このブログでは、人間の考えは単に脳の中で純粋に生み出されているのではなく、様々な外的・内的要因を反映しつつ生成されているということを主張している。つまり、使用する言語、性別、年齢といった要素から独立して存在する思念は無いという主張だ。そのような視点からも、人間が病原体から操られているという見方は非常に興味深い。

彼は先ずヒト以外の動物が病原体から操られる例を挙げる。中米に棲むクモと、それに寄生するハチの例では、ハチがクモに卵を産みつけ、孵化した幼虫が成長し繭作りの準備が整うと、幼虫はクモに化学物質を注入する。すると、クモの巣作り行動が変化して、円形の巣ではなく、四角形の繭台を作るようになる。体内の幼虫が体外に出る頃になると、クモは繭台の中央で動かなくなり、そこで死を迎える。ハチの幼虫がクモの本能的行動をどのようにして乗っ取るのか、詳細はまだ不明とのことだ。

ランセット肝吸虫はウシやヒツジの肝臓に棲む。虫が産んだ卵は糞中に排泄され、それをカタツムリが食べる。卵はカタツムリの体内で孵化し、幼虫は粘液とともに排出される。幼虫はアリに吸収される。幼虫を吸収したアリの行動は変化する。日中は普通のアリと同じような生活をするが、夜になると巣を抜け出して、草の葉の先端にとまってじっとしている。一晩食べられずに夜が明けると、他のアリと一緒に働く。また夜になると草の葉の一番食べられ易い場所で草と一緒に食べられるのを待つのだ。

南仏のバッタに寄生する一種の線虫は、時期が来るとバッタを水に飛び込ませる。バッタは死ぬが、線虫は体外に抜け出し、さらに繁殖する。

昆虫の例も非常に興味深いが、以下に述べる哺乳類の例はさらに示唆的である。狂犬病の犬は嚥下障害を起こしてヨダレを垂らすようになるが、凶暴にもなる。ヨダレにはウィルスが多く含まれ、噛み付かれると感染する。犬が兇暴になるのは狂犬病ウィルスの影響である。

トキソプラズマはネコに寄生する感染原虫で、ネコの体内でしか有性生殖できない。感染したネコは胞子嚢を糞中に排泄するが、胞子嚢が動物の体内に入ると孵化して幼虫が産まれる。幼虫はネコへと移動する必要があるが、このとき感染した動物をコントロールする。
メカニズムはまだ完全にわかっていないが、脳に入ったトキソプラズマはネズミをいろいろな面で変えてしまう。まず、そのネズミは太り、動きが鈍くなる。つぎに、捕食者であるネコを怖がらなくなる。いくつかの実験によれば、感染したネズミはネコが排尿してマーキングした場所を避けるどころか、そのにおいに引き寄せられるらしい。(135ページ)

従って感染したネズミはネコに捕食され易くなるなる。トキソプラズマに感染した人間の行動も変化するという報告があるらしい。
プラハのカレル大学のヤロスラフ・フレーグル教授は、トキソプラズマに感染した女性はそうでない女性に比べて衣服にお金をかけ、つねに魅力的に見せようとする傾向があることを見出した。[中略]一方、フレーグルは感染した男性を、身なりに気を使わず、独りぼっちでいることが多く、喧嘩好きだと観察している。さらに、疑い深く、嫉妬深く、ルールに従うのを嫌うそうだ。(137ページから138ページ)

その他、引用が長くなるので、ここまでにしようと思うが、連鎖球菌により引き起こされると考えられている自己免疫性の精神疾患があり、それに関連して、小児の強迫神経症が連鎖球菌感染と関連があるとする考えがあること、あるいはヘルペスウィルス感染で性欲が亢進するという知見などが挙げられている。いずれにせよ、人間が自分が自力で感じ、考えていると思うのは思い上がりかも知れない。

ランドルフ・M・ネシー、ジョージ・C・ウィリアムズ『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』(新曜社)について引き続き書きたい。

第11章は「アレルギー」である。つい最近も、メディカル朝日にアレルギーに関する市民講座の記録が掲載されていて(2013年8月号)、その第1講演は「アレルギーはなぜ増えた?」であった。アレルギーが増加した理由がどう説明されるのか興味を持って読んだが、「アレルギーはいわゆる「文明病」であり、戦後の生活環境 の急激な変化により近年増加している」とした上で、スギ花粉症の原因としては「温暖化やスギ林の管理不足による花粉量の増加のほか、 ディーゼル排気微粒子がスギ花粉と相互作用してアレルギー症状を引き起こす可能性」を挙げ、ハウスダストアレルギーの原因としては「機密性の高い建物でエアコンを使用する生活様式の普及」を挙げていた。また、食物アレルギーの原因としては「日本では、戦後の動物性蛋白摂取量の急激な増加が食物アレルギー増加の一因とされている」と述べ、さらに「日本および海外の疫学調査では、アレルギー性疾患発症率と魚の摂取量が逆相関すると報告されている」「肉に含まれるアラキドン酸はロイコトリエン[引用者注:アレルギーの症状を引き起こす生体内物質]の前駆物質であり、脂肪の過剰摂取がアレルギー性疾患を増加させている可能性も指摘される」と述べていた。

これは「原因物質が増えたからアレルギーの発症が増えた」という説明であり、真実も含まれているかも知れないが、スギ林の中で暮らす人が昔からいたこと、アレルギーの人の肉摂取量が多く、脂肪を過剰に摂取しているとは思えないことを考えると、そのまま受け入れることはできない。上記の説明では「なぜアレルギーという病気があるのか」「アレルギー自体が最近増えたのではないか」という「深い」疑問には答えていない。これでは10年以上前から繰り返されて来た説明とほぼ変わらない。結局、「アレルギーとは何か」という根本となる疑問自体が解決されていないのだ。

とは言え、アレルギーについては、本書でも分からないと結論付けている。しかし、問題の把握の深さは本書の方がずっと深い。
今のところ、アレルギーをおこさせるシステムは防御反応であることはわかっているのだが、それは何から私たちを防御するはずのものであるのかが明らかではない。アレルギー反応をおこす能力は、なんらかの危険に対する防御であることだけは明らかである。そうでなければ、それを引き起こしているメカニズムである、免疫システムの一つ、免疫グロブリンE(IgE)などというものは存在しないに違いない。[中略]これほど複雑なシステムは、自然淘汰によって維持されていない限りすばやく失われるものであるし、それが害を及ぼすとなれば、なおさら速く消えてしまうはずである。IgEシステムはなんらかの有効性をもっていると考える方が、ずっと可能性が高い。(240ページから241ページ)

著者らは、IgE抗体がアレルギーを引き起こす以外の働きをしていないように見えることが、問題を解決困難にしていると指摘する。それでも、彼らは有力な仮説をいくつか紹介している。その中で最も受け入れられているのは「IgEが寄生虫と戦うためのもの」という説だが、彼らは、まだ証拠が少なく、「寄生虫自体が自分の都合のよいようにIgE反応をおこしている(その周辺の血流を増加させることによって)のではないかという別の説明は、十分に考慮されてはいない」として、採用に慎重である。
しかしながら、IgEシステムには、もう一つ別の機能がある。[中略]プロフェットは、IgEシステムは、毒に対する防御のバックアップとして進化したものではないかと考えている。第6章でみたように、私たちの環境は常に毒に満ちていたし、今もそうである。[中略]このような化学物質に対して、私たちは何種類かの防御を持っている。[中略]しかし、これらのすべての防御機構が失敗したとしよう。すべての適応には、ときとして失敗がつきものだ。そのとき、プロフェットによれば、バックアップの防御としてアレルギーがやってくる。それによって、毒がすみやかにからだの外に出されるのだ。涙を流せば、毒は目から流れ出る。粘液が分泌されてくしゃみや咳が出れば、毒が呼吸器から出ていく。嘔吐は、それを胃から押し出す。下痢は、胃より下の消化器系からそれらを出す。アレルギー反応はすばやく働いて、悪い物質をからだから追い出すのだ。(247ページ)

いずれにせよ、人体の反応でアレルギーほど速い反応は少ない。花粉を吸い込めば数秒でクシャミが出る。卵アレルギーの人が卵を食べれば、数分で発疹、呼吸困難などが出ることがある。それだけの高度な反応は偶然構成されるものではない。長い進化の過程で発展して来たものだ。こんなにありふれた特徴的な現象であるのに、その目的や意味が分からないのだから、医学が進歩したと言っても高が知れているようにも思える。

ランドルフ・M・ネシー、ジョージ・C・ウィリアムズ『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』(新曜社)について引き続き書きたい。

人間には自分の体に有害な物を避ける能力が備わっている。有害物質の感知は、ほぼ臭いと味に依存している。腐っている物を嫌な臭いと感じるのは、有害な物質が味覚により検知されるからで、臭い自体に本質的な善し悪しがあるわけではない。腐敗した物を食べると嘔吐したり下痢したりするのは、有害な物を排出しようとする体の反応である。抗癌剤で嘔吐するのも、抗癌剤が毒物であるからと考えられる。しかし、その感知能力は石器時代の暮らしを反映したもので、現代の暮らしに適応したものではない。従って、タバコ、麻薬、PCBなど、石器時代以降に登場した「体に悪いもの」には対応していない。

本書の第6章は「毒素―新、旧、いたるところ」という毒素について取り扱った章で、植物が自分を食害から守るためにどのように毒素を進化させて来たかが解説されている。ジャガイモやドングリなどは、本来かなり強力な毒を持っている。ジャガイモはアンデスの先住農民達が何百年もかけて品種改良し、毒性の無いものを開発したし、ドングリは土と混ぜる、茹でるなどの方法で毒素(タンニン)を無毒化する処理方法が開発された。

嘔気で思い出されるのが「つわり」である。本書ではつわりの進化論的解釈を説明している。
適応論的プログラムに完全に専心している一人の生物学者が、最近、つわりの謎を不思議に思い、ある説明を考え出した。シアトル在住の生物学者マージー・プロフェットは、つわりのように普遍的に見られ、かつ自然に生じる状態は、病的なものとは考えにくいと主張する。(134ページ)

プロフェットは、胎児が毒性物質に弱い時期と妊娠中の吐き気の経過とがぴったり対応していることに注目し、つわりは母親の食事に制限を与え、胎児が毒素にさらされる機会を最小限にするように進化したと論じている。
胎児は、妊娠数週目のときには、母親にとってたいした栄養の負担ではなく、健康で、よく栄養のとれている女性ならば、食べる量が少し少なくなっても大丈夫なことが多い。妊婦が食べたがる食べ物は、たいてい、刺激の少ない、毒のある複合化合物による強い臭いや味のしないものである。(134ページから135ページ)

妊娠中に吐き気がない女性は、流産したり、先天性欠陥のある子供を産むことが多いという観察結果があるそうだ。つわりがあるということは自然の防御機構がきちんと機能しているという証であり、つわりに従って、食べられるもののみ食べておけば良いということのようだ。勿論、吐き気が強いときに吐き気を止めることまで著者は否定していない。吐き気止めを飲んで、無理やり食べることに反対しているのだ。

続いて、子供の野菜嫌いについての言及があり、興味深かった。
胎児が成長して子どもになると、彼らは野菜を嫌う傾向を見せる。とくに、タマネギやブロッコリーのような強い味の野菜が嫌いだ。それらは、まさしく、植物毒素の含有率が高い野菜なのだ。これらに対する嫌悪の発達過程を見ると、その説明のヒントが得られるだろう。好き嫌いの激しい子どもでさえ、十代になり、成長の終わりに近くなると、新しい食べ物を試し始めることがよくある。この敏感さの進化的な説明は、石器時代には子どものときにもっとも有毒な植物を避けるのが有利であったということかもしれない。(137ページ)

子供が野菜を嫌うのは人類普遍の現象で、それには適応論的(進化論的)理由があることが分かる。

ランドルフ・M・ネシー、ジョージ・C・ウィリアムズ『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』(新曜社)を読了した。1月19日のブログにも書いたように、この本は私が進化医学に興味を持ち、一連の本を読むきっかけとなった本だ。ところが実は読了していなかった。

この本に偶然出会ったのは、居住地の近くの図書館だった。借りて読み始めたのだが、どの部分も面白く、各ページに考えるべき課題と記憶すべき事項が詰まっているといった感じの本だった。記載が全て重要であると感じられたため、早く読むことができず、貸し出し期間を延長し、再延長はできないので一旦返却し、といったことを繰り返し、少しずつ読み進めた。

本書は、進化の立場から病気を見直し、「なぜ病気が起こるのか」の説明を試みた本だ。著者等は「ダーウィン医学」という言い方を採用し、適応論的アプローチを強調しているそうだが、日本では「進化医学」の方が通りが良いかも知れない。いずれにせよ、人間の病気と生命の進化が密接に結びついていることは自分でも承知していたが、体系的・網羅的な説明に接したのは本書が初めてで、頭の中にくすぶっていたものが一気に整理され、視界が一気に開けて行くような気がした。それまで何となく感じていたことやバラバラに持っていた知識が整理され、私の疾病に対する態度は明らかに変わったと思う。このブログを書き始めた理由のひとつにも本書が挙げられるかも知れない。

借りた本を9割がた読んだのだが、手続が面倒で、結局購入することにした。しかし、同時に他の関連書籍も購入したのでそちらを読み始めてしまい、本書は大部分を読んでいたこともあって、読み終わらないまま放置していた。今回最初から再読して読了したが、やはり面白い。

訳者あとがきによれば、ネシーはミシガン大学の精神医学部と心理学部の教授を兼任する精神科医であり、同大学の社会科学研究所適応進化部門の代表も務めている。また、アメリカにおける人間社会科学、進化人類学、進化心理学などの連合学会である人間行動進化学会の創設メンバーで、同学会の会長も歴任している。ウィリアムズは元ニューヨーク州立大学教授で、現代進化生物学の父とも言える人物だそうで、1966年の著書『自然淘汰と適応』はドーキンスの『利己的な遺伝子』の基礎のひとつとなっていると言う。

このような著者等による本なので、学者による専門領域の本の例に洩れず、巻末の文献リストが充実している。また、著者達の「伝えたい」という気持ちが実を結び、内容が高度であるにも拘らず、非常に分かり易くかつ説得力のある本になっている。訳書は2001年の出版だが、奥付によれば手元にあるのは2009年の第8刷で、年を経ても着実に売れ続けているようだ。

医学教育では疾患が発生するメカニズムについては詳細に教わるし、治療法についても一通りの知識は与えられる。しかし、なぜ人間にそのような疾患が発生するようなことが起こらねばならないのかについて、取り上げられることは少ない。医療に携わる者は、患者や家族を「生活する人」として見る視点を養うために、コミュニケーションやコンサルテーションを学ばねばならないと思っているが、疾病を真に理解するためにも、進化医学についてもっと学ぶ必要があるとも思う。

何回かに分けて本書の内容から重要な部分をピックアップするとともに、他の関連書籍についても見て行きたい。

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