阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年08月

ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』(角川文庫)を読了した。本書は原著刊行が2004年、翻訳書の単行本が2006年、文庫化が2009年である。一時話題となり、ベストセラーになったが、読む機会が無かった。数ヶ月前、コンピュータ関連雑誌の記事で推薦書籍リストに挙がっていたので、今回読んでみたが、噂に違わず非常に示唆に富んだ本だった。

本書は2部構成になっており、第1部は本書の題にもなっている集団の知恵を主に扱っている。第2部はどちらかと言うと社会科学的、あるいはマネジメント論的な話が中心で、委員会、企業、市場などのダイナミクス(集団力学)を扱っている。著者のスロウィッキーを調べようと思い日本語で検索したところ、著者自身についての記事は見当たらなかったが、本書の感想文・書評が多数公開されていることが分かった。日本語ウィキペディアにも、本書自体が立項されていた。

著者については英語のWikipediaに項があった。それによれば彼は1967年生まれの米国人のジャーナリストで、2000年から雑誌「New Yorker」の記者を務め、ビジネスとファイナンスに関するページを担当している。

集合知に関する書籍は以前にも取り上げたが、本書はずっと分かり易く、まとまっている。翻訳に関しては、無理に口語的な表現を押し込んだような箇所が何カ所かあり、少々違和感を感じたが、全体的に自然で、読み易い。訳者あとがきによれば、分かりにくい隠喩や、米国では国民的スポーツであるフットボールに関連して詳細に説明されているところは削除したと言うことであるから、随分苦労して手をかけて翻訳したのだろう。

第1部での主張は、ある意味では表題通り、多くの人間が考えると、その結果は正しいことが多いと言うことである。但し、条件があり、著者は以下のようにまとめている。
[正しい判断が下せたのは]賢い集団の特徴である四つの要件が満たされていたからだ。意見の多様性(それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)、独立性(他者の考えに左右されない)、分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)、集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)という四つだ。(31ページ)

集団の考えがバラバラであることが非常に重要だ。多様性が最も重要と言って良いだろう。多様性を支える要素として独立性と分散性がある。各人が独立して思考し、独立して情報を取得するので多様性が担保される。しかし、「集団の考え」を得るためには各人の考えを集約しなければならない。それが集約性である。考えを集約する手段がなければ、いくら賢い集団でも、その知恵を利用することはできない。集約性は必要不可欠な要素であるが、他の要件とは役割が異なる。

各人には情報を与える必要があるが、情報は多ければ良いと言うものでもない。
情報量の多さは必ずしもよい結果には結びつかない。1980年代後半、心理学者のポール・アンドレアッセンはMITのビジネススクールの学生を対象に一連の実験を行った。彼は学生を二つのグループに分けた。グループごとに株式ポートフォリオを組み、適正だと思われる価格をつけるのに充分な情報を与えた。そのうえで一方のグループは、自分たちが所有する株の価格上下動の情報しか手に入れられないようにした。もう一方のグループは、価格変動以外にもリアルタイムで起きていることを報せる金融ニュースを入手できた。驚くことに、情報量の少ないグループの運用実績のほうが、あらゆるニュースを入手できたグループよりもよかった。(307ページ)

勿論、必要な情報が手に入らないようでは、正しい結論には至らない。分散性を担保するためにも、各下位集団や個人が必要と感じた情報を(その情報がもしあるならば)入手できる環境が重要である。第9章ではチャレンジャー号の爆発事故(1986年1月28日、スペース・シャトルチャレンジャー号が打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になった事故)を事例として取り上げているが、そこではNASA内部で必要な情報が公開されず、議論が多様性を持てなかった様子が活写されている。

次回、本書の残りの話題を説明するとともに、今後の課題について考えたい。

今日は在宅訪問診療を行っている施設にお願いして、訪問診療を見学させていただいた。午後1時から4時頃までで4軒のお宅を訪問した。内訳は、癌の患者さんが2名、認知症と老衰それぞれ1名ずつである。

(以下概要を紹介するが、個人を特定できないようにするため、事実を大幅に省略し、一部を少し変えてある。)

認知症の方は随分高齢で、介護は配偶者が行っていたが、いわゆる「老老介護」であり、介護者にも難聴、物忘れ、歩行障害などの症状が出始めている。このまま行けば、いずれ立ち行かなくなることは明白だ。独居の老人の場合、生活を成り立たせるためのマンパワーをどのようにして集めるかが問題だ、と医師は話していた。

老衰の方は、もうすぐ100歳を迎えるが、難聴があり、脳梗塞と心筋梗塞の後遺症で、寝たきりである。しかし、意識は清明で、穏やかな表情で上品に話される。「食欲があって困る」との事であった。なぜ困るかと言えば、それだけお迎えが遠のくからとの事である。にこやかに「困りました」と訴え、医師のほうもにこやかに「成り行きに任せましょう」と応じていた。介護付きのアパートに独居であるが、本日は娘さんが訪れていた。

癌患者の1名は子宮癌の再発である。一番の問題は「私はもう長くない。1年半か2年しか生きられないから」と家族に言っていることである。実は医師の方は余命を1、2ヶ月と見ている。「死を覚悟している」と言っても、このようなギャップはしばしばある。このギャップをどのようにして穏やかに埋めて行くか、医師のコミュニケーション能力が問われるところだ。

もう1名の癌患者は上咽頭癌の再発である。まだ症状はあまりなく、元気に過ごしている。川柳を作られる方で「ガンだとさ。これでボケずに死ねそうだ」という作品を教えていただいた。「老人は 早く死ぬのが 国のため」という川柳が頭から離れないとも笑っておられた。

病院勤務で、いわゆる3分診療に慣れている身からすると、半日で4名と言う今日の診療は別世界であった。失礼とは思ったが、施設に帰ってから採算について伺ったところ、看護師を同道しないので、医師には勤務医程度の報酬が払えるとのことだった(夜中に急変で呼び出されることが月に何回かあり、それを含めている)。勤務医の報酬は開業医の6分の1との統計も耳にしたことがある。開業しても、在宅訪問診療に特化して事業を行うのなら、それこそ使命感と覚悟が必要だろう。

こう書くと「それでも高給取りだろう」という声が聞こえてくるような気がする。もう10年程前になるが、医療関係のポータルサイトで、医師の給料に関する議論に参加したことがある。その際、医師よりもっとハードな職業で、医師よりずっと給料が低い職業があると言って「医師は自分の給料に文句を言うべきではない」と強硬に主張するメンバーが実際にいた。ここで私の考えを述べておきたい。

まず、業務としてどのような医療を行うかは医師の裁量の範囲である。その際に、収入が少ない方の事業形態であっても、自分がやらねばならないと思う事業を選択する態度を、私は品位の高い態度と評価し、私もそれに倣いたいと思う。また、不利なことを自分から行う(労働基準法に照らせば明らかに違法な勤務に従事する、報酬無しで働くなど)ことが勤務医の実態では多いのだが、自分から行う場合は納得しているものの、他人から「給料が良いのだから(医師だから)それぐらい当然」と言われると、非常に不愉快である。

医師は昔は特権階級であったが、現在は一般労働者にかなり近くなっている。患者とは対等と考えることが、現在では当然だ。特権階級には特別な責務があるが、一般労働者には通常の責務しかない。ところが医療制度は医師が特権階級であった頃の旧弊を引きずっており、医師に特別な責務を課している。このところを直して行かないと、医療制度はうまく回らない。

先にこのブログで取り上げた、社会保障国民会議の報告書に基づく、社会保障改革のスケジュールをまとめた法案の骨子が、8月21日に閣議決定されたとのことだ。朝日新聞の当日の社説「医療の改革 患者の協力も必要だ」(http://digital.asahi.com/articles/TKY201308200551.html)には、将来像がかなり具体的に述べられている。
患者一人ひとりに必要な医療が何かを判断するのは、地域の「かかりつけ医」である。患者を診て、大病院で最先端の治療が必要なのか否か、リハビリや介護に重点を移すべきなのか、などを判断する。

このかかりつけ医による振り分けが機能すれば医療の効率化が達成される。振り分けの受け皿となる病院は都道府県が連携・協力させ、あるいは整備する。
簡単に進む話ではない。混乱を招く恐れもある。
しかし、急速な高齢化で、医療や介護の費用は経済の規模が拡大する以上に増える。これ以上、今の世代が使うサービスの費用を将来世代にツケ回しすることは許されない。
医療の効率化は、国民全体の責任と考えるべきだ。

その通りだと思う。しかし、いくつか問題がある。日本は、猪飼周平『病院の世紀の理論』でも詳説されているように、開業医がかなりの病床を持っている。この点は欧米とは異なり、入院病床に関して政府のコントロールが利きにくい。

多田智裕はJBpressのコラム(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38352)で「医療機関が「競争」する時代は終わった、日本の医療を救うには「協調」だ」として、今まで国は施策として、コストパフォーマンスの高い医療を提供するよう医療機関同士を競わせて来たが、そのために医療機関同士の連携や協調はほとんど検討されなかったと述べている。そして、その対策は医療機関のグループ化と協調だろうと言う。
地域の中で複数の病医院がグループを作り、医療機関の連携/統合を含めた協調を可能にする日本の医療崩壊を食い止めるために、そんな新制度が、いま一度検討されてもよいのではないでしょうか。

戦前から続いている病床の個人所有制度が、そう簡単に方向転換できるものだろうか。厚労省の診療報酬による利益誘導を柱とした施策により、厚労省が疑心暗鬼の目で見られていることは既に述べた。2025年まで、あと10年ほどしか無いのに、このような具体性の低い議論ばかりで間に合うのだろうか。それとも2025年から実質的に医療を崩壊させて国民が厳しい案を受け入れるざるを得ないような社会状況を現出させ、2035年頃から思い切った改革をすれば良いと判断しているのだろうか。

もうひとつの問題は医療側の問題だ。朝日新聞は8月27日の社説(http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201308260576.html)で「患者ビジネス 医療の押し売りは困る」と題して、「施設で暮らす高齢者や、鍼灸(しんきゅう)院に通う患者を医師にまとめて紹介し、見返りに医師から金を受け取る。そんな患者紹介ビジネスが広がっている」と批判している。日本医師会も、8月28日の記者会見で、サービス付き高齢者住宅などの高齢者施設等で生活する患者を医療機関に紹介するビジネスが一部報道されていることについて不快感を示したとのことだ(http://www.m3.com/news/GENERAL/2013/8/29/179693/)。

私もこのような行為には反対だ。医療の品位を貶める行為であると思う。医療は本質的に人の不幸を対象とする職業である。それでもなお医療者が社会において尊重されるとすれば、それは医療者が金のために働いているのではないと言う明確なメッセージを発するからだ。医療は品位を持たねばならない。さもなければ、ただの「不幸につけ込むハゲタカ」である。

ただ、このような行為も、厚労省による利益誘導の弊害ではないかと思う。今までの積み重ねを10年ほどで突き崩せるのかを心配している。

引き続き、遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』(光文社新書)について述べたい。著者は東京大学総合研究博物館教授で獣医師でもある。

本書の第四章は「行き詰まった失敗作」で、設計変更を積み重ねてできあがった人体が、宿命的に背負い込んでいる様々な不具合について述べている。設計変更が必要になった理由は、主に二足歩行である。水平にして使用するように設計された胴体を無理やり垂直にしてつかうようにしたため、問題が生じたのだ。

最初に取り上げられているのは循環器系だ。四足動物では血液はほぼ水平に流れる。
ところがこの頭のてっぺんから胴体部分を経て、最後には踵の先までが垂直に立つという、ヒト科独自の設計変更は、心臓と大きな血管にとっては、死活問題ですらある。何せ、第三京浜を走らせようと思って作った車を、ヒューストンのロケットランチャーから垂直に打ち上げなければならなくなったようなものだ。循環系にとっては、突然身体のなかにナイアガラの滝ができ、その水をか弱いポンプで持ち上げるようなことまで要求されてしまったのに等しい。(199ページ)

ところがヒトの循環器系は、他の動物と比べてもそれほど高性能とは言えない。おまけに一番上にある脳は、全身に対して血流量の14%、酸素供給の18%を要求すると言う。ヒトの心臓付近の血圧を100mmHgだとすると、脳の入口では50mmHg近くにまで下がってしまうのだそうだ。そこでヒトは脳貧血を起こし易い。それでは重力に対抗して血圧を上げれば良いかというと、足の末端では既に血圧は180mmHgにまで上がっている。これ以上血圧を上昇させると、足の血管への負担が大きくなる。

次に話題になっているのは、椎間板だ。立位をとることで、全体重の負荷が腰椎にかかることになり、椎体骨の間の軟骨の髄核が脱出する。ただし、イヌでも、腰に負担がかかりそうな犬種の場合には椎間板ヘルニアが決して珍しいものではないそうだ。

さらに話は鼠径ヘルニア、肩凝りへと続く。いずれも設計変更による歪みが起こした問題だ。私達は引き続き設計図を描き換えながら進化を続けて行くのだろうか。この章の最後の方にある、彼の言葉を、少し長いが引用する。
実は、私にはそうは思われないのである。というのも、ヒト科は、二本足で立ってからたかが数百万年の時間しか経ていない。にもかかわらず、ヒトは二次大戦から冷戦にかけて、ボタン一つで種を完全に滅ぼすだけの核兵器を作り出してしまった。19世紀以降、ヒトは快適な生活や物質的幸福を求めて、地球環境を不可逆的ともいえるほど破壊してきた。自然を汚染し、温暖化やオゾン層破壊といった、とても局所的とは思われないほどの、破壊的な産業活動を継続して来た。

たかが500万年で、ここまで自分たちが暮らす土台を揺るがせた〝乱暴者〟は、やはりヒト科ただ一群である。何千万年、何億年と生き続ける生物群がいるなかで、人類が短期間に見せた賢いがゆえの愚かさは、このグループが動物としては明らかな失敗作であることを意味しているといえるだろう。(217ページから218ページ)

彼は、ヒトの脳こそが、ヒトを失敗作たらしめる根源だったと考える。そして次が章末の一文である。
しかし、それを憂えても仕方がない。私が心から愛でておきたいのは、自分たちが失敗作であることに気づくような動物を生み出してしまうほど、身体の設計変更には、無限に近い可能性が秘められているということだ。(219ページ)

これも以前に読んだ本であるが、遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』(光文社新書)について触れておきたい。著者は東京大学総合研究博物館教授で獣医師でもある。奥付によれば「動物の遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎として保存するべく「遺体科学」を提唱、パンダの掌やイルカの呼吸器などで発見を重ねている」そうだ。また、「あとがき」によれば、著者はいわゆる学校推薦図書のようなものは嫌いだと言う。
闘う学者の姿。私はそれを多くの人に見てもらいたいと念じて、筆を執った。「遺体科学」のように地味な学問が、のたうち回り、呻吟する様を、そのまま凝視してほしいのだ。そこには、生の苦しみを克服しながら、ヒトや動物の身体の謎を解き明かしていく、学者たちの飽くなき熱狂が、必ずや燃え上がっている。人間社会が日々当然のように享受している身体についての知は、けっしてスマートとはいえない遺体と学者たちの混沌が築いてきたものだ。読み手は中学生でも、サラリーマンでも、専業主婦でも、悠々自適のご老人でも構わない。サイエンスとは、つねに現実と闘って勝ち取らなければならないものだという事実を、普通の人々に普通に知ってもらいたいのだ。(246ページ)

著者の主張の中心は「生物が進化する際、変化に適応するために新しく器官が作成される場合は、既存の器官を可能な限り流用する」という原則である。これを著者は元々の設計に対する「設計変更」と呼んでいる。既存の器官を、場合によってはかなり無理をして流用するために、非効率的な点があったり、後々になって不都合が起こったりする。

本書はタヌキの遺体解剖から始まる。「遺体科学」を提唱しているくらいだから、遺体の解剖の話が出てくるが、ペンギンの解剖の話は興味を引いた。ペンギンは自分の体長ほどの魚を丸呑みにするために、骨盤にまで届く真っ直ぐで長い胃を発達させているのだそうだ。著者は最初の解剖の際、それを知らず(もっともペンギンの消化管の構造を熟知している人がどれほどいるかは疑問だが)直腸を切断するつもりで胃の尾側端を切断した。

「解剖」の題材としてはフライドチキンやサンマの塩焼きも対象となる。身近なものの解剖を通して、自然界にある様々な「設計」と、進化が行って来た様々な「設計変更」を教えてくれる。

一番の設計変更は二足歩行によるものだろう。著者はサバンナ説を採用しているが、疑念が払拭できないようだ。
もちろん、ある程度進歩した類人猿が棲んでいた地域が乾燥し、森が枯れ果てることなど、ただの偶然の出来事である。古生態学にも自然地理学にも疎い私には、そこまで運任せの出来事でヒト科が繁栄を始めるのかどうか、いまひとつ納得してはいない。正確にいえば、納得したくないという思いが、心のどこかに残っている。(136ページ)

二足歩行に関する設計変更には、足底部のアーチ形成、アキレス腱の強化など様々あるが、特に印象に残ったのが脚の付け根の設計変更である。著者は「実をいえば、私のような形を扱う学者が遺体や標本で最初に目をつけるのは、形がもっている大きさなのだ。サイズが大きいことは、形に無視できない機能が備わっていることの一つのヒントでもある」(143ページ)と述べているが、ヒトの足底、アキレス腱、臀部は、他の動物に比べて非常に大きい(ついでに述べればヒトの女性の乳房も類人猿に比較してとても大きいが、この意味については別の本に理由が述べられていたので、別の機会に譲る)。
ヒト科と、もともと四本足で歩いていた時代のサルとは、骨盤から見て、腿の骨(大腿骨)の伸びる方向が90度変わってしまっている。サルや普通の獣の場合、水平に置かれた骨盤から、90度折れ曲がって地面に向かう大腿骨を動かすことで、歩くことが可能だ。だが、ヒト科では、大腿骨は地面に垂直に立ったままだが、事もあろうに、サルで背骨に並行に伸びていた骨盤までもが、背骨といっしょに垂直に立ってしまったのだ。(156ページ)

つまり、普通の四足獣の後足は、ちょうど我々が(少し腰を丸めて)椅子に座っているような形で出ている。ヒトは立ち上がった場合に、その脚が90度後ろに向くわけで、歩行中には更にその脚が後ろに行く。
となると、私たちが歩くには、大変なトラブルが生じる。思いっきり後ろに投げ出してしまった大腿骨を、さらに後ろに蹴らなければ、ヒトは歩くことができないではないか。左様、四本足の動物でいえば、後ろ足を大空へ向けて投げ出すほどの、とんでもない運動を、歩くたびに起こさなければならないことになる。(157ページ)

そのため大腿骨の関節の窪みが深くなって、確実に大腿骨頭を捉えるようになり、さらに臀部の筋肉が発達して、脚を後ろに蹴り出せるようになったのだ。

二足歩行がいかに画期的なことかが良く分かった。

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