阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年07月

アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ『セックスをしたがる男、愛を求める女』(主婦の友社)を読了した。アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズは夫婦で、『話しを聞かない男、地図が読めない女』の著者である。本書は2010年刊の単行本を文庫本化したものだ。

本書は、そのタイトルや構成から受ける印象よりもずっとしっかりした本だ。所々にひとコママンガやジョークが挿絵のように挿入されており、いずれもセックスを題材としたもので、ついニヤリとさせられる。語り口も平易で、読み易く分かり易い本になっている。ところが、それが災いして、いかにも軽い本のような印象を受ける。内容は示唆に富むものなのだが、この本を誰かに紹介しても、表示を見てパラパラとめくっただけで、女性週刊誌の特集記事並みの内容と判断して、読まないことも多いのではないだろうか。

本書の内容は、繰り返しになるが、医学的、心理学的知見に基づく、大変示唆に富むものだ。参考文献リストが無いことが悔やまれるが、翻訳者のあとがきには読み易さを重視して随分工夫したとあるから、原著には参考文献リストがあるかも知れない。本書に書かれていることの真偽を検証するのは容易ではないが、私が既に知っていることと一致する記述が多く、記載は正確ではないかと推測している。

本書を読んでつくづく思ったのは、人の思考は必ず物質的な影響を受けているということだ。「思考」と言った場合、それは「脳内情報処理」とほぼ同義で理解され、人体や脳自体とも切り離された抽象的な働きであるように見なされることが普通である。しかし、そのような「純粋な」「形而上的な」「抽象的な」思考といったものは存在しないと著者らは主張しているように感じる。思考はホルモンの影響を強く受ける。

確かに落ち込んでいるときは暗い考えが浮かぶし、夜思いついた素晴らしい考えは朝になると色褪せるものだということは、良く知られた話だ。しかし、特に男女間のコミュニケーションといった、人類が誕生して以来、いや誕生する前の先祖から何百万年と続いて来た営みにおいては、人の思考や行動が、ホルモンのバランスといった体に組み込まれた仕組みから逃れられないことを著者らは示す。

本書を読んでいると、私自身や私の配偶者に当てはまることが無数に出てくる。それは、私たちが既知の普遍なパターンに従って考え、行動していることの証である。自分が何かを考えたとき、感じたとき、そこには客観性があり自分特有の真実が含まれると確信していることが多いが、実は本能として体に組み込まれたプログラムに従って(誰でも考えるように)考えたり感じたりしているに過ぎないのだ。

自分の考えが、実は(ホルモンや外界からの刺激に)「考えさせられた」ものかも知れないという謙虚な態度を維持することが大切なのだろう。そして、著者らの言う通り、「男と女は違う」ということを理解し尊重することが、家庭においても社会においても不要な軋轢を避け、円満に暮らす鍵なのだと思った。

月刊誌「病院」2013年7月号の「鉄郎おじさんの町から病院や医療を見つめたら(70)」は「患者はなぜ医者を「先生」と呼ぶのか?」だった。鉄郎は、このブログで以前取りあげた『いびらのすむ家』の作者、吉田利康のペンネームである。吉田は「アットホームホスピス」という在宅ホスピスを支援するNPO法人の理事長である。

鉄郎が参加する「日本ホスピス・在宅ケア研究会」では医師を「先生」と呼ぶと1回100円の反則金を支払わなければならないそうだ。彼は、この話から、医師を「先生」と呼ぶばかりでなく、医師がお互いを「先生」と呼ぶ奇妙な習慣へと話を進める。

私が前任地の病院に赴任した15年前には、確かにそのような傾向があった。全てではないが「先生は今他の患者さんを診ているから」などと言う看護師がいた。そこで私は普通の会社と同じように身内は呼び捨てにするよう職員に依頼した。それ以来、私の周囲は窓口でも電話口でも「阿部はただいま診察中です」と言っている。また、現在の勤務地では若手の医師がきちんとした口のきき方をし、自分の上司を呼び捨てにして「その件については○○が後ほどご連絡いたします」などと言っている。ただ、「○○先生」と言った方が柔らかな感じがすることがある。形式張った、よそ行きの感じが薄れるからだろうか。私は、場合によっては患者さんに「○○先生と相談したらね…」と敢て「先生」を付けて話すこともある。

お互いに「先生」と呼び合うのは文化のようなものだ。奇妙に見えるかも知れないが、実害はない。薬剤師や技師、療法士もお互いに先生と呼んでいる。そう呼ばないのは看護師ぐらいかも知れない。ただし、薬剤師、技師、療法士も、医師の前ではお互いを「先生」と呼ぶのを控えることがある。私はこの配慮の方が居心地が悪い。

鉄郎は、この「先生」という呼称は患者が医師の機嫌を取るためではないかと言う。その一方で、病院では患者を「患者様」と呼ぶ。鉄郎は、大病院では患者の都合に関係なく、病院の都合で物事が進められると指摘し、これら2つの呼称の関係を次のように述べる。
結局、大きな病院は、患者の生活から病いを診ることをしない。プライマリケアは、患者の生活にこそ重点を置くが、そうした組み立ては大病院にはない。インフォームド・コンセントが成熟していないからではないだろうか。だから、患者はいつまでも「先生」と持ち上げ、病院 も「患者様」と持ち上げる。その妙なバランスの上でかけひきが行われる。結局それは「呼称を越えた力関係」の存在と言えよう。

「先生」という呼称で先ず思い付くのが教師である。教師に対する「先生」という呼びかけは、尊称ではあるものの、多分に愛着の混じった呼び方だ。親も子供の担任の教師を「先生」と呼び、教師も自分のことを「先生」と呼ぶ(医師は成人の患者に対して自分のことを「先生」と呼ぶことは普通ない)。これは家族内で父親が呼称としても自称としても「お父さん」や「パパ」であるのと同じなのだろう。学級という一種の共同体の中で、その中心的指導者たる教師は自称も他称も役割名で呼ばれる。

医師に対する「先生」も、同様の状況から生まれて来たものではないだろうか。治療の場で中心的役割を果たす医師が役割名で呼ばれたのではないかとも思える。つまり「先生」は尊称ではあるが、医師に期待される役割でもあると言えるのではないだろうか。

今年の秋に医療法の改訂が予定されている。厚労省は準備に忙しいようだ。今回の改訂は病床の機能分化が目玉と言われているが、併せて医療事故調査の組織についての法制化が行われるらしい。一気に片を付けたいという厚労省の姿勢が感じられる。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」のVol.179(2013年7月19日配信)は井上清成『医療事故調、秋の陣に向けて』だった(http://medg.jp/mt/2013/07/vol179-1.html)。井上は医療を専門とする弁護士で、一貫して医療事故調の厚労省を批判している。5月27日のVol.126でも『医療法改正反対―WHOガイドラインに反する厚労省案』として厚労省を批判していることは、5月28日のブログで取り上げた。

Vol.179は、主として厚労省のやり方に対する批判である。厚労省は、自分たちの対場に近い人間に会議を主導させ、強硬な会議運営により、強引に厚労省案を押し通している印象がある。政治家の手法と全く同じような印象だ。TPPについても、自民党政府は交渉に参加するだろうというのが大方の予想だったが、安部総理はずっと明言を避けて来た。そこには、充分時間をとって議論しようと言う姿勢はなく、「決まっていないのだから話しようがない」という逃げの姿勢のみが目立った。原発の再稼働についても、「議論して決めて行く」と口では言うものの、実際の方針は当初から決まっている印象であった。厚労省のやり方にも、先に結論ありきの印象を受ける。

印象のみでものを語るのが不適切であることは自覚している。私は一部の優れた論客のように事例を集め、緻密な分析をしてということができない。私がそのような作業に慣れていないために、時間が非常にかかってしまい、日常の業務に支障を来してしまうからだ。また、既に複数の分析がある中で、独自に同様な分析を行っても、屋上屋を重ねる無駄な作業のような気もしてしまう。

少なくとも医療事故調については、厚労省と医療関係諸団体が対立しており、医療関係諸団体は一致している。井上の指摘する通り「厚労省対医療界といった様相」である。なぜこの「対立」が問題として大きく取り上げられないのだろうと思う。

ただし、医療界の内部にも意見の相違があることは事実である。実際、日本医師会の「日医ニュース」の論調は異なっている。日医の案と厚労省案は「お互いに相当近い」とし、「日医の考え方が多く盛り込まれた厚労省検討部会案」という中見出しが語るように、厚労省案を許容している。井上が指摘しているような、WHOのガイドラインに準拠していない問題に関する言及は一切なく、調査結果が裁判に利用される可能性のあることについても、曖昧な記述しかない。このような態度では、固い決意の厚労省に寄り切られることは明白だろう。

マスコミの論調からも、マスコミが本質を理解しているとは思えない。日経ヘルスケアは2013年7月号で『「小異」を脇に、ひとまず船出した医療事故調査制度』という記事を掲載しているが、これまでの経緯や部会報告の内容説明と、対立構造の描写が中心で、対立点の掘り下げがない。政治記事が永田町の力関係ばかりを論じ、政策の妥当性などについて論じることがないのと同様の印象だ。

医療の機能分化に関する法整備も、実際に医療を担う人材の育成を置き去りにした整備は無意味であるし、事故調の法整備を医療界の指摘を無視して強行しても、これもまた無意味だろう。対立点の明確化だけではなく、なぜ対立するのか、両者が異なる意見を出している意図の分析が必要なのだ。

厚労省側の意図は(悪く言えば)医療界への影響力の強化と締め付けである。医療側の意図は(これも悪く言えば)自己防衛である。そうであるなら、厚労省案を通す場合は厚労省の影響を抑えて医療側の自律を尊重するような変更が必要だろうし、医療側の案を通す場合には、過剰防衛や、責任の回避を起こさないような縛りが必要になるだろう。私が望むのは、そのようなレベルでの議論だ。

中島J.修平の『在宅ホスピス―死・人生の完成と旅立ちのために』(文化放送ブレーン)を三たび取り挙げる。このブログで取り挙げるのは4回目だが、前回は二度目の後半と言う位置づけなので、今回を三度目とした。そんなことはどうでも良い。

中島は宗教家であるため、物質的な生命観に対しては強い嫌悪感を持っているようである。生命は神から与えられたものという立場に立てば、当然だろう。この点については中島は他の論点と比較してずっと強硬である。
当時五十歳であった、重森秀二さんは、胃癌末期でした。病名、予後とも告知をすべて受け入れていた重森さんは、かつては一部上場企業の研究所勤務をしていた科学者であり、無神論的で唯物的な思想の持ち主でした。そして「死は自然なこと」「人は死ねばゴミになるだけ」という死生観をもっていました。[中略]そこで彼は、「人は死ねばゴミになる」といった強気の内容で、数百枚の挨拶状を、ホスピス医療を受ける前に印刷。死後も葬儀はいらない、その挨拶状を関係者に送付するように、と妻と三人の子どもたちに命じていました。(188ページから189ページ)

この患者は死期が近付くにつれ、不安が高まって強気な姿勢が消え、宗教的なケアを受け入れ、案内状を破棄させて平安に永眠した。
「死は誕生や成長やレジャーや仕事と同様に自然な、生命の営みの一つにすぎない」という耳当りのよい死観。
しかし、これは[中略]ターミナルケアの臨床では役立たずの死観です。(190ページ)

私は自分が「不可知論者」であると言って良いと思う。自分の知らない世界があり、知らない世界のことについては肯定も否定もできないと言う立場だ。生命については、物質の働きであると考えているが、生命の始まりについて分からないことが多く、人工的な生命を作ることができないことは、単なる物理化学現象を超えた「何か」があると思う。ただしその「何か」は超自然的なものではなく、人間の知識がまだ及ばない仕組みなのだろうと推測している。

中島によればそのような物質的な生命観により「死は自然」とすると、命を大切にしようと言う気持ちが薄れ、生きる営みを否定されると言うが、そんなことはない。「いずれ死ぬのだから生きなくても良い」は「どうせ汚れるのだから掃除しなくても良い」とか「どうせ空腹になるのだから食べなくても良い」と同じ発想で、非現実的である。きちんと掃除し、おいしいものを食べることで満足するように、良い人生を送ることで満足を得ようとする気持ちは変わらない。また、一度失われた命は取り替えせないという事実を考えれば、現在ある命をできるだけ大切にしようという気持ちも当然のものである。

中島J.修平の『在宅ホスピス―死・人生の完成と旅立ちのために』(文化放送ブレーン)を再度取り挙げる。中島はキリスト教の牧師で、医師である妻とともに東京都清瀬市で在宅ホスピスを運営している。

昨日のブログで、ヒトが社会的動物であることがヒトの心理・精神面にどのような影響をもたらしているかについて考察した。話がうまくまとまらなかったので、再度まとめておきたい。

ヒトが集団として「ヒトという生態学的単位」を形成するように、精神的にもヒトは集団として機能ユニットを形成しているのではないかというのが私の仮説である。個人の精神は個人の肉体の中に存在するということが暗黙の前提として考えられているが、実は個人の精神は個人の中だけに止まらず、周囲にも「滲み出している」のではないだろうか。日本人は特に家族やコミュニティーとの結びつきが強い。これを「日本人は自我の確立が不十分だ」と表現する向きもあるが、私は西欧社会と比較して、日本社会では個人の精神的境界がよりあいまいで、精神的な「滲み出し」が多いのではないかと考えている。

中島の『在宅ホスピス』に戻ろう。彼は時間について次のように述べる。
あなたは時間が流れる方向についてどのように考えますか。[中略]言うまでもなく、過去から現在、そして未来、という方向です。[中略]
しかし、時間の方向はそれだけではないのです。時間は、[過去→現在→未来]方向だけでなく、[未来→現在→過去]方向へも流れているのです。(234ページ)

彼は、来週に楽しいことが待っていると現在の自分がうきうきする例を挙げ、未来が現在に影響を及ぼしていると説く。また、過去に自分に対して苦言を呈してきた人に、今度は食事に招待されれば、過去の苦言が自分のためを思っての発言と思えるようになり、それは未来(食事への招待)が過去(苦言)に影響を及ぼしているのだと言う。

さらに、家族・社会との関連について、以下のようにまとめている。
一言で要約すれば、人間は個人としてだけ生きているのではなく、過去方向と未来方向、時間の後方と前方に連続している、歴史的な連帯の中で、多様な共同体として生き、動き、存在しているから、といえます。(160ページ)

中島が「過去」と呼んでいるものは、過去の事象についての記憶や判断である。これは脳の中に蓄積されたものだ。蓄積と言っても、書物のような静的な記録ではなく、思い出すたびに新たに記憶され直すダイナミックな記録で、必ずしも事実ではないことが明らかになっている。また、中島が言う「未来」も、将来の予想や予定であり、これも脳内に蓄積されたものだ。つまり、過去・現在・未来と言っても、それは全て脳の中の情報であり、お互いに影響し合うのは当然である。

極端を言えば、人間には「現在」しかない。ただ、その「現在」は時刻の一点ではなく、ある程度の幅を持ったものだ。脳の各部位で認識している時間が異なる。旧皮質はより現時刻に近い時点で外界を認識しているが、人間の意識のベースとなる新皮質は少し遅れて「現在」を認識する。従って、脳そのものが全体として同一時刻を同時に認識しているわけではない。また、ヒトが動作する場合は、動作の過程と完了を先取りしてイメージし、それに従って動作しているので、ある意味で脳の「現在」には未来も取り込まれている。

そして「私」の意識の中には「他者」の一部が入り込んでいる。他人の表情が目に入ると、それだけで脳の一部が活動し、気分や感情に影響を与える。人間は決して自分の得た情報のみを論理的に処理することだけで考えているのではない。他人から影響を受け、他人に影響を与えつつ考え、感じている。

つまり、人間の精神は、時間的にも空間的にも、「現時点での私の体」より広がりを持ったものだと言って良い。

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