阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年06月

今日は私の勤務先が属する診療圏の「地域救急会議」に出席した。東京都には「東京ルール」という制度がある。これは、救急車が患者を搬送しようと病院を探して5回断られた場合に、6回目には当番病院に連絡するとその病院が引き受けるか、あるいは引受先を探すと言う協定だ。

救急診療には、軽症で町の診療所でも対応できる1次救急、高度な救命措置を必要とする重症の3次救急、そして、両者の間の2次救急がある。「東京ルール」は2次救急患者を対象とした制度で、東京都福祉保健局が音頭をとって2009年8月から導入された(http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/iryo/kyuukyuu/tokyorule.html)。この制度の目的は、当然のことながら受け入れ先の決まらない救急患者をなくすことだ。

一時、マスコミに患者の「たらい回し」や「受け入れ拒否」という言葉が盛んに登場した。行政側はそのような事態が無くなるようにと、このような制度を実施したのだろう。ただし、問題は多い。そもそも「たらい回し」などと攻撃的な名称で呼ばれるが、救急患者の受け入れ先が決まらないのは、各医療機関に事情があるからだ。「受け入れ拒否」をしているのではなく、受け入れれらない、もしくは受け入れ困難なのだ。そこを強引に受け入れさせるのが東京ルールであるから、現場の不満は強い。

受け入れられない理由にはどんなものがあるのだろうか。ひとつは対応する診療科の医師がいないと言う場合だ。様々な診療科がある病院では全科の医師が当直している訳にはいかない。そこで、たとえば整形外科の医師がいない場合、骨折の患者は受けられない。この背景には、裁判で当直医が敗訴した事例の存在がある。当直医が自分の専門外の患者について見落としをし、訴えられて敗訴したのだ。訴えられる危険があるなら、誰も自分の専門外の患者を診ようとは思わない。

医師が手術中、あるいは別の重症患者の対応中の場合もある。そんな場合「運んでおいて待たせておくことはできないのか」ということを言う人もいるが、手術はいつ終わるか分からず、待たせている間に急変したら病院の責任である。「廊下の片隅でもいいからおいてほしい」という人もいるが、酸素も吸引も無い廊下で急変されたら十分な処置は不可能だ。災害時ならともかく、平時ではあり得ない。

患者に問題がある場合も多い。病院で暴れた前歴があったり、飲酒しての受診や、無断離院を繰り返すなど、問題行動を繰り返している患者の場合は、名前を聞いただけで搬送を断る場合もある。他の患者の迷惑になったり、医師や看護師の手を不要に煩わせて医療資源を浪費することにもなるので、搬送を拒絶しても人道問題にはならない。診療はお互いの信頼関係に基づいてなされるので、信頼関係が構築できない場合は、診療を断っても医師法に言う「診療拒否」には当たらない。

自殺企図の薬物中毒患者や自傷患者の場合、元気になると院内で自殺を図る場合があり、精神科の医師が常駐していない病院では、入院しての診療は困難だ。アルコール依存症のある患者も同様である。

これらの理由は一例に過ぎない。理由があって患者を受け入れられない病院に「東京ルール」だからと、患者を無理やり受けさせると、現場は混乱し疲弊する。救急にきちんと対応するには、病院に余裕を持たせなければならない。皮肉な言い方をすれば、暇にしておけば救急を受けない訳にはいかない。110番や119番に電話をすれば、たいていの場合すぐに対応してくれる。これは待機している職員がいるからだ。病院でも、待機している職員をおけるなら、救急患者をいつでも受けられる。しかし、現在のように、職員が常に100%の力を発揮して仕事をしないと採算が取れない医療制度では、職員を待機させておく(=遊ばせておく)など望むべくもない。
今日の会議で紛糾したのは、救急隊が3次対応と判断した患者が、本人や家族の希望(救命措置を望まない、延命措置を望まない)により3次搬送を断った場合、2次救急として「東京ルール」に乗せて良いかどうかという問題だ。癌の末期で在宅治療を受けている患者の呼吸状態が悪くなったために救急車を呼んだなどと言う場合がそれに当たる。そのような(「2.5次」などと呼ばれる)患者を引き受けた病院は、結局「看取り」をするだけになる。

「東京ルール」は救急患者を救うために設けられた制度なので「看取り」を受け入れるのは筋が違うと言う議論と、実際にそのような事例があり、普段かかりつけの患者では搬送しての看取りをしているのだから、いつもしていることと変わらない(だから受け入れよう)という議論が出た。

結局は継続審議となり、受け入れていない現状を継続することになった。3次搬送を拒否するような患者の場合、本来の対応としては、救急車を呼ばないように啓蒙活動し、看取りの受け皿を整備するべきだろう。

2025年問題(団塊の世代が後期高齢者になり、医療が破綻すると危惧されている問題)は、地方都市で起こる問題ではなく、東京都、中でも多摩地区で起こる問題である。「東京ルール」のような無理矢理な対策ではなく、抜本的な対策が必要だ。しかし、その対策の成果が出るまでは、無理を承知で引き受けざるを得ないのが辛いところだ。

障害児を診察することが多い。特に難聴児が多い。難聴があれば聾学校と考えるだろうが、重複障害があると、聾学校への修学は困難になることがある。聾学校は基本的に耳が聞こえないだけの健常児を「教育」する施設である。生徒たちが難聴であることを除けば、一般の小中高と変わらない。もし生徒に知的障害があったり、胃瘻や気管切開があれば、一般の学校で対応が大変なのと同じように大変だ。いや、教員数が少ないためにもっと大変かも知れない。

先日、特別支援学校に通っている子どもの母親と話をした。子どもは先天性の障害で精神発達遅滞と胃瘻があり、学校では胃瘻から注入してもらっている。ところが、家では経口摂取をしているのに、学校ではしてもらえないそうだ。胃瘻がある子は経口摂取をさせられないことになっていると言う。診断書を出したり、学校側と話し合いを持ったりしたが、教育委員会の方針とのことで、受け付けてもらえないそうだ。経口摂取をさせたければ、肢体不自由児施設に行くように勧められたと言う。しかし、子どもは活発で、診察室に入ってもすぐにおもちゃで遊びはじめる。肢体不自由児施設施設は、自分で動き回れる子が少なく、母親としては、一緒に遊べる友達の多い特別支援学校に「背伸びをして」通っているのだと言う。食べさせてもらえないのだという母親の顔は寂しそうだった。

胃瘻を増設する理由は様々だが、誤嚥による経口摂取困難を原因とすることが多いのは事実だ。しかし、経口摂取が下手で、時間ばかりかかって充分食べられない場合も胃瘻を増設することがある。胃瘻の利点は経口摂取も(誤嚥がなければ)併用できることだ。やはり食べ物は口から食べたほうが嬉しい。

特別支援学校側は、胃瘻造設の原因として誤嚥があるのではないかと疑い(あるいは誤嚥のために胃瘻を応接することが多いからと画一的に判断して)、経口摂取で問題が起こることを怖れて、口から食べさせることを拒否するのだろう。そこには残念ながら子どもの生活を少しでも豊かにしたいと言う発想がない。胃瘻の利点が全く生かされていない。

同様のことは気管切開をしている子どもにもある。学校では医療行為をしてはいけないというのだ。どういうことかと言うと、気管切開孔からの痰の吸引は医療行為に当たるので、教師はできないというのだ。例え看護師の免許を持っている教師であっても、学校であるからとの理由だけで痰の吸引をすることは許されない。私は、学校であるから云々と言う前に、人として障害者にどう接するべきかの問題ではないかと思ってしまう。私の立場では、どんな場合でも医療行為は可能であるし(飛行機の中でも道端でも医療行為を行うのだから、学校でも行って構わないだろう)、吸引は慣れた処置であるからこう思うのかも知れない。頸部に開いた穴に通した管に吸引管を入れるなど、恐ろしくてできないという人もいるだろうし、そんな人には無理強いはできないが、少なくとも看護師にまでさせないというのはどうだろう。先ほどの「人として」というのは教育委員会に向けた言葉である。

先日のブログで取り上げた「きら」も、自閉症と精神発達遅滞を合併しているために、非常に苦労している。重複障害は様々なパターンがあり、個別性が強いので、制度としての一様な対応はなかなか難しいが、まずそのような問題があると言うことを意識し、徐々に資源の投入を増やして行くアプローチを、機会があれば行政に働きかけていきたい。

高橋みかわ『重い自閉症のサポートブック』(ぶどう社)を読了した。高橋みかわは6月13日のブログで取り上げた『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』の編著者で、重い自閉症と知的障害が合併した子息「きら」を持つ。高橋は2006年に新風舎から『自閉症児のサポートブック』を自費出版したが、新風舎が倒産したため、同書は廃版となってしまった。自閉症関連の書籍を出版しているぶどう社に相談し、書き直して出版したとのことだ。
妥協を許さない市毛さん[引用者注:編集担当者]とのやりとりは厳しくて、それはとても大変でした。でもその分やりがいもあり、楽しくもあり、ふと気がつけば3年近くが過ぎていました。(158ページ)

資料があり、前著があり、本書は160ページほどの本であるにもかかわらず、3年をかけたと言う。それだけあって、読みやすく、納得の行く、充実した本になっている。

最近は発達障害について、書籍も数多く出版され、ネット上にも情報が多い。自閉症、アスペルガー症候群、ADHDなどという言葉に触れる機会も多くなった。ところが「きら」は知的障害を伴っている。複数の障害を持つ場合の対処は、格段に難しくなる。
知的な遅れをともなう自閉症の子(人)への理解や、必要な支援は十分にいきわたっているのでしょうか。残念ながらそうはなっていないのが現状です。ましてや「真似っこする力」がほとんどない、重い知的障がいをともなう自閉症の子(人)への支援方法などについての情報は、現在もなかなか目にすることはできません。(4ページ)

そんな中で、自ら経験し蓄積してきたノウハウを公開し役立ててもらおうとしたのが本書だ。高橋は、息子きらが社会に受け入れられるように、きらが楽しく充実した時間を多く過ごせるように、将来自分が死んだ後もきらが社会に居場所を得てうまく折り合っていけるようにと努力してきた。子どもを観察し、試し、失敗し、成功した経験から得られた「知識」を体系化して整理し、「サポートブック」の形にしてサポーターに配布して、様々な社会的活動が少しでも円滑に進むよう配慮してきた。本書では、そのような営みから得られた自閉症観が述べられるとともに、サポートブックの作成法、作成例が示されている。以前にも述べたように、私は自閉症児を診察することがある。本書はそんな私にとって非常に参考になる本だったし、また、私の考えが肯定されることも多く、読んでいて楽しい本でもあった。

本書を読んで再確認したのは、自閉症の人も、彼らなりの方法でたくさんのメッセージを周囲に発していると言うことだ。問題は、周囲にそのメッセージを読み取る力が少ないことなのだ。自閉症の人はメッセージの発し方が違うということに気付かない人は、自分の価値基準、自分の方法で相手を判断してしまう。すると、自閉症である相手は「了解不能」となり、双方にとって苦しい時間が始まる。

私は初対面の自閉症患者に対して、あやしたり猫なで声を出すことはない。むしろ年齢相応に扱い、相手を尊重するように振る舞う。診察器具を手にしていて、患者が嫌がれば診察器具を置き、素手で診察する。素手でも嫌がれば触らずに診察することを試み、それでもだめなら診察しない(別の方法を考えるか、何回か来てもらい、慣れてもらう)。診察台に座るのを嫌がる場合には、床に座って診察したこともあるし、一緒に寝て診察したこともある。問題は診察なので、台に座ることではない。嫌がる患者を何人かで抱え上げて押さえつけても、その時は良いかも知れないが、それ以降はもっと強い拒否にあう可能性が強い。もちろん命に関わる場合、どうしても必要な場合、1回限りでその後の診察がない場合、知的障害が非常に重くてコミュニケーションが不可能と思われる場合は押さえつけて診察・処置をする場合もある。

たいていの子どもは診察を嫌がったり怖がったりするので、その分、本書に出てくるキャンプやプールといった活動の場合とは受け入れやすさが異なるだろう。診察を受け入れさせる難易度は、キャンプで集団行動を受け入れさせる難易度より高そうだ。しかし、診察は短時間だし、やめることができるが、キャンプは長時間で内容も多彩だし、途中でやめるのは大変なことだ。どちらが大変とは一概に言えないのかも知れない。

本書を読んで、自閉症の人のコミュニケーション法や考え方の特徴について色々学んだ。ここでその内容を述べようとすれば、本をまるごと1冊引用することになるので、残念だが述べることができない。自閉症とかかわる機会がある人にとって、本書は貴重な情報源だ。一読を勧めたい。

医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」のVol.154(2013年6月21日配信)は多田智裕「医療の限界をタブー視せずに議論しよう」だ(http://medg.jp/mt/2013/06/vol154.html)。これはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたコラム(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37907)を転載したものだ。

多田は慶応義塾大学医学部の近藤誠が出版した『医者に殺されない47の心得』(アスコム)を取り上げ、近藤理論の評価から、何故このような本が売れるのかについて考察し、最後に乙武洋匡の「イタリアン入店拒否」騒動を取りあげている。私と似たようなことを考えている人がいると感じた。

近藤誠の主張については以前から知っているが、あまりに荒唐無稽であると感じ、避けて来た。まともに取り合う対象ではないと判断していたのだ。しかし、最近になって、やはりきちんと著作を読んで、否定すべきことと肯定すべきことを区別して議論する必要があると考えるようになった。そこで、売り上げに協力することに不快を感じながらも、何冊か購入して読もうと思っていた矢先の記事であった。
近藤先生の主張で一番インパクトがあるのは「がんもどき理論」でしょう。
症状がなく検査で見つかり手術で治るがんは癌ではなく"がんもどき"、なので放っておいても命には別状なし。本当の癌は転移を起こすので、手術や放射線や化学療法などでは治らない。それどころか、手術や抗がん剤などの治療を受けるだけ寿命を縮める。
これが「がんもどき理論」で、その結果、この本では「がん放置療法(がんは放置した方が楽に長生きできる)」を確立したと宣言しているのです。

このことは私も知っている。しかし、私の周囲のがん患者の実態とあまりにかけ離れているので、この理論は虚妄であると判断している。ただし、一部に無理な化学療法や不必要な拡大手術に踏み切る医師がいることは事実で、治療の結果QOLが低下するだけでなく、命をも縮める事例があることは事実なのだろうと推測する。確かに治療しないほうが安楽に長生き(不要な治療をするより長く)できる事例もあるだろう。

だが、この理論を推し進めると、多田が指摘する帰結に至る。
もしもこの理論が正しければ、「癌の見落としで命を落とした」という医療訴訟は完全になくなります。なぜならば、その癌は"がんもどき"ではなく本当の癌であったので、早く発見して手術しても寿命を短くするだけだったのですから・・・。

多田はこのような本が売れるのは、「医療にできないこと」の議論がきちんと行われてこなかったからだと指摘する。「医療にできないこと」の議論をタブー視して、病気に関しては医療が全て何とかする(あるいは未来には何でも治せるようになる)という幻想を振りまくことで医療への支持を維持してきたために、医療にできないことを突かれると、きちんとした反論ができない。また、世間一般も、今まで抱いてきた(抱かされてきた)医療像を根底から覆そうとするような理論には強い興味を持つということだ。

私は、多田の意見を少し先に進め、医療が「できないこと」ではなく医療で「しないこと」について議論し、少しでも社会的合意を得られれば良いと願っている。

岩手県議会議員の小泉光男が県立中央病院で番号で呼ばれたことに腹を立て、会計せずに病院を出て、公衆電話から事務長を名指しで苦情電話を入れ、さらにブログに書き立てた。かなり話題になっているので、知っている人は多いだろう。番号で呼ばれたことになぜそれだけ腹を立てたのかが了解できないが、「神経内科におかかりの○○さん」と会計窓口で呼ばれ、神経内科と精神科の区別がつかないために「何故人前でそんなことを言う」と食ってかかったという事例を経験しているから、小泉にも何か勘違いがあったのだろう。

小泉の人品の批評や、彼を選んだ選挙民の評価など、既に色々なところで為されていると思うので、ここでは繰り返さない。私が書きたかったのは、既に閉鎖されたブログが、ウェブアーカイブとして残っており、参照ができるということだ。ウェブ魚拓、あるいは単に魚拓と呼ばれるシステムに保存されている。
参考:http://megalodon.jp/2013-0607-0824-01/ameblo.jp/koizumi-mitsuo/entry-11545371158.html

ウィキペディアによれば、魚拓は日本の株式会社アフィリティー(http://www.affility.co.jp/)が2006年より運営している無料サービスである。ブログでニュース記事にリンクを張ったのに、いつの間にかリンク先が消されていた、というような事態に対処するため、ウェブサイトを記録し、ブログなどからリンクを張って利用できるようにする。専用ページ(http://megalodon.jp/)に記録したいURLを入力してボタンをクリックすると、ウェブページが記録され、記録を指すURLが発行される。ユーザはオリジナルのURLの代わりにそのURLを使えば良い。

小泉のブログの記録を見ると、元のウェブページがそっくり残っているように見受けられる。一旦外部に発信(流出)した情報がコントロール不能になることが良く分かる。ウェブ上に流出した個人情報や写真なども、短時間のうちに複製されて拡散し、消去や追跡が不能になる。流出被害者にとっては非常に辛い現実だ。以前、同僚の犯罪行為(睡眠薬を酒に入れている)をFacebookに書き込んでしまい、様々な情報から個人が特定されて話題になった人物もいたが、その情報も既に様々な場所に拡散して、元のFacebookの記事を消去したことが何の役にも立たない状態になっている。

一番大事なのは、子供たちに自分の個人情報管理のスキルを教育することだと思っている。

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